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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『アンダーザシルバーレイク』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような要素を含む解説・考察記事になります。その点をご了承いただき、作品を未鑑賞の方はお気をつけくださいますよう、よろしくお願いいたします。
5の章は鑑賞した翌日に改めてしたためたものですが、こちらは個人的には一定の満足感を持って書いたものです。
良かったら最後までお付き合いください。
『アンダーザシルバーレイク』
あらすじ
シルバーレイクのプールを囲む小さな集合住宅に住むサム。
仕事をするでもなく、ただ毎日を気ままに過ごしてはベランダから、トップレスの女性を眺めていました。
ある日突然、その家のプールに美しい、一目見ただけで魅了されるような狂気を孕んだ美女が現れます。
そのサラという女性に心惹かれたサムは、その夜彼女の家を尋ねました。
犬に餌をあげたことがきっかけで彼女の家に入ると、2人は男女の関係を求め合います。
しかし彼女のルームメイトが帰宅し、その日、2人は結ばれることなく解散してしまいました。
別れ際にサラは「明日の午後にもう一度家に来て。」とそう告げました。
翌日、その言葉通りに彼女の家を訪れるサム。しかし、そこはもぬけの殻でした。
どうしても彼女に再会したいサムは持て余した時間を、彼女の捜索のために費やし始めます。
そして彼はその真相を辿るうちに、シルバーレイクの闇に迫っていくこととなるのです。
スタッフ・キャスト
さて本作『アンダーザシルバーレイク』の監督を務めたのは、デビッド・ロバート・ミッチェルですね。
彼はこれまで『アメリカンスリープオーバー』や『イットフォローズ』の監督を務めたことで知られています。
とりあえず彼の過去作品2本を時間がある方は見ておくと良いと思います。というよりもぜひ見てください!
とりわけ前者の『アメリカンスリープオーバー』は劇中に印象的に登場するだけでなく、本作の主題とも密接に関わってきます。
当ブログでは『アメリカンスリープオーバー』の解説記事を書いておりますので、こちらも良かったら読んでみてください。
参考:【ネタバレあり】『アメリカンスリープオーバー』解説・考察:火と水、赤と青が演出する青春の神話とは?
そして彼がこの『アンダーザシルバーレイク』の予算を獲得するきっかけにもなった、彼の出世作『イットフォローズ』もできることなら見ておいて欲しいです。
またこの映画の配給はA24という『ムーンライト』や『レディバード』でも知られている配給会社なのですが、この作品に関してはカンヌ映画祭にて不評だったということで、再度編集がやり直しになり、北米では公開が12月になっています。
もともとは本国では5月公開の予定だったわけですから、かなり遅れての公開でしたね・・・(笑)
主演を務めるのが『アメージングスパイダーマン』や『沈黙/サイレンス』で知られるアンドリュー・ガーフィールドですね。
彼はやはり若かりしレオナルドディカプリオなんかを彷彿とさせる、アイドル俳優のイメージが強くて、『アメージングスパイダーマン』の時には、あまり好印象ではなかったんですが、次々に難しい役どころを経験し、今やアカデミー賞レースでも評価されるまでになりました。
そして疾走するヒロイン、サラ役には『マッドマックス 怒りのデスロード』にてケイパブル役を演じたライリー・キーオが起用されました。
ウォーボーイの青年、ニュークスと恋に落ちていた女性が彼女が演じていたケイパブルでした。
本作は、ヒッチコックやクローネンバーグ、ジャックアーノルドといった往年の名監督の作品へのオマージュに溢れつつも、ポップカルチャーの闇に迫らんとする究極のネオノワールに仕上がっています。
ぜひ劇場でご覧になってみてください。
より詳しい作品情報を知りたい方は公式サイトへどうぞ!
