アイキャッチ画像:(C)2016 Ironworks Productions, LLC. 映画「スイス・アーミー・マン」予告編より引用
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、映画「スイス・アーミー・マン」について語っていきたいと思います。
この記事では、本作をご覧になった方が誰しも気になるであろう、ラストシーンの意味やメニーの正体について徹底的に解説・考察していきたいと考えています。
記事の内容の都合上ネタバレありきで書かせていただきますので、作品を未鑑賞の方はお気を付けください。
良かったら最後までお付き合いください。
『スイス・アーミー・マン』
あらすじ・概要
「ハリー・ポッター」シリーズのダニエル・ラドクリフが死体役を演じ、「リトル・ミス・サンシャイン」「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」などで知られるポール・ダノ扮する青年が、死体を使って無人島からの脱出を試みる様を描いた異色のサバイバル劇。
遭難して無人島に漂着した青年ハンクは、絶望して命を断とうとしたとき、波打ち際に男の死体が打ち上げられているのを発見する。
死体からはガスが出ており、浮力があることに気付いたハンクは意を決し、死体にまたがり無人島脱出を試みるが……。
CMディレクター出身の監督コンビ、ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート(通称:ダニエルズ)の初長編作で、サンダンス映画祭やシッチェス・カタロニア国際映画祭で受賞を重ねて話題を集めた。
共演に「10 クローバーフィールド・レーン」のメアリー・エリザベス・ウィンステッド。
(映画com.より引用)
予告編
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『スイス・アーミー・マン』感想・解説
本作の重要ポイント
もう一つ聞いてみましょう。
私も含めて、そういう人に対して「下品だなあ・・・」とか「この人は恥ずかしくないのかな?」なんて感じると思うのです。
今作「スイス・アーミー・マン」を見た人は同じような不快感や嫌悪感をこの映画に感じませんでしたか?
放屁や下ネタトーク、数々の奇行を繰り返すメニーに不快感や嫌悪感に似た感情を抱いたと思うのです。女性は特に感じたのではないでしょうか?
私は、この不快感・嫌悪感こそがこの映画を読み解くうえで最重要ポイントだと考えています。
メニーの正体とは?
スイス・アーミー・マンとは?
映画のタイトル「スイス・アーミー・マン」ってそもそも何ぞや?と思う方が多いかもしれません。
これはスイス・アーミー・ナイフという多機能ナイフを文字ってつけられたタイトルだと思います。
19世紀末の国民皆兵制度をとるスイスで発明されて、スイス軍の装備として発達してきたのが、このスイス・アーミー・ナイフであるわけです。
メニーと文明社会
(C)2016 Ironworks Productions, LLC. 映画「スイス・アーミー・マン」予告編より引用
ダニエル・ラドクリフが演じる謎の死体メニーの正体とは一体何だったんでしょうか?ここからは自分の考察も交えながらお話ししていこうと思います。
私は、メニーの正体をハンクの精神の一部だと考えています。もっと詳しく言うなれば、ハンクの精神の中の抑圧された部分であるといえるでしょう。
ハンクは、本作の中でたくさんの思いをその心の内に閉じ込めていたことを明かします。
人前では放屁しないこと、自慰行為の際に母親の顔が浮かんでしまうこと、意中の女性サラに話しかける勇気がないこと、父親と微妙な関係にあること・・・。
彼はいろいろな思いを隠したり、捨てたりしてきました。そんな思いや感情たちの集合体がメニーだと思うのです。
皆さんも日々色々な思いを隠したり、捨てたりしていませんか?
