アイキャッチ画像:(C)2018 映画「響 HIBIKI」製作委員会 (C)柳本光晴/小学館映画/『響』予告編より引用
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『響 HIBIKI』についてお話していこうと思います。
記事の内容の都合上、核心に触れない程度のネタバレを含む感想と解説になると思います。
そのため作品を未鑑賞の方はお気をつけくださいますようよろしくお願いいたします。
良かったら最後までお付き合いください。
映画『響 HIBIKI』
あらすじ
学校1のブスマネージャー響は卒業式の日に嫌われ者の野球部の先輩に告白するのでした・・・。
あ、これは別のお話のあらすじでしたね。
みなさん、どうもすみませんでした!
詳しくは「響 芸人」で検索してみてね!!
気を取り直してここから映画『響 HIBIKI』のあらすじに移りたいと思います。
学校1の美少女・・・とまではいかないかもしれないが、普通に美人の女子高生、鮎喰響(あくいひびき)は文芸部の門戸を叩くのですが、そこは強面の先輩のたまり場となっていた。
響は、その中のリーダー格である隆也という男(後に海で蟹を見つけてはしゃぐ奴)に喧嘩を売られ、その喧嘩を買った彼女は先制攻撃として彼の指をへし折ります。
その後、部長の凛夏から部員が足りなくなったので、1人見つけてきて欲しいと依頼された響は、あろうことか隆也(後に海で蟹を見つけてはじゃぐ奴)に声をかけます。
隆也(後に海で蟹を見つけてはじゃぐ)は屋上に彼女を連れて行くと、飛び降りるよう指示します。そして今まさに飛び降りんと後者の淵に立つ彼女。その覚悟に心を動かされ、隆也(後に海で蟹を見つけてはじゃぐ奴)は再び文芸部の仲間になります。
そうして文芸部は凛夏、響、涼太郎、隆也(後に海で蟹を見つけてはじゃぐ奴)の4人で構成されることとなります。
時を同じくして、とある出版社の新人賞に1つの原稿が持ち込まれていた。タイトルは『お伽の庭』。作者は鮎喰響。
この原稿が日本中を揺るがす大騒動への発端となることはまだ誰も知り得なかった・・・。
スタッフ・キャスト
本作の監督を務めるのは、言わずも知れた月川翔監督です。
後ほど熱弁させていただくんですが、やっぱり月川監督は今日本で1番役者を生き生きと撮れる映画監督の1人だと思うんですよ。
他の映画ではそれほど輝いていなかった役者も、彼の映画に出演すると突然人が変わったように魅力全開になったりしていて、本当にとんでもない手腕を持っているな~と作品を見るたびに感動しております。
良かったら彼が監督を務めた映画『センセイ君主』の記事も読んでみてください。こちらでは月川監督と浜辺美波さんについて熱弁しております。
脚本を務めたのは、西田征史さんですね。私が大好きな『アフロ田中』という映画の脚本を書いた方なので、個人的には楽しみにしておりました。
まあ映画『信長協奏曲』の脚本なんかはお世辞にも素晴らしいとは言えませんでしたが、今回の映画『響 HIBIKI』では正統アイドル映画として、しっかりとした脚本に仕上げてきた印象です。
キャストについては後ほど詳しくお話していくので、簡単なご紹介だけに留めますね。
主人公の響を演じているのが平手友梨奈さんです。欅坂46の不動のセンターで、FNS歌謡祭の平井堅との『ノンフィクション』におけるソロダンスなどでも「表現者」として注目されるまさに「天才」と評されるに値する1人だと思います。今回は満を持しての映画出演ですね。
そして日本を代表する小説家、祖父江秋人の娘で、文芸部部長であり、響のライバルにも当たる凛夏をアヤカ・ウィルソンが演じています。『パコと魔法の絵本』のパコ役で注目された女優で、今作でも素晴らしい演技を披露していました。
また小栗旬さん、北川景子さんらの月川組常連も参加しています。北川景子さんに関しては、『センセイ君主』にロッキーのパロディをするためだけに出演していたという程の常連っぷりです。
その他映画の情報が気になる方は映画com.さんのサイトを参照してみてください。
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映画『響 HIBIKI』感想・解説
正統派アイドル映画としての素晴らしさ
(C)2018 映画「響 HIBIKI」製作委員会 (C)柳本光晴/小学館映画/『響』予告編より引用
『響 HIBIKI』という作品はもちろん柳本光晴さんの原作を実写化した作品にはなるんですが、それ以上にやはり欅坂46に所属する平手友梨奈のアイドル映画であるという側面は否定できないでしょう。
