アイキャッチ画像:(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、ついに公開されました実写映画「氷菓」について語っていきたいと思います.
この「氷菓」という原作に関しては、まだ「古典部シリーズ」としてシリーズ化される前に読んだことがあって、今回実写を見るに当たって改めて読み直してみた次第です。
また京都アニメーションが製作したアニメ版が有名で、評価も高いですが、個人的にはあまり好みではありません。
これはやっぱりアニメーションというメディアの長所であり、短所なんでしょうかね?原作「氷菓」にあった独特の灰色感が消えて、きらきらした爽やか青春ミステリー的な色が濃くなりました。
そんな中で、今回実写映画版にすごく期待をして、初日初回で見てきました。
素晴らしかったと思います。小説「氷菓」の映画版として100点をあげても良いと個人的には感じています。
さてその理由についてここからは詳しく解説していきましょう。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
実写映画「氷菓」
あらすじ・概要
人気作家・米澤穂信による青春学園ミステリーで、アニメ化もされた「古典部シリーズ」の第1作を、「四月は君の嘘」の山崎賢人と「L エル」の広瀬アリス主演で実写映画化。
「やらなくてもいいことなら、やらない」を信条とする折木奉太郎は、入学したばかりの神山高校でも平穏な日々を望んでいたが、姉の命令で廃部寸前の古典部に入るハメに。
ある事情から古典部に入部してきた美少女・千反田えると出会った奉太郎は、好奇心のかたまりのような彼女の行動に巻き込まれ、学園内で起こる不思議な出来事を持ち前の推理力で次々と解き明かしていく。
そんなある日、えるは奉太郎に「10年前に失踪した伯父が残した言葉を思い出させてほしい」という奇妙な依頼をする。
「バイロケーション」の安里麻里監督がメガホンをとる。
(映画comより引用)
予告編
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実写映画「氷菓」感想・解説
原作との違いについて
まず最初に申し上げておきたいのは、この映画が公開される前に飛び交っていたさまざまな作品やキャストに対する疑問の声についてです。
特に多く見られたのが、アニメ版「氷菓」と比較して、実写版のイメージが違うだの、改悪確実だのというネガティブな意見です。
しかも、私個人の意見としましては、アニメ版の方が原作のイメージに全然合ってません。
こんなことを言うと反発を受けることも承知で言いますが、「千反田える」というキャラクターに関して言えば、原作のイメージに合うのはアニメ版より映画版の広瀬アリス演じる「える」でした。
他にも公開前からさまざまな批判が飛び交っていましたが、この映画の出来であれば、個人的には文句無しです。それほどにこの実写「氷菓」は素晴らしい。
前置きはこの辺りにして、実写版と原作でどこが違っているのか?という点について、いくつか解説を加えてみようと思います。
図書室での留守番役
(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
「神山高校50年の歩み」という本を高校の図書室で毎週金曜日に異なる女子生徒が貸りている謎を解くというワンシーンが映画の中盤にありましたよね。
あのシーンで映画版では、折木自身が図書室当番の代役を務めました。距離のある美術室まで移動するのが面倒ということですね。一方の原作では、代役を務めたのは里志なんです。
些細な違いはありますが、映画版ではこの変更によって、折木の「省エネ気質」を強調することに成功していたと思います。
糸魚川先生の聴力
(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
映画版における糸魚川先生は、原作以上に重要なキャラクターになっています。そして彼女には右耳の聴力が無いという新設定が付与されています。
このことにより、図書室でのシーンでは、原作には無い糸魚川先生のシーンがありました。
それが右側からの呼びかけに反応せず、後のシーンで、左側からの奉太郎の呼び掛けにはすぐに反応していたというこの2つのシーンです。
またこのシーンが、六月闘争で火事に巻き込まれた少女が糸魚川先生であると奉太郎が気がつくヒントにもなっています。
壁新聞部の遠垣先輩
アニメ『氷菓』より引用