失礼しました。これは私の個人的な願望ですね(笑)。
でも、皆さんも普段同じようなことを考えていませんか?そしてそんな人に曝け出すのが恥ずかしい思いたちを心の奥底にしまいこんだり、捨ててしまったりしていますよね?でもそれって当たり前です。
文明社会で生きていく上では、自分の本能的な欲求をある程度抑え込んで、折り合いをつけて生きていかなければなりません。
つまり、何が恥ずべきことで何が恥ずべきことでないのか。何が不快なことで何が不快なことではないのか。これらを決めるのは、他でもない「社会」なんですよね。もっと言えば「文明社会」なのです。
「文明社会」によって常に我々は制約を受けながら毎日を生きているのです。
本作に登場するハンクもいわばそんな文明社会人の1人です。人前で放屁することや母親の顔がちらついて自慰行為ができないこと、意中の女性に思いを伝えられないこと、そして父親と上手くいかないこと。
ハンクのこんな悩みも全て「社会」が定義づけるものですよね。意中の女性に思いを伝えられないことが「恥ずかしい」というのは、「社会」の風潮ですし、あるべき親子関係の在り方のようなものを提示しているのも「社会」なのです。
そしてそれを逸脱することによって、それを恥ずべきことであると感じてしまうのです。
そしてハンクは、そんな恥ずかしい思いをしたくないがために、その思いたちを心の奥底に隠し、葬り去ろうとしてきました。
そんな時に、ハンクは無人島というまさに「非文明社会」に流れ着いたのです。
そして、「文明社会」に生きる上で、恥ずべきこととしてこれまで葬り去ろうとしてきた自分の思いの象徴たるメニーに巡り合うのです。
無人島にはたくさんのごみが捨てられていましたよね。これらは全て「文明社会」で生み出された産物です。そして、同時に「文明社会」で不要とされたものたちです。
つまり、この無人島や森の中という「文明社会」から隔絶されたところに捨てられたゴミたちも、そんな「社会」に生きる人たちが、抑圧し、捨ててきた思いなんだと思うのです。
ハンクとメニーのキスシーンに隠された意味
(C)2016 Ironworks Productions, LLC. 映画「スイス・アーミー・マン」予告編より引用
本作中で最も印象的なシーンの1つとして、ハンクとメニーが落下した川の水の中でキスをして、そしてメニーの放屁で水中から急浮上するというシーンがあります。
このシーンは、ハンクとメニーの友情が確固たるものになったということを象徴的に表しているシーンでもありました。
しかし、メニーの正体が、ハンクの捨ててきた思いの結晶だと解釈するのであれば、このシーンは違った見え方で見えてくると思います。
皆さんは、「水」というものにどういったイメージを持っているでしょうか?「水」というのは生命の源、つまり生命の起源とも言えると思うのです。つまり全てのものは「水」より生ずるということです。
加えて本作では、あの暗い水の中が「文明社会」を表しているようにも感じられました。暗い水の中で、ハンクが「社会」に適応するために捨てた思いの象徴たるメニーが沈んでいきます。
ハンクはこれまで、そんな思いを隠し、見て見ぬふりをし続けてきました。
ですので、メニーの奇行を諭すような言動を続けてきましたよね。人前で放屁をすること、下ネタを思いっきり話すこと、女性に積極的にアプローチすること、これらに関しての「文明社会」にそぐわないメニーの行動をハンクは「文明社会」に合った形に変えていこうとしました。
しかし、「非文明社会」の中でメニーと過ごす内に、ハンクの考え方は大きく変化していきました。つまり、自分が今まで隠してきた、捨ててきた思いたちに向き合おうとし始めたんですね。
そして、あの水中でのキスシーンでハンクはようやくメニーを、自分の思いを受け入れたのだと思います。そして、メニーの放屁によるジェット噴射でハンクはそんな「文明社会」の象徴たるあの暗い水の中から飛び立ちます。
(C)2016 Ironworks Productions, LLC. 映画「スイス・アーミー・マン」予告編より引用
これは、まさにハンクの新たな「誕生」ですよね。自分が隠してきた、捨ててきた思いたちを自分のものとして受け入れて、「非文明社会」へと飛び出していきました。
このシーンは、ハンクがあらゆる社会のしがらみから解き放たれて、新たに「生」を受けた瞬間だったのでしょう。
ハンクの帰還とメニー
(C)2016 Ironworks Productions, LLC. 映画「スイス・アーミー・マン」予告編より引用
旅路の果てにハンクとメニーの2人は無事に「文明社会」へと戻ってきます。
ハンクは無事に救出され、メニーは死体として回収されることになりました。
これはつまり、ハンクは「文明社会」に戻り、再び自分の思いたちを抑圧して生きていくのではないかということを観客に仄めかしているのです。無事生きて帰ってきたことで、メニーの存在を忘れ、「文明人」として生きていくのではないかと。
「文明社会」の中で、メニーが死体へと戻っていったことは、まさにその展開を暗示するものでした。
しかし、ハンクはメニーを手放す事ができないんですよね。
それはもちろんメニーが命の恩人であるから、大切な友人だからです。
しかしそれ以上に、ハンクがメニーを引きずって森の中へと逃げていくシーンは、ハンクのもうこれ以上「社会」に自分の思いを抑圧されたまま生きていきたくないのだという決意が現れているようにも感じました。
つまり、自分の思いたちを捨てない覚悟をしたのだと思います。
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ラストシーンの意味とは?
