はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
先日のアカデミー賞でブリー・ラーソンが主演女優賞を獲得し、日本でも注目を集めている映画「ルーム」。
私自身も日本公開が待ち切れず、北米版のブルーレイを購入し、一足先に自宅で鑑賞してみました。
非常に高い期待値を持って、この作品を鑑賞したのですが、その期待に応えるどころか、私の期待値を大きく超えてくる作品となりました。
映画『ルーム』について
この作品は単なる親子の物語ではありません。
家族映画というジャンルに社会的問題を混在させた非常に意欲的な映画となっています。マスコミ問題や事件の被害者の問題など非常に多角的に見ることができる映画なんですよ。
私がそういった映画を1つ思い浮かべろと言われたら、クリント・イーストウッド監督作品でアカデミー賞作品賞を受賞した「ミリオンダラーベイビー」が真っ先に浮かびます。
この作品は、ヒラリースワンク演じる主人公とイーストウッド演じるその師匠との師弟物語であり、サクセスストーリーであると同時に、後半では現在も議論の争点となっている、「安楽死」という問題に一石を投じる内容となっていました。
このようなドラマ性と社会問題を両立させた作品はまだまだ数多く存在しますが、この「ルーム」という作品もそういう作品の一部なのだと私は考えています。
この作品においてそのテーマは2つあると個人的には考えています。
1つはこの物語の本筋から読み取れるもの。1つはこの作品の撮影、演出といった部分から読み取れるものです。
望まぬ母親と望まぬ子供、その希望とは?
現在の社会において、子どもの問題は一つ大きな課題となっています。
不妊等の原因による代理出産に伴う親権の問題、虐待や養子問題、そして今作で扱われた、強姦やレイプといった事件に巻き込まれることで望まれないまま生まれてくる子どもの問題です。
自分の意志でなく、妊娠してしまい、やむを得ない状況で子供を持つこととなった母親。
さらに言うと、キリスト教的な考え方から言うと堕胎とは本来、認められらいものでもあります。
またそれは子供にとって幸せなことなのでしょうか。というのも子供はその母親と暮らしていけば、いずれ必ず、自分がそういう経緯で生まれてきたことを知ることになるわけです。
それは、子どもにとって非常に苦しいことではないでしょうか。
自分は誰からも望まれず、自分は誰からも愛されていないのではないかと感じずにはいられないと思います。
この作品でこの疑問を投げかけるのは、母親のジョイを取材しに来たレポーターです。
つまり、現在の社会一般的な見方としては望まぬ母親が望まぬ子どもを育てる義理はないし、それは子供のためにならないということを彼女に突きつけるのです。
この作品構造は是枝監督の『万引き家族』にも似ていますね。
またこの作品においてジョイの父親は自分の娘がレイプによって産んだ子供をどうしても見ることができない、憎しみの対象として見てしまいます。
ただ、これは、当然の見方なんですよね。
ジョイの父親以外の家族はジョイの娘のジャックを受け入れています。
しかし、父親は受け入れない。この父親の存在がこの映画の説得力を増して言えると言えると私は感じました。
なぜなら、この父親の思いってすごくリアルで人間らしい感情に裏打ちされているからです。
しかし、この映画が示す希望はそれとは逆の方向にあるものであります。ジョイはジャックの母親であることを受け入れるのです。
物語の終盤のジョイとジャックのやり取りは印象的です。
「未熟ながらも私はあなたの母親でいたい。私はあなたの母親よ。」というジョイの心からの言葉にジャックが応えます。
このシーンを見て、私はあふれる涙を抑えることができなくなりました。事件に巻き込まれ、やっと解放されたジョイ。
高校生の時から時が止まってしまったかのように少し未熟で、母親としての在り方なんてわからない。自分の幸せも子どもの幸せも考えるほどの余裕はない。
しかしそんなジョイが出す、ただジャックの母親でありたいというシンプルな答えとその肯定。
現代社会においてこの決断が正しいと捉えられるかは別の話になるかもしれません。
ただ、一人の女性が母親であることを望み、受け入れたという非常にミニマルな話に過ぎません。
それでも、その決断がどれほど勇気あるものだったかを考えると、やはりジョイに感情移入してしまうし、2人の幸せを願わずにはいられないのです。
そしてこの難しい役どころを見事に演じきった、ブリーラーソンのアカデミー賞主演女優賞受賞は自明であったと言わざるを得ません。それほど説得力のある演技でした。
我々が囚われている四角い「世界」と世界
最後にもう一つのテーマについて考察していきたいと思います。
それは我々はその囚われた四角い「世界」から飛び出し、外の世界に目を向けていかなければならないということです。
この作品には、そのテーマを意識しているような演出がうかがえます。
ジョイが閉じ込められた庭の倉庫、その窓、近代的な病院の一室、そこから見える近代的都市、スマートフォン、テレビ。そういったいわば四角い事物をかなり意図的に劇中に登場させているように感じられます。
人間というものは文明の発達とともにどんどんと自分たちを四角い「世界」に閉じ込めてきました。
それは都市であり、住居であり、部屋であり、テレビであり、スマートフォンです。
つまり、われわれ人間はいまや総じて、四角い「ルーム」の住人なのです。
しかし、この劇中ではそんな「ルーム」から飛び出し、世界を知らんとする人の姿が描かれています。
つまりこの映画は非常に社会風刺的な内容を含んでいると言えるのではないでしょうか。
我々は、四角いリアルでアンリアルな、それでいて虚構に満ちたその四角い「ルーム」から脱出していかなければならないのです。
この映画でも描かれるような、初めての世界に触れるリアルな感覚を現代人は取り戻さなければならないのです。
人類は四角い「ルーム」に自分たちを閉じ込めて、そして自分自身の感覚を外部化することで、疑似的な実感や快楽に身を委ね、
いつしか本物から遠ざかるようになりました。
つまり我々の世界は技術の発展によって広がったように見えて、実はどんどんと狭くなっているんですよ。
世界はとても大きく、広いのです。
我々が四角い「ルーム」から知ることができるのは、その一断片にすぎません。
そこから脱却して、未知の領域に触れていかなければならないという現代人へのメッセージがこの作品に含蓄されているのではないかと、考えずにはいられません。
このレビューを四角い映画のスクリーンに囚われた私が書くというなんとも皮肉めいたことになってしまっていますが、自分自身いろいろと考えさせられるところの多い作品だったと思います。
みなさんも劇場に足を運び、「世界」に触れてみましょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ルーム』についてお話してきました。
とにかく前半と後半で全く毛色が異なる映画なのですが、双方にきちんとカタルシスがあり、メッセージが込められています。
素晴らしい映画ですので、ぜひ一度鑑賞してみてください。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。