目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
ところで、もう映画「ダンケルク」をもうご覧になりましたか?
私も2回ほど映画館で鑑賞してきましたが、本当に素晴らしい作品だったと思います。
感想・解説記事はすでに書かせていただきましたので、良かったらこちらからご覧ください。
参考:【ネタバレ感想/解説】映画「ダンケルク」:涙が止まらないノーラン最高傑作
今回の記事ではですね、そんな映画「ダンケルク」でクリストファー・ノーラン監督が一体何を目指していたんだろうか?ということについて考えていきたいと思います。
あなたはクリストファー・ノーランを知っていますか?
最近劇場に足を運ぶと、映画「ダンケルク」の宣伝で「クリストファー・ノーランを知っていますか?」と銘打った映像が繰り返し流れていました。
クリストファー・ノーランはできるだけCGに頼らずに撮影しようとする監督です。そんな彼がこれまでの作品でやってきたトンデモ撮影のいくつかを紹介したのがこの映像でした。
例えば、映画「ダークナイト」では、大型トレーラーの横転シーンや病院の爆破シーンをCGではなく、実際に撮影しています。
©2008 Warner Bros. Ent. 映画「ダークナイト」より引用
©2008 Warner Bros. Ent. 映画「ダークナイト」より引用
映画「インセプション」でも天井と床が逆転するホテルのシーンは一見CGでしかないのですが、これも大掛かりな装置を一から製作して、撮影したそうです。
また、映画「ダークナイト:ライジング」でも大規模な街での戦闘シーンを、大規模なエキストラを動員して、実際に撮影しています。
クリストファー・ノーラン監督ももちろんCGは使っています。しかし、極力CGには頼らず実際にその映画の状況を再現した上で、撮影しようとしているのです。
それこそが彼の映画の持つ説得力と「リアリティ」の正体なのでしょう。
あらすじ・概要
「ダークナイト」「インターステラー」のクリストファー・ノーラン監督が、初めて実話をもとに描く戦争映画。史上最大の救出作戦と言われる「ダイナモ作戦」が展開された、第2次世界大戦のダンケルクの戦いを描く。
ポーランドを侵攻し、そこから北フランスまで勢力を広げたドイツ軍は、戦車や航空機といった新兵器を用いた電撃的な戦いで英仏連合軍をフランス北部のダンケルクへと追い詰めていく。この事態に危機感を抱いたイギリス首相のチャーチルは、ダンケルクに取り残された兵士40万人の救出を命じ、1940年5月26日、軍艦はもとより、民間の船舶も総動員したダイナモ作戦が発動。戦局は奇跡的な展開を迎えることとなる。
出演は、今作が映画デビュー作となる新人のフィオン・ホワイトヘッドのほか、ノーラン作品常連のトム・ハーディやキリアン・マーフィ、「ブリッジ・オブ・スパイ」でアカデミー助演男優賞を受賞したマーク・ライランス、ケネス・ブラナー、「ワン・ダイレクション」のハリー・スタイルズらが顔をそろえている。
(映画com.より引用)
予告編
映画「ダンケルク」の撮影
こちらの動画に映画「ダンケルク」の撮影風景が映し出されていますので、良かったらご覧になってみてください。
クリストファー・ノーラン監督は、映画「ダンケルク」で本物の飛行機や船を登場させていますし、それを実際に爆破したり、沈めたりしています。
また、撮影中のトラブルとして、不時着する戦闘機の内部にIMAXカメラを設置して、着水させるというシーンを撮影しようとしたそうです。その際に戦闘機が想像以上の速さで沈没してしまい、IMAXカメラが海底に沈んでしまったそうです。
90分間カメラは沈んでしまい、フィルムはもうダメになったかと思ったそうですが、何とか復元できたということです。
このようにクリストファー・ノーラン監督は映画「ダンケルク」でも徹底的に実物撮影へのこだわりを見せています。
物語性がない?
今作「ダンケルク」に対して否定的な意見として、「物語性に乏しい」というものを非常に多く目にします。確かにこの意見はごもっともなんですよね。というのも他の映画作品に比べて、映画「ダンケルク」は脚本の分量が格段に少ないそうなんですね。ですので、セリフが少なく、そして映像先行型の映画になっていることは間違いないです。
ですので、このような批判が飛んでくることぐらいは、ノーラン監督も予想していたことでしょう。
では、なぜクリストファー・ノーラン監督はこのような形で本作を完成させたのでしょうか?今回はそれを考えていきたいと思います。
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映画って何だろう?
