みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『累 かさね』の感想と解説を書いていきたいと思います。
特に土屋太鳳さんにあまり演技が巧いイメージがない方は、今作を見たら、イメージがひっくり返ると思います。
そんな役者陣の演技バトル的な側面も強い本作について、自分なりに考察を書いていきます!
記事の都合上物語の核心部分に触れない程度のネタバレ要素が含まれますので、その点をご了承いただけたらと思います。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『累 かさね』
あらすじ
伝説の女優・淵透世の娘として生まれながら、醜い顔を持つ累は、その亡き母とは似ても似つかない容姿が原因で、幼少の頃から激しいいじめに遭っていました。
しかし、母がそんな累に渡した「口紅」には「他者と顔を入れ替える力」があることが分かります。
一方で無名の美人女優・丹沢ニナは、容姿こそ端麗ながら演技力に乏しく、それに加えてとある事情を抱えているために役者として芽が出ずに燻っていました。そんな彼女にマネージャーの羽生田釿互は累を引き合わせます。
母親譲りの圧倒的な演技力を持つ累と容姿端麗なニナ、不思議な「口紅」の効果で2人は顔を入れ替えることで完璧な女優となり、一躍注目を集めることとなります。累もまた持ち前の演技力を発揮し、芝居の楽しさや美貌から得る優越感と満足感を覚えていきます。
しかし、演出家の烏合零太との関係性を巡り、2人の禁断の関係は崩れていきます・・・。
スタッフ・キャスト
原作は松浦だるまさんのコミックスで、9月7日に発売される14巻で完結する予定で、既に累計発行部数は200万部を突破していて、映画公開を機にさらにその売り上げを伸ばすことが予想されます。
実写映画版の監督を務めるのは映画『キサラギ』で第50回ブルーリボン賞の作品賞を受賞した佐藤祐市さんです。
『ストロベリーナイト』や『脳内ポイズンベリー』などのダーティーさが強い作品を多く監督してきたこともあり、本作『累 かさね』でも持ち味を生かし、女性の欲望と嫉妬が渦巻くダークな世界観を上手く映像に収めていました。
脚本を担当されるのは、黒石勉さんです。彼はドラマ『LIAR GAME Season2』や映画『LIAR GAME The final stage』の脚本を担当したことでも知られています。心理戦の脚本のスペシャリストの1人とも言えるでしょう。
醜い顔を持つ少女、累を演じるのは芳根京子さんです。最近話題沸騰中の女優さんですね。
まあここはツッコミどころですよね(笑)映画版『累 かさね』の幼少の頃って確かに可愛らしいという感じではないんですが、醜いという程でもなくてですね。そしてとある事件がきっかけで口に大きな傷跡が残ってしまったんですね。
そうなんですよね。そこが本作に芳根京子さんという美人を起用してしまうことで生じる物足りなさではあります。
ただ、逆に考えると、累は将来的に美しい顔に成長する可能性があったのに、自分の欲望が招いた事件がきっかけで顔に傷が出来てしまい、人目を避けて生きることになったということでもありますから、そう考えると腑に落ちる設定とも言えます。
また芳根さんって中学生の時にギラン・バレー症候群に伴う運動障害を抱えていたそうです。今は克服されたそうですが、かつてハンディを抱えていたという事実が彼女の本作における演技に深みを付与していたように思います。
そしてもう1人の主人公であるニナを演じた土屋太鳳さんですね。当ブログ管理人は今作に土屋さんが出演したことが非常に嬉しいんです。ようやくこういう骨太な役が彼女に回ってきたなと思いましてね。
最近の彼女ってどうしても少女漫画の実写化のヒロイン役のイメージが強かったですよね。『PとJK』や『orange』、『となりの怪物くん』などなど他の若手女優でも代わりが務まってしまうような役どころしか回ってきていなかった印象です。
広瀬すずさんと同時期に話題になりましたが、彼女は次々に難しい役どころに挑戦し、その経験を通じて同世代の中でも頭5つほど抜けた実力を身につけていきました。
しかし、土屋さんは潜在的な演技力が高いのに、いまいちそれを発揮する機会と、その才能を伸ばす作品に恵まれていないと常々感じていました。
そんな彼女にようやくこの映画『累 かさね』のニナという素晴らしい役が回ってきたと映画を見ながらしみじみ感激しておりました。
もう何も言いません。彼女のキャリアハイの名演だと私は思います。これが土屋太鳳の真の力と言わんばかりの怪演に衝撃を受けました。こういった骨太な役の経験を重ねれば、彼女は日本を代表する女優の1人になれることを確信させてくれるレベルの演技だったと思いますよ。
あとは幼少の頃からスポーツマンで、オールスター感謝祭で全力の走りを披露してくれるような運動神経を活かしてアクション映画に出演されている姿を見たいですね。何はともあれ、今後の彼女の活躍に期待です。
そして、そんな2人の女優ダブル主演の脇を横山裕さんや檀れいさん、浅野忠信さんが固めています。
映画『累 かさね』解説・考察(ネタバレあり)
2人の女優の怪演に思わず息を飲む