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映画『アンダーザシルバーレイク』解説
デビッド・ロバート・ミッチェルの過去作品の文脈から見る「境界線」の物語
さて、まずは先ほど時間のある方は過去作品をぜひ鑑賞しておいてください!とおすすめさせていただいた理由となる部分から解説していきましょう。
私がデビッド・ロバート・ミッチェル監督作品の特徴は何か?と聞かれたら、こう答えると思います。
まず、『アメリカンスリープオーバー』という作品について触れておきましょう。
この作品の原題「The Myth of the American Sleepover」を直訳すると実は『アメリカのお泊り会の神話』になります。
本作はアメリカにおけるオトナと子供の間に惹かれた境界線を目前にして、戸惑いを見せる少年少女の姿を生き生きと切り出しています。
そしておおよそ物語の述べようとしたことは、「大人になることを急ぐ必要はない。子供は子供らしく。」といったところに集約されていくかと思います。
そのため『アメリカンスリープオーバー』は彼が「境界線」をある種、可視化しようとした作品であり、それを超えずに子供らしくいられる間は子供らしく生きれば良いという思いが込められているように思えます。
一方でホラーテイストが強まる『イットフォローズ』という作品は、『アメリカンスリープオーバー』とは対照的な内容です。
この作品はむしろその境界線を越えた後の「オトナ」になった者たちの話であり、そこに付き纏う「死」の恐怖を愛の力で乗り越えていくんだという希望が提示される内容にもなっています。
上記のように、デビッド・ロバート・ミッチェル監督はこれまで「大人と子供の境界線:というものを映像の中で可視化し、それを超えるまでの青春の神話と、超えた後の人生の神話を描き出してきたのです。
これを踏まえて、今回の『アンダーザシルバーレイク』という作品に視点を移していきましょう。
この作品を一言で形容するのであれば、私はこう答えると思います。
デビッド・ロバート・ミッチェル監督はこれまで自身が精力的に可視化しようと努めてきた、その境界線を自分自身の手でぼやかし、そして混沌の中へと沈めようとしているわけです。
映画『アンダーザシルバーレイク』を見て、個人的に思い出されたのは、トマス・ピンチョンの『V.』という作品です。
「現在」の時間軸と「過去」の時間軸、「街路」のメタファーと「温室」のメタファーといった対照的なモチーフを作品の中に点在させることによって、境界線を意識させつつも、作品が生み出すカオスがその線引きを飲み込んでいくという典型的なピンチョン的脱構築イズムが反映された作品と言えます。
そして本作もまた対照的なモチーフが作品の中に散りばめられています。
「現実」と「夢(虚構)」、「青」と「赤」、「上」と「下」、「セレブ」と「ホームレス」、「陸」と「水」、「大人」と「子供」など基本的に数えていくとキリが無くなっていくのですが、この映画は全てにおいて、その境界線をぼやかしています。
夢と現実の境界線の瓦解、上と下の概念の崩壊、セレブとホームレスの境界線の解体など徹底的に、かつ意図的にカオスが作り出されているのです。
青と赤、対照的な色のモチーフ
デビッド・ロバート・ミッチェル監督はこれまでの作品でもたびたび赤色と青色というカラーを効果的に使い分け、境界線を演出してきました。
とりわけ『アメリカンスリープオーバー』と『イットフォローズ』において赤色は「大人」や「死」を連想させる色として用いられていました。一方で青色は「子供」ないし「生」を象徴する色として用いられました。
詳しくはこちらの記事で解説しています:【ネタバレ】『アメリカンスリープオーバー』解説
さて『アンダーザシルバーレイク』に話を戻していきましょう。
本作において赤と青の境界線に立っていた人物がまさしく主人公のサムです。
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彼は「オトナ」なのか「子供」なのかという境界線を引いて考えてみましょう。
『イットフォローズ』において性交渉をすることが、ある種その境界線を越える行為とされていたわけですが、サムは女性との性交渉という観点で見ると不自由している様子はありません。
