【ネタバレあり】『ザ サークル』感想・解説:あまりにも時代錯誤なSNS映画だ。

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね、映画「ザサークル」について語っていきたいと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

「ザサークル」

あらすじ・概要

エマ・ワトソン主演、トム・ハンクス共演によるSNSを題材にしたサスペンススリラー。

ユーザーのあらゆるデータを蓄積し、世界ナンバーワンのシェアを誇る超巨大SNS企業「サークル」。

憧れの「サークル」に採用された新入社員のメイは、あることがきっかけでカリスマ経営者のベイリーの目に留まり、新サービス「シーチェンジ」のモデルケースに大抜擢される。

「サークル」が開発した超小型カメラによって、自身の24時間を公開することとなったメイは、あっという間に1000万人を超えるフォロワーを集め、アイドル的な人気を博していくが……。

エマ・ワトソンが主人公メイ、トム・ハンクスがカリスマ経営者ベイリーを演じるほか、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のジョン・ボヤーガ、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のカレン・ギラン、「6才のボクが、大人になるまで。」のエラー・コルトレーンらが脇を固める。

映画comより引用)

予告編

ナガ
予告編は面白そうなんだけどなぁ・・・。




映画「ザサークル」感想・解説(ネタバレあり)

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(C)2017 IN Splitter, L.P. All Rights Reserved. 映画「ザサークル」予告編より引用

アウトオブデイトなSF映画

人間による管理社会の限界はすでに示されたのだ。人による人の管理において、透明性や公平性が存在しないことは介在しないことは自明のこととなったのだ。

人工知能、システムによる人間の管理を示した伊藤計劃の「ハーモニー」のような作品もあるが、スタンリーキューブリックの「2001年宇宙の旅」が公開された、あの時点ですでにその矛盾と脆弱性が予見されていた。

そのような状況の中で、「ザサークル」という作品が示した管理する立場にある者、組織を公共化した上で、人による管理社会を目指すという方向性はすでにアウトオブデイトなのである。

ジョージオーウェルが「1984年」で示した思想警察や監視社会の描かれ方は、本作に実に共通する部分が多い。しかし、あれはあの時代に、1949年という時代に描かれたからこそ、革新性であったり未来性を孕んでいたのだ。

9.11以後、アメリカの安全神話崩壊が管理社会ないし監視社会への移行のベクトルを示したが上手くいっているとは言えないし、人による人の管理はあまりにも脆弱である。

もしかしたら既に我々の知らないところで管理社会が構築されているのやもしれないが、それは一部の人が世界中の情報を一手に管理するという支配・被支配構造の確立でしかない。

「007スペクター」で描かれたことは、まさにそれなのだ。

「ザサークル」の原作は2013年に書かれたという。原作を読んでいないため、原作でどのような内容が描かれているかは知る由もない。

だが、映画「ザサークル」を見る限りでは、本作はジョージオーウェルが描かいた管理社会批判の焼き直しであり、その帰結として示した思想的解答もあまりにも陳腐であったと言わざるを得ないのが本音だ。

「1984年」にSNSの要素を加えて焼きなおしただけではないか?と疑うほどである。

アメリカ本国のRotten TomatoesやIMDbといった大手レビューサイトでも酷評されているが、それも頷けるクオリティであったと言わざるを得ない。唯一良かったと言えるのは、そのSNS描写であろう。

昨年話題になった邦画「何者」でもSNS描写に果敢にも挑戦していたが、大した工夫も見られず、作品にとって蛇足なものとすら感じさせた。

しかし本作は映画そのものをSNSの世界、SNSのフィルターを通した世界のように構築しているため、SNS描写がストンと腑に落ちる。この辺りの映像的な魅力はさすがハリウッド大作といったところであろうか。

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(C)2017 IN Splitter, L.P. All Rights Reserved. 映画「ザサークル」予告編より引用

作品のテーマ性や管理社会に対する批判としてはあまりにもアウトオブデイトで散らかっている印象は否めないが、近未来ディストピアを描いた映像作品としては非常に魅力があり、楽しめた。

それだけに本作の内容は惜しいが、その非はもしかしたら原作に存在するものかもしれないため、原作未読の私が映画の非として追求するのはいささか的外れなのかもしれない。

 