先ほども紹介しましたが本作で累とニナを演じているのは、芳根京子さんと土屋太鳳さんです。
もう何と言ってもこの2人がすごいんですよ。本作の「入れ替わりの設定」を理解すれば、この役を演じるのがいかに難しいことなのかがお分かりいただけると思います。
まず『累 かさね』における「口紅」って人格と身体はそのままに顔だけを入れ替えるっていう特性があります。
つまり2人は当然の如く自分が演じているキャラクターを演じなければなりませんし、その一方でキスをした瞬間に相手のキャラクターの人格を自分に憑依させて演じ分けないといけないんですよ。お互いに1人2役を演じなければならないという状況ですね。
しかも累とニナって2人とも非常に癖が強いキャラクターなので、そもそも1役でも演じるのが難しいと思うんですが、それを両方とも演じられるようにしないといけないと考えると想像を絶します。
さらに2人が今どちらの人格を有しているのかということを映画を見ている人にきちんと伝わるように演じ分けなければいけないわけです。
そんな難しい「口紅」の設定を土屋太鳳さんと芳根京子さんはもう完璧に表現していました。
微妙な仕草や表情の機微、醸し出している雰囲気、姿勢に至るまで相手のキャラクターを研究されている様子が伝わって来て、その顔の裏にいまどちらの人格が潜んでいるのかがきちんと映像で伝わってくるんですよね。
2人の若手女優の怪演が炸裂するとんでもない映画だったように思いました。
映画『累 かさね』のチェーホフ劇的構造
さて映画『累 かさね』にはチェーホフという稀代の名劇作家の劇作品『かもめ』が登場しましたよね。
オスカーワイルドの『サロメ』も終盤に登場しますが、今回の映画は専らチェーホフの『かもめ』の物語と劇構造を踏襲して作られていたように思いました。まさに佐藤監督は演劇を映画に乗せています。
まず『かもめ』という作品は1組の夢を追う男女の悲劇的な物語です。ニーナとトレープレフという2人の若者は互いに女優と作家を志しています。2人は恋愛関係にあり、トレープレフが著した劇作品をニーナが演じるなど良好な関係を築いていました。
しかし、そんなトレープレフが著した前衛的な演劇は観衆に受け入れられず、嘲笑されることとなります。そんな時に現れた流行作家のトリゴーリン。
ニーナはそんな彼と少しずつ距離を縮めていきます。それを知ったトレープレフは自殺しようとします。結果的に自殺は未遂で終わり、ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに向かってしまいます。
2人が別れてから2年の月日が流れます。
トレープレフは作家として一定の成功を収めた一方で、ニーナはトリゴーリンと結婚し子供を設けるも家庭は破綻し、子供も死んでしまいました。そんな2人は偶然にも再会するのですが、その再会を経て絶望を深めたトレープレフは再び自殺を選び、今度は命を落とします。
映画『累 かさね』という作品もまた2人の人間の夢を追う物語というところに「始まり」があることは間違いありません。累とニナは互いに女優となり成功し、高い評価を獲得することを目指しています。そして不思議な口紅の力を使って協力関係を形成するわけです。
では本作においてどちらが最終的に生き残ることになる「ニーナ」に選ばれるのかという問題が発生してくるのですが、そこで演出家の烏合零太が関係してきます。
彼は「ニナ」という女優に不思議な魅力を感じ、言い寄ってくるのですが、彼が見ているのはニナの人格ではなくて、累の人格なんですよね。
だからこそニナが「ニナ」を演じている時に烏合はその演技を批判し、2人きりになった時もニナ本人が向かった時には違和感が感じるとして一晩を共にすることもありませんでした。ここで、演出家の烏合によってこの物語の「ニーナ」が図らずも選ばれてしまったわけです。
そうして女優として「ニナ」として名声を高めていく累に反して、ニナはどんどんと虐げられていき、人生を奪われていきます。そして彼女は見てしまうんですよね。「ニナ」の母親の秘密を。
これに関してはネタバレになるので言及を避けますが、彼女が見たのはチェーホフ的なかもめですよ。自分の運命を暗示するものとしてのかもめを見てしまったんです。
そして物語の終盤に累の叔母さんとニナの母親、つまり「親」という存在が物語に顔を出します。これも実はチェーホフの『かもめ』を想起させる展開です。
『チェーホフの『かもめ』におけるニーナとトレープレフの運命』の中で内田健介氏は、トレープレフはトリゴーリンに母アルカージナと恋人ニーナを奪われたことで「息子」という属性と「男」としての属性を奪われてしまっていると指摘しています。
彼の母親はトリゴーリンの愛人になってしまっていましたし、一方でニーナもまたトリゴーリンに寝取られてしまいました。
『累 かさね』におけるニナもそうですよね。累によって自分のことを気にかけてくれていた母親を奪われ、さらには自分が愛していた烏合さんを累によって捨てられてしまったわけです。つまりニナは「娘」としての属性と、「女」としての属性を奪われているわけですよ。
