アイキャッチ画像:(C)2018 TOHO/JStorm 『検察側の罪人』より
はじめに
みなさんこんにちは。
今回はですね『検察側の罪人』についてお話していこうと思います。
記事の都合上作品のネタバレになるような要素を含みます。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『検察側の罪人』
あらすじ
狭き門である司法試験を突破した沖野は、修習生としての研修の際に出会った恩師である最上からの叱咤激励の言葉に惹かれ、彼にあこがれを抱くようになります。そしてそれがきっかけで、沖野は裁判官や弁護士の道ではなく検察官を志すようになります。
君たちはその手に一本の剣を持っている。法律という剣だ。
(雫井 脩介『検察側の罪人』より引用)
沖野は検察官としてキャリアを着実に積み上げる中で、いつか最上と共に仕事をすることを夢見ています。そして図らずも沖野は最上と共に仕事をする機会を得ます。
それは、蒲田で起きた老夫婦刺殺事件でした。しかし、最上はその事件の被疑者の中に「松倉」という名前を発見します。
その「松倉」というのは、学生時代に最上がお世話になっていた寮管理人夫婦の娘の殺害事件の際に最有力被疑者として名前が挙がりながらも、有効打となる証拠を発見できず、時効となり無罪放免となっていた人物であった。
その事件に並々ならぬ思いを持つ最上は、「松倉」を何としてでも犯人として起訴しようと執心する。最上に憧れながらも、そのやり方に徐々に疑問を向けるようになる沖野。そして事件は思わぬ方向へと展開していくこととなる。
正義とは何かを問われ、心の奥深くを揺さぶられる検察小説の傑作である!!
原作の概要
原作を著したのは、これまで数々の小説を世に送り出してきた雫井 脩介さんですね。
彼の代表作と言えばやはり『犯人に告ぐ』でしょうね。2005年の「このミステリーがすごい」でも第8位に選ばれたこの小説は、2007年に豊川悦司主演で映画化されたことでも話題になりました。
登場人物の背景や心情の描写も細かく、警察内部について深く言及した内容でありながら、読みやすい文体が読者を惹きこみますし、今でも警察小説の傑作の1つとしてタイトルが挙がるであろう作品です。
また雫井 脩介さんって『検察側の罪人』や『犯人に告ぐ』のような警察・司法系の作品ばかり書いているというわけではなくて、実は恋愛小説なんかも書いたりしているんです。
それが2006年に発表された『クローズドノート』という作品です。これに関しても映画化されていて、監督を行定監督が務めたり、沢尻エリカさんが主演を務めるなど話題になったんですが、これまた映画の出来がそれほど良くなかった上に、ほとんど原作遵守していないので、同名の別物という印象ですね。
また彼は2000年から2016年まで毎年1作品、長編小説を世に送り出すなど、多作の作家としても知られています。
そんな彼2013年に発表した本作は、2014年の「このミス」でも第8位を獲得するなど、大きな話題となりました。また作品を執筆する際に元検察官が協力するなどしているため、文章に説得力があり、司法ミステリーとしても類を見ないほどにハイレベルな仕上がりとなっています。
『検察側の罪人』は彼の作品の中でも「最高傑作」との呼び声が高い1作ですが、もし興味を持たれた方がいましたら、ぜひぜひ他の作品も読んでみてくださいね。
映画版の概要
2018年8月24日に公開される映画版に関してですが、こちらの監督を務めるのは、原田眞人監督ですね。映画ファンであれば、一度は名前を聞いたことがあるであろうビッグネームですが、簡単にご紹介しておきたいと思います。
元々原田眞人さんは映画監督でというよりは字幕翻訳家としての方が知名度が高かったのではないかと言われています。『スターウォーズ5 帝国の逆襲』の吹き替え版翻訳監修をしたことは有名な話ですし、他にもキューブリック映画の字幕(『フルメタルジャケット』等)を担当したことでも知られています。
1998年のブルーリボン賞作品賞を『バウンス ko GALS』で受賞したことが映画監督としての評価を一気に高めたと言われています。(もちろんそれまでも評価はされていましたし、初期作の『盗写1/250秒』なんかは『モテキ』の大根監督長らく憧れていた作品で、後に『SCOOP』というリメイク映画を製作するに至りました。)
近年はさらに邦画界で評価を高め、重要な存在となりつつあります。2015年に公開された『日本のいちばん長い日』は岡本喜八版に劣らないとの高い評価を獲得しました。