ナチズムとサークルのシミラリティ

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(C)2017 IN Splitter, L.P. All Rights Reserved. 映画「ザサークル」予告編より引用

本作「ザサークル」においては、人が進んでサークルによる管理社会を受け入れようというベクトルに物語が進行していく。そこに映し出される人々は熱狂し、盲従的にサークルの「プライバシー剥奪」に同意している。

この人々の熱狂と盲従は、第2次世界大戦期のドイツを席巻したナチス政権とその民衆の在り方に多くのシミラリティを見出す事ができる。

戦後のドイツでは、ナチスの功罪や自国の戦争犯罪を負の歴史として次の世代には継承しないでおこうといった風潮が見られた。

そのため大戦終結から15年が経過する頃には、もうナチズムによる恐ろしいホロコーストの歴史を知らない若い世代が大半となっていたのだ。そして1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判が、ドイツの人々の目を覚まさせたのだ。

ナチス政権に積極的に参加した、または傍観した、どんな形であれ自分たちはナチス政権を民主的に誕生させた国民であり、またはその子孫なのである。

だからこそあの戦争犯罪から目を背けてはいけない、ナチス政権を誕生させてしまったことを記憶から抹消してはいけないと気づいたのだ。

人という生物は、人に支配されたがる傾向がある。それはこれまでの人類の歴史を見ても、明らかである。支配されたがる一方で、不満・不平が溜まると支配者を攻め立てて、革命を起こし、また新しい支配・被支配体制を構築する。人間の歴史というものは、結局はその繰り返し、その「サークル」でしかないのだ。

ヒトラーないしナチス政権というのは、その典型的なシンボルなのだ。

人は決定力があって、明確な方向性を示してくれる指導者に半ば盲従的に追従するのだ。そしてその動きが大きくなり、社会を動かす一大ムーブメントへと変質していく。

その社会を包み込む「空気」こそがあの恐ろしいナチス政権の正体である。

確かにナチス政権は極めて民主的な手続きを経て誕生した政権だが、それは過程としての民主主義に過ぎず、真の民主主義とは言えない。

本作でもサークルがアメリカないし世界の国々の国政選挙等への投票を一括管理するなどというシステムが構築される可能性が示唆されたが、一つの営利企業が関与する時点で、そんなものは「真の民主主義」からはかけ離れている。

そして人々が管理や支配に身を委ねようとするのは、ある種の責任逃れなのだ。

何か不行き届きが起きても、それは自分たちのせいではなく、管理者・支配者のせいであると言い訳ができるから。本作においても終盤にメイの友人であるマーサーがサークルの招いた事件によって命を落とす。

しかし、人々はマーサーの死は誰のせいでもなく、管理体制の不完全さのせいであると責任転嫁している。どう考えても、サークルに熱狂し、そしてそのシステムを盲従的に支持した人々の責任であるにも関わらずだ。

映画「ザサークル」はそんな人間がこれまで引き起こしてきた支配と革命の「サークル」に対する批判をも孕んでいる。

とりわけナチス政権に対する批判は色濃く反映されている。

本作でもしばしば登場した「民主主義」という言葉は、決して国民全員が投票するというプロセス的なことを指しているのではないのである。国民一人一人が自分の意志でもって、自分の考えで投票する。さらにその1票に責任を負う。そのかけがえのない一票の質こそ追及されるべきものなのだ。

我々はナチスとサークルの熱狂における近似性に多くを学ぶのである。

思わぬところで進む情報開示

女性の方々には、あまり実感のない話だとは思うのだが、男性の私としては語らずにはいられない内容なので、ここで語らせてほしい。

近年、男性用トイレで大きな変化が起ころうとしている。ニュースなどを見ていると、学校のトイレでは、大便をすることがいじめの火種になるなどといった要因で、小便器が排除され、個室トイレへの一本化が進められようとしている。

