みなさんこんにちは。ナガと申します。
いやはやついにあのSF映画の金字塔「ブレードランナー」待望の続編である「ブレードランナー2049」が公開になりました。
今回は、前作「ブレードランナー」から3つの短編「ブレードランナー2022:ブラックアウト」「ブレードランナー2036:ネクサス・ドーン」「ブレードランナー2048:ノーウェア・トゥ・ラン」、そして最新作「ブレードランナー2049」までの全てを徹底的に解剖していきたいと思います。
記事の性質上、本編のネタバレを含みますのでご了承ください。
かなりの長文になることが予想されますが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
すべてを読む覚悟はあるか—
目次
概要・あらすじ
リドリー・スコット監督がフィリップ・K・ディックの小説をもとに生み出した1982年公開の傑作SF「ブレードランナー」から、35年の時を経て生み出された続編。
スコット監督は製作総指揮を務め、「メッセージ」「ボーダーライン」などで注目を集めるカナダ出身の俊英ドゥニ・ヴィルヌーブ監督が新たにメガホンをとる。脚本は、前作も手がけたハンプトン・ファンチャーと、「LOGAN ローガン」「エイリアン コヴェナント」のマイケル・グリーン。
前作から30年後の2049年の世界を舞台に、ブレードランナーの主人公”K”が、新たに起こった世界の危機を解決するため、30年前に行方不明となったブレードランナーのリック・デッカードを捜す物語が描かれる。
前作の主人公デッカードを演じたハリソン・フォードが同役で出演し、「ラ・ラ・ランド」のライアン・ゴズリングがデッカードを捜す”K”を演じる。
(映画com.より引用)
予告編
オリジナル「ブレードランナー」解説・考察
いろいろなバージョンについて
前作「ブレードランナー」には5つのバージョン、公開されていないものも含めれば7つのバージョンが存在していると言われています。
ハンプトン・ファンチャー脚本版
これは脚本家のハンプトン・ファンチャーがリドリースコットに「ブレードランナー」の話を持ち込んだ時点での脚本です。
「ブレードランナー」の原作がディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であることは周知の事実でしょう。
当初、脚本を手掛けたハンプトン・ファンチャーはこの作品の脚本を書くに当たって、ディック的な演出をいくつも排除したんですね。
それは、シミュラクル(愛玩動物)であり、妻のイーランです。これは明白な事実です。
そして、彼が目指したのは、ハードボイルドな探偵ものだったわけです。
よって映画版は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の一要素である、デッカードによるアンドロイド追跡劇に焦点を当てて、フィルムノワールのような空気を漂わせた映画を目指したんですね。
しかし、ハンプトン・ファンチャーは映画完成を前にして、リドリースコットに降板を命じられます。
監督は半ば強引にデヴィッド・ピープルズという脚本家を雇いました。
そのためフャンチャーの脚本そのものは日の目を見ることは無かったのですが、彼の脚本がベースになってその後の脚本製作が進んだわけですから、ファンチャーがこの作品に果たした重要な役割を無視することはできないでしょう。
リドリースコットによる絵コンテ版
これについては町山さんの著書「ブレードランナー未来世紀」に存在が仄めかされていたので、取り上げさせていただきました。
このバージョンでは、ラストに2人がエレベーターに乗った後、ロサンゼルスを出て、生き物の死に耐えた砂漠へと向かっていくというラストシーンだったそうです。
ただ予算的、日程的な問題から撮影できなかったそうです。
ワークプリント版
これは、1982年3月に北米でのテスト試写で公開されたバージョンになります。
デッカードによるモノローグが無かったり、いわゆる「デッカー丼」(「2つで十分ですよ」)が登場したり、ラストが「最終版」とほぼ同様の終わり方をしているという特徴があります。
ただ、このワークプリント版はテスト試写で高い評価を得る事ができず、公開を目指すために大幅な加筆・修正が必要になりました。
オリジナル公開版
これが1982年の6月に全米公開されたいわゆるオリジナル公開版ですね。
ワークプリント版にデッカードによるモノローグが大幅に追加され、世界観等についての説明がなされています。
また、このオリジナル版で特徴的なのが、ラストシーンです。
なんとこのバージョンでは。レイチェルには4年という寿命は無いという設定になっているんですね。
つまりそれ以上生きることができるということです。このようなハッピーエンドを無理矢理追加して、興行向きに仕上げたんですね。監督自身の当初の絵コンテ版に近いわけです。
ただ同時期に撮影されていた「シャイニング」の未使用フィルムを流用したがために、環境が破壊されているという設定にもかかわらず、豊かな緑が残っているという何とも言えない矛盾を引き起こしてしまいました。
インターナショナル公開版
これが俗にいう「完全版」ですね。
オリジナル公開版との相違は、暴力描写の有無です。
アメリカ公開時にはMPAAのレーティング対策として、暴力描写が排除されていました。
そして、インターナショナル版ではそれが復活したという話です。
ディレクターズカット版
これが俗にいう「最終版」です。
オリジナル公開版からデッカードによるモノローグや、ラストの不可解なハッピーエンド描写を排除して、当初のワークプリント版に近い仕上がりになりました。
大きな波紋を呼んだのは、デッカードがユニコーンの夢を見るシーンの追加です。
このシーンが終盤のデッカードがユニコーンの折り紙を見るシーンと呼応して、彼がレプリカントなのではないか?という解釈の可能性が高まりました。
ファイナル・カット版
これは、映画公開から25周年に際して、リドリースコットの指揮の下で再編集が成されたバージョンです。
微妙に暴力的な描写等が追加されている印象があります。
ディックの原作との違い
映画「ブレードランナー」の原作がディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であることは先ほども述べた通りです。
そこで気になるのが、この原作と映画版はどのように異なっているのか?という点ですよね。
かなり大部分が改変されているので、1つ1つ説明していくのは難しいのですが、大きな変更点について触れていきたいと思います。
マーサー教は完全にカット
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を語る上で、絶対に外せないのがマーサー教という宗教です。
このマーサー教は、地球に生きる全人類が信仰している宗教となっていて、マーサーという一人の老人を崇拝するものであります。
映画「ブレードランナー」ではセバスチャンという役どころが登場しましたが、原作ではイジドアという分裂症の患者がデッカードと対になるもう一人の主人公として描かれています。