ただそこはさすが月島監督でして、彼女を引き立てるための演出や他のキャストの使い方を徹底しています。
やはり注目したいのが、あれだけの豪華キャスト全員を平手友梨奈演じる響に従属する存在に落とし込んでしまう大胆さですよね。この『響 HIBIKI』に登場するキャラクターは全員が響のキャラクター性や魅力を引き出すためだけに機能しているわけです。
例えば柳楽優弥演じる田中康平というキャラクターは、新人賞を響と共に受賞したにも関わらず、彼自身の物語には微塵もスポットが当たりません。
ただ彼女に暴力を振るわれながらも、その作品の素晴らしさを認めるという「出囃子装置」みたいな役割を果たしています。
同じく小栗旬演じる山本春平もそうだと思います。
彼って原作では響の言葉に動かされて、もう1年作家として努力すると決意し、翌年の芥川賞を受賞するという物語があるんですが、映画では自分の才能に絶望して、自殺しようとしていたところで響の言動に衝撃を受ける、それだけのキャラクターなんです。
彼の物語は完全に響に従属していて、もはや響に励まされるために芥川賞を目指して、落選したかのようです。
こういったたくさんの「出囃子装置」を作品に配置しておくことで、映画『響 HIBIKI』はひたすらに平手友梨奈ないし彼女が演じる響を輝かせるためのアイドル映画として正統に機能しています。
また本作のアイドル要素はキャスト陣の配置や使い方だけには留まりません。
この映画にはとあるセリフが何度も響に投げかけられていました。
そうです。この「彼氏いるの??」っていうセリフは言わばアイドルのタブーに踏み込もうとする質問なんですよね。
この質問が投げかけられるたびに響は、すごく過剰に反応して、その場から立ち去ろうとしたり、記者のカメラを破壊したりしています。
アヤカ・ウィルソン演じる凛夏が作家の鬼島仁に「援交してるんじゃないの~?」という類のセクハラを受けている時に響が激高して、彼の顔面に「蹴り」を入れますが、これもアイドルのタブー的なゾーンに踏み込んだ質問です。
アイドルは「恋愛禁止」という十字架を背負っているわけですが、その裏で「彼氏」や「援交」と言った黒いワードが飛び交っているのも事実ですし、そういった心ない疑惑がかけられることでアイドルのイメージに傷をつけられることもしばしばです。
平手友梨奈演じる響はそんな「アイドルを陥れる黒いワードたち」をぶっ壊すことで、作品の中で「アイドル」として際立たされているんですよね。
他にも細かい演出ですが、響の冒頭の鉛筆の音が、凛夏や山本春平のパソコンのタイプ音と対比的に描かれていたり、彼女の暴力演出もそうですが、作品の中で異質感のある存在として現前させることに徹底的に成功していて、平手友梨奈のアイドル映画としては100点をつけられる内容だったと思います。
「才能」を映画の中で描き出すことの難しさ
映画や小説、マンガの中でしばしば題材として扱われるのが、「圧倒的な才能」です。
今回の映画『響 HIBIKI』では、主人公の響の圧倒的すぎる作家としての才能が描かれていました。ただこれを映画やマンガの中で表現するのは、非常に難しいんですよね。
今作では、基本的に響や江凛夏が著した小説の概要ばかりが描かれて肝心の文章そのものはほとんど読ませてくれないんです。
文学作品ってもちろん物語の設定や発想も大切ですが、高く評価される作家の素晴らしさの本質はそこにはなくて、文体だと思うんです。
物語がどれだけ平凡でも文体に書き手の才能が溢れていれば、それを「読ませる」ことができるんです。それこそが作家の力量の見せどころだと思いますし、ここが優れている作家が「天才」だと称賛されることになるんですね。
例えば、私の大好きな町田康さんの『くっすん大黒』という作品の冒頭を少しご紹介させてください。
もう3日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの?あきまへんの?ほんまに?一杯だけ。あきまへんの?ええわい。飲ましていらんわい。飲ますな。飲ますなよ。そのかわり、ええか、おれは一生、Wヤングのギャグを言い続けてやる。君がとってもウイスキー。ジーンときちゃうわ。スコッチでいいから頂戴よ。どや。滑って転んでオオイタ県。おまえはアホモリ県。そんなことイワテ県。ええ加減に̪シガ県。どや。
(文春文庫『くっすん大黒』町田康より引用)
これ凡人の私が文章にすると、「酒飲みたい!」の一言で終わるような本当に中身のない感情を膨らませて、町田さんが小説の冒頭に採用しているんです。
