アイキャッチ画像:(C)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですねアニメ映画『ペンギンハイウェイ』についてお話していこうと思います。
記事の中盤からはネタバレありの作品解説・考察が主体になりますので、ご注意ください。
前半はネタバレなしで作品の紹介や感想を書いていきます。
良かったら最後までお付き合いください。
『ペンギンハイウェイ』
あらすじ
小学4年生のアオヤマ君の住む街に、ある日突然、ペンギンの群れが出現するという怪事件が起こった。
アオヤマ君は、ペンギンの正体と彼らの目指す先に興味を持ち、友人と共に研究を始めた。
そんなある日、気になっていた顔なじみの歯科医院のお姉さんがペンギンを出現させる瞬間を目撃する。
しかし、お姉さん自身もペンギンを出せるのかは、分かっていなかった。
アオヤマ君は、ペンギンが現れる原因を解明しようとお姉さんと検証や探索を進めていく。
すると、彼は友人のハマモトさんから森の奥の草原に浮かぶ謎の球体〈海〉の存在を知らされる。
アオヤマ君は友人のウチダ君、同じクラスのハマモトさんとの3人で、その謎の球体〈海〉についての共同研究を始める。
研究を進めていく中で、彼はペンギンとお姉さんの奇妙な関連性に気づく。
作品情報
さて今回扱う作品『ペンギンハイウェイ』の原作を著したのは森見登美彦さんですね。
『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』といった作品の著者としても知られ、日本を代表する作家の1人ですね。
彼の作品がアニメ化されるのは、前述の2作品と『有頂天家族』と併せて、今作で4作目となります。
『四畳半神話大系』と『夜は短し歩けよ乙女』に関してはご存じ湯浅政明監督が、テレビアニメ『有頂天家族』シリーズは吉原正行監督が手掛けているのですが、今作『ペンギンハイウェイ』には石田祐康監督が抜擢されました。
石田監督は『フミコの告白』という自主製作アニメ作品で注目を集めました。大胆な構図設計とダイナミズムと疾走感あふれる人物のモーション表現に定評があり、『ペンギンハイウェイ』の瑞々しい世界観を表現するに当たって最適の人選だったのではないでしょうか。
脚本には上田誠さんが参加しています。上田さんは『夜は短し歩けよ乙女』でも湯浅監督とタッグを組み、同作の脚本を担当した方です。
森見ワールドのアニメ映画化に携わった方が脚本についたことで、作品の屋台骨が安定した印象ですね。
キャストとしては、オーディションで抜擢された北香那さんが主人公アオヤマを、そして謎めいたキャラクターであるお姉さんを蒼井優が演じています。
また作品の脇を釘宮理恵、潘めぐみ、能登麻美子といった実力派声優が固めています。
本作は主人公で小学4年生のアオヤマが暮らす街に突然ペンギンが現れるところから始まります。彼は友人と共にペンギンの謎を研究し始めます。
すると興味を持っていた歯科医院のお姉さんがペンギンを発生させることができるという秘密を知ってしまいます。お姉さんと、ペンギン、そして海。小さな少年が直面するひと夏の壮大な謎。一体その真相とは?