そしてマーサー教というのは、実はこの2人に全く異質なものとして映っているんです。
マーサー教には具体的に経典のようなものは存在していなくて、人々が自分の都合が良いように解釈して信仰しているという設定になっています。
また、デッカードはマーサーを自分の行動を肯定する存在と見なしていますし、イジドアはマーサーを聖人、救世主として崇めているということになっています。
ただ物語の終盤でこのマーサーはしがない俳優であり、このマーサー教が虚構であったことがレプリカントにより明らかにされます。しかし、そうなっても人間はその信仰を止めることはありませんでした。
そして、マーサーはイジドアの前に現れて、彼のために蜘蛛の命をよみがえらせるという「奇跡」と「救い」を与えます。一方で、デッカードの前に現れたマーサーは、彼のレプリカント殺戮を後押しします。
これって現実世界における宗教の実像と非常に近いものがあるんですよね。
キリスト教にしてもイスラム教にしても、個々人が都合のいいように解釈して信仰しています。
ある人にとっては「救い」をもたらしてくれる存在であっても、ある人には「戦争」を肯定してくれる存在なのです。宗教の名の下に人々は自分が作り上げたある種の虚像を信仰しているんです。
近年のテロ問題なんかもそうですよね。
イスラム教を信仰している人が全員テロに向かうかといったらそんなことは決してありません。ただそれを信仰する人の中には、自身で都合のいいように解釈して「テロ行為」を宗教的に正当化する人がいるわけです。
ディックはこの本を出版した1968年の時点、いやそれ以前にもう現代にも通ずる宗教というものの実態を見抜いていたのかもしれません。そう考えると彼の先見性には鳥肌が立ちます。
ただこのマーサー教は、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の中でも、「人間の存在論」的なテーマとは少し距離を置いた描かれ方をしていたように思いますので、イジドアの分裂症要素が排除されて、セバスチャンというキャラクターに変容したことをきっかけに排除されて然るべき要素だったかと思います。
妻という帰着点
原作である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を語って行く上で欠かせないのが、デッカードの妻イーランの存在です。
ちなみに映画「ブレードランナー」では主人公の設定が妻に逃げられた男と改変されているので、登場しません。
そもそも原作のプロットって「千と千尋の神隠し」や「オデッセイ」、「夜は短し歩けよ乙女」のような、ある種の幻想世界、別世界に迷いんこんでそこから帰ってくるまでの物語なんですよね。
このプロットそのものは極めてディック的と言えます。
後にも詳しく述べるので、ここでは簡潔な説明にとどめますが、ディック作品の基本というのは、現実なのかどこかも分からない場所で、ただ自分の意識が目覚めて、そこから逸脱するまでの物語なんですよ。
そして、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という作品においてその役割を果たしていたのが、妻のイーランだったのです。
家から出て、現実世界と精神世界と、妄想と幻想と、あらゆる世界線が混在しているカオスな空間に放り出されたデッカードの意識が妻の下へと帰ってくることで、ようやく現実世界に戻ってきたことが端的に示されています。
このように映画版では、完全にカットされてしまった妻の存在ですが、映画「ブレードランナー」が、ハードボイルドな探偵ものへとコンバートし、原作の数あるテーマの中でも「人間とレプリカントの存在論」だけにフォーカスした点は十分に評価されるべきでしょう。
シュミラクル(愛玩動物)
シュミラクルもディックSFの中では定番中の定番と言える要素です。要は電気羊のことですね。
ただ映画版ではこの要素は極限まで縮小されて、ほとんど映画における1モチーフへと成り下がり、テーマ性は排除されてしまったように思います。
デッカードのシュミラクルに対する感情というのは、そのまま彼のアンドロイドないしレプリカントに対する感情だったんですね。
物語の初めの時点では、デッカードは自宅の屋上で飼っている電気羊を嫌悪していました。
それは本物の羊ではないからであり、本物の動物を飼っている他の人に対して劣等感を感じるからでもありました。
しかし、デッカードはどんどんと人間とアンドロイド(レプリカント)との境界を曖昧にしていきますよね。
そして、その存在論をはっきりさせるために、自分はアンドロイド(レプリカント)を抹殺する存在であることを言い聞かせるかのように本物の山羊を購入しました。
そしてラストでは、絶滅種だと思われていたヒキガエルを捕まえて、妻の待つ家に帰りました。そこでそのヒキガエルがシミュラクルであることが分かって、デッカードは失望します。しかし、そこで彼は重要なセリフを残します。
「マーサーがあのピンボケのインドアにやったクモ・・・あれもきっと模造だったんだ。だが、そんなことはどうでもいい。電気動物にも生命はある。たとえわずかな生命でも。」
(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」より引用)
つまり、最終的にデッカードが至ったのは、「人間とアンドロイドの存在論」というものは極めて曖昧であり、それを定義づけることはもはやできそうもないが、どちらにも間違いなく生命が宿っており、そうであればもはや無理に区別する必要もないのではないか?という結論ですよね。
デッカードのアンドロイド(レプリカント)に対する感情の変化を、シミュラクルを使って巧みに表現した点はディック的であり、素晴らしかったです。この要素が大幅にカットされたがために、映画「ブレードランナー」におけるデッカードの心情の変化は少し曖昧になってしまったように思います。
原作との共通点
ポストモダニズム的プロット
原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と映画「ブレードランナー」の重要な共通項として、まず「存在論」が主題であるということが挙げられます。
つまりモダニズムからポストモダニズムへの移行がこの作品の中に表現されているというわけです。
まず、「人間とアンドロイド(レプリカント)の境界」というものは存在しているというのがあの世界における当初の価値観でした。
「境界が存在している」これが絶対的な真実として君臨しているのです。
これは極めてモダニズム的かつ形而上学的な存在論に裏打ちされています。
ただ、この作品はそこに疑問を呈するわけですね。
「人間とアンドロイド(レプリカント)の境界」というものは、そもそもは存在しないものであり、人間とレプリカント双方の意識が存在させうるものであるというポストモダニズム的かつ構造主義的な存在論への移行を描いているわけです。
「境界が存在している」という絶対的価値観に疑問を呈し続けることで、脱構築的に「境界は存在していない」という一つのポイントに帰結していきます。
そして物語は、根源的にはどちらも生命を持った存在なのではないか?というデッカードがたどり着いたまさにその結論に至ったわけです。
