【ネタバレあり】『フリクリ プログレ』感想・解説:進歩的というより原点回帰の真っ最中だった。

アイキャッチ画像:(C)2018 Production I.G/東宝

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『フリクリ プログレ』についてお話していこうと思います。

本記事は一部作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。そのため作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

『フリクリ プログレ』

新規ファン完全置いてけぼりの正統続編!

いやはやあの賛否両論を巻き起こした『フリクリ オルタナ』の公開から約3週間が経過しまして、ついに『フリクリ プログレ』が公開されました。

どうやらアメリカではプログレが先に放送されて、今ちょうどオルタナが放送されている最中のようです。なぜ日本で公開順が変わったのか?を考えてみた時に、プログレがあまりにも新規ファンを取り込むのには向いていないコンテンツであることが挙げられます。

『フリクリ プログレ』はオリジナル版の続編であると考えても差し支えない世界観と内容になっているのに対して、『フリクリ オルタナ』はオリジナル版とは距離を置いた内容になっているうえに、非常に見やすい作りになっているので新規の方でも比較的物語に入り込みやすい側面があります。

そういう視点で考えた時に、少しでも入り口を広くして興行収入を伸ばしたいという思惑が日本でのプログレとオルタナの公開順変更の原因になっているのではないかということは作品を見ていて感じました。

『フリクリ オルタナ』はオリジナル版を見ていない人でも十分に理解できる内容になっていましたが、『フリクリ プログレ』はそういうわけにはいきません。

ナガ
一見さんお断り感が強すぎるよね(笑)

とにかくまずはオリジナル版を鑑賞してから、映画館に向かわれることをおすすめします。

あらすじ

ヒドミは夢を見ています。夢の中で彼女は朽ちていく肉体を引きずりながら歩いており、迫りくるアイロン型のプラントを身体を変形させて撃退しています。

目を覚ますと、彼女は何気ない日常に戻ります。

ネコミミのついたヘッドフォンを常に身につけている彼女は、自己と他者の間に壁を作り、聞きたくないことは聞かないようにしながら学校生活を送っています。

ある日、自宅の前でジンユの乗るベルベアに跳ね飛ばされたヒドミ。それをきっかけに彼女の額からは角のようなものが生えてきます。

時を同じくしてクラスメートの井出の前にハルハ・ラハルが現れ、彼にもN.O.の兆候が表れていました。

ラハルとジンユ、ヒドミと井出。そしてアトムスク。

彼らの戦いは一体どんな結末を迎えるのでしょうか?

スタッフ・キャスト

ナガ
まずはスタッフだね!!

いつも通りに監督から紹介していきたいんですが、『フリクリ プログレ』の監督って実は毎回異なっているんですよ。

つまり全6話構成なので6人の監督がいるということですね。

名前だけを挙げておくと、荒井和人、海谷敏久、小川優樹、井端義秀、末澤慧、博史池畠の6人です。

博史池畠さんなんかはこれまで多くのテレビアニメ作品の演出や監督を担当されてきた方ですが、他の方って基本的には原画や作画、動画が主戦場のゴリゴリのアニメーターです。

その中でも私が個人的に印象的だったのが、末澤慧さんですね。

今回の『フリクリ プログレ』は第5話の『フルプラ』だけ極端に作画のタッチが違うんですよ。

予告編で見ると、このシーンなんかは第5話のものですね。

(C)2018 Production I.G/東宝

パンフレットを読んでいると末澤監督は、この演出を施す際に『かぐや姫の物語』を参考にされたと言います。

原画の枚数を増やして、中割りの枚数を減らすことで原画独特の味のある線を映像の中で生かそうという試みというわけです。

正直に申し上げて『フリクリ オルタナ』がかなり作画的な部分で残念なところが多かったので、『フリクリ プログレ』では気鋭のアニメーターたちの趣向を凝らした映像を見ることができて、非常に満足しております。

『フリクリ』という作品がアニメーター見本市的な扱いになってしまった感もありますが、それでもそれぞれの個性がきちんと出ていましたし、個人的には良かったと思いますよ。

脚本は劇作家、俳優としても知られる岩井秀人さんですね。父と兄から暴力をふるわれる家庭環境で育ったという暗い経歴を持っていることもあってか、作品にすごく闇を感じさせるモチーフを入れてきますよね。

特に『フリクリオルタナ』『フリクリプログレ』ではスラム街が登場したこともそうですが、「貧困」や「経済格差」のモチーフを作品に導入していました。

そしてキャラクター原案には、オリジナル版の『フリクリ』でもお馴染みの貞本義行さんが参加されています。

本作のメインキャラクター6人(おそらくヒドミ、井出、ジンユ、ラハル、吾郎、マルコだと思われます)の原案を担当されており、特に粗い線のタッチで表現された第5話の作画スタイルだと貞本さんらしさが際立っていて、懐かしい気持ちになりました。

ナガ
続いてはキャスト!!