もっと作品情報を知りたい方はこちらから:映画com『ペンギンハイウェイ』
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『ペンギンハイウェイ』解説・考察(ネタバレあり)
湯浅監督や吉原監督には作れなかったであろう森見ワールドの映像化
先ほど作品の紹介のところでも触れましたが、今回は石田祐康監督という新進気鋭のアニメ監督が抜擢されました。
こちらの「フミコの告白」というショートアニメーションを見ていただけると、分かりやすいのですが、石田監督は前述の2人にはない、モーション重視のダイナミックなアニメーションを作ることができるアニメーターです。
湯浅監督なんかは彼自身が持っている独特の色みたいなものが強くて、その色が森見登美彦の世界観と非常に近しいというアドバンテージがあって、だからこそ『四畳半神話大系』なんかはもうとんでもない出来栄えでしたね。
『有頂天家族』で監督を務めた吉原監督ももう職人ですから、堅実に森見ワールドの映像化に向かいあったという印象です。独特の語り口と、テンポ感を丁寧に反映させていました。
一方で、石田監督の『ペンギンハイウェイ』はこれまでの森見アニメ作品と比べると、原作の臭いが一番抑えられた作品になっていると思いました。
『ペンギンハイウェイ』がそもそも森見さんの著書の中でも読みやすい部類に入るということも言えますが、それ以上に原作の小難しい部分をできるだけカットして、見やすい青春ファンタジーに仕上げてきた印象です。
そんな中でも石田監督らしい疾走感あふれる登場人物のモーションが作品に良いテンポを与えていました。全体的に作画は高クオリティでしたね。
また原作を完全に脱臭してしまったというわけではなくて、『ペンギンハイウェイ』という作品の肝となるアオヤマくんとお姉さんの独特のテンポ感の掛け合いをすごく忠実に映像化していたのは素晴らしかったです。
加えて、哲学的なパートはいくつか排除し、ファンタジー要素にフォーカスを絞ることで、子供でも楽しめる娯楽映画になっていたのは良かったですね。
森見登美彦の独特の世界観が大好きだという方には、少し物足りなさも残る内容にはなっているとは思いますが、それでも十分に見る価値のある作品だったと思います。
爽やかなマリンブルーの映像がまさに夏休みに最適な映画だと思いましたし、老若男女問わず楽しめる作品です。子供にはすごく王道の青春ファンタジーとして映るでしょうし、大人は少し哲学的に考えさせられるミステリアスな作品として受け取ることでしょう。
ぜひこの夏は劇場で『ペンギンハイウェイ』を楽しんでくださいね!!
『ペンギンハイウェイ』のアニメ映画と原作はどこが違うの?
さてここからネタバレを含む内容に少しずつ言及していきます。お気をつけくださいませ。
アニメ映画『ペンギンハイウェイ』を見た方はあまりの「おっぱい」推しに驚いたかもしれませんが、あれは普通に原作通りです(笑)。
森見さんの作品ってすごくしょうもないことを深く思索するみたいなところがあって、だからこそアオヤマくんはお姉さんのおっぱいについて生物学的、に時に哲学的に思索しているのです。
それはさておき、原作とアニメ映画ではどこが違うのかという点について気になっている方がいらっしゃると思いますので、簡単に解説していきたいと思います。
なおアニメ映画を見てから、原作を手に取る方もいると思いますので、あまり詳細なネタバレにならないように書いていこうと思います。
今回のアニメ映画は基本的には原作に忠実ですので、原作から一部カットされている部分を簡単にご紹介していく形になります。
お姉さんが植物を生成するシーン
映画の中でお姉さんはペンギン、コウモリ、ジャバウォックを生成していたと思いますが、実は原作では植物のようなものを生成している描写があるんですよ。
そして植物が生成され始めるのですが、しばらくすると枯れてしまってその果実からペンギンが生まれるんですね。
このワンシーンは本筋に関係ないと言えばないのですが、すごくビジュアル的に美しいであろうシーンなのでぜひアニメ映像で見て見たかったと思いましたね。
アオヤマくんが祖父母の家に行くシーン
実は原作には、夏休みになり、アオヤマくんが祖父母の家に遊びに行くシーンがあります。
このシーンはなくても問題ないのですが、ここで登場する「祖母の分類三原則」というものが、彼が父親から教わっていた研究の三原則と対比的になっていて、物語を展開していく1つのカギになっているんですね。
- よく使うものと、ときどき使うものを分けること。
- ぜったいになくしてはいけないものと、なくしてもかまわないものを分けること。
- 分けにくいものは決して分けないこと。
『ペンギンハイウェイ』のストーリーを把握している人であれば、この三原則がアオヤマくんが事の真相にたどり着くうえで重要な役割を果たしていることは察しがつくでしょう。
スズキくんの不思議体験
スズキくんがアオヤマくんやハマモトさんが観測所を設立していた「海」のある平原にやってきた経緯というのが、映画版ではハマモトさんに好意を寄せる彼が「いじわる」をしてやろうとやって来るというものになっていました。