この監督の映画の特徴として、2017年公開の映画『関ヶ原』で顕著だったのですが、観客に一定水準以上の「知識」と「理解力」が求められると言うところにあると思います。
『関ヶ原』に関しては、かなり歴史に関する知識を有していないと、完全に置いていかれてしまうレベルの物語の高速展開だったので驚きました。
映画『検察側の罪人』に関しても、300ページの文庫本上下巻を2時間ほどの尺の映画で公開するということなので、必然的に、物語が高速で展開されるでしょうし、ある程度観客にも「理解力」と「知識」が求めれられる映画になるのではないかということが予測されます。
しかし、邦画にはないドライさを孕んだ映画を作る監督ですし、個人的には大好きな監督の1人です。
キャストには、ベテラン検事の最上役に木村拓哉さん、若手検事の沖野役に二宮和也さんが起用されており、まさにジャニーズ俳優新旧の「対決」の様相を呈しているところも見どころです。ジャニーズ俳優の中でも特に演技に定評があるお二人の演技対決が楽しみですね。
キャラクター(キャスト)
最上 毅(木村拓哉)
優秀なベテラン検事。
過去に自分の住んでいた寮の管理人夫婦の娘と交流があり、彼女が殺害された事件の犯人が時効のために逮捕されなかったことに並々ならぬ思いを持っている。そのため蒲田の老夫婦殺人事件の取り調べにおいて、何としてでも松倉を犯人として起訴しようと執心する。
沖野 啓一郎(二宮和也)
最上に憧れて検事になった、若手検事。最上と共に仕事をすることを誇りに思っていたが、彼の強引な捜査の進め方に疑念を抱くようになり、次第に彼と「対決」する道へと向かうようになる。
橘 沙穂(吉高由里子)
沖野啓一郎を補佐する事務官で、沖野を慕っている。沖野が最上と対立する道を選んだ際にも彼についていこうとするなど、献身的に彼を支えている。
松倉 重生(酒向芳)
老夫婦殺人事件の被疑者の1人で、過去に起きた寮管理人夫婦の娘が殺害された事件において、容疑者の最有力候補として名前が挙がるも、時効を迎え起訴されるには至らなかった。
白川 雄馬(山崎努)
「白馬の騎士」との異名を持つ敏腕弁護士。人権派と呼ばれていて、「冤罪」の臭いのする裁判に顔を出しては、マスコミを操り、世論を誘導し、無罪を勝ち取ってきた。
小田島 誠司(八嶋智人)
老夫婦殺人事件の裁判において国選弁護士となった人物。
諏訪部 利成(松重豊)
闇社会と密接なかかわりを持つブローカー。「物は売っても、人は売らない」という信条の元でロシア製の銃などを売買している。本作のキーパーソンの1人。
前川 直之(大場泰正)
かつて事件が起こった寮で最上と共に住んでいた大学の同期。他人を何かと気にかける優しい性格。地域住民からの依頼を受けて活動している人権派の街弁。
弓岡 嗣郎(大倉孝二)
老夫婦殺人事件の捜査線上に浮上したもう1人の有力被疑者。物語の鍵を握る。
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原作小説『検察側の罪人』
(C)2018 TOHO/JStorm 『検察側の罪人』より
感想:「正義」の二文字を揺さぶる衝撃の司法ミステリー
本作は「司法」というものの問題点や法に基づく「正義」の在り方に対して痛烈な疑念を呈する作品でして、読んでいてこれでもかという程に心を揺さぶられました。
読んでいて、常に深く考えさせられる主題はすごく興味深いものですし、物語の展開もすごく惹きこまれるものでして、読み始めると時間を忘れて読み耽ってしまいました。
冒頭の沖野の言葉が凄く印象に残っていて、それに対して何の疑念も抱かなかったんですが読み進めていくうちに、自分も沖野と同じように疑問を感じるようになっていて、彼の苦悩にすごく共感的に読む事ができたのが非常に良かったですね。
「正義とは何か、なんていう疑問の答えは簡単だ。法の遂行だよ。」
(雫井脩介『検察側の罪人』より引用)
我々の社会では、確かに法律というものが、人を裁く仕組みが構築されていますし、それに適当なのか、不適当なのかどうかが「正義」を分かれ目という風に考えられる傾向にあります。
ただ法律というものは、結局のところ絶対的な「正義」を保証する万能なものなんかでは決してないということをこの『検察側の罪人』という作品は痛烈に主張しています。
この作品を読んでいてふと思い出したのが、ベルンハルトシュリンク著の『朗読者』ないし同作品の映画『愛を読むひと』でした。実はこの作品に登場するロール教授という法学教授のキャラクターのセリフがふと脳裏をよぎりました。
