【ネタバレ】「サクラクエスト」感想・解説:「奇跡」ではなく「軌跡」を描いたP.A.WORKSの集大成

アイキャッチ画像:©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」第25話より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

いやはやアニメ「サクラクエスト」がついに最終回を迎えましたね。

皆さんはもうご覧になられたでしょうか?私は不覚にも泣いてしまいました。何を隠そう、私はP.A.WORKS作品の大ファンです。「true tears」「花咲くいろは」「TARI TARI」や「SHIROBAKO」はBlu-rayも購入し、繰り返し鑑賞しております。

そんな私から見て本作「サクラクエスト」は、P.A.WORKSのアニメ作品の中でも屈指の出来だと感じております。

今回はそんな最終回を迎えた傑作アニメ「サクラクエスト」の真の魅力に迫りたいと考えています。2クール全25話かけて描かれた、少女たちの、間野山の1年間の「軌跡」を徹底的に辿ります。

良かったら最後までお付き合いください。

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「サクラクエスト」がなぜ「奇跡」を描かなかったのか?

「サクラクエスト」は全25話かけて描かれた作品ですが、この中で間野山という街が劇的に変化するなんてことはありませんでした。

作品で描かれたのは、木春由乃が間野山のチュパカブラ王国の国王に就任してからわずか1年間です。これって長いようですが、すごく短い時間なんですよね。

現代の日本社会でも、地方・田舎ではどんどんと街が廃れていっています。若者はどんどんと都会へと出ていき、地方・田舎では高齢化や過疎化が進んでいるのです。そしてそのほとんどの街で、この状況を打開しようと様々な試みが行われています。しかし、そこから改善するケースは稀で、その抵抗はこの流れを止めるには至りません。一度廃れてしまった街を再び、復活させることは我々が思っている数倍難しいのだと思うのです。

P.A.WORKSさんは富山県に本社を構えるアニメ製作会社です。ですので、そんな地方の廃れ行く街々を間近に見ていると思うんですよ。そして、それを間近に見ていたからこそ、本作「サクラクエスト」が生まれたのだと思います。

しかし、最初にも書いた通り間野山は結局大きく変わったわけではありません。たった1年で廃れた街を変えるなんてできるはずもありません。アニメというフィクションの中では、何でも現実にすることが可能です。つまり、1年で奇跡的に復活を遂げる間野山の姿を描くことも十分に可能だったわけです。加えて、その方が間違いなくアニメ映えします。

 しかし、それをしなかったのは、地方に根を張ってアニメを作るP.A.WORKSさんだからこそなんですよね。

では結局、本作「サクラクエスト」の中で劇的に変わったものって何だったんでしょうか?


それは間野山観光協会に関わった5人の少女と間野山に暮らす人たちの意識の変化なんですよね。

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©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」OP映像より引用

上に立つ人がどんなに先陣を切って廃れた街を変えようとしても、そこに生きる人たちの意識が変わらなければ、街が復活する事はあり得ません。

「サクラクエスト」の序盤では、そんな変化に消極的な間野山の住民たちの姿が映し出されていました。住民が現状のままでいいやと街の復活を諦めている状態で、街が変わるなんてことはあり得ません。

P.A.WORKS代表の堀川さんは、今作で「アニメーション作品を通して何ができるか」を考えたといいます。それは、アニメーションというフィクションの中で、間野山の劇的な復興という仮初めの「奇跡」を見せることでは決してなかったのだと思います。


P.A.WORKSさんが今作で我々に見せたかったのは、「街を変える第1歩は、人の意識を変えること」まさしくこれなんだと思います。そして、この作品を見た人の心に少しでも影響を与える事ができたなら、少しでも意識を変えられたなら、それが現実の廃れ行く街の復活への第1歩になるだろう、そう考えたのではないでしょうか。


「サクラクエスト」がフィクションの中だけの仮初めの「奇跡」を描かなかったのは、そんなものに価値が無いことを分かっているからです。真に価値があるのは、現実に「奇跡」を起こすことです。そしてアニメ「サクラクエスト」にできるのは、その第1歩を踏み出す勇気を見ている我々に与えることだったんじゃないでしょうか?

放送中は、作風が地味だの、盛り上がらないだのといろいろと批判的な意見も目にしましたが、それで良いのだと私は思います。


「奇跡」はフィクションの中で起こすのではなくて、現実に起こすものです。

「アニメーション作品を通して何ができるか」を追求したこの「サクラクエスト」というあまりにも地味な傑作を、私は手放しで称賛したいと思います。

王冠を取った少女と王国を廃止した街

本作は、何物にもなれない少女「木春由乃」とどこにもなれない街「間野山」が出会うところから始まります。さらに、由乃は王冠を、間野山はチュパカブラ王国を得て、物語が動き出します。

そして最終回では、由乃は王冠を返還し、間野山はチュパカブラ王国の廃止を決定します。

 本作「サクラクエスト」の主軸にあったものとは何だったのだろう?と考えてみますと、それは「アイデンティティ獲得物語」だったのだと思うのです。

何物にもなれなかった少女、「椿由乃」に間違われて間野山にやって来た少女は、「木春由乃」として旅立っていきました。どこにもなれなかった街は、再び「間野山」としての活気を取り戻しました。

そう考えると、由乃にとっての王冠と間野山にとってのチュパカブラ王国って同じ意味合いがあったのだと思います。いわば、「張りぼてのアイデンティティ」です。

由乃は間野山にやって来て、誰からも、自分さえも望まないままに国王になり、王冠を戴冠されました。王冠をつけた以上「国王」という称号を手にすることにはなります。

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©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」第1話より引用