一方で、原作では森の中で不思議な体験をした彼がその真相を知りたくてやって来るというものになっています。
映画でも「海」の母体が弾けて、小さな「海」を拡散させるシーンが見られたと思いますが、スズキくんは森の中でその小さな海の中の世界を垣間見ているんです。
ここで彼がどんな体験をしたのかについては映画版でも全く描かれていませんし、ぜひ原作を手に取って確かめてみてください。
『ペンギンハイウェイ』の世界観を表す重要なセリフ
最初にも書きましたが、アニメ映画版の『ペンギンハイウェイ』はかなりの部分で原作の難解な部分や哲学的な部分を削って、子供でも気軽に楽しめる夏休み映画らしい作品に仕上がっています。
そこで原作からのカットの憂き目にあったのが、アオヤマくんがこの『ペンギンハイウェイ』の世界観に関して述べた、思索的な「世界」と「死」に関する発言です。
「ぼくは気づいたんだ。もしかすると、ぼくらはだれも死なないんじゃないかなって。」
(森見登美彦『ペンギンハイウェイ』288ページより引用)
このアオヤマくんの発言に関する詳細が気になるという方は、ぜひ原作をチェックしてみてください。『ペンギンハイウェイ』について深く考えてみたいという方には重要な指標にも成りうる発言なのでおすすめでございます。
全体的に原作の難解な部分をアニメ映画版ではカットし、子供でも楽しみやすい内容に仕上げている印象です。ですので、深く考察をしてみたいという方は原作を併せて読むとよいでしょう。
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不思議の国から迷い込んだアリス
(C)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会
本作を読み解くうえで、重要になってくる作品は実は『不思議の国のアリス』なんですよ。
「チェス」と「ジャバウォック」というキーワードで気づいた方も多いでしょう。
「チェス」と「ジャバウォック」について
「チェス」という要素は『不思議の国のアリス』でも重要な要素でして、『ペンギンハイウェイ』でも重要なモチーフとして登場しています。
どう重要なのかというと、アオヤマくんとお姉さんの「チェスの決着がつかない」という事実が大切なんです。
『不思議の国のアリス』では、アリスが参加していたチェスの決着が物語の終幕へとつながっていくわけですが、実は『ペンギンハイウェイ』でも2人のチェスが決着しないことが物語の結末を先延ばしにしているという事情があります。
2人のチェスは決着がつく前にどちらか一方が「眠くなる」という状態に至ることで、決着が先延ばしにされているんです。
これはお姉さんが「海」を破壊し、世界の穴をふさぐことでアオヤマくんがいる世界に別れを告げることを躊躇っているようにも取れます。
加えて、アオヤマくん自身がお姉さんと別れる運命にあることに薄々気がついていきながらも、それを拒もうとしている無意識の心理の働きのようにも見えますね。
次に「ジャバウォック」ですが、これは『不思議の国のアリス』の中に登場する『ジャバウォックの詩』の中に登場する架空の生物です。しばしば混沌の体現者として解釈されますが、これはお姉さんの心の無意識の「抵抗」みたいなものを具現化した存在ですよね。
このように「チェス」と「ジャバウォック」というモチーフが登場することで、本作が『不思議の国のアリス』に何らかの関係があることは容易に想像できるでしょう。
不思議の国から迷い込んだアリスたるお姉さん
本作って個人的には『不思議の国のアリス』をひっくり返した世界観だと思っているんです。
つまりアオヤマくんが生きている我々が何気なく暮らしている「世界」がお姉さん視点から見ると「不思議の国」なんですよ。
お姉さんは「海」と名付けられた世界の穴から、アオヤマくんが暮らしている世界に迷い込んでいるわけです。
ただ『ペンギンハイウェイ』でもう1つ重要なのが、ウロボロスの円的な世界の円環構造なんです。そこで重要になってくるのが、先ほど原作の違いに言及した部分で紹介したアオヤマくんの「世界」と「死」に関する示唆的な発言なんです。
「ほかの人が死ぬということと、ぼくが死ぬということは、ぜんぜんちがう。それはもうぜったいにちがうんだ。ほかのひとが死ぬとき、ぼくはまだ生きていて、死ぬということを外から見ている。でもぼくが死ぬときはそうじゃない。ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない。世界はそこで終わる。」
(森見登美彦『ペンギンハイウェイ』288ページより引用)
アオヤマくんの「死」は存在していないという見解は、実は「海」の中の世界とアオヤマくんたちが生きている世界の表裏一体の構造を表現しているのです。
我々は「死」を知覚することはできず、「死」した瞬間に「死んだ後の世界」で生きる存在へとコンバートされるという考え方です。
「世界の果て折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる」
(森見登美彦『ペンギンハイウェイ』225ページより引用)