ただ、人間とそしてレプリカントの意識という視点から見るなれば、その境界は依然として存在するわけですよ。
絶対的な存在を保証するのがモダニズム的かつ形而上学的存在論であれば、存在を意識の中にのみ存在するものであるとしたのがポストモダニズム的かつ構造主義的存在論なのです。
そして「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と「ブレードランナー」が示したのは、この思想の移行劇なんですよね。この点は重要です。
目覚めと目
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
ディックSF的な要素の最たるものとして挙げられるのが、「目覚め」であったり「起きる」というモチーフなんですよね。
これは畑中佳樹のディック論「目覚め、叫び、走る」でも印象的に論じられているポイントです。
シルビア・ボーレンは、フェノバルビタールの微睡の淵で、何か叫ぶ声を聞いた。鋭く、それは彼女が沈んでいた眠りの層を突き破り、完ぺきな忘我の境を傷つけた。
「ママ」息子が家の外で呼んでいた。
ベッドの上に起き上がり、枕もとのコップの水をひと口飲み、素足を床におろして、のろのろと立ち上がる。時計の示す時刻は九時半である。ガウンをつかんで、彼女は窓際に歩み寄った。
(「火星のタイム・スリップ」より引用)
異様にずきずきする頭を抱えて、バーニィ・メイヤスンは目をさました。そこは見慣れぬ集合住宅ビルの見慣れぬ一室だった。かたわらには、掛け布からなめらかな両肩の素肌をのぞかせて、見慣れぬ若い娘がすやすやと寝息を立てている。
(「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」より引用)
ベッド脇の情調オルガンから、自動目覚ましが送ってよこした小さな快い電流サージで、リック・デッカードは目をさました。びくっとして起き直り、急に目がさめると、いつもびくっとなる。七色のパジャマ姿でベッドから出て、大きく伸びをした。かたわらのベッドでは、妻のイーランが不機嫌な灰色の目を開き、まばたきし、それから呻きを上げて、また目をつむってしまった。
(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」より引用)
このようにディックの小説の大半が「目覚め」や「起きる」という動作から始まっています。
ただし、起きるというのは人間の基本的生活習慣の一環としての眠りからの目覚めではありません。意識がある空間に突如として浮上する、つまり無から意識が生じることを指してディック的「目覚め」は定義づけられるのです。
そして上でも挙げたように、原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」もこのディック的「目覚め」から物語が始まっています。
では、話を映画「ブレードランナー」へと移していくわけですが、冒頭にある有名な目のクローズアップカットを覚えていますでしょうか?
町山智浩さんは自身の著書「ブレードランナーの未来世紀」でこの目のことを観客自身の目であると解釈しています。
つまり、あの未来世紀を、眼前に広がる2019年の風景を今まさに垣間見ようとしている自分自身の目であるという風に捉えたわけです。
私もその解釈には非常に共感できます。
ただ、この目はそれ以上の意義を孕んでいるということが言いたいのです。
つまりあの目のクローズアップショットの挿入は、セリフを交えることもなく、ただあの目だけでディック的「目覚め」を体現しているのではないか?ということです。つまり、観客自身の意識が、映画「ブレードランナー」の中の2019年の世界で「目覚め」たということを表していると考えているのです。
そして最後にはその世界から逸脱していくんですよね。
原作では妻のイーランの下に帰ってくることがそのまま現実世界への帰還を示していました。
そして映画版のとりわけ「最終版」や「ファイナルカット」のラストシーンでは、デッカードがレイチェルと共にエレベーターに乗り込んで、そのまま意識がぷつんと途切れるかのように幕切れるんですよね。この意識の逸脱という帰結もまたディック的なのです。
こう考えられるために、映画「ブレードランナー」は原作から大幅に改変を加えながらも、原作者のディックの特徴を上手く継承しているのです。
デッカードはレプリカントだったのか?
続編の時代設定が2049年で、デッカードの時代のレプリカントの寿命が4年であることから、続編が出来上がってしまった今の段階から解釈するなれば、デッカードはレプリカントでは無かったということができます。それは自明のことです。
ただ、オリジナルの「ブレードランナー」だけでもって解釈するのであれば、デッカードはレプリカントという解釈も可能なわけです。
そもそもリドリースコット監督の解釈であれば、デッカードはレプリカントだったそうなんですね。
作中で意味深にデッカードの目が赤く光るシーンがありますし、何より「最終版」で挿入されたユニコーンの夢のシーンはデッカード=レプリカント説を有力にするためだったと言われています。
ガフがデッカードの夢までも監視しており、お前もレプリカントである、次はお前が追われる立場になったんだということを知らしめるために、ユニコーンの折り紙を置いたというのです。
今となっては、この仮説は成立しえないですが、作品を紐解くうえで非常に面白い説だったと思います。
「ブレードランナー2022:ブラックアウト」解説・考察
本編
ポストモダニズムの否定
ポストモダニズムの考え方というのは、先ほども説明したように、絶対的だと考えられている権威や価値観、システムに疑問を投げかけることで、それを脱構築していき、それが非であると導き出すことにあります。
ただ、この考え方はニヒリズムとは少し毛色が異なります。二ヒリズムにおいては、何も信用できるものは無いという価値観が根底にあります。
一方で、ポストモダニズムの根底には「何も信用できるものはないという価値観」を信用しているという考え方が存在しています。
この点で、二者の考え方は異なっているのです。
ただ、それこそがポストモダニズムという思想の最大の弱点だったんですよね。
何も信用できるものが無いということは、いくら脱構築を繰り返したところで新たなる価値観やシステムを生み出すこともできません。
またそもそも既存の価値観やシステムに批判的な態度から生まれた思想であるわけですから、既存の価値観やシステムそのものが存在しないと始まらないという矛盾をはらんでいたわけです。
モダニズムを否定する立場でありながら、モダニズム無しでは成立しないという大きな欠点があったんですね。
「ブレードランナー」の世界でも、「人間とレプリカントの境界」を曖昧にするというポストモダニズム的な脱構築のプロセスが描かれていました。
一方で、明確な答えというものは示すことができませんでした。
境界はあるかもしれないし、無いかもしれない。
でもそれに答えを出すことはポストモダニズム的な考え方ではどうしようもないんですね。
