©2018 鴨志田 一/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/青ブタ Project
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』についてのお話になります。(『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』)の話題も含みます。
本作は作品のネタバレ要素を含む、感想・解説記事になります。ネタバレになるような内容に言及する際は改めて表記いたします。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』作品情報
2018年の10月からアニメ『青春ブタ野郎』シリーズの放送が始まりました。
原作を著したのは『さくら荘のペットな彼女』でも知られる鴨志田一さんです。
そして2019年には同シリーズの映画化が決定しております。
ちなみにこの記事を書いている2018年10月24日時点で、『青春ブタ野郎』シリーズは第8巻まで発売されています。
おそらく多くの方が気になっているポイントだと思います。
まず、現在放送中のテレビアニメシリーズは原作第5巻までの内容が描かれることになると思います。
簡単に纏めますと以下のようになります。
- 第1巻:麻衣の「他人から存在が認識されなくなる」思春期症候群のエピソード
- 第2巻:朋絵の「永遠に同じ時間を繰り返す」思春期症候群のエピソード
- 第3巻:双葉の「自分の存在が分裂してしまう」思春期症候群のエピソード
- 第4巻:のどかの「麻衣と体が入れ替わってしまう」思春期症候群のエピソード
- 第5巻:「かえで」と「花楓」を巡るエピソード
この内容がテレビシリーズ全13話で描かれることになるわけです。
テレビアニメシリーズと原作第5巻までの内容は別記事にて纏めておりますので、良かったらこちらも読んでみてください。
参考:【ネタバレあり】『青春ブタ野郎』シリーズ:解説・考察:思春期の少年少女を巡るあれこれ
そうなりますね。映画版のタイトルは『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』になっていて、これは原作第6巻のタイトルでもあります。
そして、この第6巻とそれに続く第7巻がテレビシリーズにも登場している牧之原翔子という少女の物語になっています。
ネタバレにならない程度に煽りを入れておくと、この第6巻と第7巻を見ることで、『青春ブタ野郎』シリーズの物語構造がようやく見えてくる内容になっています。
特に翔子を巡る不可解な謎や、咲太の胸にできた大きな傷跡の原因なども全てが1本の線に繋がり、見ていて思わず感心してしまうほどです。
第6巻と第7巻の関係性も絶妙で、当ブログ管理人も空き時間に第6巻を読むと、この作品のことが頭から離れなくなって、堪らずに第7巻も一気に読んでしまいました。
『青春ブタ野郎』シリーズは確かに第1巻~第5巻までも素晴らしい作品です。
ただですよ、第6巻と第7巻はそれまでとはわけが違います。
第5巻までは「良作」です。こういう映画やドラマ、小説には1年間の中でもちらほらと出会えるレベルです。
しかし、第6巻と第7巻はここ数年でも傑出したフィクションであると断言できます。とんでもない作品です。
とにかくこれは今必読のライトノベルです!!
まだ読んでいない方はぜひぜひお手に取ってみて欲しいと思います。
より詳しい作品情報を知りたい方は公式サイトへどうぞ!
感想:読み終わった後に、強く「生きたい」と思った。
今までどれほどの数の映画やアニメや、小説やドラマや、その他もろもろのフィクションたちが「生きることの大切さ」を説いてきたかなんて数えることはもはや不可能に近いです。
この世界にはそんな生命賛歌が溢れています。しかし、そんなフィクションたちが世の中に何か影響を与えてきただろうかと考えてみると、悲しくなるばかりであります。
尊ばれるはずの命は軽んじられ、ワイドショーを見ているとまるで「日常の一部」であるかのように日本の、世界のどこかで人が命を落としてている様が映し出されます。
そんな光景に麻痺してしまった我々は食事をする、入浴する、就寝するといったルーティンの一環の如く、それを消費しています。
テレビの向こうで報じられている「死」はとても軽く、自分にとっては実に無縁なように思えます。
実は映画やドラマのようなフィクションたちも同じなのかもしれません。
どれだけ「命は大切なんだ」と問うた作品を鑑賞して、感銘を受けたところで作品を見終えたその瞬間から我々の記憶からはそんな教訓が薄れ始め、数日後にはほとんど忘れてしまっていることでしょう。
結局我々が「死」を自分の身近なものとして実感することは難しいんです。
どれだけ「死」というものがあなたの日常の至る所に散在していると言われたところで、それを認識できないのです。
何気なく道を歩いていていきなり車が突っ込んで来たら?突然後ろから刃物で刺されたら?突然の発作で呼吸が停止したら?