問題は”悪いことか?”ではなく、”合法だったか?”ということだ。それも現行の法ではなく、その時代の方が基準となる。法というものは狭い。
(映画『愛を読むひと』より引用)
そうなんです。これが法律という「剣」の限界を端的に表した言葉だと思うんです。今作『検察側の罪人』のキーワードである「時効」はまさにそんな法という正義が及ばない領域があることを自供しているようなものなんです。
15年という時効が存在していた時代に起きた凶悪犯罪は、15年が経てば犯人は容疑者として裁く事ができなくなります。しかし、その法が改正された時代に起きた凶悪事件には時効がありません。
しかし、法改正前に起きた事件に対して、現行の法律を当てはめて「時効はなかった」とすることはできないんですよ。なぜなら、適応されるのはあくまでも事件が起きた当時の法だからです。
だからこそ、問題になるのは善悪の話ではなく合法か非合法かに話ですし、その時点で法によって完璧な正義を遂行されるなどという考えはもはや幻想なのです。
一見、人間を包括的に裁き、「正義」の妥当性を保証しているかに見える法の脆弱性を物語を通して表現し、妄信的な法の信奉者であった沖野を主人公の1人に据えることで、彼の心境の変化を通して、読者が共感的に「正義」について思索する事ができるという構成が非常に見事だったと感じました。
解説:ソクラテスの死と、ラートブルフと「法律の不法」
今回は、ソクラテスと、先ほど挙げた『朗読者』のロール教授のモデルになった人物ではないかとも言われる、ドイツの法律学者のグスタフ・ラートブルフの主張を当てはめながら、『検察側の罪人』という作品について解説を加えてみたいと思います。
ソクラテスの死刑に関してしばしば耳にするのが「悪法もまた法なり」という言葉ですよね。これは、ソクラテスが裁判で死刑を宣告され、脱獄の機会がありながらも、最期は法に従って死を選んだという逸話から生まれた言葉です。
『クリトン』の中でソクラテスは、国法とは先祖や親以上に大切なものであり、だからこそ法に命じられたことはどんなことであっても遵守する必要があると考えていたんですね。
そうなんです。当時のギリシアの裁判システムは500人の裁判員と市民の前で弁明し、その後多数決が取られるというものでした。ソクラテスは裁判の場に出て、弁明をするのですが、結局は法によって死刑を突きつけられることとなります。
その後、ソクラテスは脱獄の話を持ち掛けられるのですが、それは明らかに不正(正義に背く行為)であり、自身が掲げる「善く生きる」というポリシーに反する行為であるとして、それを受け入れませんでした。
しかし、ここで重要なのが、ソクラテスは法による裁きを「刑罰」として受け入れたのかどうかという焦点です。
法律を犯した者には「刑罰」が下るというのが当然のシステムなのですが、ソクラテスは自分が法を犯したという点に関しては認めていませんし、それは『ソクラテスの弁明』を読んでみると明らかです。
それは例え自分が不法行為を犯していないとしても、法により宣告された「刑罰」を逃れることで自分は不法行為を犯してしまうと考えたからなんですね。法というものは抑止力として存在し、裁かれるためにあるというよりも、自らが「善く生きる」ために守るべきものであり、その考え方を実践するためにソクラテスは「死」を選んだように思えます。
そして「悪法も法」であるという考え方が戦後ドイツで大きな波紋を呼ぶこととなります。なぜならヒトラーないしナチス政権というものが、法律に則って正統に誕生した巨悪だったからです。
ラートブルフの考え方って、まさに「悪法も法」であるというものに近くてですね、彼は「法律として書かれているものが法」であるとして、それがどんなケースにおいても正義を保証するのだという立場を貫いていました。
しかし戦後ドイツでナチス裁判が行われるようになると、彼は「悪法」は正義に道を譲らなければならない、どんなものであれ正しいものが法であるという自然法主義的な立場を取るようになるんです。そしてそれがナチスによる数々の行いが「犯罪」であったという論拠にも繋がっていきます。
結局彼の考えの中心にあったのは、正義を保証するものとしての法だったんだと思いますし、人間の社会には、目に見えないけれども絶対的な「正義」の法が存在していると彼は信じようとしたわけです。
しかし、このような自然法の立場の妥当性を完全に認めてしまうことは難しいですし、それでいて不完全である「法として書かれたもの」に執着することもまた「正義」の追求としては完全とは言えません。