「映画ってなんだろう?」という問いは映画ファンなら誰でも一度は考えたことがあると思います。これに単純に答えを出すことは難しいです。現代の映画はある意味我々に「非日常」や「他の人の人生」を体験させてくれるものになっていると思います。
しかし、そもそも映画というものの原初的な在り方を考えてみると、実は現代の映画の在り方とは違った側面があると思います。
映画というものは「保存」という側面を持っていたのではないかと考えています。
私の敬愛するヴィム・ヴェンダース監督の書籍には、映画は「事物の実存を救済する」ものであるという風に書かれていました。
なぜ私は映画を撮るのか?そう、その理由は・・・。何かが起こる。それが生起していくのを人は見る。一方、事が起こっている間それを撮影するならば、それをカメラが見つめ、保管する。そして人はそれをあらためてもう一度観察することができる。
確かに事象そのものはもはやそこにはない。しかし観察することは可能だ。この事象の実存の真実、それは失われぬままなのだ。映画を撮るというのは英雄的な行為だ。
目にうつるあらゆる現象と世界は徐々に破壊されていくが、その破壊行為が、ほんの一瞬間、ストップさせられるのだ。カメラは、事物の悲惨さ、即ち、消滅という運命に立ち向かうための武器なのだ。
(「映像(イメージ)の論理:ヴィムヴェンダース:訳三宅晶子・瀬川裕司)
つまり、映画というもののそもそもの在り方とは、日常の何気ない一瞬をフィルムに焼き付けて、その実存を保証するというところにあったと考えられるのです。
「映画の父」と呼ばれるフランスのリュミエール兄弟は、自らの工場の近辺の日常のを切り取り、映画として世に送り出しました。
これはリュミエール兄弟が製作した「工場の出口」という作品ですね。彼らの作品は著作権も切れていて、YouTubeなんかでも見ることができるので良かったらご覧になってください。
つまり映画の本来の姿というのは、物語的・作為的なものというよりは、事物のありのままを切り取ってその実存を保存するというところにあるわけです。
映画を初めて見た人たちは、ただ時間のある一瞬を切り取り、それがフィルムに焼き付けられ、映像として何度も繰り返し再生できる、それだけのことに驚きと感動を覚えたのです。
映画「ダンケルク」が目指したのは、まさにこの原初的な映画の在り方だったのではないでしょうか?確かに物語性はありません。ただダンケルクの撤退という歴史的事実を淡々と映像に映し出したにすぎません。
しかし、この作品は疑似的にではありますが、ダンケルクの撤退というものの実存をフィルムに焼き付けているのです。そしてただそれを「観る」という行為に純粋な魅力を我々は感じるのです。
だからこそ、クリストファー・ノーラン監督は、本作でも徹底的に実物を用意しての撮影にこだわったのだと思いますし、物語性を排除して、ただ歴史的事実だけを映し出すことに重きを置いたのだと考えています。
映画「ダンケルク」は、物語を排除したがゆえに、あらゆる可能性の余地を自由に開き切った映画であるとも考えられます。この作品では、繰り返し見るたびに新しい何かが発見でき、何かが新たに目に留まることになります。だからこそ、この映画を見ていて、毎回同じ解釈にしか辿りつかないということが無いのです。
物語性が無いというのは、我々に物語性を生み出す余地が与えられているということなのです。
映画「アバウト・タイム」との関連
皆さんは映画「アバウト・タイム」を見たことがありますでしょうか?
ドーナル・グリーソンとレイチェル・マクアダムスが主演を務めた作品で、タイムスリップを扱ったラブストーリーになっています。
私は、この映画が伝えたかったのは、ある意味で「映画」の原初的な在り方だったのではないかと考えています。
主人公が最終的にたどり着くのは、同じ一日をタイムスリップをして繰り返すことで、最初に過ごした時には見つけられなかった日々の尊さ、魅力そして美しさに気づくことができるという答えです。
しかし、現実でタイムスリップなんてことをするのは、現時点では不可能です。しかし、映画はそんな一瞬一瞬の時間を切り取り、その実存を半永久的に保証し、何度も繰り返し再生する音ができます。
つまり、映画というものを通して、我々は同じ瞬間を繰り返し見ることができるのです。そして、1度見ただけでは気づけない魅力に、繰り返し見ることで気づくことができるようになります。つまり何の物語性も無かったただの一瞬の切り取りに常に新たな発見と物語性を見出す事ができるのです。
映画「アバウト・タイム」はこのような映画の原初的な在り方の意義を問うた作品とも解釈できると思うのです。
おわりに
結局クリストファー・ノーラン監督は、この映画「ダンケルク」において何を目指し、何を我々に見せようとしたのでしょうか?
彼が、目指したのは今回の記事でたびたび言ってきたように、映画の原初的な魅力を反映した作品を作り上げることだったのだと思います。つまり、時間の保存ないし実存の保証としての映画です。
また彼は、この作品を見た我々に、物語性の付与という役割を与えているのです。この映画はダンケルクの撤退という史実を疑似的に再現し、記録したものに過ぎません。しかし、我々はそれを「観る」ことができます。繰り返し「観る」ことができます。
本作は、あらゆる可能性に開かれた映画です。そしてそこに新たな発見をし続け、物語性を付与していくのは我々なのです。
クリストファー・ノーランが2017年を生きる我々に、届けたいのは映画の原初的な魅力だったのでしょう。
関連映画としてダイナモ作戦当時のイギリス首相ウィンストンチャーチルの映画の解説記事へのリンクを掲載します。良かったらこちらも読みに来てください。
参考:【ネタバレあり】『ウィンストンチャーチル』解説:イギリス暗黒期を照らした一人の男の物語
今回も読んでくださった方ありがとうございました。