みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、映画『ナラタージュ』の舞台挨拶付き試写会にお邪魔させていただいたので、作品の感想や解説の方を書いていけたらと思います。
彼の作品は、演出がウェットになりがちで、そこが個人的にはあまり好きではなかったりします。
ただ、今作については、もうキャスト陣の演技が素晴らしかったので、それだけで見応えがありましたね。
そんな本作について、今回はネタバレありで語っていきます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ナラタージュ』
「ナラタージュ」というタイトルの意味は?
「ナラタージュ」というのは、小説や映画などで、ある人物が現在の時点から、語りや回想によって過去を振り返り、それを再現するという表現の手法のことを指しています。
この『ナラタージュ』という作品は文字通り、有村架純演じる工藤が現在の地点から自身の高校時代や大学時代を回想して、その内容を再現するという手法で描かれています。
過去を振り返ることが、未来へ進むためには重要というアプローチでもありますね。
あらすじ・概要
2006年版「この恋愛小説がすごい」第1位に輝いた島本理生の同名小説を、松本潤&有村架純の共演で映画化。
「世界の中心で、愛をさけぶ」などで知られる恋愛映画の名手・行定勲監督がメガホンをとり、禁断の恋に落ちる高校教師と元生徒が織り成す純愛を描く。
大学2年生の泉のもとに、高校時代の演劇部の顧問・葉山から、後輩たちの卒業公演への参加を依頼する電話がかかってくる。
高校時代、泉は学校になじめずにいた自分を助けてくれた葉山に思いを寄せていたが、卒業式の日に起きたある出来事を胸にしまったまま、葉山のことを忘れようとしていた。
しかし1年ぶりに葉山と再会したことで、抑えていた恋心を再燃させてしまう。一方、葉山もまた泉に対して複雑な思いを抱いていた。
(映画com.より引用)
予告編
『ナラタージュ』感想・解説(ネタバレあり)
松本潤の演技力だけがすば抜けた映画
私は、テレビドラマを最近あまり見ないもので、役者松本潤の自分の中での歴史がかなり前でストップしています。
最初に見た彼が出演している作品は、「きみはペット」というドラマ作品でした。
この作品は、小雪演じる主人公スミレの下に、松本潤演じるモモが「ペット」として居候するというところから始まるラブコメディ作品でした。
この時の彼の演技は、まだアイドル的というか可愛らしいという印象が強かったように思います。
そして、次に「花より男子」や「バンビ~ノ!」といったコミック原作のドラマに次々に出演していたのを記憶しています。
「花より男子」では、道明寺としてアイドル俳優を象徴する存在になりました。
また「バンビ~ノ!」では、夢に向かって誠実に努力する青年を見事に演じ切りました。
で、私が一番印象に残っているのが、「スマイル」というドラマなんですよね。
松本潤はこのドラマ作品で、フィリピンと日本のハーフの青年を演じていました。
また、ヒロインの失声症の少女を新垣結衣が演じていました。この作品の松本潤の演技は素晴らしかったと思います。
何というか道明寺役で自身に貼りつけた「アイドル俳優」というレッテルを、自ら剥がして見せるような衝撃の演技でした。
私の中の俳優「松本潤」はこの「スマイル」というドラマでストップしてしまっていました。あれ以来、彼が映画やドラマに出演しているのを見ていなかったんですよ。
ですので、今回の『ナラタージュ』では、彼のどんな演技が見れるのだろう?とすごく期待しておりました。
結論から言いますと。今作『ナラタージュ』における松本潤の演技は、私の想像をはるかに上回るレベルにあったと思います。
この作品で、一番重要なキャラクターは誰か?と聞かれたら、やはり松本潤が演じた葉山先生であると答えざるを得ません。
ですので、松本潤の演技が作品に対して大きな影響力を持っていると言っても過言ではなかったわけです。
そんな中で、彼が魅せた演技は衝撃的なほどに素晴らしかったです。ある意味で、この作品を背負って立つ覚悟のようなものすら垣間見えました。
葉山先生という役どころは、小説版を読んでいても、映画版を見ていても、何とも捉えどころのないキャラクターなんですよね。もっと言えば、何を考えているのか分かりにくいミステリアスなキャラクターなのです。