さて、『検察側の罪人』に話を戻していきましょう。この作品においては検察や警察、弁護士といった、法を司る側の人間たちがメインとなります。しかし、物語が展開していく中で、沖野は果たして「法の遂行」がそのまま正義の直結しているのだろうかという疑問に直面することとなります。
法を司る側の人間が、「不法行為」を犯してまで法で裁こうとする姿に果たして正義を見出すことはできるのだろうかと思い悩むこととなります。
そうして沖野は、最上と「対決」し、結果的に最上の「不法行為」を法によって裁くことに成功するわけです。
ただ、その途端に釈放された松倉という男は、おそらく23年前の寮の管理人夫婦の娘の殺害事件に関しては「クロ」でしょう。しかし、もはや彼を法で裁くことは叶わなくなりました。しかし、松倉を裁こうとしたならば、最上の「不正行為」は見逃されてしまいます。
このジレンマによって、もはや我々の社会を縛る法が、正義を保証しきれない不完全なものであることは明らかになっています。
こういうニヒリズム的な嘆きが本作には込められているのではないかとどうしても考えてしまうんですが、ラストシーンを解釈してみると、必ずしもそうではないんじゃないかと思えてきます。
沖野は咆哮を全身から絞り出した。沙穂が隣から沖野を抱きしめる。沖野の中で壊れていくものを、そうはさせまいと抱えこむようにして、彼女は腕に力をこめる。
(雫井脩介『検察側の罪人』より引用)
法律というものが生み出す「理不尽さ」にこれでもかという程に、打ちのめされて「正義」を「自分」を見失いかけている沖野をしっかりと抱きしめて、支えようとする沙穂の姿が何とも印象
的な終盤の一節を引用しました。
結局、今を生きる我々に何が問われているのかと考えた時に、「法律に触れたからクロ、触れなければシロ」という法に縛られた考え方ではなくて、ソクラテスの「善く生きる」やラートブルフが提唱した自然法主義のように、我々1人1人がどう生きるのかという点だと感じました。
今や存在するのかどうかすらも危ぶまれる正義という幻想を、それでも自分なりに考え、社会の理不尽さに壊れそうになる自分自身を何とか保ちながら生きていくしかないし、そこにはまだ希望があるはずだという雫井さんの願望めいたものが込められているように感じられる幕切れだったと感じました。
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映画『検察側の罪人』
(C)2018 TOHO/JStorm 『検察側の罪人』より
木村拓哉VS二宮和也
やはり映画版『検察側の罪人』の魅力の1つは、ジャニーズ俳優を代表する木村拓哉さんと二宮和也さんの演技対決でしょう。もちろんキャラクターとしてもそれぞれが演じる最上と沖野は対決姿勢を強めていくこととなるのですが、2人の役者の「対決」でもあると思うんです。
ジャニーズの中から一番代表的な俳優は誰ですかと聞かれたら、そりゃ木村拓哉さんでしょとなりますよね。
それくらいに多くのドラマや映画に出演し、実績を残してきた人物です。
ドラマ俳優としては数々の賞を受賞してきましたし、映画にスポットを当ててみても、『武士の一分』や『無限の住人』といった作品で受賞歴があり、間違いなくジャニーズを代表する俳優と言えるでしょう。
そして10歳年下の二宮和也二宮和也さんもまたジャニーズの中では俳優として多くの実績を残してきた人物です。特に2016年の『母と暮らせば』では、その圧倒的な演技力で日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を獲得しました。
まさにジャニーズを代表する俳優は自分であると名乗りを上げたようなものです。
また、木村拓哉さんは『HERO』という作品が有名なのもあって、やはり「勝利」の臭いが染みついている俳優です。そんな木村拓哉さんが挑戦するのは、ある意味でこれまでとは真逆のキャラクターとも言える検事、最上です。
一方で、二宮和也さんはこれまでどちらかと「好青年」キャラクターを演じてきた俳優ですが、今回の『検察側の罪人』ではダーティーな側面が求められます。罵詈雑言を吐きながら被疑者を攻め立てる沖野を、彼が一体どう演じるのかにも注目したいところです。
確かにプロット的には、最上と沖野の「対決」の勝敗は決まっているわけですが、キャラクターの勝敗は演者には関係ありません。どちらがより観客を惹きこむような演技を見せることができるのか・・・?