しかし、彼は定職についておらず、自堕落で怠惰な毎日を送っていますし、未だに母親からたびたび電話がかかって来て心配されているような人物です。
そう考えると、彼は大人であるとも子供であるとも形容できず、境界線のどちらかに分類され得ない人物になってきます。
他にも彼は「セレブ」と「ホームレス」の中間に位置している人物でもあります。
彼はプールを見下ろす、それほど粗悪とは言えない集合住宅の一室に住んでいるわけですが、その一方で家賃を滞納しており自身が嫌悪するホームレスになる日が近づいてきています。
また映画を見ているとサムは自分がいま行動しているのが「夢」の世界なのか、それとも「現実」の世界なのかということすら曖昧になっていきます。
このようにサムというキャラクターは『アンダーザシルバーレイク』において、境界線上に位置し、常にその線を解体し続ける役割を担っており、極めて中庸な機能を果たしています。
一方で面白いのが、サムが導かれていくモチーフの大半が「赤色」になっていることですよね。
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- 犬の流血
- サラの口紅
- ミニスカート
- 風船
- トイレ
- 暗号の文字
こういったモチーフは徹底的に赤色に色づけられ、サムが徐々に「大人」と「死」が支配する「境界線の向こう側」へと近づいていっている様が印象的です。
「赤色」のモチーフに惹かれるにつれて、彼の身に「死」の危険が迫り、そんな状況下でもサラへの愛を追い求める彼の姿を見ていると、『イットフォローズ』を想起させてくれます。
その中でも一番印象的なシーンはやはりサムが最初にマスターベーションをしたというあの青い水の中の美女の雑誌の拍子でしょう。
シルバーレイクの中で射殺されたミリセント・セヴェンスの画がまさしく雑誌の表紙と一致していたわけですが、彼女の血がその「青い体験」を赤く染め上げていきます。
このようにサムの世界はどんどんと青色から赤色へと導かれていっています。
しかし、結果的に彼はサラの愛を手に入れることは叶いませんし、最終的にはいつもの日常へと戻ることとなるわけです。
だからこそ『アンダーザシルバーレイク』という作品は、作品内において境界線というものが完全に瓦解しており、サムが結局成長することができたのかどうかすら曖昧になっています。
赤色に染まり切るわけでもなく、青色に染まるでもない、大人になれたのか、子供のままなのかすら判然としないカオスがこの映画を支配してしまっているのです。
サムの成長譚として読み解くラストシーンの意味
さて、ではここからはそういった本作の不明瞭さに触れた上で、ラストシーンをどう解釈するのかというお話をしていきたいと思います。
サムという人物は基本的にあのベランダから双眼鏡で世界を上から見下ろしています。
この構図は、シルバーレイクという湖を囲む街そのものとシミュラリティを有していて、庭にあるプールを見下ろす彼の姿は、シルバーレイクの地を見下ろすスターやセレブ達に重なります。
そしてサラを追う旅が始めるわけですが、彼はもはや夢の世界と現実の世界の区別がつかなくなっていくんですよ。
劇中に登場する同名のグラフィックノベルスに登場する仮面の女が自分を襲いに来たり、解読した暗号によりシルバーレイクに隠された誰も信じないような出来事を次々に目撃していきます。
そういった真実か虚構かもわからないような曖昧な事象がどんどんと彼の日常を侵食していき、境界線は埋没していきます。
また、その旅のプロセスも、用意されたレールの上を辿っている意志を持たない人間の行動に見えてくるんですよね。脚本を書いたデビッド・ロバート・ミッチェル監督の意図に従って、それに忠実に旅をし、真相に迫っていっているという印象がどうしても強く感じられます。
サムは能における「旅」のように、自分以外の意志に導かれるように旅を続けるのです。
彼の行くところ行くところに暗号があったり、ヒントがあったりするというある種の脚本家によりもたらされる「ご都合主義」がこの映画の推進力になっているわけです。
そうして辿り着いたラストシーンは、彼が他人の語る映画言語の中で「ピエロ」を演じることから離脱しようとしたように思えます。
