目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『インクレディブルファミリー』についてお話していこうと思います。
一旦ネタバレを含まないあらすじや感想を書きつつ、後半では作品の内容に踏み込みながら、ネタバレありで作品考察を書いていこうと思います。
良かったら最後までお付き合いください。
『インクレディブルファミリー』のあらすじ
ボブたちの家族は相変わらずヒーロー活動が禁止された世界で、ヒーロー活動を続けています。
アンダーマイナーという地中をドリルで掘って町を破壊するヴィランが現れた際にも、彼らはヒーローとして戦うのですが、この一件がきっかけで彼らの立場はさらに悪くなってしまいます。
一時的に逮捕はされたものの、釈放されたボブたちですが、保護プログラムで貸与されていたモーテルを2週間以内に明け渡すように命じられます。
まさに家族の危機!!
どうするインクレディブルファミリー!?
そんなボブとヘレンの下にウィンストンデヴァ―と名乗る男が現れます。
彼はヒーローが再び合法化されることを願っており、そのためにボブたちに協力を要請するのです。
そしてヒーロー合法化のためにの広告塔としてヘレンが抜擢され、彼女はイラスティガールとしての活動を再開することになります。
そこに立ちはだかる謎の敵スクリーンスレイヴァー。果たしてヘレンは、そしてファミリーは世界を守り抜く事ができるのか??
イントロだけを掻い摘んで話すとこんな感じですね。
そうなんですよ。実は今作『インクレディブルファミリー』は前作と物語の構造的にはほとんど同じですね。
冒頭の世界では、ヒーローが法律で禁じられ、彼らは社会から受け入れられていない状態です。そんな社会の中でヒーローとして、家族としてどう生きるのかという主題は変わっていません。
そして前作の前半パートでは、基本的にボブがヒーローとして活動する時間が長いのですが、今作『インクレディブルファミリー』の前半はほとんどがヘレンのヒーロー活動がメインになっています。
その間にボブが「父親」としての家事や育児に忙殺される描写には、前作から14年という年月が経過し、我々の世界でジェンダー観が大きく変化してきたことを感じることができますね。
そういうことです。ただ前作同様、後半では「ファミリー」として戦うシーンも目白押しで、アクション映画としても見応えがあります。
『インクレディブルファミリー』感想・考察(ネタバレあり)
スーパーヒーローの日常描写が巧すぎる
さて、本作『インクレディブルファミリー』の1つの大きな「売り」がヒーローの日常と言うところであります。
前作でも多少描かれていた部分ではあるんですが、今回はより彼らの日常にもフォーカスが当たっていて、そこが非常に面白いところです。
例えば、長女のヴァイオレットは思春期真っ盛りで、同級生のイケメンくんにゾッコン。
そんな彼から映画デートに誘われて、もう気分は最高潮!!
ヴァイオレットに立ちはだかるのは、ヒーロとしてのある種の宿命でした。
ヒーローとして活動することにも魅力を感じている一方で、普通の女の子として恋をしてみたいという思いもあります。
そんな彼女は「日常」とヒーローとしての「非日常」に悩むこととなります。
他にも長男のダッシェルは算数が苦手。いくら高速で行動できる能力があっても、分からないものは分かりません。
ヒーローも人並みに勉強に苦心しているんだなぁという親近感がわく描写でもありますね。
まあ勉強は誰にとっても悩ましいものです(笑)
そしてボブはと言いますと、ヘレンがイラスティガールとして活動することとなったために自宅で家事育児を担当することとなるのですが、もう家族は最初から問題だらけ。
なかなか寝付かないジャックジャック。
寝かしつけたと思ったのに、気がついたらリビングでテレビを見ているジャックジャック。ボブの睡眠不足の最大の原因です。
他にもボブはダッシェルのために徹夜で算数の勉強をして、彼に宿題を教えてあげます。
圧倒的問題力。
徹底的指導力。
さらにヴァイオレットは恋に悩み、部屋にこもり、毎日落ち込んだ様子です。そんな彼女の恋を応援しようといろいろと試みてはみますが空回りの連続。
スーパーヒーローなら何でもできる!!
