アイキャッチ画像:(C)ENBUゼミナール
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『カメラを止めるな!』についての感想を書いていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
あらすじ・概要
映画専門学校「ENBUゼミナール」のワークショップ「シネマプロジェクト」の第7弾として製作された作品で、前半と後半で大きく赴きが異なる異色の構成や緻密な脚本、30分以上に及ぶ長回しなど、さまざまな挑戦に満ちた野心作。
「37分ワンシーンワンカットのゾンビサバイバル映画」を撮った人々の姿を描く。監督はオムニバス映画「4/猫 ねこぶんのよん」などに参加してきた上田慎一郎。
とある自主映画の撮影隊が山奥の廃墟でゾンビ映画の撮影をしていたが、そこへ本物のゾンビが襲来。ディレクターの日暮は大喜びで撮影を続けるが、撮影隊の面々は次々とゾンビ化していき……。
2017年11月に「シネマプロジェクト」第7弾作品の「きみはなにも悪くないよ」とともに劇場で上映されて好評を博し、18年6月に単独で劇場公開。当初は都内2館の上映だったが口コミで評判が広まり、同年8月からアスミック・エースが共同配給につき全国で拡大公開。
(映画comより引用)
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『カメラを止めるな』感想・解説(ネタバレあり)
カメラと映画
私は信じない f八・六十分の一秒の 機械の正確さを その瞬間はもはや今ではないから
私は信じない きれいな表紙の育児日記の 丹念な文字の跡を そこでは君は生きていられない
私は惜しみなく 時を過ぎ去るにまかせ きみを生きるにまかせる
共に笑い共に争い共に生き きみを私の心と体に刻み付ける それがきみを記録するただ一つの方法だ
(『見えないアルバム』谷川俊太郎)
カメラという物体は無機質で、ボタンを1つ押せば、映像を記録し始める。しかし、それだけではカメラは単に現実を記録する以上の役割を担うことはできない。
映画をシネマトグラフという形で開発したフランスのリュミエール兄弟が映画メディアに見出した価値は「記録」であった。何気ない日常の風景を淡々と定点観測的に記録した彼らの映像作品に、人々は日常の追体験という楽しみ方を見出していくこととなる。
人々はカメラの中の「現実」にふと足を止めるようになるのだが、残酷なことに、「その瞬間はもはや今ではない」し、「そこでは君は生きていられない」のだ。そこにあるのは無機質な電子信号の集合体であり、それを「現実」と呼ぶことはできない。
しかし、映画というものは徐々にそこから発展していく。いつしか映画は「記録」という範疇にはとどまり得なくなり、芸術やエンターテインメントとして社会に受け入れられていくようになる。そう。カメラには人の血が通うようになるのだ。
カメラというものはそれ自体では無機質に淡々と映像を記録する機械でしかないが、人間が明確な意図をもってそれを用いることで、カメラはそれを扱う人間の視覚を拡張するメディアとして機能するようになるのだ。そうして記録される映像には、その人の熱意と信念と・・・その他諸処の心から湧き出る思いたちが込められている。
そうして映画は「記録」から「作品」へと進化していった。
しかし、映画とは「作品」であるが、誰の作品なのかということを端的に指摘することが非常に難しいのである。例えば、写真家が自らカメラを持ち、自らの意志であらゆる指示を出し、被写体を撮影していく場合、そのカメラは写真家の視覚と同等の機能を果たし、記録された映像の帰属は明白である。
映画であっても小規模撮影されたドキュメンタリー映画なんかを見てみると、カメラを回す監督の目的や意志が如実に反映され、その映像が誰のフィルターを通じて切り取られた世界なのかが浮き出てくる。
面白い例を2つほど挙げていこう。まず1つ目は『ソニータ』というアフガニスタン出身の少女に密着したドキュメンタリー映画である。
この作品の監督を務めたロクサラ・ガエム・マガミ監督は、作品の冒頭で「ドキュメンタリー映画において監督を初めとする映画製作側が、撮影対象となる人物の人生に影響を与えることがあってはならない」という訓示を語っている。