これまで自分を誘導してきた、暗号を自らが主体となって描くという行為はこの『アンダーザシルバーレイク』という作品の構造を転覆させたことになりますし、そこで初めて意志なきサムという青年が、自分の意志で行動を起こしたようですらあります。
冒頭に同じ階に住んでいた年上のトップレス女性を見つめていたものの、突如下のプールに現れたサラに目を奪われたサム。対照的にラストシーンでは彼が冒頭のシーンで目を逸らしたトップレスの女性と結ばれます。
その前のシーンで再会したサラがモニターの中でしか見れない存在(映画のフレーム的演出)になっていたことも指摘しておく必要があるでしょうか。
この映画のラストシーンはこれまで他人の言語で語られる「夢」や「虚構」、「伝説」や「空想」に憑りつかれ、デビッド・ロバート・ミッチェル監督の意図に導かれるがままに旅をしていた彼がそこから解放された瞬間を描いていたのではないかと私は考えています。
そうなんですよ。これが『アンダーザシルバーレイク』という作品の混沌を一層深めているとすら思いました。
フィクションの中で「フィクションと現実の境界」を描こうとすることそのものがもはや不可解すぎるのであり、矛盾に満ちた行為ですらあります。
だからこそ本作はそのラストシーンですら「境界線」がぼやけ、永続するかに思えるカオスの中に物語が埋没していくこととなります。
ポップカルチャーが我々の無意識下で浸透し、我々の文化を形成し、行動を導き、発言を刺激しているというフィクションと現実の境界の瓦解を描いた作品であるからこそ、このラストは成立していますし、サムという青年はその境界なき空間でこれからも生きていくわけです。
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映画『アンダーザシルバーレイク』考察
ポップカルチャーの裏側を除く面白さ
本作『アンダーザシルバーレイク』という作品の面白さは数多くのポップカルチャーへの言及であり、その裏にあるものを暴いていくような作品性にもあります。
その中で特に面白いのがデビッド・ロバート・ミッチェル監督が自身の『アメリカンスリープオーバー』を引用している点です。
本作に登場する『アメリカンスリープオーバー』はオリジナル版をそのまま放映しているわけではなくて、わざわざ本作に出演している俳優陣に演じ直させたうえで、放映しています。
そのため、『アメリカンスリープオーバー』に出演している女優が、その作品を野外上映で鑑賞しており、サムはその女性に声をかけるというシチュエーションが発生しています。
では、劇中でシューティングスターのデリヘル嬢としても登場する女性が演じている同作のマギーというキャラクターについて解説しておきます。
マギーはいわゆる大人への憧れが強い女の子ですが、作品の冒頭時点ではタバコを吸い、酒を飲んだりはしているものの、キスすら未経験の処女です。
そんなキャラクターを演じている女性を演じている女優が、娼婦であり、女優だけではお金が厳しくて・・・なんていう夢のなさすぎる発言をしているわけですよ。
自分の作品の中で自分の別の作品を嘲って見せるユーモアが何とも面白いですよね。
「見上げる」行為と「見下ろす」行為
高山宏氏が著書の『殺す、読む、集める』の中で『シャーロックホームズ』における「見上げる」行為と「見下ろす」行為に焦点を当てて批評しているものを読んだ記憶がある。
「見上げる」という行為が病院のベッドで天井を見つめている構図や、自分と敵対する人間により不利な立場に立たされていることを想起させることから「死」に結び付けられ、対照的に「見下ろす」という行為が「生」に結び付けられました。
『アンダーザシルバーレイク』においても冒頭に空から小動物の死骸が降ってくることでもって、「見上げる」行為が「死」を連想させるようになっています。
冒頭のサムはただ自分が今居座っている立場から、「見下ろす」だけで安全圏に滞留している人物でしたが、物語が進むにつれて、彼はサラを探すという目的のもとでハイソサエティに足を踏み入れていき、「見上げる」という行為を志向するようになります。
ちなみにサムとサラが別れるシーンで、彼女が複雑な表情を見せているのもまた、花火を「見上げ」ている時なんですね。
まさに「見上げる」行為を通じて、自分の死を悟った表情とも言えるのでしょうか?