結果的に、そんな曖昧な状態のままで寿命を延ばした新型のレプリカントが開発され、それが2022年の世界に大混乱をもたらしたのが、この「ブレードランナー2022:ブラックアウト」だったわけです。
つまり、この短編で「ブレードランナー」で描かれたポストモダニズム的考え方はもはや通用しないということを明確に示したんですね。
やはり人間とレプリカントの間には明確な決着が必要だったわけです。
そしてこの時に、レプリカント禁止法が成立して、レプリカントの新規生産が打ち止めになっています。
「ブレードランナー2022:ブラックアウト」はある種の「ブレードランナー」へのアンチテーゼなんですね。
「ブレードランナー2036:ネクサスドーン」解説・考察
本編
モダニズムへの復帰
先ほど繰り返し、「ブレードランナー2022:ブラックアウト」でポストモダニズム的な考え方が否定された、その弱点が露呈したという旨をお話してきました。
次にこの「ブレードランナー2036:ネクサスドーン」で描かれたのは、モダニズム、形而上学的存在論の復興なんですよね。
ウォレスという人物が新たに開発したレプリカントというものは、極めて人類に忠実で、自分の命と主人の命の二択を迫られれば、迷うことなく自分の命を止めるわけです。
つまり新型のレプリカントには「生命」が存在していないんですね。
その点で旧型のレプリカントとは大きく区別されています。
さらに言えば、ウォレスが作り上げたのは、レプリカント本来の役割を忠実にこなす事ができるレプリカントです。
映画「ブレードランナー」ではそもそもレプリカントと人間は根本的に異なる存在として生み出し、その上で、境界線をどんどんと曖昧にしていきました。
つまり「ブレードランナー2036:ネクサスドーン」は、ポストモダニズム的な考え方が広がる前の、本来のレプリカントとしてのモダニズム的存在観を復活させようとしたんですね。
「ネクサスドーン」という「次なる始まり」を予感させるタイトルが仄めかしているように、この「ブレードランナー2036:ネクサスドーン」は映画「ブレードランナー」で行われた思想の変容の時計の針を完全に逆回転させて、振出へと戻したわけです。
「ブレードランナー2048:ノーウェアトゥラン」解説・考察
本編
ポストモダニズムの産物
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」においてアンドロイドのそもそものモチーフがヒッピーにあるということは有名な話です。
ディックが見た目は人間なのに考えていることがさっぱり分からない恐ろしさを彼ら、ヒッピーに感じたことから本作のアンドロイドの着想を得たということです。
本作「ブレードランナー2048:ノーウェアトゥラン」はある意味で、トマス・ピンチョンが著し、ポールトーマスアンダーソンが映画化したヒッピーを題材にした作品「インヒアレント・ヴァイス」に非常に近いんですよね。
加えて言うなれば、映画「ノーカントリー」なんかに通ずるところもあります。
時代がウォレスの手によって再び、モダニズム的方向へと転回していっています。
そんな中で、人間でもアンドロイドでもない、その境界をアンビギャスなものとしてしか持たない旧型のレプリカントたちは指名手配されて淘汰されています。
そんな時代に取り残されるものの悲哀が、本作に登場するサッパーに強く感じられますし、これは前出の作品の主人公たちに共通するポイントです。
つまり、今作は旧型のレプリカントの否定という行為でもって、ポストモダニズム的方向への進行は間違いであったと言っているわけです。
ポストモダニズム的考え方の象徴たる旧型レプリカントは、モダニズムを掲げるウォレル社の新型レプリカントによって淘汰される展開がそれを象徴しています。
「ブレードランナー2049」解説・考察
ディック的宗教要素の復活
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
映画「ブレードランナー」では、極めて典型的なディック的要素である「マーサー教」というモチーフが完全にカットされてしまったことを指摘しました。
一方で、続編である「ブレードランナー2049」ではそんなディック的な宗教観が見事に継承されていたのです。
デッカードとレイチェルの娘が今作では、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」におけるマーサー的立ち位置として描かれていました。
人間とレプリカントの間に生まれたあの「奇跡」の子供は、本作の主人公たるKにとっては、ある種の「救い」のように映っていたはずなんですね。
彼女の存在はレプリカントである自分をより人間に近い存在へと引き上げてくれるわけです。
一方で、デッカードやサッパーたちに協力するものとして描かれたあのレプリカント解放戦線(仮称)のレプリカントたちは彼女を「戦争の口実」と見ていたわけです。
彼らは、彼女の存在を理由にして、人間たちに戦いを挑んで、革命を起こそうとしています。
このような宗教の二面性というのは、まさに原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」でディックが追求しようとした一つのテーマであり、前作「ブレードランナー」では日の目を見なかったテーマだったんですね。
レイチェルと娘が木の下で立っているところを収めたあの写真が、聖母画のように感じられるのもそのためでしょう。
また、彼女がレプリカントたちの記憶の創造主として君臨しているのも、本作の宗教的テーマを強める点で一役買っていたように思います。
ラヴの涙とその意味
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
劇中の印象的なシーンとして、ウォレスの腹心であるラヴが新しいレプリカントの誕生の瞬間に立ち会った際とクライマックスのシーンで、涙をこぼしているシーンが挙げられます。
このシーンの意味を少し考えてみましょう。
私は、今作のウォレスとレプリカントたちの関係にある種のナチズム的なものを感じました。
ウォレスという絶対的な君主が存在して、レプリカントという民衆が彼と同じ方向へと進んでいくのです。
さらに言うなれば、レプリカントたちはそんな彼の移行によって、地球外の惑星に植民地・支配地域を広げていきました。
この支配・被支配関係というのはナチズム的な側面を孕んでいます。
ナチズム批判というと数多くの芸術・文学作品で行われてきたものなんですが、実は「ブレードランナー」の原作、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を著したディックもまたナチズム批判を匂わせる作品を著しています。
それが「高い城の男」という作品です。
この作品は、第2次世界大戦に連合国側、つまり日本とドイツ、イタリアが勝利して、アメリカを分割統治しているという世界を描いた物語です。
映画「ブレードランナー」の世界で、日本を初めとする東洋的モチーフがロサンゼルスやカリフォルニアに広がっているのはこの「高い城の男」の影響もあるのかもしれません。
「高い城の男」を巡っては、笠井潔の「人間の無力あるいは作者の消失」という批評が非常に興味深いです。