そんなことを思う方も多いのではないかと思いますが、実はそうではなくて、スーパーヒーローであっても人並みに何事にも苦労しているんだよっていう人間味あふれる描写がすごく面白かったですね。
困難を乗り越えるために必要なのは、スーパーヒーローとしての力ではなくて、常に相手に寄り添って行動しようとすること。算数も恋もそうです。
自分が正しいと思うやり方を押し付けるのではなく、相手を思いやることで、少しずつ関係性は深まっていくんですよね。
それはスーパーパワーでは手に入れることが出来ない代物です。
ぜひぜひ、1人の人間として苦悩し、力に頼らずに乗り越えようとするスーパーヒーローたちの姿を劇場で見届けてあげてくださいね。
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ヒーローが飽和状態の昨今に
ここから作品のネタバレになるような内容に言及することがあります。
前作『ミスターインクレディブル』が公開されたのは、今から14年も前のことです。
公開されていたのは有名どころだとサムライミ監督の『スパイダーマン』あたりが同時期でしたかね。
ただ今のようにユニバース化したヒーロー映画なんてその当時は存在していませんでしたし、興行収入の上位をヒーロー映画するなんて状況は想像すらできませんでした。
前作『ミスターインクレディブル』はまだそれほどヒーロー映画が脚光を浴びていない時代に彗星のごとく現れて、以後多くのヒーロー映画が生まれるパイオニア的な存在として君臨したんですよ。
しかし、あれから14年たった今、全米興行収入ランキングの上位を見てみるとヒーロー映画だらけです。
そんなヒーロー映画を取り巻く状況が変わった中で、いかにしてこのシリーズは他のヒーロー映画とは一線を画した存在を維持するのかというのが1つ大きな見所だったんですね。
そして今回『インクレディブルファミリー』が描いたのは、そんなヒーロー映画が席巻する映画市場への2つの視点を備えた新キャラクターです。
ウィンストンはヒーローに対して好感を持っています。それも盲信的でかつ楽観的です。深く考えることなく、祖父の願いを受け継ごうとし、ヒーローがいれば、世界は救われるだろうという希望的な観測の下で行動しています。
そんな彼はビジネスマンであり、大衆が求めるものを提供することにかけては右に出るものがいないほどです。こういう設定を見ていきますと、このウィンストンという人物は今のディズニーのメインストリームを体現するかのような人物ですよね。
一方で、イブリンという人物は正反対です。彼女はヒーローが世に合法化されて解き放たれることに疑念を抱いています。加えて、ヒーローの脅威を世間に知らしめることで、合法化を阻止しようとする方向へ働きかけています。
現在のヒーロー映画ブームの先駆けとも言える『ミスターインクレディブル』の続編が、ヒーロー映画がの盛り上がりに対して、少し冷静な視点を示しているのが逆に興味深いですし、アメリカの大衆がヒーロー映画を求め、そして興行収入の上位に必然のようにランクインしていく現状に本作のブラッド・バード監督はポジティブな面と共に、ネガティブな面も感じ取っているのではないかと思いました。
スクリーンスレイバーのセリフもなかなか考えさせられるものでしたよね。
このセリフ深いですよね。これについては後ほどまた考えていくんですが、単純にブラッド・バード監督は、ヒーロー映画による映画市場の席巻が、またディズニーのヒーロー映画への傾倒が今後の映画業界に必ずしも良い影響を与えるとは思っていないんじゃないかと個人的には感じました。
ヒーロー映画が「映画」というものを弱くしてしまう。
ヒーロー映画への富の集中が「映画」というメディア全体にあまり良くない影響を及ぼすんじゃないかという懸念を持っているように思えます。
だからこそ『インクレディブルファミリー』という映画は、あえてすごく安直に「ヒーローの合法化」というゴールに辿り着かせているんですよ。
普通ならこの手の「ヒーローと犯罪者の表裏一体性」を扱う映画では、「なぜヒーローが必要なのか」といった問いに1つの回答を示す必要があります。
それを丁寧にやったのがMCUの『キャプテンアメリカ シビルウォー』ですね。ヒーローの在り方や正義の在り方について問い、そのテーマ性について深く掘り下げた素晴らしい映画でした。
一方で『インクレディブルファミリー』はこのテーマに対する帰結はすごく雑なんですよ。ただこの雑さがかえって重要だと思うんですよね。