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その後、彼には「死」の危険が迫りくることとなります。
加えて、裕福な人間は上を「見上げて」はどんどんと階段を上っていき、そして最後に「見上げ」ても自分の上に何も無くなってしまい、最終的には「死」でもって更なる高次への上昇を画策しているという都市伝説のようなものが描かれていました。
終盤に「百万長者と結婚する方法」を鑑賞し、その中に登場する「上を向いて生きていかなくちゃ」という趣旨のセリフに感化されるサム。
「見上げる」行為が「死」を連想させるのであれば、これは『イットフォローズ』にも通ずる「死」と向き合いながら、人と繋がり、人と愛し合い生きていくことこそが人生なのであるというメッセージの様にも思えますね。
「犬」とは何だったのだろうか?
かつてのシルバーレイクには、売れない役者が犬に怨念をぶつけて殺害していたという都市伝説があるようで、『アンダーザシルバーレイク』という作品における「犬殺し」のモチーフはそこからの引用であると思われます。
ただあれだけ印象的にかつ何度も登場させておいてそれだけってことはないだろうということで当ブログ管理人の主観で勝手に深読みしてみたいと思います。
私が考えてみたのは、タロットカードの「月」からの引用です。
皆さんはタロットカードにおいて「月」というカードがあり、そこに犬が描かれていることをご存じでしょうか。
とりわけウェイト版のタロットカードを見てみると、興味深いものがあります。
まずこのタロットカードにおいて注目したいのが、「月」のモチーフですよね。
しばしば月は女性のシンボルとして語られます。東洋医学の世界では、月の周期と女性の生理周期が近いということで、連関して語られることもしばしばでした。
では、次にザリガニに焦点を当ててみましょう。このザリガニは何をしているのかと言いますと、月に光に導かれて、住み慣れた水の中を(水辺の土地)を離れようとしています。
つまりこの月とザリガニの関係は『アンダーザシルバーレイク』におけるサムとサラの関係に近似性を有しています。描かれている黄金の道が山へと続いているのもまた本作の展開を考えるとリンクしてきますよね。
そして彼の行く先に待ち受ける2匹の犬(狼)はそんなサムを待ち受ける試練を表現しています。
彼を試練と導いたのは1匹はサラの飼い犬であり、もう1匹は彼の前に現れたコヨーテということになるのでしょうか?
犬の後に聳え立つ塔が難関として立ちはだかるという構図もまさしく映画とリンクしています。
妄想に過ぎないのですが、不思議とタロットカードの「月」と『アンダーザシルバーレイク』がリンクしていくように思えます。
ちなみにタロットカードの「月」は一般に幻想、欺瞞、隠された敵という意味合いを有しているそうですよ。
ピンチョン的に読み解く本作の物語の主導権と「犬殺し」の犯人
若かりし頃のトマスピンチョンの作品は必ずしもそうではなかったが、次第に彼の作品はポストモダニズム的脱構築によるアメリカ批判へと向かっていきました。
とりわけ興味深いのが、彼の作品はどこまでも個人の物語でありながら、そのフィルターを通して「アメリカ」という存在を浮き彫りにしていき、脱構築的に「犯人」を導き出していくのです。
『ヴァインランド』や『競売ナンバー49の叫び』といった作品はまさしくアメリカ体制に対する批判であり、「もう1つのアメリカ」を模索する作品になっています。
さて『アンダーザシルバーレイク』に話を戻していきましょう。先ほども指摘したようにこの作品はピンチョンの『V.』や『LAヴァイス』を強く想起させる内容となっています。
そこで改めて考えてみたいのが、本作の物語の主導権の在り処です。先ほどはデビッド・ロバート・ミッチェル監督がサムを誘導しているようであると解釈してみましたが、少し視点を変えてみましょう。
この説って考えてみると意外と辻褄が遭います。
というのもこの映画の物語って基本的に、サムが見聞きした情報が推進力となっています。
彼が「犬殺しに気をつけろ」という落書きを見ると、彼の世界には「犬殺し」が登場し始めますし、テレビで見た大富豪の娘はパーティーに登場しますし、グラフィックノベルを読めば、そこに登場する「フクロウ女」が現実に登場し始めます。
そう考えていくと、この『アンダーザシルバーレイク』という作品は、サムというキャラクターが自ら見聞きしたものに基づいて、妄想交じりに物語の針を進めているような感触すら覚えます。
結末となるサラの所在に関しても、彼女の家で見ていた「百万長者と結婚する方法」という映画になぞらえています。3人の女性と1人の男性という構図はまさしく冒頭でサムが見聞きした情報です。
だからこそ終盤にサムは彼自身が「犬殺し」なのではないかという疑いをかけられることとなります。
彼が作り出した彼の世界の住人が、創造主に対して「君自身が犯人なのではないか?」と問いかけるのです。
しかし、サムはそれを否定しています。では犯人とは誰だったのか?