(C)2016 Ironworks Productions, LLC. 映画「スイス・アーミー・マン」予告編より引用
ラストシーンでは、ハンクとメニーが海辺へと逃げてきました。
警官は「文明社会」から逸脱したハンクを逮捕します。他の人たちも、そんなハンクを軽蔑するような眼差しで見つめています。
しかし、ハンクはそんな状況下で放屁をするんですよね。この放屁は、彼がもう「社会」の抑圧に負けずに生きていく覚悟を示すものだったのだと思います。
その音を聞いたメニーは再び動き始めて、放屁によるブーストで海へと帰っていきます。
この時のメニーを見つめるハンクと他の人々の表情の対比がなんとも印象的ですよね。
幸せそうな表情で去りゆくメニーを見つめているハンス。対照的にただただ呆然と見つめるサラの家族。好奇の目を向けるレポーターとカメラマン。
サラの家族やレポーター、カメラマンがメニーに向けていた眼差しというのは、この物語の冒頭でハンクがメニーに向けていたものと同じものです。「文明社会」から逸脱したもの、恥ずべきもの、不快なものとしてメニーを見ています。
つまり、これは「文明社会」に囚われた者たちの視線なんですね。
一方で、メニーを、自分の抑圧され続けてきた「非文明社会」的な思いを受け入れたハンクが向けている眼差しは、ある種「生きること」の本当の意味を見出したような恍惚とした表情なんですよね。
死体として回収され、名もない墓地にゴミ同然に埋葬されそうになったメニーは、「文明社会」に戻り再びハンクが自分の思いたちを捨てようとしたことを表していました。
そして、ハンクはそれを拒み、ラストシーンでは、メニーを海へと返しました。
これはハンクの思いの象徴たるメニーが社会の制約の届かないところへと旅立っているという意味だと思います。
おわりに:生きるって?
今作「スイス・アーミー・マン」を見ながら考えさせられたのは、「生きる」って何なんだろうか?自分らしく「生きる」って何なんだろうか?というすごく深い問いです。
私も、「社会」に生きる人間として、いろいろな思いや欲望、人格を抑えながら何とか生きています。ですので、そんな「文明社会」から逸脱している存在たるメニーには最初、すごく不快感や嫌悪感のようなものを感じました。
しかし、そんな自分がしまいこんでいる思いたちに向き合うことで、人間は初めて自分らしく「生きる」ことができるんじゃないかこの映画を見て思わされました。
思いや行動が「恥ずかしい」のか「不快におもわれる」のかは、結局「社会」によって決定づけられているんですよね。
でもそういったしがらみを全て取っ払ってみた時に、「恥ずかしい」とか「不快だ」っていう感情が「社会」によって相対的に位置づけられたものでしかないことに気づきますよね。「社会」という指標が無くなれば、「恥ずかしい」や「不快だ」という価値基準は判断しえないのです。
本作が言いたいのは、「文明社会」で抑圧されながら生きるのは窮屈だから、全裸で外を歩いてやればいいし、全力で「社会」から逸脱して自分の思うままに生きれば良い、ということではありません。
何でも「社会」の価値基準や指標に照らし合わせて、自分を判断しようとする考え方を改める必要があるのではないか?ということを示唆しているのだと思います。
日本でもよく「世間体が・・・」なんてことが言われていますよね。これってまさしく自分の考え方を「社会」の尺度ないし物差しで測り、不適切の烙印を押して押し込めようとしている例です。
本作の一番伝えたいことは、「文明社会」に生きながらも、常に自分の生き方、考え方、行動を自分で決めて生きていく、これが自分らしく「生きる」ってことなのだ!!ってことじゃないでしょうか?
我々もいつかラストシーンで、ハンクが見たあの美しい光景に、人生の真なる美しさを見ることができるのでしょうか・・・?
映画「スイス・アーミー・マン」は「社会」に生きる我々の心の奥底に沁みるハートフルコメディだったように思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。