主人公のヒドミを演じるのは、今若手女性声優の中で最も人気があると言っても過言ではない水瀬いのりさんですね。特徴的な声なので、一度聞くと耳から離れません。

そしてハル子が分裂した人格という設定のハルハ・ラハルを林原めぐみさん、ジンユを沢城みゆきさんという超豪華声優陣が担当されています。

ナガ
ただラハルが新谷真弓さんじゃない意味がイマイチ分からないよね・・・。

そうなんですよ。まあ人格が2つに分かれているという設定があるので、ギリギリ許容はできるんですが、ラハルはもうまんまラハルなんですから、普通に新谷さんが演じてくださった方が違和感がなかったと思うんですけどね。

そしてヒドミのクラスメート井出を演じるのが福山潤さんです。

ナガ
最後に主題歌!!

主題歌を担当されているのは言わずも知れたthe pillowsさんで、曲目は「Spiky Seeds」です。

この曲めちゃくちゃかっこいいですよね。CDを購入して何度も聞いてはいたんですが、やはり劇場の音響で聞くと感激でした。

よし詳しい作品情報は公式サイトへどうぞ!

参考:映画『フリクリプログレ』公式サイト

感想:これは続編的立ち位置の作品だ!

『フリクリオルタナ』はあくまでも続編という作りにはなっていなかったんですが、今作『フリクリ プログレ』に関しては完全にオリジナル版の続編的な立ち位置に当たる映画として作られています。

まずは、やはりラハルとアトムスクの物語がきちんと前作と地続きになっている点を指摘せねばならないでしょう。

劇中でジンユがラハルに対して「一度アトムスクに逃げられていること」に言及する場面がありましたが、これがオリジナル版で彼女がナオ太を利用して、アトムスクを呼び出そうとした一件のことですよね。

ラハルがアトムスクに恋愛めいた感情を抱いていることに、疑問を感じた方もいらっしゃるかもしれませんが、小説版では彼女のアトムスクに対する思いがこのような形で表象しています。

熱いまなざし。ギターを手にした赤いカンチの勇姿を、頬を染めうっとりと見上げているのは、なんとハル子だ。ハルハラ・ハル子は恋する少女にもどっていた。その想い人は、いま目の前にいるのだ。

(角川スニーカー文庫『フリクリ3』より引用)

つまりハルハ・ラハルがアトムスクに甘い感情を抱いており、追いかけ続けているという物語はオリジナル版から『フリクリ プログレ』へと確かに続いているのです。

他にもオリジナル版のキャラクターである「眉毛」が印象的だったアマラオの息子としてマスラオという人物が登場しましたよね。

またそういったキャラクター設定的な側面だけではなくて、物語の精神性的な部分でも前作を想起させる要素が数多く内包されていたように思います。

例えば主人公のヒドミの描写はどうでしょうか。彼女は常にヘッドフォンを身につけていて、聞きたくないことは聞かないようにして生きています。そんな彼女の姿はオリジナル版のナオ太が「本番ではバットを振らない子」であったことに通じる部分があります。

他にも父の帰りを待ちわびているヒドミの母ヒナエの描写は、前作で「タッくん」を待ち続けていたマミ美を想起させます。

ストーリー構成も『フリクリオルタナ』はキャラクターごとのエピソードを各話で完結させるという横視点からのものになっていましたが、『フリクリ プログレ』ではオリジナル版同様の縦視点からの、それぞれの登場人物のエピソードが交錯する構成に仕上がっていました。

『フリクリ プログレ』はオリジナル版への原点回帰的な側面を多分に孕みつつも、「その後」を描いた正統続編とも言える内容になっているんですね。

スポンサードリンク



解説:人は失った分だけ必ず何かを手に入れる。

『フリクリ』の小説版第3巻のあとがきで脚本家の榎戸洋司さんがこんなお話をされているんです。

人は失った分だけ何かを手にし、また手に入れた分だけ何かを失う。僕は以前からこの言葉を最初に思いついた人間はすごいと思っていました。

たとえば、大切な宝物を失うと、代わりに”宝物を失った喪失感”が手に入ります。

あるいは長年の夢を実現するときには代わりに、”実現しようとする情熱”を失ったりします。

このように失うことは得ることであり、また得ることは何かを失うことです。

(角川スニーカー文庫『フリクリ3』より引用)