その答えこそがシルバーレイクという土地であり、またポップカルチャーだったのかもしれません。
トマスピンチョンは、自身の思い描く「もう1つのアメリカ」を好意的な形で描いたわけですが、対照的にデビッド・ロバート・ミッチェル監督は、自身が思い描く「最も歪んだシルバーレイク」ないし「最も歪んだポップカルチャー」の在り方を描いたのでしょう。
そう考えると『アンダーザシルバーレイク』もまたサムという個人の物語をフィルターにして捉えた「シルバーレイクの底」なんでしょうね。
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サラという存在に注目して改めて考察!
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鑑賞から1日が経過し、少し冷静に作品について考え直した後にもう1点だけ書いてみようと思いまして、この章を追記しております。
そのためここまで書いてきたことと少し論旨的にずれる部分があるかもしれませんが、1から再考察していきます。
私が今回一番注目したいのはサラという存在です。
まずサラという女性の最大の特徴として犬を連れていることが挙げられます。
そして終盤に明かされるのですが、本作の開始時点より前の時間軸でサムが付き合っていた女性(途中のパーティーのシーンで成功し、街の看板にも掲載されている女性)もまた犬を連れていたことが明かされるんです。
つまりサラという女性とサムの元彼女に当たる存在は非常に近しい存在なんですね。さらに言うと、犬に優しくしたこと(犬用のクッキー)がきっかけで気を引いたというところもまた似ているのかもしれません。
そんなサラは物語の冒頭で失踪してしまうわけですが、サムが過去に付き合っていた女性もまた彼の下を離れていってしまったわけですから、この点もリンクしています。
「サラ=サムの元彼女の幻影」という視点です。
その後、サムはサラを追いかけていくわけですが、そこで彼が見せるのは一貫した現実逃避なんですね。
サムが出会うのは、犬のように野性的な女性(サムのイメージ)であったり、女優家業の裏で風俗稼業に従事する女性たちであったりします。
またグラフィックノベルの中に登場した「フクロウ女」もまた男性を誘惑しては殺害していきます。
これらはサムが自分と別れた後に成功した元彼女に対するジェラシーが作り出した幻想なのではないでしょうか?サムは元彼女の存在価値を自分の中で貶めることで、自分が捨てられ、成功から遠ざかった現状から逃れようとしています。
数々の暗号を解いた後に彼が辿りつくのは、ソングライターの存在です。
ソングライターは君の世代を司るあらゆる歌は自分が作ったものであり、その中に隠された暗号が人々の無意識を操っていると仄めかします。
ここでサムは自分の敬愛するカート・コバーンのムスタングでソングライターを葬り去ります。
物語の中で明言こそされていないものの、おそらくサムはミュージシャンとして成功しようとしていたのではないでしょうか?