確かに物語としてみると、平凡であるとか以前の問題ですが、これを読んだだけでこの書き手に「才能」があることは瞬時に判別がつきます。ダラダラの語っているだけの文章に見えて、ライム感やリズム感が徹底的に計算されている音楽的な文章になっているんですよね。
つまり作家の才能を図るためには、やはりその作家が書いた文章を読まなくては判別できません。あらすじを聞いて作品の概要を知ったくらいでは、その作家が「天才」かどうかなんて図り様もありません。
先ほど紹介した町田さんの『くっすん大黒』だって、作品の概要を説明するならば「仕事を辞めて、酒ばかり飲んでいる男が部屋に転がるくすんだ大黒様を捨てに行く」というだけの話になってしまいます。
それを聞いて、町田康は「天才」だと思う人はまずいないでしょう。しかし、文章を読むと彼の才能の片鱗は、冒頭1ページだけでも伝わってきます。
だからこそ、劇中での響のセリフが大切なんですよね。
まさにその通りです。結局のところ文学の良さは、まずその人の文章を読んでみないことには何もわかりません。それはあらすじを知ったところで映像を見ないと良さなんて微塵も分からない映画というメディアにも共通していることです。
でも、こんなド正論のセリフをぶつけてくる映画がなぜか「小説を読ませてくれない」んですよね(笑)
それがこの映画のいちばん見えやすい弱点でもあります。
思わずこんな小言を言ってしまいそうになります。
映画『響 HIBIKI』を見ていた時に嫌でも思い出されたのは、『BECK』という漫画の実写化映画でした。この映画私がまだ中学生くらいの頃に映画館で上映されていて、友人が原作の大ファンだったこともあって映画館に見に行きました。
この作品は音楽が題材になっていて佐藤健演じる主人公が天才的な歌声を持っているという設定です。友人と一体どうやって「天才の声」を演出するんだろうかと楽しみに見に行ったのですが、何と映画『BECK』は佐藤健の歌唱シーンだけ無音という荒業を使ってきたんです。
とにかく映画や小説、漫画の中で「圧倒的な才能」を描くのは、難しいんです。というよりも精緻に描写するのは不可能に近いです。
結局そこです。「圧倒的な才能」を持っている人というのは、どこの世界にもいるものですが、それを題材にフィクションを作る人がそれを持ち合わせているかというと必ずしもそうではありません。
もっと言うなれば、そんな素晴らしい作品をフィクションの中のモチーフとして登場させるくらいなら、そもそも本として出版するでしょう。
やはり才能モノのジレンマは『BECK』の無音歌唱シーンの頃から変わっていないんだなと痛感させられる映画でもあっったと思います。
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自分を認めてくれる存在の大切さ
これはこんなブログを書いている私だからこそすごく共感できたという部分もあるのかもしれませんが、本作で描かれていた江凛夏が父に認められて、もう一度小説を書こうと決意するシーンが大好きなんですよ。
というのも私も含めてですが、人が何かに取り組む時、顔も見えない大多数の人間に自分を認めてもらいたいというよりも、自分が「認めて欲しい誰か」に認められたいと思うのは当然の感情だと思います。
たくさんの「誰か」ではなく、ただ「あなた」に認めて欲しいという思いを誰しも内に秘めているはずです。
そして凛夏にとってはそれが父であり、響だったんでしょうね。
だからこそ彼女は響が自分の『四季降る塔』を認めてくれなかったことにショックを受けていましたし、逆に世間でどんな反応を受けようと、父に認められたことで彼女の承認欲求は満たされました。
私のブログにも、当ブログ黎明期からずっと読んでくれている方がありがたいことにいらっしゃいますし、そういう方はしばしばレスポンスをくれ、「今回も面白かったです。これからも楽しみにしています。」とコメントをくださいます。
今回『響』という作品を見て感じたのは、私はこういうずっと読みに来てくださっている方に「面白くない。」と言わせてしまったら終わりだなということです。
より多くの「誰か」に読んでもらいたいという向上心がないわけではありませんが、これまでずっと読み続けてくれている方々に、認めてもらえるような文章を書き続けられるように努力を重ねていきたいと思いました。
皆さんも、自分の身近にいて、自分を支えてくれ、認めてくれる人を大切にしてくださいね。
原作マンガと比較して
映画を見た後に原作の方もチェックしてみました。
映画版は原作からかなり登場人物を削っているんですよ。
例えば原作には中原愛佳という自分の本を2作品出版したものの売り上げが伸びず、出版社から今後出版するのは厳しいですと宣告されてしまった作家が登場します。