私はまさに『フリクリ』という作品を通底する主題の1つだと読んでいて思いました。

まず『フリクリ』のメインの1つとなる「大人になること」というテーマについて考えるならば、大人になるということは子供の自分を捨てることでもあります。だからこそ子供のあいだは、子供の自分を捨て去ってしまわずに「らしく」生きろよ!「大人ぶって」生きるなよ!と教えてくれているような気がするものです。

しかし、この何かを失って、何かを得るという交換方式を拒もうと貪欲な欲望をむき出しにしているのが、ご存知ハル子だったわけですよね。彼女がアトムスクという存在に対して示していた執念はそういう類のものです。何も失わずに、大切なものを手に入れたいという強い思いが彼女には宿っています。

そしてその思いが『フリクリ プログレ』まで続いているんですよね。

「ないものをあるものにしたいなら、今あるものを差し出せ。そうでないのなら力づくで掴み取れ。」

本作のハルハ・ラハルがヒドミに対して告げた言葉の中にこんなのがありましたが、これがオリジナル版から脈々のハル子というキャラクターの中に流れていた考え方なのでしょう。

夢という安全圏にいたヒドミ

『フリクリ プログレ』の中で主人公のヒドミが夢を見ている描写がしばしば挿入されます。

夢の中での彼女はロボットに変形して戦いに興じてみたり、他人からカニバリズムの憂き目に遭ったり、ゾンビごっこをしてみたりと現実の「何も特別なことがない」日々とは180度異なる物語を経験しています。

ではこの作品の中における夢というモチーフをどう解釈するのかというと、私は「夢というのは安全圏」であると説きます。

つまり、夢の中であれば、何も差し出さずとも何かを手に入れられるんですよ。ヒドミは夢を見ながら笑顔になっているシーンがあったことからも、自分が夢で見ているような「非現実」に憧れている節があります。

夢の中で、いくら肉体が朽ちていこうと、肉体が食い荒らされようと現実の自分が何かを失うことはありません。しかし、現実の自分が一たび肉体を失うようなことがあれば、もう戻ることはありません。

だからこそ夢という場所は可逆性を有した安全圏なんですよ。そこにいる間は何も差し出さずに済みます。

しかし、彼女の夢は少しずつ現実に侵されていくこととなります。それは夢という安全圏が、現実という危険区域に浸食されていることを示してもいます。

ヒドミはヘッドフォンを装着することで「聞かないふり」をし、現実を受け入れないように抗い続けていました。ただ、それが崩れていくこととなるわけです。

そうして夢と現実の境界が曖昧になっていきます。第4話の『ラリルレ』での人格は彼女が夢の中で見せていたものですし、第5話以降は夢の中の自分だったN.O.を身に纏って戦う姿が現実のものとなっていきます。

これまで、夢という安全圏で何も差し出すことなく、何かを手に入れてきた彼女。それが現実になってみて初めて、何も失わずに得られるものなどないんだと悟ります。

しかし、ラハルの「ないものをあるものにしたいなら、今あるものを差し出せ。そうでないのなら力づくで掴み取れ。」という言葉に感化され、彼女もまたこの世の「交換の摂理」に抗うかのように戦うのです。

『フリクリ プログレ』という作品をヒドミの成長譚として読み解くのであれば、受動的な「交換の摂理」の無視の享受から、能動的な「交換の摂理」への抵抗へと転換したことと捉えることができます。

これは等価交換ではない

ここまで述べてきた「交換の摂理」に関してですが、面白いのが失うものと得るものは決して等価ではないということです。

それは神の視点というコンセプトを知ることにより、目的や価値は絶対的なものでなく”ある程度は変更可能なもの”であることを教えられるからです。そのことは大きな挫折をしたときなどに、あるいは救いの力になるかもしれません。

(角川スニーカー文庫『フリクリ3』より引用)

神の視点から失うものと得るものが常に等価交換であると言ってしまうことができますが、人間の視点で世界を見る時、この2つは必ずしも釣り合ってはいないと思うんです。

それを表現するために描かれていたのが、劇中のアイコを巡る「レンタル彼女」の一連の描写だと思うんです。

アイコは「レンタル彼女」の代金として法外な金額をモテない男性から分捕っているわけですが、その代わりに植木鉢や木彫りのクマといった物品を手渡して、それを購入したという体にしています。