だからこそ彼はソングライターという全知全能の「音楽の神」のような存在を自ら淘汰することで、自分の夢を追いかける決意をしたのではないかと考えられるのです。
さて、その夜にサムは元彼女と再会を果たします。イケメン(俳優)の彼氏を連れている元彼女はもはや別世界の人間です。
翌日サムは「ゼルダの伝説」をデバイスとしてとある秘密に辿り着きます。
それは「シルバーレイク→ハリウッド」というものでした。
ここで指摘しなければならない事実は2つです。
- サラ(元彼女の亡霊)はシルバーレイクからハリウッドへと行ってしまったこと
- ゼルダ姫とリンクは(少なくとも初代においては)結ばれない運命にあること
まず、シルバーレイクからハリウッドへ移ってしまったという事実は単純明快で、これはサラ(サムの元彼女の亡霊)がハリウッドで女優として成功し始めていることを表しています。
もう1点についてですが、『ゼルダの伝説』においては主人公のリンク=プレイヤーというコンセプトがあるために、リンクとゼルダは結ばれない運命にあるのです。
そのヒントを辿ってサムはサラに再会するわけですが、その再会の仕方はモニター越しの再会でした。
これはサラという存在が映画(ないしテレビ)というメディアの向こう側の存在になってしまったことを意味していますし、そのままリンク(プレイヤー)とゼルダ姫の関係を表しているようにも取れます。
もっと言うと冒頭にサラとみていた映画が「百万長者と結婚する方法」であり、サラがその映画の中に入り込んでしまったというシチュエーションでもあります。
サラは「こちら側の世界は思っていたものとは違ったし、来たことを後悔したりもするけど、死ぬまでの間こちら側で楽しんで生きる。」という旨をサムに伝え、別れます。
サム自身も「こちらの世界」に来ないかと誘われますが、断りを入れています。
さて映画の最終章に入っていくのですが、ここで大きく変化している点はまず2つ挙げられます。
- 元彼女の看板がマクドナルドのものへと張り替えられている。
- プールサイドに現れるのが、サラではなくゴミを漁るコヨーテ
この2点はまさしくサムがサラの亡霊を払拭し、その未練を断ち切ることができたという意味合いを表現しているのではないでしょうか?
そうしてサムは冒頭のシーンでは選ばなかった隣人の女性と結ばれます。
彼が冒頭のシーンで選んだのは、間違いなくサラであり、元彼女の亡霊であり、それは自分が追い求めていた諦めきれない理想のようにも思えました。
しかし、自分の理想は次々に脱構築され、元彼女への未練を断ち切ったことで彼は1つのゴールへと辿り着きます。
それは自分が望んだ形ではないかも知れないけれども、それでも夢と愛を追い、死ぬまで生き続けてやるんだという彼なりの覚悟だったのでしょう。
彼が自分の部屋から隣人の家へと移り住んだそのベクトルは、「シルバーレイクからハリウッド」への矢印にも重なります。
サムは夢を追い求める覚悟をし、その1歩を踏み出し、自分が住んでいた一室に「静かにしていろ」という暗号を残しました。
「静かにしていろ」という暗号を綴るという行為を紐解くと、これは自分が「暗号を生み出す側の存在になるんだ」という決意が込められているように思えます。つまりポップカルチャーという暗号に塗れた文化を生み出す側になるということです。
そう考えると『アンダーザシルバーレイク』という作品は、夢と恋に破れた青年が、自分の追い求める夢の闇と叶わぬ恋の現実を突きつけられながらも、それでも夢を追いかけようと決意するまでの物語と解釈できるのではないでしょうか?
おわりに
いかがだったでしょうか。
書いていて思ったんですが、1回見ただけでこの映画について語り尽すのは無理でしょ(笑)
とても深く考察できるだけの情報を吸収しきれていません。ということで近日中に2回目の鑑賞をしてまいります。
デビッド・ロバート・ミッチェル監督が描き出した「悪夢」を皆さんはどう解釈しましたか?
見終わった後に、いろいろと考えてみると面白いと思いますよ。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。