我々が生きている今というのは、数々の選択の連続の先にある奇跡のような一瞬なのかもしれません。
でもどうあがいても、自分が生きている今がそんな奇跡の上に成り立っているなんてことが実感として湧かないのです。
そんな時代に『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』という作品はどんな意義を持ちうるのでしょうか?
いわばこの作品もまた「生きること」の尊さを謳った生命賛歌と言えます。
黒澤明監督は『生きる』という自身の映画を撮った際にこう語っています。
「この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである。」
結局人に「生きること」の大切さや尊さを教えてくれるのは、身近に迫った「死」という存在なんだと思わされる言葉です。
「死」を知って、初めて人は真の意味で「生きる」ことができる。
実は『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』(ないし『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』)という作品もまた「死」をデバイスとして「生」の大切さを語る作品です。
ただこの作品の凄みというのは、テーマ性ではなくて描き方に宿っているんだと思います。
咲太という平凡な高校生の視点で綴られる「死」という途方もなく、巨大な壁。
高校生の等身大の実感と温度感で読み手にもじわじわと伝わって来る死の感触や臭いが驚くほどに生々しいんです。
咲太は泣かなかった。泣けなかった。
あれから4日が経過して、ようやく心に何かが響いた。
追いついてきた。
(『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』より引用)
こういう何気ない表現がすごくざらざらとした手触りで、リアルなんですよね。
そしてそんな苦しい「死」の存在と対照的に語られるのが「生きる」ことの幸福です。
「僕は、もう幸せなんだ……」
こんな風に泣ける人間になれたのだから……。
その事実に、また涙が溢れた。
「僕は……もう……幸せなんだ……っ!」
殆ど声にならなくても、咲太は自分に言ってやりたかった。言い続けたかった。
(『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』より引用)
きっといろいろな作品で幾度となく語られ、手垢まみれになっている普遍的なテーマなんだと思いますが、この作品を読んでいるとどこか新鮮さがあります。
フィクションはどこか他人事のように思えるのですが、鴨志田さんが著したこの文章には、それを他人事とは思わせないだけの不思議な引力が備わっています。
逃れようとしても自分が咲太や麻衣の心情に寄り添ってしまうんですよ。
だからこそこの作品を読み終えた時に、無性に「生きたい!」「生きていたい!」と思わされました。
きっとこの記事を書いている今も自分の記憶の中から、この作品を読み終えた時に感じた思いは少しずつ消えていっているんだと思います。
それでもそれでも「生きたい」「生きたい」という思いが自分の心の奥底から溢れ出し、今自分が生きていることの「幸せ」にただただ涙が止まらなくなります。
そう感じさせられたのは、多分この作品がメッセージ性を前面に打ち出していないからなんだと思います。
『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』(ないし『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』)という作品は、高校生の咲太の視点で「死」と「生」と「幸せ」をただただ描いているにすぎません。それだけです。
ただ、それだけだからこそ我々はこの物語に抵抗なく入り込むことができるんだと思いますし、咲太が感じている思いと同質な感情をほんのごく僅かですが、感じることができます。
ぜひぜひ皆さんにもこの作品を読んでいろんな思いを感じて欲しいと思います。
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『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』
あらすじ(ネタバレ注意)
咲太は妹の花楓の思春期症候群からの快復と同時に初恋の人、翔子と同居することとなります。
そんな翔子との同居現場を目撃され、麻衣との関係にも小さな綻びが生じます。
咲太は双葉と共に大学生に成長した「翔子さん」と小学生で闘病中の「牧之原さん」が同一人物であり、「翔子さん」は「牧之原さん」の思春期症候群が作り出した「未来の姿」であるという仮説を立てます。
しかし、そう考えると2つの存在にどうしても説明がつきません。
そんな中で双葉が辿りついたのが、「翔子さん」は未来から今にやって来た存在であるという答えでした。
そして咲太は「翔子さん」の胸に移植手術の痕跡があることを確認し、双葉の仮説の妥当性を証明します。
しかし、奇しくも「翔子さん」に移植された心臓の持ち主は咲太であることが明かされます。
つまり咲太の胸に刻まれた傷跡というのは、彼が命を落とし、心臓を牧之原翔子に移植するという未来の暗示だったわけです。
咲太はクリスマスイブの夜に麻衣とのデートに向かう最中に命を落とすことを告げられます。
自分の命を賭して牧之原翔子の未来を手に入れるのか、それとも麻衣と生きる未来を選ぶのか。
究極の二択を迫られた咲太は1つの決断を下します。
しかし、その決断は誰も予想できなかった結果を招くこととなるのでした。
解説:「未来」を手に入れたくて・・・。
生まれたての僕らの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じてれば
何も恐れずにいられた
(Mr.Children『未来』より引用)
「未来」というものが存在することの意義をみなさんは考えたことがありますか?