そういう意味でもこの映画はまさに「対決」なんですよ。
解説:インパール作戦
さて、本作を鑑賞する前に「インパール作戦」について知っておいた方が良いという前情報が出回っていたので、少しこちらについても解説しておきましょう。
日本の戦争史の中では、すごく重要な戦いなんですが、意外と知られていないですし、学校でもあまり教えてくれないのがこの「インパール作戦」です。
この作戦の目的は、英軍拠点のインド・インパールを制圧することでした。なぜインパールを制圧することに固執したのかと言いますと、日本の領地と化していたビルマを奪還しようとイギリスが攻勢をかけてきたからなんですね。
そこで日本軍は防衛ではなく、逆にイギリスの反撃の拠点となっているインパールを叩いてやろうと考えたわけです。
しかし、日本軍の中でもこの作戦には異議が飛び交っていましたし、結果的に作戦は強行されることになるのですが、作戦が始まってからも現場の兵士たちの間では疑問の声が挙がっていたと言います。
しかし司令官の牟田口がこれを断固として認めず、作戦は続行されました。
結果的にそのあまりにも杜撰すぎたインパール作戦は大失敗に終わってしまうんです。物資が届かずに飢えが兵士を襲い、次第にマラリアや赤痢といった疫病が蔓延し、もはや戦闘どころではなくなってしまったのです。
この作戦に約10万人もの兵士が投入されたと言いますが、その内3万5千人近くが命を落とし、負傷者は5万人近いとも言われました。
まさに日本が太平洋戦争の中で最も無策で、傲慢だった作戦と言えるでしょうこの罪を誰が被るのかと言いますと、それは司令官だった牟田口でしたし、彼を抑え込む事ができなかった上層部でした。
そう考えた時に、この牟田口という存在は最上に非常に共通する部分が多い人物ですし。日本軍の上層部は、そのまま検察の上層部に置き換えることができるのではないかと思います。
自分の目的のためなら「死人が出ること」をも厭わない最上と、そんな彼の行動を抑えることが出来ず、彼の主張に則り裁判で「冤罪」を着せようとしていた検察。まさにインパール作戦の再来とも言えます。
映画『検察側の罪人』の監督・脚本を務めた原田眞人監督は、『日本のいちばん長い日』を手掛けた際にも語っていましたが、日本の戦争史に並々ならぬ強い思いを秘めている人物です。そんな彼だからこそ、この『検察側の罪人』における最上や一連の事件を見て、思わずインパール作戦を想起したのかもしれませんね。
感想:木村拓哉は「負けない」?
先ほども書きましたが、個人的に木村拓哉さんという俳優に「負ける」イメージがないんですよね。常に彼が演じるキャラクターって、「勝っている」イメージがありますし、作中では「ヒーロー」的な役周りに従事することが多いと思うんです。
ただ今作『検察側の罪人』って原作のプロットから考えても木村拓哉さんが「負ける」側になることは明白でしたし、そういうキャラクターを演じる時に、「勝つ」イメージが染みついた彼がどんな演技を見せてくれるのかという点が個人的にはすごく気になっていた部分でもありました。
ただ、映画版では「負け」なかったという・・・。木村拓哉さんという俳優が最上に負けさせることを許さなかったんですかね?
この映画って三池崇史監督の作品なんですが、映画史上最も衝撃的なラストシーンの1つだと言われています。なぜあんなラストになってしまったのかというと、それは哀川翔と竹内力が互いに負けず嫌いで、お互いに「勝ち」を譲らなかったからだという秘話があります。
このように俳優同士が互いに「負けられない」という思いを強くすることで、時には物語をも動かしてしまうことがあるのかもしれませんね。
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感想:あまりにも原作と違いすぎる!