この映画の脚本段階では、この葉山先生の役にはどうやらあまり記述が無かったそうなんですよ。
そのため、松本潤は、鑑賞する人がそれぞれの頭の中で、自分なりの「葉山先生」像を作れるように演じたということを舞台挨拶で話していました。
一見穏やかで優しそうな印象を与えるのですが、その裏に深い闇であったり、激しさであったり、弱さみたいなものを抱えているのが「葉山先生」だと私は思いました。そして松本潤はそれを「視線」で演じて見せたんですよね。
本作で、たびたび重要な要素として登場する視線ですが、彼はその「視線」でもって、多くを表現してくれました。
有村架純演じる工藤を見つめる優しい視線。
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
でも時に、その目には激しさが宿ります。
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
また、その虚ろな目には時に彼の内面の弱さや闇が垣間見えます。
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
「視線」だけで葉山という難しい人物像を演じて見せた松本潤という俳優の演技力の高さには、ただただ脱帽でした。
有村架純や坂口健太郎ももちろん良かったのですが、彼の存在感がすば抜けすぎていて、霞んで見えるほどでした。
映画好きにはたまらない
本作『ナラタージュ』のメインキャラクターである葉山先生と工藤が映画好きということもあって、多くの映画作品が登場しますし、映画が作品のキーにもなっています。
「隣の女」
フランスの名監督フランソワ・トリュフォーの名作ですね。
この映画は、葉山先生と工藤が再会して「最近見た映画」について話しているときに話題に上がりました。
この作品は、妻と息子をもち平凡な生活を送っていた男と、偶然彼の隣に引越して来た昔の恋人との激しい恋と葛藤を描いています。
この映画の内容は、『ナラタージュ』にすごく通ずる部分がありますよね。
昔からずっと好きだった人と再会して、その思いが燃え上がる、まさにその瞬間があの社会科準備室での会話のシーンだったわけです。
その際にこの「隣の女」という作品が工藤の口から出るということは、つまり彼女の葉山先生への思いが再び燃え上がろうとしていることを暗示していました。
「エル・スール」
スペインの巨匠ビクトル・エリセ監督の名作です。
本作も実は「ナラタージュ=回想」の手法で撮られた映画なんですよね。
主人公である15歳の少女が、現在の地点から父親と自分との過去について回想する構成になっています。
「浮雲」
成瀬巳喜男監督の代表作の1つがこの「浮雲」という作品でしょう。
私は彼の作品の中ですと「乱れる」という作品が好きなのですが、この「浮雲」も素晴らしい出来です。
戦時中、終戦後の動乱の時代において、互いに思い合いながらも結ばれることの無い悲劇の恋愛模様を描いたビターなラブストーリーになっています。
「アンダーグラウンド」
この作品は映画には登場していなかったような気がしますね。
原作小説には登場しました。エミール・クストリッツア監督の名作です。
第2次世界大戦からユーゴ内戦まで、地下で武器の密造を続けた人々の物語を描いています。
『ナラタージュ』の作中では、葉山先生がこの作品を話題にしていました。
彼は「故郷」というもののありがたみは失ってみないと気がつかないという話をしていましたね。
物語の展開を見てみますと、彼にとっての工藤ってまさにそんな存在だったのではないかと思います。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
こちらもラース・フォン・トリアー監督の傑作ですね。
これもすごく切ない親子の物語です。主人公の母親は失明症を患っていて、息子も同じ病気を患います。
そんな母が、どんな逆風にあっても息子のために秘密を守り続けるというストーリーになっています。
ネタバレしてしまうとよろしくないので、あまり詳しくは語れませんが、誰かを思うがゆえに秘密を抱えるという点で、この作品が葉山先生の秘密に繋がっているのは興味深かったですね。
脚本はあまりにも酷すぎる
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
一体全体この映画版『ナラタージュ』の脚本はどうなっているんでしょうか?