しかし、誰からも望まれないままに得た「国王」という称号は、戴冠した王冠は、由乃のアイデンティティではありません。でもこの時、由乃は王冠を得たことで、何物にもなれなかった少女から、王冠をつけている1年の間だけ、「国王」になることが許されたのです。

しかし、由乃は自分の力で間野山のために1年間懸命に働きました。そして、「国王」ないし王冠をつけた少女としてではなく、「木春由乃」という一人の人間として必要とされるようになったんですよね。

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©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」第25話より引用

 だからこそ、彼女にはもう王冠は必要ないのです。王冠などなくても、彼女は「木春由乃」として生きていけます。「木春由乃」として必要とされます。最終回で由乃が王冠を返還したあのシーンは、由乃が確固たるアイデンティティを獲得したことを示していて、「張りぼてのアイデンティティ」たる王冠を脱ぎ捨てた、ある種のイニシエーションだったのだと思います。

同様に間野山にとってのチュパカブラ王国もまた「張りぼてのアイデンティティ」だったんですよね。間野山の住民にはあまり望まれないままに誕生し、一時的には栄えましたが、すぐに廃れてしまいました。結果的に、間野山は「チュパカブラ王国のある街」程度の認識しかされてないんですね。

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©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」第1話より引用

しかし、本編を通して、由乃達観光協会の懸命な努力の甲斐あって、間野山の人たちの意識は大きく変わりました。現状に満足してただ廃れていく街を見ているだけの住人たちは、街の復活のために尽力するようになりました。そして、彼らは失われていた間野山のアイデンティティを思い出したのです。それは「チュパカブラ王国がある街」としてではなく、他でもない「間野山」としての誇りでした。


それを間野山に生きる人々が取り戻したからこそ、「張りぼてのアイデンティティ」たるチュパカブラ王国はもう必要なかったんですね。間野山のアイデンティティはあの王国にあるのではなく、そこに生きる人、1人1人の心の中にあるものだからです。

王冠の返還と王国の廃止。何物にもなれなかった少女とどこにもなれなかった街が、アイデンティティを獲得するまでの「軌跡」を本作「サクラクエスト」は丁寧に描き切ったのです。

なぜ、本作のゴールが「祭り」の復活だったのか?

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©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」第25話より引用

町興しアニメーションということで描かれた「サクラクエスト」ですが、作中でのゴールに据えられたのは地元祭りの復活でしたよね。なぜ、本作「サクラクエスト」のゴールが「祭り」の復活だったんでしょうか?少し考えてみました。

「祭り」というのは、地域の伝統行事であり特別な意味合いを持っています。「祭り」が活気づいているということは、その地域のコミュニティの強さを端的に表しているとも言われます。というのも「祭り」は1人の力で開催できるものではありません。そのコミュニティに属する多くの人々の協力があって初めて成功するものです。

また、「祭り」は地域の伝統、文化、芸能、民俗などを体現するイベントでもあります。ですから、「祭り」はその地域の独自色が色濃く反映されるものです。

こう考えると「祭り」というのは、その地域のアイデンティティなんですよね。「祭り」を失うということは、その地域のコミュニティが失われていることを、伝統が廃れていることを、そしてその地域がアイデンティティを失ってしまったことを意味するわけです。つまり、みずち祭りを失った間野山はそれらを失った街ということになります。

 だからこそ、間野山がみずち祭りを復活させるということはすなわち、地域のコミュニティの復活、伝統と誇りの再興、そしてなによりアイデンティティを取り戻したことを意味しています。

「祭り」の復活にゴールを定めたことは、実はこのように大きな意味があったのだと考えています。

ただ、これだけではないと思うんですよね。2クール全25話のクライマックスに当たるパートで「祭り」の復活までの「軌跡」を描いたわけですから、この「サクラクエスト」という作品にとって、そして何よりP.A.WORKSにとって「祭り」はもっと大きな意義のあるものだと思うんです。

皆さんは「花咲くいろは」というテレビアニメを覚えていますでしょうか?この作品も製作したのはP.A.WORKSさんです。そして不思議なことに、この作品にも「ぼんぼり祭り」という祭りが登場します。

さらに特筆すべき点は、この「ぼんぼり祭り」はなんと実際にこのアニメをきっかけに始まって、今年でなんと7回目を迎えているんですよ。数少ないアニメーションでの町興しをP.A.WORKSさんは「花咲くいろは」という作品を通じて、「ぼんぼり祭り」という形で実現させているんですね。

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http://tsurebashi.blog123.fc2.com/blog-entry-418.htmlより引用


それだけにP.A.WORKSさんにとって「祭り」と「町興し」って切っても切り離せない関係だったと思うのです。だからこそ、「サクラクエスト」のクライマックスに「祭り」の復活を据えたストーリー構成は何ともP.A.WORKSさんらしいなあと感じずにはいられないのでした。

おわりに:人生は「クエスト」なんだ

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©2017「サクラクエスト」製作委員会 アニメ「サクラクエスト」第25話より引用

「クエスト」と聞くと、やっぱり「ドラゴンクエスト」が真っ先に頭に浮かびますし、RPGを連想します。「クエスト」という言葉には探求や追求、そして冒険の旅なんて意味があります。

人生ってまさに冒険の旅なんだと思います。

では、何のための旅なのか?世界を救うため?姫を救うため?そうではありません。

 人生というのは、自分を見つけるための終わりない冒険の旅なんだと思います。

そして、町興しも同じなんです。町興しも「クエスト」、すなわち終わりのない探求と追求の旅なんだと思います。

 ですから「サクラ」舞い散る時期に始まった間野山の「クエスト」はまだ始まったばかりです。本当の冒険はこれから。また「サクラ」の季節に出会った5人の少女たちの人生の「クエスト」もまだまだほんの序盤に過ぎません。

「サクラクエスト」はまだ始まったばかりです。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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