正直あまりにも雫井さんの原作とは別物なので、驚きました。最近『カメラを止めるな!』という映画の「原作・原案」問題が話題になっていますが、この映画『検察側の罪人』に関して言うなれば、逆にこの映画は雫井さんの小説原作だと名乗っていいのか?レベルで原作と違います。
今回はその中でも特に原作と大きく異なっていた部分を改変に対する個人的な印象を含めてお話していければと思います。作品の内容に深く踏み込むため、ネタバレにご注意ください。
取り調べの可視化について
2000年代初頭から取り調べの可視化という方向性は打ち出されていたんですが、布川事件、足利事件、氷見事件といった冤罪事件が多発したことがきっかけで、その可視化に更なる拍車がかかることとなります。
2016年に刑事訴訟法が改正されて可視化の領域はさらに広がりました。
しかし、劇中でも録画を止めるシーンがありましたが、まだまだ可視化の領域は限定的で、長時間の拘留による自白強要や長所至上主義の流れに歯止めをかけきれているとは言い難い状態ではあります。
ちなみに『検察側の罪人』という作品が書かれたのが2013年頃で、これは刑事訴訟法改正よりも前になります。そのため原作では映画であったような監視カメラのくだりは一切登場しません。
そういうことなんです。原作に準拠することばかりに気を取られて、物語が「今」を生きる人にも届く内容なのかということを見落としてしまう映画監督(脚本家)が意外と多い中で、そういうところまで見逃さない原田監督はさすがだなぁと思いましたね。
最上が松倉を陥れようとするプロセスの違い
映画を見ていて、最上が松倉を陥れるためにいきなり「真犯人の殺人」というところに行きついてしまうのは、飛躍しすぎなんじゃないかと思う方もいるとは思うんです。まあそれは間違いないです。
原作では、この前に最上が小さな小細工をして、松倉を犯人に仕立て上げようとする流れがあります。
要は証拠偽造というやつですね。殺害現場に自分が松倉の家宅捜索の際にくすねた物品を忍ばせて、彼を犯人に仕立て上げようとするんですが、これが上手くいきません。
結果的に彼は、追い詰められて、「真犯人の殺害」という形でしか松倉を陥れることが出来なくなってしまうわけです。
沙穂のキャラクターが原作とは全く違う
キャラクターの話で言うと、おそらく沙穂が一番改変されていたのではないかと思いました。というかあまりにもキャラクター設定が変わりすぎて、もはや別人ですね。
原作の沙穂というキャラクターのどこが良かったのかというと、あらゆる登場人物が自分の正義に奔走する中で、彼女はただ沖野への愛だけを信じて生きようとするキャラクターなんです。
だからこそ映画版であったような暴露本を書こうとして、公務員としての規則を犯すなんてこともしませんし、あくまでも沖野を補佐する役回りです。
この沙穂が規則を犯しているという事実が個人的には、やっぱりどうしても受け入れられないんですよ。彼女は『検察側の罪人』の物語において唯一ニュートラルな存在でしたから。そんな彼女だったからこその原作のあの素晴らしいラストシーンが映えたわけなんですが・・・。
下巻の内容はほとんどカット!!
いくらなんでもこの構成は斬新すぎるなぁと思いましたね。『検察側の罪人』の小説版って上巻が最上の暗躍パートまでを描いていて、下巻がそこに立ち向かう沖野の物語を描いているんです。
ただ映画版は上映時間が残り15分ほどになったところでようやく下巻の内容に突入して、沖野の反撃物語はひたすらにダイジェスト版だけを魅せられて、最後は完全オリジナル展開となっております。
この構成はチャレンジングだとは思いましたが、どうしても納得がいかないですけど・・・。ただラストのあの改変の仕方から察するに要は・・・
そうなんです。原作では決着がついていた2人の「対決」に敢えて、決着をつけなかったところで帳尻は合っているのかもしれません。
ラストはもう全然違う
これに関しては、言及してしまうと面白くないので伏せますね。ただ、原作とは全く異なるラストになるということだけは書いておきます。
個人的には、あの映画のラストに関して、1本の映画としては「受け入れられる」結末ですが、『検察側の罪人』という作品の結末としては到底受け入れられないという意見です。
というのももう作品の主題を180度転換してしまっていますからね・・・。
原作では一言も出てこない「インパール作戦」を作品の主軸に据えた時点で、原田監督自身の思想や考え方が多分に反映された映画であることは分かっていましたが・・・。
(9月1日追記)
原作と映画版の最大の違いは2つあります。
- 最上が逮捕されないこと
- 松倉が命を落とすこと
これが原作から映画にコンバートされるに当たって改変されたところです。ただこの改変は作品の主題を大きく揺るがせるものなんですよ。絶対に変えちゃいけない『検察側の罪人』という作品の核だと思ってほしいです。
ここまでにもお話してきましたが『検察側の罪人』は本当の正義って何なんだろう?という痛烈な問いを日本社会に投げかける作品なんです。
ただ最上が逮捕されずに、さらに松倉が死んでしまうと最上VS沖野の対決がただの悪VS正義という構図に集約されてしまうんですよ。だからこそここだけは改変してはいけませんでした。
自分の正義を貫こうとした最上が逮捕され、丹野が自殺し、明らか過去の事件に関係しているに松倉が釈放される。そして沖野はそんな松倉を世に放つ幇助をしてしまう。
だからこそ沖野というキャラクターは「正義」なんて存在するのだろうかと苦悩し、ラストに悲痛な叫びをあげるんです。
映画版のラストの「叫び」は本当に意味が無さすぎます。本当にダサい。原作の要素を取ってつけただけのパッチワークにしか見えません。
考察:原作とは全く異なる『検察側の罪人』、原田監督は何を描きたかったのか?