彼はナチズムを次のように評しています。
『自分たちを髪に似た存在と考え』るナチズム」または「観念による現実の、未来による自由の、そして神による人間の絶対的支配を主張するナチズム」
(笠井潔「人間の無力あるいは作者の消失」より引用)
そして作中で、このナチズムに倫理的な抵抗を呈する書物として「易経」という書物が登場します。
そして作中の登場人物バイネスがこの「易経」に基づいて、ナチズムを批判します。
「彼らが理解できないもの、それは人間の無力さだ。」
ナチズム的思想においては、未来は決まっておらず、運命は決まっていないとされています。
また、ナチズム的思想に侵された者の自我が極限的に膨張することで、神性との境目が見分けられなくなると笠井氏は指摘しています。
一方で、「易経」の思想というのは、人間は無力であり、未来や運命は決まっているもの(部分的な改変の可能性は含んでいるものの)であると定義づけられています。
この点において、ナチズムと作中の「易経」の思想は対立するものとして位置付けられています。
最初のレプリカント誕生シーンでのラヴの涙というのは、自分の自我が神性の域へと達している、またはウォレスと共に行動することで自分も神的存在であると混同しているがゆえに、その神秘的な瞬間に立ち会ったことに対する純粋な感激の涙だったのではないか?と個人的には考えています。
一方で、クライマックスのシーンでのラヴの涙はまた違った意味合いを持っていると思います。
彼女は自分が「天使」であるということに異常なまでのこだわりを見せています。
しかし、Kや「奇跡」(デッカードとレイチェルの娘)にまさにその地位を脅かされようとしています。
彼女は、自分が盲従的に信じてきた自身の中の神性を引き剥がされて、自我を剥き出しにされているのです。
そして彼女が直面したのは、私がこうなる運命は、私がここで命を落とすことになるであろう運命は最初から決まっていたのではないだろうか?という抗いようの無い「易経」的思想だったのだと思います。
彼女がクライマックスのあのシーンで涙したのは、「自分の無力さ」に直面したことによる虚無感と絶望感の入り交じった言いようもない感情によるものだったのでしょう。
ラヴの最期は、前作「ブレードランナー」のラストで自分の寿命を悟り、雨の中でただ意識を絶ったロイ・バッティに通ずるものがありました。
彼もまた寿命という抗うことのできない運命に対する「自分の無力さ」を嘆き、死んでいったのです。
折り紙の羊
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
Kはデッカードを捜索するに当たって、前作にも登場したガフの下に足を運びました。
彼の手癖と言えば、やはり折り紙ですよね。
前作のラストで登場したユニコーンの折り紙は多様な憶測を呼びました。
そして今作に登場した彼がKの前においていた折り紙は「羊」でした。
そうです。原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」です。
原作では主人公のデッカードが家で電気羊というシュミラクル(愛玩動物)を飼育しているという設定になっていました。
これは本物の動物にそっくりですが、電気で稼働している偽物で、レプリカントを例えるモチーフとしても印象的なモチーフであったことは、この記事の中でもすでに述べた通りです。
本作「ブレードランナー2049」で登場した折り紙の羊、つまり作り物の羊は、原作の電気羊のことを想起させてくれます。
ガフは前作のユニコーンの折り紙で、「いつでもお前のことを見ているぞ」的なメッセージをデッカードに送りました。
そう考えるとデッカードとレイチェルが奇跡を起こしたということを知っていた可能性があります。
そう仮定するならば、ガフがKに対して折り紙の羊で伝えようとしたメッセージは「お前は偽物である。」ということだったのかもしれませんね。
ユニコーンと馬
映画「ブレードランナー:最終版」より引用
先ほど映画「ブレードランナー」の解説においてユニコーンが、デッカードがレプリカントであることを示すための指標だったという解釈を紹介しました。
しかし、こうして続編が製作されて、2049年という時代にデッカードが生きている以上、彼はレプリカントでは無かったということになります。
そうなると当然、あのユニコーンには改めて解釈を検討してみる余地があると思うんですよね。
特に本作では、原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」でも多く登場していた「馬」というモチーフが印象的に登場していました。
ユニコーンとは、額の中央に一本の角が生えた馬に似ている伝説上の生き物とされています。
つまりユニコーンというものは空想上の産物であり、存在するということがあれば、そのこと自体が「奇跡」なんですね。
そう考えてみると、私はあのデッカードの夢に登場したユニコーンというのは、将来的にお前は「奇跡」を起こすことになるだろうという暗示だったのではないかと解釈できるのではないかと思うのです。
原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」においてもレプリカントに受胎の可能性は無いと明記されています。
しかし、そんな中でレイチェルはデッカードの子を宿どすことになるわけです。
つまり、本来存在しえないものを、生み出す、創造することになるという予見こそがあのユニコーンだったのではないでしょうか。
一方で、本作では、Kが持ち歩いていた木彫りの馬、そして孤児院で馬の灰皿に手を触れるシーンもあります。これは端的にKは「奇跡」の存在ではないということを表しているようですよね。
馬というものは確かに「ブレードランナー」の世界では貴重ですが、新たなる創造物でも「奇跡」でもありません。
馬というものはユニコーンと対比的にKが平凡な存在であるということを暗に仄めかしているのです。
さらに言うなれば、木彫りの馬というのは、人工被造物です。つまりKが紛れもなく人間によって作られたレプリカントであるということをも示しているのでしょう。
雨と雪
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
本作「ブレードランナー2049」で印象的なのが何と言っても雨と雪の使い分けですよね。
これにはどんな意味があるのか?ということを考えずして、この作品を語りつくすことはできないでしょう。
まず、雨というモチーフは前作「ブレードランナー」でも印象的でしたよね。
レプリカントと人間の間には明確な区別が存在しているというポイントからスタートして、その境界がどんどんと曖昧になっていくわけです。
つまり雨というのは、レプリカントが人間に近い存在になろうとしている、レプリカントが人間と近い存在であるという状態における背景描写なのではないかと思います。
本作の序盤では、雨のシーンが印象的に登場していましたよね。
Kが自身の木馬の記憶から自分はもしかしたら特別な存在なのかもしれない、人間に近い存在、はたまた本物の記憶を持つ人間なのかもしれないと考え、捜査を進めていくシーンでは、ずっと雨の描写でした。