しかし、その一方で公共の空間における男性用トイレでは、公共性や情報の明示化が進められているのである。注目したいのは、小便器である。

以前までの一般的な小便器と言うとこのような形状であった。小便器の上側には壁が存在し、男性の「聖域」は隠匿されていた。

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wikipediaより引用

しかし、近年その男性の「聖域」を隠匿し続けてきた「ベルリンの壁」が崩壊しつつあるのである。

これはゆゆしき事態であると私は考えている。最近の公共の場所に増えつつある小便器は以下のような形状なのである。

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http://www.toto.co.jp/products/public/urinal_auto_wash/index.htmより引用

これでは、今まで謎に包まれてきた他人の「聖域」における「聖水排出の儀」が丸見えなのだ。

他人のを見たくないのは、もちろんのことだが、自分のを見られるリスクと隣り合わせであることは言うまでも無い。自分の隣で「聖水」を排出する男性の視線が気になってしょうがないのだ。

右隣に立っているこの男は今もしかしたら、私の「聖域」を見ながら、自分の方がサイズ的に勝っているなどという優越感に浸っているのではないか?

左隣に立っているこの男は今もしかしたら、私の「聖水」排出のスピードの鈍さを見ながら、密かに嘲笑っているのではないだろうか?

そんなことを考えていると、落ち着いて用を足すこともできないのである。

なぜこのような構造の小便器が普及しつつあるのか?という点についてメーカー側の言い分を調べてみますと、上の壁が無くなったことで、より便器に近づいて「聖水排出の儀」を行えるようになった。

あとは、見た目のおしゃれ感、スマートさなどが挙げられている。また推測するに上の壁の裏側を掃除する手間が省けるという、清掃業者の視点から見た合理性も兼ね備えているのであろう。

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http://www.toto.co.jp/products/public/urinal_auto_wash/index.htmより引用

ナガ
しかし、そんな甘い言葉に惑わされてたまるものか。真の目的は、我々男性の「聖域」の情報の明示化にあるのだろう??(笑)

近年、政治においても経済においても、国際関係、教育においても明示化ないし情報開示が求められる傾向にある。それは数々の隠蔽事件が大きな不利益を産んできたからであり、人々の不信感を生んできたからである。透明化こそクリーンであるとはよく言ったものである。

だが、考えて見て欲しい。男性の「聖域」の可視化ないし透明化は果たしてクリーンなのだろうか?

確かに小便器を清潔に保てるという観点から見ればクリーンなのかもしれない。

しかし、他人の「聖域」を視界の端に捉えてしまうリスク、自分の「聖域」を他人に垣間見られるリスク、小便器に並んだ男性諸君の間に勃発するサイズ抗争のリスクを鑑みると、可視化や透明化がより一層我々の心を曇らせているのである。

透明化こそクリーンであるなんてことは完全な言説とは言えないのである。隠蔽にこそクリーンがある場合もあるのだ。

映画「ザサークル」はさんざん「OPENNESS」という聞こえの良い言葉を主張していたが、肝心のトイレには「OPENNESS」は適応されなかったではないか?

そんなに可視化や透明性を主張するのであれば、エマ・ワトソンのトイレシーンを見せてくださいお願いします。

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(C)2017 IN Splitter, L.P. All Rights Reserved. 映画「ザサークル」予告編より引用

私がこの余談の中で一番言いたかったことなのでもう一度繰り返しておきます。

エマ・ワトソンのトイレシーンを見せてくださいお願いします。

以上です。

(ちなみになぜ急にトイレ談義をしたかと言いますと、サークルのロゴがU字型便座にすごく似ていて、それで連想してしまったのである。)

ナガ
見れば見るほどに似ている…。


(C)2017 IN Splitter, L.P. All Rights Reserved. 映画「ザサークル」予告編より引用

しょうもない論考にお付き合いいただきましてありがとうございました。

また映画に全く関係のない話を長々と書いてしまい申し訳ありません…。

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ザサークル』についてお話してきました。

映像そのものはすごく魅力的だっただけに、内容の薄っぺらさと時代錯誤感が残念だったと思います。

すこし予告の段階で期待値をあげすぎたのもあったでしょうか?

SNS全盛期の現代を生きる若者としては、少しSNSの在り方を見直すという意味も込めて、見ておくと良い作品かも知れませんね。

あと、近年の男性トイレ小便器における「聖域」可視化問題についてはぜひ、男性諸君の意見をお聞きしたいです(笑)。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

 

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