彼女が偶然、響の短編が掲載された部誌を読んで、自分の才能の無さを嘆き、作家を辞めてしまうというエピソードが描かれているんですが、響を際立たせるためのエピソードとして個人的にはあまり好きではないです。
「彼女はその後幸せな生涯を送った・・・。」という彼女の決断を擁護するような記述があるんですが、いくら主人公の引き立てだとしてもこのエピソードは見たくないなぁという内容だったので、映画版で丸ごとカットされていたことに好印象ですし、ストーリーがスマートになりましたね。
他にも原作に存在している響を引き立てるための登場人物やキャラクターを適宜カットしているんですが、きちんと意図が分かるカットですし、原作の間延び感もなくなって、映画版の脚本は全体的に洗練された印象があります。
そう!!これをカットしたのは間違いなく英断だったと思います。原作の響にはもっと「普通の女の子」感を醸し出す演出が多く登場するんですよ。それこそ涼太郎に「かまってほしい」みたいな等身大の女子高生感と言いますか。
ただそれを2時間の映画で描いてしまうと、響というキャラクターの軸がぶれて、間違いなく彼女の異質さや特別さを表現できなかったと思いますし、何より話の筋がぶれて物語としての完成度も低下していたと思います。
月川監督は映画『君の膵臓をたべたい』でも、メインキャラクターの2人に「恋愛臭」を漂わせないように徹底的に注意を払っていたと仰っていましたが、今作でも響と涼太郎の恋愛演出を映画から排除することで、物語をよりスマートにすることに成功していました。
こういう取捨選択がきちんとされているからこそ、映画『響』は素晴らしい出来になっていたんだと原作を読んで改めて感じました。
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月川監督、うっかりアヤカ・ウィルソンを発掘しちゃったの巻
さて、日本映画界の「才能発掘屋」だと私が勝手に思っている月川監督ですが、今回は平手友梨奈の魅力を引き出すんだ!と意気込んでいたと思います。
ただ月川監督、今回うっかり平手友梨奈ではなくアヤカ・ウィルソンの才能を掘り当ててしまっていましたね。
先ほども『響 HIBIKI』はアイドル映画として洗練されているという点をお話しましたが、この映画の唯一の誤算は響のライバル役として平手友梨奈を引き立たせるための舞台装置の1つであったはずのアヤカ・ウィルソンが完全に響を飲み込んでしまっているところだと個人的に感じました。
いわゆる「頭が空っぽそうな」女子高校生を全力で鎧として纏いつつも、その内側に秘めた父の名声に伴う苦悩であったり、圧倒的な才能への嫉妬であったり、ティーンエイジャー特有の悩みだったりを完璧に映像の中で表現しきっていたのが素晴らしかったですね。
平手友梨奈が響というキャラクターを完璧に「演じている」一方で、アヤカ・ウィルソンは凛夏として映画の中で「生きている」ようにすら見えました。
こんなに素晴らしい演技をする女優がこれまでにどんな作品に出演してきたのかを知りたいと思い、彼女のフィルモグラフィーを調べてみたところで、私は唖然としましたよ。
- 『パコと魔法の絵本』:パコ 役
- 『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』:クレム役
- 『矢島美容室 THE MOVIE〜夢をつかまネバダ〜』:メアリー役
- 『昆虫物語 みつばちハッチ〜勇気のメロディ〜』:アミィ役
日本の映画界はなぜこんな才能を今まで眠らせてきたんだ?と愕然としました。(アヤカ・ウィルソンさんは学業に専念されていた時期もありましたが)
しかしですよ、ここで私はふと気がつきました。アヤカ・ウィルソンという映画への出演歴がほとんどない女優がいきなりここまで輝けたのは、月川監督の功績も大きいのではないかということにです。
少しヒッチコックの映画の話をさせてください。映画と演技というものを語る上でヒッチコックという映画監督のモンタージュ理論は避けては通れない道です。今回は彼の代表作である『サイコ』を例に挙げます。
『サイコ』と言えばやはりノーマン・ベイツを演じたアンソニー・パーキンスが有名です。彼はこの役で一躍有名になったのですが、その後伸び悩み、薬物スキャンダルなども飛び出したことでどんどんと役者としてのキャリアを暗いものとしていきました。
『サイコ』におけるアンソニー・パーキンスの演技はあらゆる映画の中で10本の指に入るベストアクトであると断言できます。ただ、この名演技は必ずしも役者に依存していたものではないことがヒッチコックのモンタージュ理論やアンソニー・パーキンスのその後のキャリアを見ても明らかです。