もし自分にガールフレンドがいなければ、アイコという女性に数時間連れ添ってもらう行為には価値があるわけで、10万円近い金額の支払いはあの植木鉢と釣り合っているのかもしれません。

しかし、ガールフレンドがいる人間からそれを見たとしましょう。すると、アイコという女性に連れ添ってもらうことには何の価値もないですよね。当然、植木鉢に10万円近い金額を支払うことなど考えられないわけです。

榎戸洋司さんも指摘しているように、人間がそれぞれの視点から価値を測るという事情があるために、「交換の摂理」における客観的な等価性というものは保証され得ないんですね。

目的を変更し、価値を操るということ

「これで目的は違えど、目的地は同じになった」とい趣旨の会話が第3話『ミズキリ』の終盤にジンユとラハルの間で為されていたように思いますが、先ほどまでも述べてきたように人が「価値」というものを決定づける最大の要因は「目的」です。

つまり、いくら求めているものがアトムスクという共通のものであったとしても、目的が違ってしまえば2人が見出す価値は全く異なるということになりますから、当然相いれないということになります。

「目的を変更し、価値を操るということ」これは、オリジナル版でも多く見られてきたことですよね。つまり人を思うこと、恋愛です。

自分が愛する人に対して感じている思いを他の人も同様に共有しているなんてことはまずありえない話ですよね。

ヒドミにとって井出という男性に価値があるのは、彼女なりの「目的」があるからですし、ラハルにとってアトムスクに価値があるのもまた彼女なりの「目的」があるからです。

『フリクリ プログレ』という作品で、恋愛というモチーフに強くフィーチャーしたのは、恋愛が「目的が価値を決定づけるという事象」の最たる例だったからではないかと思います。それでいて、「目的を変えれば価値が変化するという事象」の最たる例でもあります。

自分の「目的」が一たび変わってしまえば、昨日までは愛する人であった他者が、何の変哲もない他者へと降格してしまいます。恋愛とはそういうものでもあります。

ヒドミの母親であるヒナエ。彼女があの街でカフェを続けている理由は何かと聞かれると、それはひとえにM.M.に行ったっきり戻ってこない自分の愛する夫を待つためなんですよね。

しかし、その目的を少し変えてみるとどうでしょうか。彼女は自分の娘ヒドミの「帰る場所」であり続けるためにカフェをあの街で続けるのだとしたら。

このように自分の中にある「目的」を変えることで、自分を取り巻く世界の価値構造が変化していき、これまで絶対的に思えた何かが急激に価値を失うのです。

ヒナエはそうして失った何かを取り戻そうとするのですし、再びアトムスクを逃したラハルも自分の中にある異なる目的の表象たるジンユの存在を受け入れます。

『フリクリ』の美徳とは何なのか?

人は生きている限り大切な何かを失うときが必ず訪れます。

そんな時にあっても目的を変化させることで、価値構造を変動させ、貪欲にも何かを得ようと試みることができます。

『フリクリ』において常に一貫しているのは、何かを失うことが悪ということではなく、何も得ようとしないことが悪であるという姿勢です。

つまりオリジナル版であれば、「バットを振らないこと」が悪なのであり、『フリクリ プログレ』では「ヘッドフォンを外さないこと」が悪なのです。

何かを失えば、何かを得ようとする。何も失わずとも、何かを得ようとする。

そういう貪欲さこそが『フリクリ』の美徳なのであり、 オリジナル版の脚本を担当された榎戸洋司さんの思う『フリクリ』の、ハル子の精神の正体なのではないでしょうか。

だからこそそんな精神性を同様に有した『フリクリ プログレ』は、オリジナル版の血を受け継ぐ正統続編たる作品と形容できるのではないかと私は思うのです。

スポンサードリンク



おわりに:『spiky seeds』と原点回帰

『フリクリ』というセンチュリープラントが気高く咲き誇ったのは、今からもう15年以上も前の話です。

時代は移り変わり、社会は大きく変動しました。そしてそんな時代性を映し出した『フリクリ オルタナ』ではあのハル子というspiky seedsですらその在り方を変えてしまっていました。

『フリクリ オルタナ』に登場したハル子は、アトムスクへの情熱を失っているようにすら見受けられ、その懐かしい出で立ちとは対照的な一挙一動に複雑な感情を抱いたものです。