映画版では、「氷菓」のバックナンバーは古典部の部室から発見されます。しかし、原作では古典部の部室は昔と位置が変わっていて、結局生物準備室から発見されるんですね。
その一連のシーンがおそらく尺の問題でカットされたために、壁新聞部の部員として登場した遠垣先輩というキャラクターは完全にカットされてしまいましたね。
個人的には、結構憎めないキャラクターで、あの一連のシーンで見られる奉太郎の狡猾さも好きだったので、カットされてしまったのは寂しいですが、まあ本編を進めていく上で重要なシーンではないので、別段問題は無かったと思います。
語り部が微妙に異なっている
(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
物語の中盤から後半にかけてのワンシーンで、えるの家に集まって古典部メンバーが推理会議を行うシーンがありますよね。
ここで、原作では摩耶花が「団結と祝砲」、里志が壁新聞を資料として提示するんですね。
ただ映画版では、提示する資料が逆になっていて、摩耶花が壁新聞、里志が「団結と祝砲」になっています。
すごく些細な違いですが、キャラクター性を考えると映画版の方が自然に感じられたので、ここの変更はグッジョブだと思います。
また、終盤の糸魚川先生による関谷先輩についての過去のネタバラシのシーンですよね。
映画版では、奉太郎たちはまだ答えにたどり着けていない状態で糸魚川先生の講話でもって真相を知ります。
一方の映画版では、奉太郎は先生の話を聞く前に真相をある程度掴んでいて、糸魚川先生が話す前にその解釈を話して、ほとんどその通りであるというお墨付きをもらってるんです。
ここも微妙にではありますが、変更されたポイントです。
六月闘争と関谷先輩
(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
関谷先輩は原作の中では、一応学生運動組織の名目上のリーダーだったんですね。
一方で、映画版の関谷先輩は学生運動組織には参加していないという設定になっています。
また六月闘争に関しても、関谷先輩は火事になってしまった格技場の横で動けなくなっている糸魚川先生(当時高校生)を助けただけだったんですね。
そしてそれがきっかけで、学生運動組織に「優しい英雄」として祭り上げられてしまい、最終的には学校からの見せしめ退学処分を言い渡されたのでした。
この辺りは完全に映画オリジナルでしたね。
他にも原作から変更されたポイントはいくつかありましたが、今回はこの5つをピックアップしました。ただどれをとっても改悪されたと感じるところは1つも無くて、素晴らしかったと思います。
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監督の安里麻里について
これは実写版「氷菓」を紐解いていく上で、絶対に触れておかなければならないポイントです。
安里麻里と聞いてピンとくる方はあまりいないと思うんです。私も正直ピンときません。ただ彼女のフィルモグラフィを調べてみますと、面白いことが分かるんです。
安里麻里という映画監督はホラー映画畑を主戦場にしている映画監督なんです。
「リアル鬼ごっこ」シリーズであったり、「零」であったり、「バイロケーション」であったり、彼女がこれまで監督してきた作品の大半がホラー映画なんです。
それを踏まえて実写映画版「氷菓」を見てみますと、ホラー映画で培われた経験が絶妙に生かされていると思うんです。
例えば、奉太郎とえるの出会いのシーンはいかがでしょうか?原作の記述を引用しましょう。
そいつは教室の窓際にいて、こっちを見ていた、そこにいたのは女だった。
俺はこの時まで、楚々とか清楚とかいった語彙のイメージがどうもつかめないでいたが、その女を形容するには楚々とか清楚とか言えばすぐに形容できることが分かった。黒髪が背まで伸びていて、セーラー服が良く似合っていた。
背は女にしては高い方で、多分里志よりも高いだろうと思われた。女で高校生なのだから女子高生だが、くちびるの薄さや頼りない線の細さに、俺はむしろ女学生という古風な肩書を与えたいような気になる。
だがそれら全体の印象から離れて、瞳が大きく、それだけが清楚から離れて活発な印象を与えていた。
(角川文庫「氷菓」14ページより引用)
出会いのワンシーンで、えるという人間を表現するために原作者がこれだけの記述を残しているのです。つまりこのワンシーンはすごく重要だということです。
原作のこのシーンで注目すべき表現は「清楚」と「古風」そして「瞳の活発さ」だと感じました。