しかし、後にデッカードとレイチェルの娘であることが明かされるアナ・ステリン博士に面会し、自分が本物であると信じようとしてきた記憶が移植された偽物だったと悟ります。
つまり、Kは自分が特別な存在でも人間に近い存在でもなく、ただのレプリカントであることを悟ったのです。そこで本作は雪のシーンへと切り替わりました。
そして、デッカードがラヴによってウォレル社に連れていかれます。
その際にデッカードは、デッカードやサッパーと手を組んで、「奇跡」の娘を守ろうとするレプリカント解放戦線(仮称)のレプリカントたちと対面します。
あの「奇跡」の存在が、我々をただの奴隷から、人間と同等の存在へと昇華させてくれるということを彼らに告げられます。
そして、再び自分が「人間」たるためにデッカードを救う決心をするんですよね。そこではまた雨のシーンに切り替わっています。
ついにラストシーンへと至ります。ここではまた雪のシーンなんですよね。デッカードをアナ・ステリン博士の下へと送り届けたKは雪の下で力尽きます。
このシーンは間違いなく前作「ブレードランナー」で雨の中で意識を絶ったロイ・バッティと対比して解釈する必要がありますよね。
映画「ブレードランナー:最終版」より引用
前作では、ロイ・バッティは人間ないし人間に近い存在として死んでいったと私は解釈しています。
というのも映画「ブレードランナー」の主題は「人間とレプリカントの境界」を曖昧にしていく方向性だったからです。
その帰結として、人間なのかレプリカントなのかはあいまいだが、人間同様「生命」を持ちうる存在としてロイは死んでいったのです。
あのシーンは雨でした。
一方で、本作のKの死にざまですよね。
このシーンは雪でした。
つまりロイ・バッティが死んだ時とは違った意味を内包しているという読み方をするのがセオリーでしょう。
個人的には、Kはあくまでもレプリカントとして死んだという見方をしています。
その思想的根拠に関しましては、次の章で解説を加えるので、ここでは省略しますが、Kにとってはあの木馬というものは自分自身が人間足り得る可能性の象徴だったわけですよ。
そしてその自分が人間になりうる可能性を秘めていた木馬をデッカードへと渡しました。
その時点で、Kは人間足りうる可能性は絶たれたのです。
つまり、人間としてではなく「生命」という大きな範疇の中に含まれるレプリカントという存在として死ぬことを選んだのだと思います。
私は本作における「雨と雪」の使い分けを上記のように解釈しました。
終章:モダニズムから新実存主義へ
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
さて、いよいよ長くなった記事も終盤に差し掛かっています。
この章で述べていくことが、本作「ブレードランナー2049」最大の意義になっていると私は考えています。
前日譚を描いた短編3本の解説でも説明したように、「ブレードランナー」においてはある種の思想史が存在しています。
人間とは一線を画する存在として、モダニズム的存在として生み出されたレプリカント。
その境界線を曖昧にするというポストモダニズム的手法で映画「ブレードランナー」が描かれました。
そして「ブレードランナー2022:ブラックアウト」がその方向性を一旦否定し、時計の針を逆方向へと転回させました。
その後の「ブレードランナー2036:ネクサスドーン」ではモダニズムへの回帰が、「ブレードランナー2048:ノーウェアトゥラン」ではポストモダニズムの産物の淘汰が描かれました。
では、「ブレードランナー2049」で描かれた思想がどこにたどり着いたのかと言いますと、現在ポストモダニズムに次ぐ大陸思想として君臨している新実在論だと思うのです。
新実在論をマルクス・ガブリエルが他の思想との比較から端的に示した例があるのでご紹介しておきます。
「新実在論」を理解するために、ガブリエルが提示した具体的な例を取り上げてみましょう。彼は次のようなシナリオを語っています。
アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ているのに対して、私たち(あなたと私)はナポリにいて、ベスビオス山を見ている。
まず古い実在論(これをガブリエルは形而上学とも呼びます)によれば、唯一存在するのはベスビオス山だけです。これが、ある時はソレントから、別のときはナポリから、偶然に見られるわけです。
「構築主義」の立場では、三つの対象、つまり「アストリッドにとってのベスビオス山」「あなたのベスビオス山」「私のベスビオス山」だけがあります。それを超えて、対象や物それ自体があるわけではありません。
それに対して、ガブリエルが提唱する「新実在論」は、少なくとも、四つの対象が存在すると考えます。
- (1)ベスビオス山
- (2)ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの観点)
- (3)ナポリから見られたベスビオス山(あなたの観点)
- (4)ナポリから見られたベスビオス山(私の観点)
彼は、これらすべてが存在すると考えるだけでなく、さらには「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実である」と述べています。
ガブリエルによると、一方の古い実在論は「見る人のいない世界」だけを、他方の構築主義は「見る人の世界」だけを、それぞれ現実と見なしています。
それに対して、ガブリエルは次のように述べて、自らの「新実在論」を正当化しています。
「世界は、見る人のいない世界だけでもなければ、見る人の世界だけでもない。これが新実在論である」
こうして、ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考えるのです。
その点では、「実在論」の一般的なイメージとは、いささか離れていると言えます。
さて、ここからマルクス・ガブリエルの新実在論を掘り下げていくのですが、彼が最初に行ったのが、中心命題として「世界は存在しない」という主張を掲げることでした。
簡単に説明しますと、「世界」という概念は「存在するすべてのものを含む領域」として考えられていたわけです。
つまり世界そのものが存在することを証明するためには、世界の中に世界があるという矛盾をはらんだ状態を考慮しなければならなくなります。
よって「世界は存在しない」というのが彼の中心的な命題なのです。
また、このことから彼は「世界」を「意義領野」と定義づけています。
一方で、先ほどの例でも示した通りで、マルクス・ガブリエルの新実在論はモダニズムないし形而上学的存在論とポストモダニズムないし構造主義的存在論の両方を包括しているんですよね。
つまり「世界」の存在は認められないが、世界に内在する全てのもの、つまり「世界以外のもの」は実存が認められるという考え方を示したということになります。
では、「ブレードランナー」の方へと話を戻しましょう。
本作の新実在論としての中心命題は、一貫して「生命は存在するのか?」または「レプリカントに生命は内在するのか?」と言うところにあったと思います。
映画「ブレードランナー」では、形而上学的かつモダニズム的な考え方からスタートしましたよね。
つまり「生命は存在する」また「レプリカントに生命は無い」という絶対的価値観があったわけです。
そして物語の過程で、ポストモダニズム的かつ構造主義的視点からその絶対命題を突き崩していきました。
「生命は存在する」また「レプリカントに生命は無い」という主張は人間の意識による認識に委ねられたんですね。
そして「ブレードランナー2049」で新実在論へと思想の変容がなされます。
先ほども説明したようにこの主題では「生命」というものがまさしく意義領野になります。
そのため「生命」そのものが存在するのかどうか?という問いに対しては「NO」を突きつけることになります。
一方で、そこに内在するものは全て存在が保証されることになるわけです。
つまり、「生命」という意義領野の中では、人間も動物もレプリカントもそして「奇跡」の娘も実存を保証され得るということになります。
さらに言うなれば、AIのジョイも本作では、ここに実存を持ちうる存在として描かれました。
このように思想を一つ前の段階へと進めたことで、「ブレードランナー」の世界観は大きく拡張したのです。
「ブレードランナー2049」は「人間とアンドロイドの境界」をむしろ肯定したように思います。ですが前作「ブレードランナー」の内容を否定したわけでもありません。世界観を拡張することでその全てを包み込み、全てを正当なものとして実存へと導いたのです。
こう考えると「ブレードランナー2049」という作品はもうとんでもない傑作なんですよね。
前作とは違う方向性に話が進んでいるように見えて、しっかりとそれをも内包したエンディングへと帰結させているのです。
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
先ほどの章で、ラストシーンでKがレプリカントとして死んだという解釈を述べましたが、これはこの思想に裏付けられるものだと思っております。
Kはレプリカントとして死にはしましたが、紛れもなく「生命」の実存を保証された存在として死んでいきました。
一方で、デッカードとレイチェルの「奇跡」が示したのは、レプリカントにも「生命」が宿っているということでした。
「ブレードランナー2049」はレプリカントは人間にはなれないというところに物語を帰結させました。
一方で、人間もレプリカントも「生命」という同じ意義領野に属するものという実存性は保証されたのです。
ちょっと言葉で説明しても伝えきれない気もするので、図を書いてみました。参考にどうぞ。
結局何が言いたかったのかと言いますと、レプリカントは人間という存在から解放されたんですよね。
彼らは、人間の複製品や奴隷という立場から解き放たれて、独自の生命体としての実存を勝ち取ったのです。
レプリカントは人間らしく生きるのではなく、レプリカントらしく生き、そして死ぬのです。それは「生命体」として当然の権利行使ですからね。
そしてその象徴として描かれたのが、紛れもないKの最期なのです。
「ブレードランナー2049」に続編はあるのか?
©2017 Sony Pictures Digital Productions Inc. 映画「ブレードランナー2049」予告編より引用
これは正直答えるのが難しい問いです。
ウォレスが死んだわけではないこととレプリカントたちに革命の動きがあることを鑑みれば、これを元手に続編を作ることは可能かもしれません。
また、こういった回収できていない要素があるからこそ、続編が作られないとすっきりしないという方もいらっしゃると思います。
ただ私個人の意見としましては、続編は無くても問題ないと思っています。
というのも、本作「ブレードランナー2049」において、ウォレスを打倒するということは至上命題では無かったからです。
「ブレードランナー」という作品は「生命の物語」です。
「生命」をいかに定義づけるか?「生命」の領域をいかに設定するのか?ここが肝要なんですよね。
今回の「ブレードランナー2049」は前作と同じ出発点からスタートして、同じアプローチを試みたんですが、違う着地点に帰結しました。
つまり前作とは違う「生命」の定義を、領域を1つの「答え」として提示できているわけです。
さらに、先ほどの現代思想論のパートでもお話ししたように、ウォレスはモダニズム的存在だったんですね。
そして「ブレードランナー2049」はそのラストシーンで次なる思想の段階に足を踏み入れました。
結果的に、限界と矛盾をはらんだ過去の思想は淘汰されていきます。
「奇跡」の存在が明らかになれば、モダニズムを体現したウォレスも、ポストモダニズムを体現した旧型レプリカント同様、淘汰されゆく運命なんですよね。
もはや、明確に描写せずともあのラストを描けている時点で、ウォレスの運命は決まったんですよ。
だからこそ、彼を打倒するという明確な描写はもはや必要なかったのだと私は考えています。
ただ、描かなかった以上そこで続編を作ることは可能だと思いますが、個人的にはもうここで完結してほしいという思いが強いですね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ブレードランナー2049』についてお話してきました。
前作の「ブレードランナー」でもデッカードがエレベーターに乗り込み、新たな思想世界へと旅立つところで幕切れました。
今作「ブレードランナー2049」でもデッカードがステリン研究所へと入っていき、自分の産んだ「奇跡」たるアナ・ステリン博士に対面するところで幕切れます。
「ブレードランナー」という作品にとって本編の終わりは物語の終わりではありません。
本編が終わった時点からまた新たな物語が進行していくであろうことを予見させて、幕切れを迎えるのです。
ドゥニ・ヴィルヌーヴを初めとする本作のスタッフ陣が作り上げたのは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や前作「ブレードランナー」の内容を継承しつつも、思想世界を大幅に拡張し、その全てを真なるものとして内包させたというとんでもない続編だったんですね。
映画「ブレードランナー2049」にただただ拍手を贈るのみです。
最高の続編をありがとうございました。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
素晴らしい考察ありがとうございます。
h0sh1n0さんコメントありがとうございます!
そう言っていただけると、とても嬉しいです!長文読んでいただいてありがとうございます!
ウォレス社の追っ手が放射線の残るラスベガスにデッカードを誘拐しに来た際、ラヴを除くメンバーはマスクを着用していました。
デッカードが放射線対策なしにラスベガスに住んでいたことについてはどのようにお考えですか?
九十九さんコメントありがとうございます!
Kが放射線量測った時に微量って表示されてませんでしたっけ?デッカードはブラックアウトの時からずっとあの場所に潜伏していたわけではなくて、汚染の度合いが下がってきた頃にあの場所に移動してきて身を隠したのかなあ?と考えておりました。
ウォレス社の追っ手は万が一に備えて…とかだったんですかね?