しかし、一方で『フリクリ プログレ』という作品は時が止まっているようですらあります。

スマートフォンというモチーフが登場する上に、アマラオの息子が登場するわけですから時が止まっているという表現は厳密には誤りです。

それでも『フリクリ プログレ』の中には、2000年代の危うい空気感を閉じ込めたオリジナル版の雰囲気が確かに感じられるのです。そしてそこに登場するのは、オリジナル版から15年以上の月日が流れたというのに、変わらずにアトムスクに執心し続けるハルハ・ラハルの姿です。

CVこそ変わってしまってはいるものの、そこにいるのは間違いなくあの頃と変わらぬ貪欲さを有した恋する乙女ハルハ・ラハルなのです。

「プログレッシブ」という単語には「進歩的な」という意味がありますが、そんな単語をタイトルに関した『フリクリ プログレ』はむしろ「進化しないまま 原点回帰の真っ最中」であるように思われます。

他の方がどう感じていらっしゃるのかは私にはわかりませんが、個人的には『フリクリ オルタナ』は今の新しい世代の人たちに向けて作られた現代版の「フリクリ」であり、『フリクリ プログレ』はあの頃オリジナル版を愛して止まなかった人に向けて作られた「フリクリ」だったのではないかと思いました。

前回の記事でも引用した監督の鶴巻さんのコメントを再掲します。

「フリクリって何だ?」何がフリクリで、何がフリクリでないのか、それがわからない。僕にもわからないのだから、おそらく誰にもわからない。だからもしもフリクリに続きがあるとするのなら、それはフリクリとは何かを探し確かめようとするような物語になるでしょう。

(『フリクリ オルタナ』映画パンフレットより引用)

この2作品を見て、自分の中でぼんやりとではありますが「フリクリ」という作品の輪郭が見えてきたような気がしました。それでもまだまだ掴みきれていません。

新しく公開された2つの『フリクリ』が傑作であったか、駄作であったかはさておき、この作品を見たことで何か思うところがあったとすれば、それはこの映画が作られた意義だと思うんですよ。

そのぼんやりとした「フリクリ」という作品の輪郭を貪欲に探り続けよと、言わんばかりです。

あの頃から18年近くが経過して、社会が大きく変化し、見ている我々自身も変化してしまった中で、変わらずに「貪欲さ」を要求し続けてくるこの作品は、無性に懐かしいのです。

子供の頃に見た『フリクリ』。大人と呼ばれる年齢になってから見た『フリクリ プログレ』『フリクリ オルタナ』。

それでもハルハラ・ハル子は自分にとってあの頃と変わらない「カッコイイ大人」でした。

どんどんと豊かになっていく社会の中でやっぱり「ときにはまずいラーメン食ってみたりするのも人生の豊かさってやつ」なんて言える大人が無性にかっこよくて仕方がありません。

多分私は大人になったんだと思いますし、これからも大人として生きていくことになります。

それでも『フリクリ』を見ている時だけは、「カッコイイ大人」に憧れる「子供」に戻れるような気がします。

新作2本を見たことで、改めて『フリクリ』に出会えた喜びを噛みしめることができたように思いました。

良かったら当ブログの『フリクリオルタナ』の記事も併せて読んでやってください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

3件のコメント

先ほどプログレ見てきました!
なんというか、ovaに近いなんの説明もなく振り回されるのに面白いっていう独特の勢いを感じました!
で、一緒に見ていた友人がかなりハマったのでこれからともに2週目行ってきます!

暇人28号さんコメントありがとうございます!!

あの独特の勢いはオリジナル版に通じるところがありますよね!

2回目も楽しんできてください!

プログレやっと観てこれました。
とても面白かったです!!
ナガさんの仰っていたように、ラハルの声を林原さんが演じられていたのは少し残念でしたが、要所要所で「あれ、ここだけ新谷さんがやってるの?」と思うほど再現率の高い演技だったと思います。
私がプログレで特に良かったと思ったのは、壊れていたカンチが動き出してオリジナル版の時と同じようにコミカルに動いていたところです。ラストの方で喫茶店で働いている様子がオリジナル版のラストと重なって、なんだか嬉しくなりました。
最終的に、オルタナとプログレの両方を観て、プログレは「続編」という点が強く良かったし、オルタナもオルタナで「これもまた良し」と思っています。
両方観て本当に良かったと思いました。
長々と失礼しました。
今回の記事もとても面白ったです!!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください