【ネタバレあり】『永い言い訳』解説・考察:亡き妻を再び愛し始めるまでの永い永い旅路

アイキャッチ画像:(C)2016「永い言い訳」製作委員会

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『永い言い訳』の解説と考察を書いていこうと思います。

記事の内容の都合上作品のネタバレになるような内容を含みます。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

『永い言い訳』

あらすじ

作家の衣笠幸夫は、妻の夏子が友人と旅行に出かけたのを見送ると、愛人と不倫行為に耽ります。そしてその朝、自宅にかかってきた一本の電話。その内容は旅行に出かけた妻が事故死したというものでした。

実感が湧かないまま葬儀を迎えた幸夫。押し寄せたマスコミの手前、涙を流すふりをするも、涙は一滴もこぼれていませんでした。

ある日、妻、夏子の友人の夫、陽一が幸夫に電話を寄越してきます。虚無感に襲われ、執筆の手が全く進まなくなった幸夫は、トラックの長距離運転手を務める陽一の家で彼の子守を手伝うことになるのでした。

スタッフ・キャスト

監督は『ゆれる』や『ディアドクター』などの作品で知られる西川美和さんです。日本の女性映画監督の中では5本の指に入るであろう傑出した存在であることは間違いないでしょう。

当ブログでは西川美和監督のこれまでの作品の魅力をまとめた記事を書いております。過去作品のあらすじや感想・解説を読んでみたいという方は以下のリンクからどうぞ。

参考:『ゆれる』『ディアドクター』『夢売るふたり』の西川美和監督の魅力を徹底解説!!

また本作の撮影監督を務めたのが、山崎裕さんでして彼は是枝監督の作品を撮影してきたことでも知られています。『歩いても 歩いても』や『海よりもまだ深く』といった日常の些細な描写に宿る人間の小さな心情の変化を繊細なタッチで描き出すその技術が今作『永い言い訳』にも活かされています。

キャストにはアカデミー賞外国語映画賞を映画『おくりびと』で受賞した本木雅弘さんやこれまで数々の日本映画に出演してこられた深津絵里さんなど豪華俳優陣が終結しています。

中でも注目したいのが竹原ピストルさんでして、第90回キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞や日本アカデミー賞の優秀賞を本作で獲得しています。映画本編を見ていただければ、分かりますがもう圧倒的としか言えない演技です。これを見るだけでもこの映画を見る価値があるんじゃないかと思わせてくれます。

またこの作品で真平役を演じた藤田健心くんと灯役を演じた白鳥玉季ちゃんの2人の子役も素晴らしかったです。是枝監督と言い西川美和監督と言い非常に子役を撮るのが上手い監督だなと思いますね。

解説:家族とその喪失感を知るまでの永い永い旅路

今まで当たり前のように自分の傍にいてくれた人がいなくなる、それがどういう意味なのか、はたまたそれが自分の身に降りかかった時、自分がどう感じるのかなんて考えたこともありませんし、今の私には分かりません。

妻という存在の「死」に直面して幸夫と陽一は全く対照的な反応を見せます。妻を返せとバス会社の役員に対して激高し、感情的になる陽一。妻の葬儀に際して自分の世間体ばかりを意識して、涙を流したふりをする幸夫。

確かに2人の感情の表出だけを見れば、あの2人は対照的な人物に見えることでしょう。しかし、陽一も幸夫も同様に妻の「死」を受け入れられていないんですよ。陽一がトラックの中で1人、亡き妻が吹き込んだ最後の留守電を消せずにいるのは、彼が「死」を到底受け入れられていないからです。

幸夫もまたそうです。彼もまた自分の妻が「死」んだということが実感できずにいます。というよりも幸夫はもっと前の段階で行き詰っていて、家族を失ったことを悲しむ以前に、家族の何たるかを捉えられずにいます。

陽一の2人の子供もまた然りです。真平は葬儀の時に涙が出なかったことで、自分が薄情な人間なんじゃないかと罪悪感を感じている彼ですが、人知れず塾からの帰り道のバスで涙を流しています。灯もまた母親がいなくなったことで不安定になっています。

確かに人が死ぬこと、大切な人がいなくなるということは想像を絶するほどに悲しいことです。しかし、それが「悲しい」ことなんだと実感するまでには途方もない距離があるんだとこの『永い言い訳』という映画を見ていると感じさせられます。

この作品の中盤に非常に面白いシーンがあります。幸夫が作家「津村啓」としてドキュメンタリー番組の撮影でバス事故が起きた現場を訪れるのですが、現場に花束を添えて、手を合わせるシーンが何とも印象的です。

手を合わせるという「画」を撮ることだけが優先され、死者に祈りを捧げるという行為が形骸化し、手を合わせるというプロセスだけが表出する矛盾と欺瞞に満ちた行為。その行為を経ても感情の整理なんて少しもつきません。

『おじいちゃん、死んじゃったって』という家族を題材にした映画を見た時に感じたのですが「葬式」という儀式もまた1つのプロセスなんですよね。現代の人の「死」に伴うのは、バタバタとした忙しさと「葬式」といった儀式の準備や身辺整理など極めて事務的でかつ形骸化したプロセスの連続です。

そんな日々に忙殺されている間、人はもしかすると「死」をいうものに真に向き合えないのかもしれません。そうしたプロセスを経て、その日々から解放された時、ふと日常に還ってみて、ようやくその喪失感を感じ、はじめて「死」と向き合い始めることができる。

『永い言い訳』という作品は、そんな永い永い死と向き合うまでの旅路を繊細なタッチで描いた映画なのです。

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考察:深い深い罪悪感からの「赦し」

自分の妻がバスに乗ったまま崖から落ち、冷たい湖で溺れ死んでいる時、妻と一緒に寝ているベッドで他の女性と不倫をしていた幸夫。彼はその苦しみと罪を感じながらも無意識にそこから逃れようとしています。

マネージャーの信介は幸夫にこんな言葉を投げかけました。「子育ては免罪符」だと。幸夫は子育てをすることでその無垢さに触れることで自らの罪が浄化されていくように感じているのでしょう。

ヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』やソフィア・コッポラの『SOMEWHERE』のような作品がそうですが、大人が子どもと関わり合う中で、その純粋さに心を動かされるというのは、映画の中でもしばしば登場するシチュエーションと言えます。

また、幸夫は自分の妻がスマートフォンに残していた「もう愛してない これっぽっちも」というメッセージを見て、自らの罪を正当化しようとしています。妻が自分のことを愛していなかったのなら、自分が不倫したことをもう気に病む必要もないじゃないかと思い込もうとしているのです。

そうして幸夫という人物は必死に虚勢を張って、何事も無かったかのように生きていこうと努めます。しかし、そうやって思い込みを強めていくうちに、どんどんと自分の中で本当はそうじゃないって気づき始めたんでしょうね。というよりも最初から気がついていたのかもしれません。

幸夫は、父親の陽一に酷い暴言を吐いてしまい、その直後にトラック事故で死にかけた信介に自分の姿を重ねていきます。胸の内につっかえた罪悪感。しかしその対象が今目の前にいてくれたならば、「赦し」を得ることができます。

幸夫はそうして「赦し」を得た信介を見て、ようやく自分が感じている罪悪感がもはや「赦され」得ないものであることを知るのです。その事実に直面した時、彼は初めて愛した妻がこの世にいないということを悟ります。

本作にはキリスト教の讃美歌「もろびとこぞりて」という歌が用いられています。

キリスト教的な世界観においては、キリストの死と復活によって人間の現在が赦されるという構造が存在しています。これがキリスト教が「赦しの宗教」であるとも言われる所以なのですが、実は西川美和さんに関係の深い浄土真宗もまたキリスト教に近い「赦し」の思想を孕んでいます。

幸夫はまさにそんな自己を赦してくれる神の到来を待ちわびているようでもあります。

自分が犯した罪。目の前に「赦し」を与えてくれる人がいなくとも、その罪を告解すれば、いつかきっと「赦される」。

ラストシーンの陽光差し込む部屋で一人佇む幸夫の姿には微かに希望が顔を覗かせています。

考察:「人生は他者だ」という言葉に秘められた思い

本作の物語を経て幸夫が紡ぎ出した言葉は「人生は他者だ」というものでした。

これは意訳すると「自分の人生は他者ありきである。」ということではないでしょうか。

きっと幸夫は自分1人で生きているような気になっていたんでしょうね。だからこそ彼は生前の妻の思いを顧みようとはしませんでした。自分の知らないところで、妻が子供を設けたいと思っていたとしてもその思いを汲み取ろうとはしません。そして彼女を愛さなくなりました。愛せなくなりました。

それは妻という存在があまりにも彼にとって当たり前になりすぎてしまったからです。そうして彼は自分にとって目新しい刺激を与えてくれる女性と不倫行為を繰り返すようになります。

そんな妻が結婚以来ずっと切ってくれていた髪。これが本作の重要なモチーフになっているということは映画を見ているとお分かりいただけるでしょう。彼がこれまで人前に出ても何ら違和感ない髪型でいられたのは誰のおかげだったのか。家で何もせずともご飯が出てきて、きちんと洗濯されアイロンがけされたシャツを着ることができたのは誰のおかげだったのか。

「当たり前」のものが「当たり前」のもので無くなってしまった時、初めて人はその「当たり前」がいかに尊いものだったかということをまざまざと痛感させられます。

「人生は他者だ。」この言葉には、自分の人生は自分が無自覚のうちに支えてくれている人のおかげで成立しているものなんだという意味が強く込められています。だからこそ、そういう支えてくれる人たちに対して無感覚になってはいけないし、失う前にその大切さに気がつかなければならないのです。

映画のラストシーンで幸夫は長く伸びたその髪をようやく散髪する決断をします。それはこれまで「当たり前」だった妻の存在を特別な存在にする行為でもあります。

妻が整えてくれていた髪を結婚以来初めて他の人に整えてもらうというその行為は紛れもなく、妻という存在が「当たり前」ではなかったことを彼が実感し、受け入れたということを示しています。

幸夫は失って、初めて妻を「愛し」始めたのです。

おわりに

いかがだったでしょうか。

非常にざっくりと概要的な内容の解説と考察の記事にはなってしまいましたが、細かい作品内モチーフに焦点を当てた考察も今後追記していけたら良いなあと考えております。

西川美和監督の映画はやはり素晴らしいですよ。是枝監督が『万引き家族』にてカンヌ映画祭でパルムドールを受賞しましたが、彼女もこれに続ける存在だと私は思っています。

とにかく人物描写の造詣が深いですし、繊細な心情をセリフではなくきちんと映像で描き切ってしまうだけの技量がきちんと備わっていることが、映画を見ていて感じられます。

ぜひぜひ『永い言い訳』を見て、彼女の作品が気になったという方は他の作品もチェックして見ると良いと思いますよ。

個人的な一推しはやはり『ゆれる』です。

これは間違いなく一見の価値ありの映画なので、未見の方は良かったらチェックしてみてくださいね。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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