しかし、マガミ監督は作品の途中で金銭を支払うことによって、ソニータの人生を大きく変えてしまうことになる。この行為はおそらくドキュメンタリー映画において「タブー」とされているものだろう。
しかし、彼女が撮った映像を見ていると、それを到底断罪したくなどならない。なぜなら彼女が撮った映像は、ソニータという少女への愛に溢れていて、彼女の心情の揺れ動きが克明に反映されているからだ。
だからこそその映像はドキュメンタリー映画における「タブー」をも正当化するし、この映画は紛れもなくマガミ監督の「作品」と言うことができる。
もう1つ例を挙げるとすれば、エリザベス宮地がBiSHというパンクバンド(楽器をもたないパンクバンド)に密着し、撮影した『ALL YOU NEED is PUNK AND LOVE』というドキュメンタリー映画は非常に興味深い。
この作品の冒頭で、カメラを回す存在であるエリザベス宮地が被写体となるBiSHのメンバーの1人に本気で恋をしてしまうのである。すると、本来メンバー全員を平等に美しく収めるべきはずのカメラが、1人のメンバーだけにフォーカスするようになり、その魅力だけを120%に引き出すようになる。
私はこの映画はまさに「カメラが恋をすることを実証した」作品だと思っている。カメラは間違いなくそれを持つ人間の心情の変化を正確に反映するのであり、その恋心すらもはっきりと映し出してしまうのだ。
作品の後半で、エリザベス宮地がそのメンバーへの恋に破れると一転して、作品はBiSHというグループの正統派ドキュメンタリー映画へとシフトしていく。その過程でカメラは少しずつ恋心から解き放たれていき、全てのメンバーの魅力を引き出すようになる。
こういった映画作品においてはまだまだカメラが1人の人間の私的な領域に存在しており、記録された映像が誰の作品なのか、誰の視覚を拡張したものなのかが分かりやすい。
ただ、今日の世間一般で映画と呼ばれるものが作られるプロセスには数え切れないほどの人間が携わっており、監督がそれを代表する形をとっているとは言えど、その映像が誰の作品であると簡単に明言してしまうことはもはや難しくなってきている。
内田樹氏は自身の著書『映画の構造分析』の中でこう述べている。
映画は「監督=神」からのメッセージではない
映画は多次元的な空間であり
そこでは多様なエクリチュールが
睦み合い、またいがみ合っている(『映画の構造分析』内田樹より引用)
内田樹氏は同書の中で、映画というものは多くの人たちが集団的に作る作者のいないロランバルト的な「テクスト」(織物)であると指摘している。
つまり、どんな「テクスト」にするのかを監督や脚本家を初めとする作品の主要関係者が設計しておいたところで、アドリブ1つ、表情1つ、アクシデント1つでそれは簡単に崩れ去ってしまうということでもある。
全てを自分の思うがままにコントロールしておきたいと願う映画監督もいるだろうが、映画を製作する現場において、それはほとんど不可能に近いだろう。
だからこそヴィムヴェンダースのロードムービーのように、脚本を書かずに旅のルートだけを決めて撮影を開始し、カメラを回していく中で物語を作り上げていくという手法が映画メディアにおいては可能になる。映画という「テクスト」は極めて多様であり、多層的であり、多次元的なのだ。
ヴィムヴェンダースが『アメリカの友人』という作品で非常に実験的な手法を導入した。
この作品の中で、ヴェンダースは普段映画を製作側から見つめている映画監督を複数人、キャストとして起用したのである。これは非常に面白い試みで、映画監督という映画における「神」的な存在を、映画のパーツの中に落とし込んでしまうことでどんな化学反応を生むのかという実験ですらある。
もはや映画において「カメラ」もそれが撮る映像も特定の誰かに帰属するものとは言えないのかもしれない。
カメラを止めないということ
(C)ENBUゼミナール
ここからようやく映画『カメラを止めるな!』の話に移行していくこととしよう。
この作品において語らねばならないのが、ここまで長々と私がお話してきた「カメラ」というモチーフであろう。