そこにえるという女子高校生の特徴が集約されています。
一方で、実写映画「氷菓」のこのワンシーンは全くテイストが違っていたんですよね。
ホラーとはいかないまでもオカルト的な雰囲気が立ち込めていました。よくよく考えると鍵がかかっている部屋の中に女子生徒が立っているのですから、この状況はホラー的ですよね。そのシチュエーションを活かして、2人の出逢いを少しオカルトチックに演出していたんです。
奉太郎という人物は徹底的に合理的ですよね。一方のえるという人物は徹底的に非合理的です。この対照関係は原作も同様です。
安里監督が撮影してきた、幽霊やオカルトといった類のものって科学的には証明できない非合理的な存在なんですね。つまり、奉太郎のような合理的な人間は到底信じられないような存在であるわけです。
そのため、窓際にたたずむえるに少しオカルトチックな雰囲気を纏わせることで、彼女が奉太郎とは全く対照的な人物であることを視覚的に明示しているんです。こういう自分の作風を原作が存在する映画でもきちんと出していける監督は素晴らしいと思います。
他にも幼少期のえるが叔父の関谷に「氷菓」を見せに行った回想シーンなんて完全にホラー映画のそれですよね。
原作の「愚者のエンドロール」を映画化するのであれば、この安里監督にぜひとも撮ってもらいたいですね。あのエピソードであれば、彼女の持ち味が100%出せると思います。
奉太郎と関谷、灰色と薔薇色
(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
ここからが今回の記事のメインになります。
先ほど少し触れたように、原作と映画版の終盤はかなり異なっている部分が多いのです。そのため終盤の原作改変が生み出した「氷菓」の新たな解釈やメッセージ性について考えてみたいと思います。
原作にこんな一節があるんです。
高校生活と言えば薔薇色だ。そして薔薇は、咲く場所を得てこそ薔薇色になるというもの。
俺は適した土壌じゃない。それだけのことだ。
(角川文庫「氷菓」88ページより引用)
高校という土壌は、人生を薔薇色に彩ることができる土地なんです。
ただし高校という土壌に馴染む事ができたらの話です。奉太郎はそこに馴染めずに、自分の灰色の高校生活を受け入れていたわけです。
ただ周りが薔薇色の青春を謳歌しようとする中で、そのスタンスではいささか居心地が悪かったんですね。
そして一連の物語から古典部の文集「氷菓」に隠された謎を知ることとなります。
高校という土壌において薔薇色が行き過ぎたことで、アクティブなスタイルが過剰になったことで、関谷先輩のような悲劇的な犠牲者が生まれてしまいました。
灰色から薔薇色に染まり切れなかった者の末路として、関谷先輩は描かれたわけです。
だからこそ、原作「氷菓」のラストに登場する奉太郎の姉への書簡には、「自分のスタイルがいいとは思わないが、相対的には悪くないだろうと今は感じている。」とあります。
奉太郎は、薔薇色の高校生活に対して懐疑的な視点を据えることで、自分の灰色の高校生活も悪くないと感じ始めたわけです。
薔薇色の高校生活と対比的に灰色の高校生活への肯定を加えたのが原作の「氷菓」です。
一方の映画版はどうでしょうか?
映画版では、関谷先輩は終始灰色の高校生活を送る者として描かれているんですよね。映画版の彼は、学生運動には全く関わっていません。それでいて六月闘争のあの事件をきっかけに英雄と祀り上げられて、最終的には生贄として退学させられました。
つまり映画版の関谷先輩というのは、高校では灰色の存在であり、最終的には退学という形で、その灰色さえも奪われてしまった原作以上に悲劇的な人物として描かれているんですよね。
薔薇色の高校生活どころか灰色の高校生活を遂げることすら許されなかったのです。
劇中のワンシーンで奉太郎と関谷先輩の叫びがリンクするシーンや2人がグラウンドで交錯するシーンがありました。
映画版の奉太郎と関谷先輩はすごく似た存在なんですよね。薔薇色の高校という土壌に馴染めず、その傍らで居心地悪そうに灰色の高校生活を送る者たちであるわけです。
(C)2017「氷菓」製作委員会 映画「氷菓」予告編より引用
そんな灰色の高校生活を送る存在は、いつか声も奪われて、無色の存在にされてしまうかもしれないのです。それが関谷先輩だったわけですから。
そして、映画版の終盤に登場する奉太郎から姉への書簡では、こう綴られました。
「灰色であることは案外悪くない。」と。