はっきり言って「物語」として完全に破綻していると思います。
まず、これに関しては編集が悪いのもありますが、あまりにも時間の経過に不誠実すぎます。
もちろんこれは原作にあったものの多くをカットせざるが得ないために起こったことではあるのですが、それならそれで、もっと原作から改変して物語を完成させるべきだったと思います。
各エピソードがぶつ切りぶつ切りになっているのは、これが工藤の回想だからということである程度納得できるとは思いましたが、それにしても時間というものに対する誠実さが完全に欠落しています。
映画において、カットというものは必要不可欠です。
ですが、カットをすれば、カット間で時間の喪失が生じます。
カットとカットの間に一体何が起こったのか?ということを鑑賞する側は見ることができないのです。
故に、映画においては如何にしてカット間に生じる「かすめ取られた時間」を少なくするかが重要になってきます。
しかし、本作『ナラタージュ』は、カット間で時間が吹っ飛びますし、人間関係が急激に変化したりしています。にもかかわらず、その間に起こった出来事を想像できるようなヒントが作品に散りばめられているわけでもありません。
何にせよ、見ていてここまで映像に没入できない作品も珍しいですね。これはひとえに時間に対する不誠実さがもたらしたものだと思います。
そしてプロット面で一番酷かったのは、柚子の扱いですよね。これはもう許せないレベルです。
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
原作では、柚子の様子が徐々に変化していく様や、柚子の悩みに応えようと葉山先生が必死に努力した様、柚子が自殺に至るまでに示したたくさんのサインがあったがために、彼女が自殺に至ったという事実に妥当性がありました。
一方で、映画版では、柚子の意味深なカットがいくつか挿入されてはいましたが、明らかに描写不足です。
作品の中で人が一人自殺するというのはすごく重い出来事です。
ですので、その人物がなぜ自殺に至らねばならなかったのか?また、そこに至るまでのサインは無かったのか?を丁寧に描いておく必要があります。
人が一人死ぬんですよ?それがあんな軽い扱われ方をしていいはずがありません。まるで、物語を進めるためだけに彼女が犠牲になったようです。この点に関しては、もう脚本が破綻していると断言せざるを得ません。
他にも挙げていくときりがないですが、最も許せなかった点については、別に章立ててお話しようと思います。
劇伴音楽の使い方がブレブレ
私は、あんまり劇伴音楽に頼りすぎている作品って好きじゃないんですよ。
そういう嗜好もありまして、映画『ナラタージュ』の序盤の徹底的に劇伴音楽に頼らない姿勢に感激しました。おそらくここぞというシーンのために取っておくのだと思っていました。
しかし、中盤を見ていくとさして重要ではないシーンでばかり劇伴音楽が使われているんですよね。
なるほど。これは重要なシーンにはあえて劇伴音楽を用いないことで、際立たせる手法か!と考えました。
しかしですよ、終盤に近づくにつれて、普通に重要なシーンでばかり劇伴音楽が流れるようになりました。
これまで、ウェットな演出をあまりしないように抑えてきたのに、終盤になって急に劇伴音楽で涙を誘ってやろうという魂胆が見え透いていました。
結局、本作における劇伴音楽の意図が全く見えてこなかったんですよね。
本作は、工藤の「ナラタージュ」つまり回想であるわけですから、
- 彼女にとって重要だと思われるシーンで劇伴音楽を用いる
- 逆に重要だと思われるシーンでは劇伴音楽を使わずに強調する
という2つの選択肢がまずあったと思います。
序盤は前者の手法を想定できたのですが、中盤になると後者の手法に傾いていって、終盤には結局前者の手法に帰ってきてしまったんですよね。
何というか、劇伴音楽の使い方に一貫性が無さ過ぎて、すごく散らかった印象を受けました。
原作との違い、原作から継承できなかった作品の核
ここからは、私が映画版『ナラタージュ』に抱いている最大の不満点についてお話ししようと思います。
マンガが実写化の運びになるとよく原作ファンの不満が挙がりますよね。俳優が原作のイメージと違うだの、設定が原作と違うだの・・・個人的にはそんなことはさして重要ではないと思っています。
では、何が大切なのかというと、作品の核になる部分をしっかりと継承しているのかどうか?それだけだと思います。私の意見としては、それさえ継承されるのであれば、いくらでも改変すればよいと思っています。
ただ、この映画『ナラタージュ』は、原作の核を完全に見落としたままで作られてしまったような気がしてなりません。
それが顕著に表れていたのが終盤の展開です。
工藤が電車に乗って去っていき、葉山先生に別れを告げました。そして時間は現在へと戻って来て、懐中時計の針が動き出して、工藤は葉山先生との思い出を過去にして、職場の男性と共に歩んでいくことを示唆するようなカットでエンドロールに突入します。
でもよくよく考えてみると、映画版における現在の工藤って、職場でうたた寝をしていただけなんですよね。その夢の中で、過去のことを回想していたわけです。
そう考えるとあまりにもおかしくないですか?別れてからも、就職してからもずっと忘れられずにいた葉山先生との思い出を、うたた寝しているだけで過去のものと割り切る事ができてしまうんですか??なんですか?そのプロットは?
しかも、「昔の恋を忘れて前に進む物語」って腐るほどあるんですよね。こんなものはあまりにも使い古された題材でしかありません。
ここで、小説『ナラタージュ』がなぜこれほどまでに評価されているのか?という話をしなければならないのですが、この作品の本質って実は、小説の冒頭に明記されているんですよ。
工藤にとって「ナラタージュ」つまり「回想」というのは、「穏やかに葉山を遠ざけるための作業」なんですよね。
ですので、小説版のラストでは、職場の男性(映画では瀬戸康史が演じていた)と結婚を予定している工藤がこれからも何度も葉山先生のことを思い出して、その苦しみに直面しながらも、少しずつ彼を過去のものとして遠ざけていこうと考えている描写が見られます。
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
本作『ナラタージュ』が、ただの「昔の恋を忘れて前に進む物語」に終始しなかったのは、この部分が非常に大きいと思っております。
工藤がきっぱりと昔の思い人である葉山先生を忘れて、新しく出会った男性と結婚して前に進む物語にはしていないんですよ。
彼女はこれからも葉山先生のことを思い続けるわけです。ですが、少しずつではありますが、彼との思い出を回想することでそれを過去のものとして遠ざけようとしているのです。
それを描くためにも、あの職場の男性(瀬戸康史)と工藤が恋愛関係に発展している描写というのは必要だったと思うんですね。
というのも原作において、あの職場の男性は、坂口健太郎演じる小野くんと対照的な人物として描かれていたからです。
©2017「ナラタージュ」製作委員会 映画「ナラタージュ」予告編より引用
小野くんは、工藤に自分を世界で一番愛していてほしい、葉山先生のことをきっぱりと忘れて欲しいと望んでいます。
一方で、職場の男性は工藤にとって自分が一番でなくとも良いと考えている人なんですよ。
工藤はこの先誰と一緒にいても葉山先生のことを思い出さずにはいられないだろうから、その点は気にしないという人物であるわけです。
大学生時代に小野と上手くいかなかった工藤が、この職場の男性となら上手くやっていけているのです。それは、彼が工藤の「ナラタージュ」を認めてくれる存在だからです。
『ナラタージュ』という作品は、この3人の工藤を取り巻く男性を描いて初めて形になります。
葉山先生という絶対的な存在を少しずつ忘れていきながら、小野くんと正反対の考え方を持っている職場の男性を少しずつ愛していくわけです。
この緩やかな変化ないし緩やかな忘却にこそ「ナラタージュ」の真髄があるのだと私は確信しています。
確かに映画版は単なる「昔の恋を忘れて前に進む物語」にコンバートしたがゆえに、非常に見やすい物語にはシフトしていました。
しかし、この『ナラタージュ』という原作が持っていた最大の魅力を微塵も継承できていないように感じました。
これこそが映画『ナラタージュ』において一番残念なポイントだと感じました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ナラタージュ』についてお話してきました。
脚本や編集、音楽その他の要素たちが根こそぎボロボロな映画であったがために、松本潤の名演技だけがこの作品を照らす一筋の光になっているようでした。
私が原作を読んでいたからとかそういう話ではありません。単純にいろんな要素が破綻しまくっていました。
加えて、原作の核となる部分を継承できていないのが痛いです。
まあ、不満点をいつまでも語っていても仕方がないので、松本潤の素晴らしい演技に賛辞を贈ると共にこの記事を締めくくりたいと思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
関連記事
同じく嵐の二宮和也さんの名演技が光る傑作人間ドラマ『検察側の罪人』の記事は以下のリンクからどうぞ!!
また本作に出演されている有村架純さん主演の『コーヒーが冷めないうちに』の感想記事もこちらからお読みいただけます。
良かったら読んで行ってくださいね。
ナガさんの感想を読んでようやく納得。
もやもやしていていい作品かも。
「人生にはどうしようもないこと」
が沢山ある。
若き日に死にたいと思ったかもしれない工藤が
葉山先生の存在で「死」から遠ざかれたのかも。
柚子にも彼のような存在を神が与えてくだされば、
「死」を選ばなかったかも。
昔の大好きだった人を
嫌いになる程の勇気と時間が
ないのなら、いっそのこと「なあなあ」な状態で
ずっとしておくのも人生としたら、ありではないかと。
すっかり忘却というより、忘却のベクトルに向けて
だんだんと、無理せず、ゆっくりと。
記憶がゼロにはならない。
ゼロになることはない。それが
脳のしくみだから。どこかに澱のように
淀んで存在しているのだから。
何かの拍子にうっかり出てくるのだから。
きっぱりと黒か白という
人生ばかりがいいとは限らない。
別の違う人と結婚して、出産、子育てしているけれど、
「やっぱりなあ、なんだかなあ、たまにやはり
思い出してしまうなあ」と
いった相手がいてもいいと思う。
それが、法律では縛れない
人間の内面の本能だから。
松本潤さんが前髪で眉毛を隠し、
眼力をとろんとした瞳に変えて
表情を抑え気味の演技をしていた。
最後少しおでこを出して、眉毛も見えたが。
嵐のファンでライブも何度も行って
彼のひととなり、性格も良く知っている。
相当客観的な抑え気味の役作りをしたと思う。
新宿探偵団の松本潤さんの頃から知いて、
大人になったなあと感じる。
コミックスの実写版も好きだが
こういった作品もいい。
先日エミール・クストリッツア監督の
「オン・ザ・ミルキー・ロード」観てきました。
ナガさんが「アンダーグラウンド」をご紹介して下さった監督です。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も以前観て好きな映画です。
素敵な映画を紹介して下さってありがとうございます。
みみさんコメントありがとうございます!
返事が遅くなり申し訳ありません。
ゼロにはならないけど、ゆっくりと薄れていく。忘れられなくても良いという優しさがナラタージュの良さだったなあと噛み締めております!
オンザミルキーロードご覧になったんですね!!(^ ^)
ナガさん、初めまして、記事拝読しました。
普段こういったコメントはしないのですが、物凄く共感したのでコメントさせていただきます。
私も、ナガさんが指摘されている映画版の違和感、全て感じました。さらに言うと、小野くんが作った靴をぬいでいくシーンや、風邪の時にいきなり先生が看病にくるシーンなど、いまいち感情移入できない、現代からはズレている行動(昔の時代の映画や特殊な環境を舞台にしている映画でならロマンチックだったかもしれないが、普通の現代人が取らないであろう行動)などが原作では書かれていないのを読んで「あっ……(察し)」となりました(笑) 時系列の分かりにくさ、柚子ちゃんの扱いについては友人とも残念だと話していました。
そして何より、小説版ナラタージュの真髄についての話、深く共感しました。何より私は、小説の最初の何ページかで、職場の男性が「君は誰といても彼のことを思い出すだろうから、隣にいるのが僕でも構わないと思ったんだ」的なセリフ(詳細は違うかもですが)に深く感動して、映画を見ることを決めて原作も買ったので、そのあたりがクローズアップされていないことはとても残念でした。
小野くんと職場の男性の対比、とても大事ですよね。人を愛するということは、その人の過去まで全て抱きしめてまるごと愛してあげることかもしれないと思いました。泉は小野くんのことだってちゃんと好きだったのに、恋愛における価値観のすれ違いで別れてしまったのがリアルで切なかったですよね。職場の男性のような方に泉が出会えてよかったなと感じました。
長文失礼しました。今後もブログの更新楽しみにしています。
みほみほさん素晴らしいコメントをありがとうございます!
”人を愛するということは、その人の過去まで全て抱きしめてまるごと愛してあげること”という部分にすごく感銘を受けました。
過去は過去とすぐに割り切れることもあれば、時間がかかってしまうこともあります。それを受け入れられなかった小野くんと職場の男性の対比に、ナラタージュの真のメッセージが見え隠れしているように感じております。
そしてナラタージュという作品そのものが、すぐに忘れなくてもいいんだよと、読者を包み込んでくれるような優しさを内包していて、それが自分にとってもすごく読んでいて魅力を感じた部分だと感じました。
映画版は強引にまとめた印象ですが、みほみほさんが挙げていらっしゃる描写に関してもそうですが、やはり原作の一番重視されるべきポイントを落としてしまっている感じがしました。
俳優陣の演技や撮影なんかはすごく良かったのも、あってその辺りが残念でした。
なるほどですね。今ようやくナラタージュという小説の真の意味が分かりました。松本潤さんの演技良かったですよね。あれはもう葉山先生でした。何かもやもやしていたのがスッキリしました。ありがとうございました。
みきさんコメントありがとうございます。
ナラタージュの原作にはいろいろと解釈があるとは思いますが、やはり私の考える魅力はこの記事で書いたようなところですね。
共感していただけて嬉しいです(^ ^)