そうなんです。この点が本作のすごく怖いところだと私は思っています。
イブリンはスクリーンスレイヴァ―の正体であり、ヒーローを合法化することに対して否定的な意見を持っていた人物でした。
また彼女の主張である「ヒーローは人を弱くする。人はヒーローが存在していると、助けてもらえると思って自分で努力しなくなる。」だって間違いではないですし、見方によっては正しいとすら言えます。
それでもテレビメディアを通じて届けられる情報では、ボブたちがヒーローであり、イブリンがヴィランであるとしか映らないんですよね。
これをヒーロー映画に置き換えて考えると、映画業界ではヒーロー映画への過剰な傾倒に対して異論や懸念があるのかもしれませんが、そういった声はかき消されてしまうという状況を想像させられます。
加えて、それを見ている我々もまた、多少の雑音など気にすることなく、ヒーロー映画ばかりがビジネス的に成功していく様を見つめています。この現代の状況を反映したのが、まさしく本作のラストですよね。
「ヒーロー」について深く掘り下げることもなく、鵜呑みに近い形で大衆はヒーローを受け入れるんですよ。
近年のヒーロー映画による映画市場の席巻が今後の映画業界にどんな波紋を及ぼしていくのかを予測することは難しいでしょう。
ブラッド・バード監督自身もいろいろな思いを持っていて、だからこそ今回の『インクレディブルファミリー』で問題提起したんじゃないでしょうか?
前作も同様で、私はこのシリーズは問題に回答を示すというよりも、とにかく問題を提起するクラッシャー的な意義が強い作品だと思っています。それはボブのセリフにも表れていることです。
そうそう。この保険を気にしないという発言は、本作がとにかく「破壊屋」的な性質を持っていることを明らかにしています。現代のヒーロー映画事情に斬りこむだけ斬りこんで、そこに対して答えを示そうとはしていないんですよ。
「答え」が出せないかも・・・なんて保険をかける前に、とりあえず問題を投げかけてしまえというクラッシャー精神が前作から今作へときちんと継承されているように感じたのは嬉しかったです。
前作から14年。ヒーロー映画を取り巻く事情も大きく変化しましたが、『インクレディブルファミリー』という作品は、前作に続いて、ヒーロー映画業界に大きなインパクトを与えたことでしょう。
スーパーヒーローは”作れます”!
今作『インクレディブルファミリー』を見ていて、私が一番強く感じた感情というのは「恐怖」なんですよね。
見終わった後にちょっと身震いしてしまいました。
何だか裏で〇ッキ―がほくそ笑んでいるような不気味さを感じてしまうこの映画。一体どこがそんなに恐ろしいのかと言いますと、本作のメディア論的な言及の仕方なんですよね。
まず「スクリーンスレイヴァー」って英語で綴ると「Screenslaver」ですよね。「slaver」って奴隷商人のことです。つまり「スクリーンスレイヴァー」というのは、映像を用いて、人を奴隷化する存在ですよということを表した名前になっているわけです。
このキャラクターって映像にプロパガンダ的要素を仕込んだり、催眠術的な細工を施すことで、大衆を特定の考え方に誘導したり、洗脳したりすることができるんですよというディズニーに隠しているんじゃなかろうかという闇の部分を表したキャラクターのようにも見えてくるんですよね。
それに加えて、『インクレディブルファミリー』の中で「ヒーローと犯罪者が表裏一体的に描かれた」点も実は重要になってきます。
なぜなら、この映画が我々に仄めかすように伝えているのは「ヒーローなんて簡単に作れますよ」という恐ろしいメッセージでもあるからです。メディアで大衆の印象操作をしてしまえば白を黒にすることも、黒を白にすることも容易いんだという「告白」のようですらあります。
メディアが必死でキャンペーンを展開すれば、ヒーローでさえも世間から憎まれる犯罪者に仕立て上げることが可能ですし、逆に犯罪者をヒーローに仕立て上げることも可能という、メディアの力の恐ろしさをまざまざと見せつけられているような気分です。
だからこそメディアが作り上げたヒーローを妄信的に信じることは危険で、それを信じてしまうとそれこそ人はどんどんと自分の頭で考えないようになり、「弱く」なっていきます。
メディアが提供してくれるものをスクリーンの前で「奴隷」のように享受するのではなくて、自分の足で動き、自分で見聞きしたものこそが真に信頼に値するものであるし、そこに辿り着こうとする意志を忘れてはいけないんだとこの作品に気づかされたように思います。
