はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「サウルの息子」についてお話していこうと思います。
良かったら最後までお付き合いください。
戦争映画としての凄み
戦争映画と聞くと、やはり数々の名作が存在しています。
そしてアウシュビッツに関する映画作品も多数存在していますよね
当ブログでは、ヒトラーやアウシュビッツに関連した映画のおすすめをまとめた記事を作成しています。よかったらそちらもご覧ください。
アウシュビッツ関連の映画作品で一番に思い浮かんでくるのは、やはりアラン・レネが監督を務めた「夜と霧」でしょうか?
この作品は映画というよりはドキュメンタリーに近いかもしれません。
しかしこの作品が注目を集めたのはモノクロニュースや当時の写真を交えた独特の表現であったとも言えます。
斬新な映画表現で、戦争映画史に名を刻む名作として語り継がれたわけです。
戦争映画は一般に残酷に作れば作るほど印象に残ります。それは当たり前のことでして、強烈なイメージは人間の脳に焼き付きやすいですよね。
2015年公開の塚本晋也監督作品である「野火」はフィリピンでの日本人兵士たちの実に生々しい描写を劇中に織り交ぜたことも注目を集める1つの要因となりました。
カニバリズム描写など目をそむけたくなるような描写を逃げずに正面から描くことで、戦争のリアルを我々に現前させました。
しかし、『サウルの息子』という作品はそうではありません。
残酷で生々しい光景がスクリーンに映し出されることはないんです。巧妙にそういったグロテスクでショッキングな描写がスクリーンに映らないように設計されています。
しかし見ている我々の脳裏には、その光景がはっきりと浮かべられるんです。
これはなぜかと考えたときに、それは「夜と霧」と同様に斬新でかつ巧妙な撮影方法と演出がなされたからであると私は考えています。
次の章にて、その効果的だった撮影方法について解説していきます。
クローズアップショットとその効果
この映画はほぼ全編にわたって、主人公であるサウルにスポットを当てたクローズアップショットが採用されています。
クローズアップショットというのは、一般に、場所や位置関係といった情報を排除して、被写体の一部をクローズアップするショットのことであり、その事物に重要かつ象徴的な意味を持たせるシーンで使われるショットです。
まずここで前者の場所や位置関係の排除という点に触れたいと思います。
この映画においては、主人公がアウシュビッツ収容所内でゾンダーコマンド(強制収容所内でユダヤ人殺害の幇助をさせられるユダヤ人のこと)として使役されているという前提がありますが、作品中で主人公の位置や周りの状況についての描写はごく限定的なものになっているんですよ。
強制収容所全体が見える構造にもなっていませんし、あくまでも主人公のサウルの視界に入ったものだけが観客の我々にスクリーンを通じて伝えられるんです。
サウルに焦点が当てられ、周辺の景色や人物は輪郭がぼやけ、切り取られてしまっているわけです。つまり、観客は音とそのわずかな視覚的情報のみを頼りにサウルがおかれている状況を推測していくことになるということです。
この撮影方法が非常に効果的だったと私は考えています。非常にコンパクトでミニマルな視点で撮られた強制収容所のリアルがこの映画には宿っています。
一般的にこういったリアリズム映画において重要なのは、観客がどれだけその世界に入り込めるか、観客がどれだけその映画の世界を追体験するかのような錯覚を感じられるかなのだと考えています。この撮影方法は観客がこのタスクを達成するために、非常に効果的な役割を果たしたと言えるでしょう。
アンチ・クローズアップショットとこの映画の主題について
ここで先ほど述べた、クローズアップショットの後者の特性について考えてみたいと思います。
この作品においてスポットをあてられたサウルは果たして重要かつ象徴的な意味を持つ存在として描かれていたのでしょうか。
それは否です。
すなわち、この映画で用いられたのはクローズアップショットというよりは、アンチ・クローズアップショットとも言える演出だと思います。
サウルはゾンダーコマンドの中においても常に受け身的、傍観者的立場におり、武装蜂起計画においてもその中心にいるわけではありません。常に画面の中央にいながら何もできない人間なのです。
一番印象的だったのは、ゾンダーコマンドたちの点呼のシーンでしょうか。
サウルの周辺の人物たちが次々と点呼されていく中、画面中央にたたずむサウルだけは点呼されないのです。このシーンはサウルの傍観者的立場を明確にしていると言えるでしょう。
ここで私はこの映画のテーマ、主題とは人間の無力さなのではないかと考えました。
周りで目まぐるしく事件が起こっていく中で、何もできないサウルという一人の人間。そんな無力な人間の姿を我々は画面中央に映し出される一人の男から深く印象付けられるのです。全体主義という大きな戦争へのベクトルの中でいかに個々人という小さな存在が無力なのかという恐ろしさと絶望感を突きつけられたように感じます。
そして世界を追体験している錯覚の中にある我々もその無力さを思い知らされるのです。
この演出は本当に素晴らしいものだと思いました。
祈りのための映画
最後に祈りのための映画という点に触れておきたいと思います。
この作品において、サウルは自分の息子かどうかもわからない少年の埋葬と祈りのために奔走することとなります。自分もいつ殺されるかわからない、そんな状況でも彼は祈りを捧げるのです。
「グレイトギャツビー」という文学作品があるが、この作品は発売当初あまり有名な作品ではありませんでした。しかし、この作品は戦場のアメリカ兵に親しまれ、大ヒットすることとなります。
これはアメリカ兵が極限の状況の中で祈るような気持ちで文学に心の安らぎを求めた例とも言われています。つまり人はどんな状況においても何かに祈りを捧げずにはいられないのです。
岡真理さんの『アラブ、祈りとしての文学」を読んでおくと、この「祈りと文学」の関連性がよく分かると思います。
サウルはその少年に祈りを捧げたところで、自分の置かれている状況を何一つ変えられない。しかしそれでも祈りを捧げる。そんな非合理的、非生産的な姿こそ人間の本当の姿なのです。サウルはどうしようもなく人間なのであり、そして無力なのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『サウルの息子』についてお話してきました。
人間というものの本質を素晴らしい撮影方法と物語でもって描き出したこの作品に深く敬意を表したいと思います。
この映画が劇場で公開されている間に一人でも多くの方に見ていただきたいと思い今回、自身のブログの最初の記事にさせていただきました。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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