ヒッチコックは基本的に演劇的な演技を嫌っていて、役者にはとにかく「動線」だけを意識させていたと言います。そのため役者はそのシーンがどういうシーンなのかもわからないままで撮影に臨むことも多かったようです。
では、どのようにして「演技」を作り上げるのかというと編集です。ヒッチコック監督は役者と自分の演技の意図のズレを嫌っていて、とにかく自分の意図するそのままの演技を欲していました。だからこそ役者には「動線」のみを意識させ、編集でそこに意図や心情を宿らせていったわけです。
そのためヒッチコックの映画で生き生きと輝く役者の姿を支えているのは、役者の魅力以上に監督の力という側面が大きいのです。
さて、月川監督に話を戻すとしましょう。
私は、彼もまた俳優の魅力を120%引き出せる映画監督だと思います。ただ、インタビュー記事なんかを読んでいるとそのアプローチはヒッチコックのものとは異なります。
『君の膵臓をたべたい』の際の月川監督のインタビュー記事を読ませていただきまして、その一節を引用させてください。
本番では、あまりにも(北川さんの)芝居が素晴らしくて、僕も感動してしまってカットって言えずにいたら『なんでこのタイミングなの馬鹿!』って台詞が北川さんからアドリブで出たんです。“うわーこれは恭子だったら絶対言うね!”って台詞が飛び出した。こんなにうまく行くかなと思うくらい上手くいったシーンでした。北川さんは、カットがかからなかったから、なにか言わないといけないととっさにアドリブでセリフつくってくれたのが本当に最高によかった。
月川監督はヒッチコックとは対照的に役者に多くの部分を委ねている監督なんじゃないかな?と感じさせられる一節でした。
彼は『となりの怪物くん』や『センセイ君主』でも同じようなアプローチを取ったそうですが、あえてカットをせずにカメラを回し続けることで役者のアドリブを引き出し、それを自分の構想に組み込んで行っているような印象があります。
それはキャストの起用の際もそうですよね。月川監督とアヤカ・ウィルソンのインタビュー記事にこんなことが書かれていました。
僕は響という存在が凛夏の前に現れたときに感じる”悔しさ”が、彼女の肝だと思っていたのですが、その部分がストレートに表現できるのではと思ったんです。あとは、面談が終わって部屋を出ていくとき「やりたい」って小声でつぶやいたんです。
そのとき凛夏をやるのはこの人だと思いました。たくさんある仕事の一つではなく、このキャラクターに勝負を賭けてくるなと感じたんです。
自分がこのキャラクターにはこんなイメージのキャストというのをきちんと持ち合わせていることを前提として、それを俳優に当てはめてしまうのではなくて、きちんと役者そのものを見た上で、自分のキャラクターのイメージを再構築していっているんだと思います。
ある意味「受け身」なキャスティングとも言えますよね。ただそういう役者自身の魅力をキャラクターの一部のように捉えて、そこにフォーカスしていく月川監督だからこそ、映像の中であれだけ俳優を生き生きと描けるのでしょう。
行列のできる法律相談所に月川監督と平手さんが出演されている回を見たのですが、平手さんが最初の顔合わせの時に、脚本に指摘を入れたそうなんです。というよりも脚本に対して「つまらなかった」と発言したそうなんです。
これが平手さんを響というキャラクターに近づけるための宣伝なのか、真実なのかは分かりませんが、それを月川監督がきちんと受け入れて、脚本家に説明したというエピソードは、非常に彼の映画に対するスタンスを表していたように思います。
ヒッチコックが自分ファーストで映画を撮っていたのであれば、月川監督は役者ファーストで映画を撮っています。そしてそこに彼が役者の魅力を120%引き出せる秘密があるのでしょう。
自分の設計図に演技を組み込んでいく前者と、自分の設計図を役者の演技に合わせて柔軟に変化させていく後者。役者の演技というものが役者の技量だけで決まるのではないのだということを改めて教えてくれますね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は大好きな月川監督の作品ということでかなり気合を入れて書いたつもりです。
月川翔監督の名前をこの記事を読んだ方は是非とも覚えて帰って欲しいです。今後日本の映画界において重要な存在になることはもはや間違いない人です。
彼の今後の作品が楽しみで仕方ありません。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。