これは薔薇色の高校生活に疑念を呈する形で生まれた結論ではありません。薔薇色の高校生活、灰色の高校生活、どちらであっても真であるということです。高校という土壌は自由なのです。薔薇を咲かせても良いですし、灰色の花を咲かせたって良いのです。
ただ自分の色を持つことが大切だということです。関谷先輩は幼少期のえるに「強くなれ。」と言い残しましたよね。
あのセリフってまさにどんな色であっても自分の色を持て、ということだったと思うんです。
自分が自分の確固たる色を持っていなければ、灰色にも薔薇色にも染められてしまい、最終的には色を奪われて、叫ぶことすらも出来なくなってしまう。
だからこそ灰色の高校生活を自分の意志で選べる強さを持つことこそ重要なのだと、関谷先輩の悲劇から、奉太郎は感じていたのではないでしょうか。
青春はどんな色であっても良い。どんな色に染まる必要も無い。自分の色で花を咲かせれば良い。でも大切なのは、確固たる意志をもって自分の色を選択することであり、それを選べる強さだ。
映画版が示したのはまさに「氷菓」という作品の新しい解釈だったと思うんです。
薔薇色の高校生活も灰色の高校生活もそのどちらもを肯定したのが映画版「氷菓」なんだと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『氷菓』についてお話してきました。
個人的に、映画版ラストの奉太郎が叔父の悲劇に悲しむえるに発した、関谷先輩はベナレスにいるというセリフがすごく好きなんですよね。これは原作には無いセリフでした。
映画版では、原作以上に関谷先輩を悲劇的な存在として描いたので、そのせめてもの救いとしてこのセリフが取り入れられたのだと思いますが、実にセンスがあります。
彼は本当に死んでしまったかもしれない。でもどこかであの時奪われたものを取り戻しているはずである。そして天国に一番近い街、ベナレスにいるであろうという希望的観測を述べているんです。
原作には無かった関谷先輩へのささやかな手向けに少し涙がこぼれました。
原作が存在する映画を作る上で、原作を再現することだけが美徳ではありません。原作から多くを変更したって別に構わないのです。
ただ原作が持っている核の部分をきっちりと見抜いて、継承する必要があります。さらに、それができていることを前提として、映画独自の視点を示す事ができれば、尚良しです。
実写映画「氷菓」はまさにそれを実現している素晴らしい作品でした。間違いなく「評価」されるべき「氷菓」でしたね。
全く新しい「氷菓」像を提示した安里監督を初めとするスタッフ陣に拍手を贈ると共に、この記事を締めくくらせていただきます。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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初めて読ませていただきました
関谷が原作漫画アニメ共に「せきたに」読みだったのが、何故か映画では「せきや」読みなのはどう考えてますか?
鈴木さんコメントありがとうございます。
アニメ版はどうしてもキラキラ感が強くなってましたし、時代設定変えて矛盾引き起こしたりしてたのもあって好きになれなかったです。映画版オススメです!
梅さんコメントありがとうございます。
ああ!ボーッとしてて全然気がつきませんでした。でも字面的には「せきたに」より「せきや」の方がしっくりきますよね。
理由があるんですかね…。私、気になります!
あまり積極的に探していなかった、というとその通りなんですが、初めて実写版についてポジティブな感想を拝見しました。
私はアニメ→原作→実写という変遷だったのですが、この映画がアニメではなく原作の映画化というのは全く同意です。
ただそれだけに、それでもなお主役の2人のビジュアルにアニメを意識せざるを得なかったのが悔やまれると思いました。
ラスト周りに関して、関谷への手向けというのはとてもしっくりきました。
事件として過去を知り、悲劇的な結末に寄り添っていても、それは千反田のためというスタンスだったこれまでと違い
ついに関谷へ目が向けられた、彼の心に寄り添った感覚で
叫びのシーンでは そうだよなあ…辛いよなあ と涙がこぼれました。
最後のベナレスに関しても、全くその通りだと思います。私は そうきたか! と思ってむしろ感心してしまったんですが(笑)
茶帽子さん、コメントありがとうございます!!
そうなんですよね、原作やアニメとはまち違った解釈で「氷菓」を見ることができたという点で、実写版は必ずしも悪いものとは言えないんです!!
共感いただけて嬉しいです!