この作品におけるカメラは3段構造になっているが、まず注目すべきなのは、冒頭に登場する隆之が演じる映画監督のカメラである。
劇中で隆之が私的に回しているように見えるそのカメラの在り方は、我々が普段映画を見ている時に考える「監督=神」という思考を具現化したようなものである。
1人でカメラを持ち、ひたすらに自分の主観と信念だけで映画に向き合おうとするその姿は我々が想像する神としての映画監督そのものだ。
しかし、そこからそんな映画の世界における「神」が着実に脱構築されていくのだからこの映画は面白い。我々が冒頭に見せられたゾンビ映画が如何に監督の意図から外れたものであったのかが明らかになるからである。
終盤で印象的なあの「ピラミッド」のカットはまさしくそんな「神=映画監督」という神話を完全に破壊してしまった瞬間と言って差し支えないだろう。
監督は映画においてカメラを回すための1つのパーツに過ぎないのであるし、カメラを回すためにはその映画に携わるありとあらゆる人の力が必要なのだ。監督だけでも、役者だけでも、カメラマンだけでも映画は撮れない。
無機質な記録装置であったカメラが、それを扱う人の視覚を代替するようになり、その映像は「作品」として血の通った有機物へと変化していったのであるが、映画の発展に伴って、カメラは再び人の手を離れてしまったのかもしれない。
映画に携わる多くの人たちの集合体理念が作り出す「見えざる手」によってカメラは動かされ、そして止まらないのである。しかし、それこそが映画を作る喜びであり、集団で1つのものを作り上げるということの醍醐味であるということを『カメラを止めるな!』という作品は教えてくれる。
アメリカのフォトグラファーであるアニー・リーボヴィッツはこんな言葉を残している。
撮るものがたとえつま先でも、とにかく記録したいの。そして人生を見つめたい。
映画というものがそれに携わる人間の「人生」を映し出すものであり、例えそれがどんな内容であっても、記録する価値は間違いなくあるのである。
『カメラを止めるな!』という作品は、たとえどんな理想があって、どんな映画が撮りたいという思いがあったとしてもそれを最後までやり遂げなければ意味はないし、逆に最後までやり遂げることが出来たなら、そこには間違いなく価値が付与されるという映画賛歌的な側面を持ち合わせている。
この映画を見ていてふと『何者』という朝井リョウの小説を思い出した。
「十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。これから目指すことをきれいな言葉でアピールするんじゃなくて、これまでやってきたことをみんなに見てもらいなよ。・・・(中略)・・・百店になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって」
(『何者』朝井リョウより引用)
過程やプロセスがどうとかではなくて、10点でも20点でも完成させて、世に送り出すことにこそ意味があるのであり、そうであれば世間でどんなに「駄作」というレッテルを貼られている映画にだってちゃんと価値があるのだと思えてくる。
そこにはそれを作り出した人間の「人生」が詰まっている。その数え切れないほど多くの「人生」が1つの映画を作るための「カメラ」を動かしているのだ。
そして『カメラを止めるな!』という作品は3つのレイヤーから構築されている映画であるが、ここにもう1つレイヤーが加わってくることとなる。それは映画を鑑賞する人が持つ「眼」という4つ目の「カメラ」である。
先ほどもご紹介した内田樹氏の『映画の構造分析』の中で「意味の亀裂」という言葉が登場する。それはいわゆる映画において「不可解」な部分のことである。
ネタバレになるので詳しくは触れないこととするが、『カメラを止めるな!』という作品がこんなにも面白いのは、映画における「意味の亀裂」を埋めていく構造になっているからに他ならないと思うのである。
冒頭のゾンビ映画において我々が頻繁に感じることとなる「意味の亀裂」に「橋」が架けられていく様というのは、我々が普段何気なく映画を見ている時に無意識のうちに行っている「想像」というプロセスの再現でもある。
最後にその世界を包括するような視点で映画を見ている我々が自分の「眼」というカメラを用いて、自分の中に映画を落とし込んでいく過程でまた『カメラを止めるな!』という作品は意味合いを新たにしていく。