アオヤマくんの父親が述べているこの発言ですが、我々は「世界の果て」とは存在しておらず、見つけ出すこともできないノヴァーリスの青い花的な表象として捉えがちですが、実は我々の世界のすぐ内側には「世界の果て」のレイヤーが存在しているという意味を表しています。
そう考えると、自分がいま生きている世界と「世界の果て」は密接に繋がっていますし、対照的に、「世界の果て」は我々がいま生きている世界と密接に繋がっているという構造を指摘することができます。
『不思議の国のアリス』では、アリスの視点から一連の不思議な出来事は夢だったというオチに行きついているんですが、もう1つこれは赤の女王の見ていた夢だったのではないかという見解も語られています。
一方で『ペンギンハイウェイ』の結末というのは、あの町で2人が体験したひと夏の不思議な出来事はアオヤマくんにとっても、お姉さんにとっても夢などではなく、現実だったという意味を孕んでいます。
南極にのみ生息しているアデリーペンギンが住宅街で大量に目撃されるなんてことは、可笑しな事象ですし、あり得ないことでしょう。しかし、それは「海」という穴の向こうで暮らしている存在であったお姉さんが、アオヤマくんたちの暮らしている世界に存在していることと同じ意味なんです。
我々は南極大陸と聞くと、自分たちの世界の延長線上にあると容易に認知できますが、「異世界」と聞くと、それは我々の世界とは違うレイヤーに存在しているものと認識してしまいます。ただ『ペンギンハイウェイ』の世界では、森見登美彦ワールドの中では、そういったファンタスティックな「異世界」もまた見えていないだけで、南極大陸同様我々の世界の延長線上に確かに存在していると考えられているんです。
そういった世界観の広がりを『不思議の国のアリス』に絡めながら、10歳の男の子の視点で爽やかに描き切ったのがこの作品だったということではないでしょうか。
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なぜペンギンなのか?~ペンギンと人類~
ペンギンという動物は文学作品でも時折登場する生き物です。
例えば伊坂幸太郎の『アイネクライネナハトムジーク』は表紙にペンギンが使われ、冒頭の一説にもペンギンという動物が登場したことで話題になりました。この作品の冒頭の一節を引用してみましょう。
僕は街頭アンケートをしていた。誰も彼もが自分を避けていくように見える。群れるペンギンのようにたくさんいるにもかかわらず誰も彼もが素通りだ。
(伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』より引用)
この作品では、群衆のことをペンギンのようであると表現しているわけですね。ペンギンは単独で行動せず、常に群れで行動する生き物であります。
「最初のペンギン」という言葉がありますが、これはアメリカにおいて未知の物事に最初にチャレンジし、新しい世界を開拓した人のことを表します。
ペンギンが餌を求めて海に飛び込む際に、群れは海の中の安全性が確認できないために動くことができず、最初の1匹が飛び込むまで、崖の上で固まっているという習性が元になって作られた言葉なんですが、これはつまり人間とペンギンは近似の生き物であるということを仄めかしているということでもあります。
また有名なのはアンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』でしょう。
こちらはペンギンが実際に登場する文学作品で、憂鬱病にかかったペンギンと人間の交流が描かれます。主人公のヴィクトルの写し鏡のような存在として登場するこのペンギンが、非常に人間に共感的で、近似の存在として登場することがまた人間とペンギンの類似性を示唆しています。
そう考えると、ペンギンという生き物は、群れの中で他人とかかわりながら出なければ生きていけないという点でも、自らが「最初のペンギン」になることを躊躇うという習性を鑑みても、人間に例えることのできる生き物なんだと思います。
さて、『ペンギンハイウェイ』話を戻していきましょう。この作品におけるペンギンもまた人間のことを表しているようですよね。
彼らは基本的に群れを成して行動しますし、世界の穴たる「海」を塞ぐためにどう行動すべきかを把握していますが、「最初の1匹」つまりお姉さんが決断を下すまでは動くことができないんです。
人間はどんな危機がそこに迫っても、なかなか自分が行動を起こすことが来ませんし、群れを成してそこに迫る危機を「最初の1匹」が行動を起こすまで見守るのみです。
しかし、アオヤマくんは違います。小学生でありながら、常に勉学に励み、自らが何か新しいことを成そうと情熱を燃やしています。
そして物語の最後には、自らが「世界の果て」を発見し、そしてお姉さんと再会するという目標を設定しています。
その点で、本作は誰かが先を歩いているハイウェイを後からついていくのではなくて、自分が新しいハイウェイを先導する「最初のペンギン」になることが肝要だと我々に伝えようとしているようにも感じられます。
世界の果てに通じている道は、ペンギンハイウェイである。
(森見登美彦『ペンギンハイウェイ』381ページより引用)
『ペンギンハイウェイ』は本当におっぱい映画なのか?