さらに同論文で内田健介氏はニーナについても、トリゴーリンを追ってモスクワに旅立ったあとに棄てられ、トリゴーリンとのあいだに産まれた子供も死んでしまっているため、彼女も「女」そして「母親」という属性を失っているという点を指摘しています。
累は一度は好きになった烏合さんと別れてしまっていますし、それでいて物語の終盤に母親と同じ道を辿り、その先にいく決意をし、自分の母親の影を払しょくします。つまり累もまた「女」と「娘」の属性を放棄しているんですよね。
つまり2人ともトレープレフとニーナのように自分を取り巻く属性の全てを喪失してしまっていて、もう残されているのは「女優」という夢だけなんですよね。
演劇『かもめ』の終盤ではニーナがどんなに打ちひしがれようとも女優として生きていくんだという覚悟を語る一方で、トレープレフは「僕には信じるものもなく、何が自分の使命なのかもわからずにいるんだ。」と告げ、自殺を選びます。
結局はこの2人を分けたのは、自分の追いかける夢を信じられたかどうかなんだと思いました。ニーナは女優という自分に残された最後の意義を信じ続ける覚悟を持っていたがゆえに生き残り、トレープレフはそれが揺らいだために死を選ぶこととなりました。
『累 かさね』の終盤で累は母親の影を振り払い、女優として生きていく決意を固める一方で、ニナはもはや女優としての夢を失っており、ただ自分の人生を取り戻すがためだけに全てを台無しにしようとしています。彼女たちに残された「女優」という最後の存在意義。そこに対する信念の強さが2人の分岐点になったということができると私は考えています。
全14巻存在している原作を、今回の映画版はチェーホフの『かもめ』を構成するかのように切り出し、見事に累とニナが織り成す悲劇を映画に乗せてみせました。映画の中で演劇をやるんだという方向性が強く打ち出されていて、非常に素晴らしい映画版だったと感じました。
近代俳優論を喰い尽くす物語構造
もう1つ私が面白いと感じたのは、『累 かさね』という作品が近代以降の俳優が役を演じるという考え方に対して真っ向から反発するような物語構造を取っていたことです。
近代以降、素晴らしい役者というのは、如何に役を深く理解し、分析し、それを演じることができるかに依拠しているという考え方が根強くなってきましたが、それでは「演技」の枠組みから出ることはできないのではないでしょうか。
手塚とおるさんという方が「イプセンとチェーホフ」という解説文の中でこんな風に語っています。
役を演じるというのは、その人物の中に入るというより、その人物の内側から演劇を見るという感じかな。役に入ってしまうと外のものが見えてこなくなってしまうけれど、内側から書かれた言葉をしゃべってみるとそこに構築されてくる手ごたえが実感できる。
(手塚とおる『イプセンとチェーホフ』より)
役の中に深く深く入っていくことが大切なのではなくて、役の中に入った上で、その内側から世界を見ることが、自分の人生を役の人生に重ねることが、役の言葉を自分の言葉として語ることが「演じる」ということなのではないかという主張です。
つまり、俳優は役として舞台に立つのでも、演技としてその役の言葉を語るのでもなく、俳優自身がその役の特性や言葉を自分の言葉として語るところに真の「演技」というものがあるのではないかということだと私は解釈しています。
そう考えた時に、映画『累 かさね』における「口紅」が引き起こす効果って面白いですよね。顔を入れ替えることによって、役者が自分とは異なる他人の人生を必然的に生きることとなるのです。
さらに、本作の終盤に登場する『サロメ』がこれまた興味深いポイントです。累はずっとサロメという人物を如何に演じるかという近代俳優術的アプローチに囚われていて、役に入り込むことができずにいたんですが、自分自身をサロメと同化させ、サロメの言葉を自分の言葉として語り始めることで、彼女は本物の「演技」に辿り着きました。
寒気がするほどに狂気的で美しい本作のラストカット。そこにいるのはサロメを演じる女優「累」ではなく、ただ女優「累」がいるのみです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は演劇の側面から映画『累 かさね』という作品を個人的な解釈に基づいて解説してみました。
とにかく土屋太鳳さんと芳根京子さんが素晴らしいということに尽きるのと、佐藤監督を初めとするスタッフ陣の映画の中で演劇をやろうというアプローチと原作の再構成が素晴らしくて、感激でしたね。
また、9月1日から上映されている『寝ても覚めても』という映画作品がこちらもイプセンの『野鴨』とチェーホフの『三人姉妹』に強く影響を受けている作品ですので、良かったらご覧になってみてください。当ブログでも解説・考察記事を書いております。
また、全14巻と少し長いですが、興味のある方は原作も読んでみると良いのではないかと思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
参考文献
- 内田健介『チェーホフの『かもめ』におけるニーナとトレープレフの運命』
- 手塚とおる「イプセンとチェーホフ」
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