皆さんがこの映画を見て、どう受け止めたかなんてことは私には知る由はない。おそらく私のカメラに映った『カメラを止めるな!』はあなたのそれとは全く違うものだからだ。
私は信じない f八・六十分の一秒の 機械の正確さを その瞬間はもはや今ではないから
(『見えないアルバム』谷川俊太郎より引用)
確かに映画の中に息づく彼らの物語は今ではないし、自分のものではない。しかしあなた自身の「カメラ」でそれを捉えた瞬間は「今」でしかないはずである。
私が映画『カメラを止めるな!』を見て、改めて感じさせられたのは、映画を見ている自分という存在が有する「カメラ」の存在であり、その「カメラ」が織り成す多層的な構造が映画体験を作り出すということである。
映画を見ることの意味を改めて考えさせてくれたこの作品に敬意を表したい思いである。
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スピンオフ『ハリウッド大作戦』感想・解説(ネタバレあり)
映画監督と映画
映画には、しばしば監督や脚本家自身の人生が投影される。
あらゆる映画監督が1度は自分の人生についての映画を撮ると言われます。
それは意識的に自分の人生について語ろうとすることも、はたまた無意識のうちに自分の人生を登場人物に重ねていることもあります。
今回のスピンオフである『ハリウッド大作戦』の主人公は日暮真央であり、彼女は自分の人生の岐路に立たされている。
映画の道を志す者であれば、必ず辿り着きたいと願うであろうハリウッドの舞台への道が恋人についていくことで実現できるところまできたのだ。
しかし、彼女は迷うこととなる。彼からは「こんなクオリティの揃わない現場で撮っていても仕方がない」と言われてしまう。
それでも、できることも予算もスタッフも何もかもが欠けた現場で、ドタバタと映画を撮り進めていくことに彼女は魅力を感じるようになるのだ。
そんな彼女自身の人生の選択が今回の『ONE CUT OF THE DEAD in Hollywood』に投影されているようには無意識的に投影される。
というよりも観客は投影されているように感じるのである。
今回のスピンオフはそんな映画監督と作品のコンテクストを描き出したように感じられる。
映画に自分の人生を投影する、はたまた映画を撮る中で自分の人生を考えていく。
それこそが映画監督という生き方なのだ。
彼女は本場のあの「HOLLYWOOD」が見られる場所で、映画クリエイターとして仕事ができるチャンスに巡り合えた。
それでも、彼女は「ここに残り」、紙と小麦粉を纏った人間が作り出す「偽物の」HOLLYWOODに魅力を感じる。
『カメラを止めるな』という作品は、映画を撮ることの苦悩と葛藤、そしてそれを超えて余りある楽しさや喜びを描いた作品であった。
そして今作のスピンオフはまさしく映画監督と映画の関係性ないし、映画監督の人生と映画の関係性を描いた。
映画監督とは、映画を撮り、そして映画に撮られる生き物なのかもしれない。(真魚演じる真央が演者として撮られるシーンがあったのが印象的だったが)
だからこそ彼らにとって「カメラは止まらない」のだ。
おわりに
いかがだったでしょうか。
余り前情報は入れてなかったとはいえ、「革新的な」映画であるという情報ばかりが流れてきていたので、そういう部分に期待していた自分がいたので、正直その期待は超えてこなかった印象です。
というかこの手法自体は別段新しいものではないですし、革新的でもありません。
ただ映画と「カメラ」そしてそれを見つめる我々のコンテクストを改めて考えさせてくれるという意味では非常に面白い映画でしたし、間違いなく魅力ある映画だったと思います。
前情報を入れるまいと皆さんの感想はあまり読んでいなかったので、ここから皆さんがこの映画をどう捉えたのか?という部分を知ることで、この映画をもう少し楽しんでいこうと考えています。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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