本作の結末の恐ろしさをもっと掘り下げてみる
今回の『インクレディブルファミリー』は極めて情報とメディアというポイントにフォーカスが当たっているわけですが、こういった作品が珍しいというわけではありません。
例えば、007シリーズの中でも『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』のヴィランであるカーヴァーは情報操作でもってイギリスと中国の戦争を演出しようとしました。新聞などのメディアを巧みに操るカーヴァーとボンドの情報戦は非常に見応えがありました。
この作品の結末が面白いのは、スパイであるボンドたちは情報を操るヴィランのカーヴァーの死をメディア操作でもって葬り去るんですよね。「クルーズ中に溺死。地元警察は自殺したと伝えている。」と圧力をかけて報道させ、真実を包み隠したんです。
またクローネンバーグ監督の『ヴィデオドローム』なんかはメディアの恐ろしさを描いた映画とも言えますよね。
この作品で印象的なのが、メディアがアメリカ人たちの「アメリカのための戦争」という考え方を育んだのだという視点ですよね。
メディアの力によって人はメディアが作り上げる非現実と現実の境界が曖昧になっていくという恐ろしさをクローネンバーグらしい癖の強い味付けに仕上げたのがこの作品です。
このようにマスメディアが作り出す、現実とは異なるレイヤーの世界が我々の現実を侵食している現状について危機感を感じている人は多いですし、その主題を映画作品に込める人だって少なくありません。しかし、そこには確実にジレンマがあるわけですよ。
そうなんです。
つまりどんなに映画が「メディアの悪」に言及したとしても、映画自体もまたメディアの範疇から逃れられないわけで、結局は効果的な主張を有しえないんです。
だからこそ『インクレディブルファミリー』ってあれだけスクリーンスレイヴァーの主張を最もらしく描いておきながら、ボブたちファミリーによって単純な勧善懲悪の構図で打倒させてしまうんですよね。
そしてメディアではヒーローに反対した者は犯罪者へとコンバートされ、ヒーローだけが讃えられるわけです。
スクリーンスレイヴァーの思想が単純に悪だと割り切れないものだからこそ、本作の結末は恐ろしいんですよ。メディアはヒーローを作り上げ、そして犯罪者を作り上げる。その裁量すらメディアは自由に操れてしまうのだという怖さがにじみ出ています。
『インクレディブルファミリー』の結末に安直すぎるという意見を抱いている人も、もちろん少なくないでしょう。
しかし、この映画はあの結末だったからこそ、スクリーンスレイヴァーを安直に懲悪したからこそ一層作品としての完成度を高めています。
メディアがメディア批判をすることへのジレンマと限界を逆手に取り、本作はヒーローたちに「ヒール」を演じさせたのです。『インクレディブルファミリー』はメディアの悪を批判しようとするのではなく、作品自らが「メディアの悪」を体現することで、世界に問題を投げかけているわけですよ。
その点で、この映画は革新的とも言えるでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
個人的には『ミスターインクレディブル』の続編としては満点に近い内容だったと思いました。
前作の構成を踏襲しつつも、新しいヒーロー映画へと確実に進化していて、それでいて近年のヒーロー映画の状況を鑑みた主題が問題提起が成されています。
またヒーロー映画でありながら、彼らが日常生活の中でヒーローの力の及ばないところで困難に直面し、それを乗り越えようとする姿を描いていたのが印象的で、すごく魅力的でもありました。
アクション描写も素晴らしくて、今年公開された実写のヒーロー映画たちと比べても全く遜色ないというか、その上を行くんじゃないかという視覚的快感に満ちた映像の連続でした。
この夏必見の映画であることは間違いないでしょう。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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また2018年の9月に効果となりました同じくディズニー映画である『プーと大人になった僕』が本当に素晴らしい作品でした。
原作の小ネタやクリストファーロビンの生涯に触れながら作品を徹底的に解説してみましたので、良かったら読んでみてください。