先ほど個人的にはこの映画が『検察側の罪人』という作品として受け入れがたいものであると書きましたが、映画として完成度が高いことは否定しません。
原田監督の作り出す緊迫感が120分持続する素晴らしい映画でしたし、それを支えた高速編集や、撮影の技術も素晴らしかったと思います。それに加えて、二宮和也さんや木村拓哉さんの演技は素晴らしくて、この2人だからこそここまで重厚感のある仕上がりになったんだと納得できる内容でした。
ただ私が気になるのは雫井さんの『検察側の罪人』という原作がある作品でありながらここまで原田監督自身の思想を前面に打ち出した映画にしてしまうのはどうなのか?という疑問なんです。
参考:シネマトゥデイ「日本で初めて昭和天皇を映画で描いた原田眞人監督が、現在の政治家に苦言!」
参考にと引用させていただいた上記の記事なんかを読んでみると、お分かりいただけると思うんですが、原田監督って結構「太平洋戦争」に対して熱い思いを持っていらっしゃる監督なんですよ。
それが『日本のいちばん長い日』という作品にも繋がったわけです。
とりわけ彼が問題視しているのは『日本のいちばん長い日』でも終盤に描かれた内容なんですが、戦争犯罪人たちが自分たちの保身のために証拠を焼き尽くすといった行為なんです。
つまり歴史が正当に後世に伝わるのではなく、捻じ曲げられた形で伝えられていくことに危機感を覚えているわけです。
だからこそ『日本のいちばん長い日』という作品を、原田監督は若者にこそ見て欲しいと発言していましたし、「昭和天皇」について間違った事実が広まっていることを懸念していたわけです。
そんな彼の戦争や政治に対する熱い思いが、今作『検察側の罪人』にも強く反映されたことは「インパール作戦」に何度も言及したことではっきりと分かります。ただその強すぎる思いが原作の主題を焼き殺してしまったんです。
映画と原作のテーマは似ているようでまるで違うと個人的には感じています。
その分かれ目となったのは、終盤の松倉の「あれ」と最上の「あれ」です。(ここに関しては伏せます。)
原作『検察側の罪人』の主題は間違いなく「正義」はどこにあるのかという社会への痛烈な投げかけでした。
それは罪もない丹野が逮捕されたこと、罪を犯しながらも時効となり正当な裁きを受けなかった松倉、自分の正義に奔走して逮捕されるに至った最上、そして規則を破りながらも最上に立ち向かい打ち負かした沖野、といったそれぞれの人物が迎えた結末からも明らかです。
つまりこの世はどこまでも理不尽であり、法は「狭い」んです。悪を全員断罪できるはずもありませんから、どこかで裁かれる悪と裁かれない悪という不平等を作ってしまい、絶対的な正義を保証できなくなるんです。
だからこそ沖野は釈放された松倉の姿を見て、罪人が「時効」がために裁かれることなく世に出てきてしまった理不尽さと、それを見逃してしまったら最上の「罪」を見逃すことになってしまうというジレンマに苦しみ、夜の街に「叫んだ」わけです。
しかし、そういった展開がまるっきり改変された映画版のフォーカスはどこまでも体制批判的です。「日本はインパール作戦の頃から何も変わっていない」という指摘が劇中でありましたが、まさにこれは現在の日本を担う政治家たちに対する批判のように取れます。
本作において最上という人物は、自分の罪をひた隠しにし、それが自分の「正義」であり「信念」なのだと信じてやまない男です。
その上、自分は「インパール作戦」から生還し、悪を暴く側の存在なのだと信じてやみません。それが弓岡を殺したときに見た夢の正体でしょう。
しかし客観的に見ると、どう考えても最上という人物は「インパール作戦」に置き換えると牟田口でしょう。自分の「正義」とやらのために人を殺してでも無謀な計画を推し進めたわけですから。
この自分がやっていることに何の疑いも持っていない最上像というのが、原作のキャラクター性とは全く異なっていますし、そこに原田監督の視点があるような気がします。というのもそれこそが原田監督の捉える現代の日本の政治家の姿なのでしょう。
先ほどご紹介したシネマトゥデイの記事の中で原田監督はこう語っています。