最近話題になっている『ペンギンハイウェイ』が女性の性的搾取であるという問題ですが、確かに成人男性が女性の胸部に固執する映画だったらそういう指摘も的を得たかもしれません。
しかし本作の主人公はまだ10歳の少年なんですよね。そう考えてみると、彼にとって「おっぱい」という物体は物語の冒頭の時点では、強く性的なものとしては映っていなかったと思うんです。
アオヤマくんが劇中でお姉さんの「おっぱい」が自分の母親のものとは決定的に違う何かを秘めていることを指摘していました。
これは小学生ぐらいの子供にとってはまだお母さんという女性の存在が大きくて、そこから少しずつお母さん以外の女性を「性的に」意識するようになるという親離れのプロセスを孕んでいます。
つまりこの『ペンギンハイウェイ』という作品は、アオヤマくんがお母さんの「おっぱい」とお姉さんのそれがなぜ違うのか?どう違うのか?を解き明かすことで、「親離れ」と「性の芽生え」というイニシエーションを達成するという側面を孕んでいるわけですよ。
ぼくはなぜお姉さんの顔をじっと見ていると嬉しい感じがするのか。そして、ぼくが嬉しく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。
(森見登美彦『ペンギンハイウェイ』より引用)
つまりアオヤマくんは、まだお姉さんに対して自分が抱いている思いの正体を明確にできていないんですよ。そして彼が興味を持っているこの世界のたくさんの出来事と同様に、彼は自分が持っているお姉さんに対する思いの正体を「知りたい」と考えているわけです。
そう考えると、『ペンギンハイウェイ』という作品の終着点がアオヤマくんがお姉さんへの好意を意識して、いつか絶対に会いに行くんだと決意するところにあるのは、これまた至極当然とは思いませんか?
作品の終盤でようやく彼は自分の中にあったお姉さんへの思いに1つの答えを出したわけです。
子供は1つの物事を知るたびに少しずつ成長していきます。勉強に勉強を重ねても、それでも世界には知らないことだらけです。だからこそ人間は生涯、「学ぶ」ことを止めてはいけないんです。
少年が「おっぱい」というものに対する興味が、お姉さんへの好意からくるものであるということに気付けたという発見は何ら性的搾取などではなく、少年の成長であり、小さな一歩であると当ブログ管理人は声高に主張しておきたいのです。
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おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ペンギンハイウェイ』についてお話してきました。
アニメ映画版では、原作の難解な部分がかなり省略、脱臭され、見やすい夏休み娯楽映画に仕上がっていたと思います。そこに石田監督のダイナミックなキャラクターモーションが加わり、一層アニメーションとして勢いのあるものになりました。
湯浅監督や吉原監督と比べると、森見ワールドの再現に力を入れたというよりも、原作とは少し距離を置いて、自分の持てる技術を最大限生かすための映像作品の中に『ペンギンハイウェイ』を落とし込んだという印象が強いですね。
深く考えようと思えば、いくらでも考えられる作品ですし、そのためのヒントの多くは原作に眠っているので、そういう視点で見たいという方は原作を読んでみると良いですよ。
余談ですが、宇多田ヒカルによる主題歌『Good Night』って何というか素晴らしいセンスですよね。
「さては、君は眠いんだな?」
「眠いのです」
「歯磨けよ、少年」「ぐんない」
(森見登美彦『ペンギンハイウェイ』より引用)
こんなアオヤマくんとお姉さんのやり取りがあったのを覚えていますか?森見登美彦さんの登場人物の会話のリズム感というかライム感って本当に絶妙で、それだけでもう快感が生まれるんですよ。
そういう絶妙なテンポ感をアニメ版もきちんと再現できていましたし、その中でも一番印象的なやり取りだったこの会話を締めくくる「ぐんない」という言葉を主題歌の曲目にしてきたのが何ともオシャレだなと個人的には感じた次第です。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
ぐんない。