こんな感じでちょっとふわふわしております。申し訳ないです。
『高い城の男』の「易経」は実際に存在する古代中国の書物ですね。解釈は様々あるそうですが。
読み応えのあるすばらしい考察、慧眼です。デッカードがレプリカントなのかどうか、この監督さんはそんなことはどうでもいいことなんだと言わんばかりに投げ捨てて見事な「生命」の物語を描いたと思います。
Kに違法とされる他人の記憶があったのは何故なんでしょう。
ウォレスがお腹を切ったレプリカントは誰ですか?
大伴さんコメントありがとうございます。
ご指摘の点修正してます。
「イナゴ身重く横たわる」と混同しておりました。
まるこさんコメントありがとうございます。まさに新たな生命の物語でしたね!!
質問です!さんコメントありがとうございます。特に誰とかは無いと思いますよ。単に新しく産まれたレプリカントということではないでしょうか?
満足!さんコメントありがとうございます。難しいですね。明確な答えは出せないですが…。レプリカントの記憶を作っていたのが、あの博士だったわけですから、博士が自分自身の記憶を「作り物」としてKに移植するのは十分可能だったようには思いました。
kの目玉に番号ないのは何故?2036のレプリカントとは別物?
いやー、難しかったー
残念ながら私の知能ではナガさんの考察を全部理解出来なかったです
が、映画はとても面白そうな感じがしたので
観たくなりました
とても興味深く読ませていただきました。
その中で一つ、解釈が異なるのではないかと思われる箇所がありましたので
質問させてください。
≫レイチェルと娘が木の下で立っているところを収めたあの写真が、
≫聖母画のように感じられるのもそのためでしょう。
(改行位置を調整させてもらいました)
枯れ木の下に埋められていた骨(レイチェルの遺骨)の検屍では、「分娩の結果死亡」と判断されています。また、娘を抱いた写真は「解放軍」のリーダー役である女性型ネクサスであるという描写もありました。つまり、レイチェルは「娘の誕生」と引き換えに死亡している。この点も何か隠喩を含んでいるように感じました。
映画全体の解釈に大きな変化は与えないかもしれませんが、宗教的な観点に基づく死生観に紐付いているようにも思えたりします。この点はどのようにお考えになりますでしょうか。
素晴らしい考察ですね。
気がつかなかった視点から分析されていて面白いです。
映画館では大停電は旧約聖書の大洪水のような存在だと定義して観ていました。
短編を拝見して、大停電から911テロを連想しました。
レプリカントはISやロヒンギャの比喩として、巨大なウォレス社はポピュリズムの台頭と解釈して、昨今の世界情勢と対比しつつ考察を楽しませていただきました。
素晴らしい考察に感銘致しました!これまで読んだどの考察や評論よりも素晴らしく、知的興奮を覚えました。ありがとうございました!
強引かもしれませんが……
デッカードがレイチェルと同じネクサス6型の新型(ネクサス7型?)という可能性はないのでしょうか?
目玉おやじさんコメントありがとうございます。
2036のレプリカントと同モデルだとは思いますが、2036のは試作段階だったので、仕様が変わったのかもしれませんね。
鈴木さんコメントありがとうございます。
ちょっと小難しく書いてしまったので、自分でも反省しています。
これくらい膨大な量の文章でも語りきれない傑作ということが伝わっていれば幸いです(^ ^)
アグリさんコメントありがとうございます。
確かに言われてみれば、子供を抱えてるのは、レイチェルなはずがないですね…。ちょっと考えてみますね(°_°)
みなみさんコメントありがとうございます。
確かに旧約聖書の大洪水に近いものも感じさせられますね。
ロヒンギャやIS、右派ポピュリストの台頭といった社会情勢も絡んでそうですね。参考になりました!
Mさんコメントありがとうございます。
そう言っていただけると、励みになります!!(^ ^)
Officer Dさんコメントありがとうございます。
レイチェルは劇場公開版だと寿命設定が無いことになってますが、ファイナルカット等になると、ラストのナレーションが無くなってるので、彼女の寿命設定はやっぱり4年なのかなあ?とは思いました。
そう考えるとデッカードが同時期に作られたレプリカントというのは少し厳しい設定かなあ?とは思います。
ブレードランナー2049のパンフレットの中にある用語集に、レイチェルの項目がありましたので抜粋させてもらいます。
「女性レプリカント。2019年当時、最新のプロトタイプでネクサス6型とは異なり、寿命に制約がない。更に妊娠が可能で、レプリカントの繁殖の鍵を握る存在であった。(以下略)」
2049が劇場公開版とファイナルカット版どちらの続きなのかはわかりませんが、2049の世界でそうであったことを考えるとデッカードも同じ型のレプリカントであって、レプリカント同士だったから奇跡が起きたということの方がレジスタンスにとっての奇跡という表現がぴったりだし、人間との奇跡よりも納得いくんです。
@Officer Dさん
コメントありがとうございます。
パンフレット確認しました。
結局のところ、私はディックの小説を一番に読んだので、そのイメージを大切にしたいと思ってしまうんですよ。レプリカントという人間に近似の存在がいて、それでも人間が人間たるものとは何か?という深いテーマを問いかけているように思います。
そもそもオリジナル映画版は原作に比較的忠実でした。ただリドリースコットの意志で、デッカードがレプリカントではないか?というファイナルカット版が作られています。私はこのリドリースコットの解釈が好きではないです。
そして2049は彼の作ったファイナルカットに合わせて作ったのだと思います。そうであれば、仰るようにデッカードがレプリカントであるという設定は辻褄が合います。
ただ電気羊から続くデッカードとレプリカントの物語という視点で見た時に、人間とレプリカントの区別を曖昧にし、そうする過程で人間とは何かを問うてきた作品ですから、そうであれば、私はデッカードは人間、レイチェルがレプリカントと区別されていた方が本作のテーマに合致すると考えました。
その方がラストシーンでレプリカントとして死にゆくKも際立ちますし。
結局のところデッカードが人間かレプリカントかという区別はつかないと思いました。電気羊、オリジナル版にフォーカスするならば、彼は人間であるべきですし、リドリースコットの解釈に合わせるならば、彼はレプリカントです。