今、政治家は都合のいいように歴史を解釈し、民意を無視してどんどんおかしな方向に日本を進めています。だからわれわれが歴史を正しく理解して、もう1回確認しなければいけない時期にきていると思います。
(シネマトゥデイ「日本で初めて昭和天皇を映画で描いた原田眞人監督が、現在の政治家に苦言!」より)
この言葉を踏まえて考えると、最上という人物は自分の「信念」に基づいて、ありもしない松倉の殺人ストーリーを組み立て、彼を陥れようとし、さらには世間を欺こうとしました。この最上の姿に原田監督は現代の政治家を重ねているんでしょう。(原作では優良政治家だった高島が映画版だとハイパー右翼だとかネオナチという表現をされていたのも印象的でした)
原田監督は最上という人物に今日の政治家像を重ね、その上で沖野という若い検事を彼の「対決」相手に据えることで、監督自身の日本社会への「対決」姿勢を明確にしたのかもしれません。
でも自分の思想やイデオロギーに引っ張られて、『検察側の罪人』という作品の映画版としてはこの上なく最低な内容になっていたのは看過できないですね。
これは賛否別れる映画版になったと思いますよ。
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解説:大駱駝艦について
今回の映画『検察側の罪人』には、大駱駝艦という舞踏集団が参加していました。印象的に登場していたのは、最上と丹野が川の近くで密会をしている時と、丹野の葬式会場のシーンでしょうか。
前者の場面では白い服で踊っていた彼らが、後者の場面では黒い服に変わっています。
強く宗教的な雰囲気を感じさせる劇中の現代舞踏が何を意味していたのかを自分なりに考えてみたのですが、これって政治や司法と宗教が結びついていて「真実」を闇に葬り去っているということを暗示しているのではないかと思いました。
具体的にどの事件が、どの宗教団体がなんて話をするつもりはありませんが、現に宗教勢力が日本の三権に圧力をかけたと言われる事例は多く存在しています。
現代日本の政治や体制に強い批判を抱いている原田眞人監督であれば、そういった日本の闇に対する言及を作品の中に入れてきてもおかしくはないと思います。
また今の日本社会で「正義」(原田監督の思う正義)を貫くことのことの恐ろしさみたいなものを暗示しているようにも感じましたね。丹野は日本政治の闇を暴こうと「正義」を貫いて、最終的には悲惨な最期を迎えました。
映画版の『検察側の罪人』では、原作と違って最上という「悪」が裁かれることなく終わってしまうのですが、これもまた、現代日本に蔓延る体制側の悪人を原田監督なりに描こうとしたからではないかと思わされます。
解釈が難しいこの現代舞踏のインサートですが、皆さんもぜひいろいろと解釈をしてみてくださいね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『検察側の罪人』についてお話してきました。
原作は上下巻で合計600ページ超とかなりボリュームがありますが、雫井さんの文章が非常に魅力的で、あっという間に読み切れてしまいます、ぜひ映画版の鑑賞前、鑑賞後、どちらでもよいのでお手に取ってみてくださいね。
アカデミー賞レースで話題になった『スリービルボード』という作品がこの『検察側の罪人』と共通する部分があるなぁと感じました。ただ私個人的には、後者の方が惹きこまれましたね。
前者は客観性を孕んだ物語というよりも、どこまでも主体的な「感情」にフォーカスした作品だと思います。
一方の後者は強く「客観性」を意識しつつも、登場人物の「感情」にも踏み込んでいますし、法という社会を通底する概念に言及しながらも、最終的には、法というものが孕む脆弱性と不完全性に直面した個人の叫びというところに終着する構成が見事でした。
すごく深く、重いですが、この作品を鑑賞した1人1人が考えてみて欲しい主題だと思いました。
映画版に関しては、かなり主題が変わってしまったので言及しづらいのですが、あくまでも雫井さんの原作というよりは原田眞人監督の作品であるということを念頭に置いて見ると良いかと思います。
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