例えば、受験勉強です。皆さんが必死に受験勉強をするのはなぜかというと、その先にある大学合格ないしもっと先のビジョンがあるからですよね。
人が「生きていこう」と思えるのは、「未来」があるからです。
Mr.Childrenが歌った『未来』という歌の歌詞は何のも言い当て妙と言えます。
「未来」を信じることができさえすれば、人は何も恐れずにいられるんです。これはまさしく真理です。
それを奪われた少女というのがまさしく本作における牧之原翔子です。
小学校の宿題として手渡された自分の未来予想図を綴るためのプリント。
しかし余命残り僅かの彼女にとって「未来」とはもはや存在し得ないも同然です。
だからこそ彼女は「未来」を願ってしまうんですよ。自分が高校生に、大学生になった姿を想像してしまいます。
それが彼女の思春期症候群の引き金になるんですね。
彼女にとって「未来」とは「希望」と同値です。
しかし、彼女が辿りついた先にあった幸せは自分の大切な人である咲太の死の上に成立するものだと悟ってしまいます。
それでも「未来」を「希望」を望むのか?翔子はそんな難しい問いを叩きつけられるわけです。
翔子はそこで自分の未来ではなく、咲太の未来を選ぼうとしました。
一方で、咲太は翔子の未来を選ぼうとし、麻衣は咲太との未来を望みました。
誰もが自分の大切な人の未来を選ぼうとする中でこの物語は1つの大きな壁を彼らの前に立ちはだからせます。
それは、自分の望む幸せは誰かの犠牲の上にしか成り立たないのだという現実です。
誰を犠牲にするのか、誰が犠牲になるのか。咲太もまた一時は非情な決断を下し、自らの「未来」と「幸せ」を手に入れます。
しかし、それが本当に正しい選択なのか?彼は迷い続けます。
そうして咲太は再び決断します。それは全員が未来を手にすることができる「未来」を手に入れることでした。
そんな彼らの自分以外の誰かの「未来」と「幸せ」を望む姿勢に『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』ないし『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』という作品は1つのフィクションとしての「希望」をもたらします。
この物語は誰かの「未来」を願い続けた者たちへの賛辞でもあるのです。
おわりに
第7巻の『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』について言及してしまうと、かなりの大部分をネタバレすることになってしまうので、多くは語らないようにしました。
先ほど書いた解説自体は第6巻と第7巻を総括してのものになります。
もちろん来年、公開予定の映画で鑑賞するもよしですが、情報量がかなり濃い第6巻と第7巻の内容を2時間尺で描き切るのは少し無理が生じると思いますし、ある程度原作をカットすることになるでしょう。
ただ読んでいただければわかるんですが、この2冊に関しては無駄なところが一切ありません。
ですので、ぜひとも原作を読んでいただきたいのです。
テレビアニメシリーズを見て、青春ブタ野郎』シリーズが気に入った方はぜひともお手に取ってみてください。
皆さんは『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』にとある名作映画のオマージュがあることに気がつきましたか。
タイムリープ×誰もいない実験室=大林版『時をかける少女』!!
いやはやこういうちょっとしたオマージュネタが憎いんですよね・・・。
ただ完璧なオマージュといえないのは、『青春ブタ野郎』シリーズの舞台は第2巻で「6月27日が金曜日」であり、「ワールドカップが地球の裏側で開催されている」ことを鑑みると「2014年」です。
そんな2014年の「12月28日」(咲太が翔子と実験室に行った日)はなんと「日曜日」です。
まあこんな小ネタもありつつ素晴らしい作品でした。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。