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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『GODZILLA 星を喰う者』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事になります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『GODZILLA 星を喰う者』
あらすじ
メカゴジラを起動し、ゴジラに決戦を挑むも、ビルサルドとナノメタルの暴走もあり敗北したハルオたち。
そんな絶望の淵で、メトフィエスが静かに暗躍し始めていた。
虚空の神キングギドラによる世界の終末と祝福を説くエクシフの教えは確かに残された人類の間に広がっていく。
一方で宇宙ステーションに残されたビルサルドたちは、ゴジラに敗北した要因がハルオにあると追及し、クーデターを起こした。
そして、いよいよ時が満ち、人類の祈りを乗せギドラが異空間より出現する。
その圧倒的な存在は、宇宙ステーションを飲み込み、そしてゴジラを、地球をも飲み込もうとしていた・・・。
作品情報
本作『GODZILLA 星を喰う者』の監督を担当したのはここまでの2部作と同様で静野孔文さんと、瀬下寛之さんですね。
静野孔文さんは『名探偵コナン』の劇場版シリーズで知られている映画監督ですね。ただそのフィルモグラフィティを見てみる玉石混交でして、お世辞にも出来が良いとは言えない作品も多いように思います。
瀬下寛之さんはポリゴンピクチュアズの演出家でして、テレビアニメの『シドニアの騎士』や『亜人』なんかで副監督・総監督を歴任されてきました。
そして脚本を担当されたのが、皆さんご存知、虚淵玄さんですね。
『魔法少女まどかマギカ』や『Fate Zero』などの人気作の脚本家として知られていて、アニメファンの間でも特に評価の高い脚本家の1人といえるでしょう。
この3人が主体となって作品を作り上げていったことは容易に伺えるのですが、一体どんなパワーバランスになっていたんだろうか?というのが非常に気になるポイントです。
それを紐解くために非常に興味深いインタビュー記事がありましたので、一部抜粋いたします。
虚淵:まさに最終章の<ギドラ>の表現だったり、そもそも「体長300mのゴジラって、どうするの」というところとか(笑)、街が全部「メカゴジラシティ」とか、そういった「脚本を文字で書く分には楽かもしれないが、絵にしたときにどうするのだ」という部分について、すべて表現していただけたのは本当にありがたい限りです。
(「GODZILLA 星を喰う者」虚淵玄・静野孔文・瀬下寛之鼎談インタビュー、あのラストはどのように生み出されたのか?より引用)
脚本の虚淵さんがこんな発言をしているということは、本作のストーリーは基本的には彼の原案をきちんとベースに据えているということになるのでしょう。
「メカゴジラシティ」や「ギドラ」に関しての斬新すぎる描写が彼の原案段階から生まれたものであることがここで判明したわけです。
そして個人的に興味深かったのが次の一節です。
もともとゴジラ映画を見ていない静野さんには、僕と虚淵さんで「ここから先、ゴジラ映画を見ないでください」と伝えました。
(「GODZILLA 星を喰う者」虚淵玄・静野孔文・瀬下寛之鼎談インタビュー、あのラストはどのように生み出されたのか?より引用)
なんと本作の監督である静野は本当に一切ゴジラ映画を見ていなかったんですね・・・。
それも驚きなのですが、その後に続く文章で非常に驚かされました。
虚淵:「これが初めてゴジラを見る人の顔だ!」って(笑)。「ゴジラを知らずに来ちゃった人はこうなる、いけない。俺たちは初めて見る人のために作ってるんだ」と自重し直して。
(「GODZILLA 星を喰う者」虚淵玄・静野孔文・瀬下寛之鼎談インタビュー、あのラストはどのように生み出されたのか?より引用)
なるほど・・・アニゴジシリーズの謎が解けてきたような気がしますね・・・。
つまり、アニゴジ3部作というのは、ゴジラというコンテンツをほとんど把握していない静野監督のフィルターに濾された上で展開しているというわけですよね。
だからこそこれまでのゴジラ映画のノリや怪獣プロレス的な側面の一切を廃していて、この作品からゴジラを見始めた人でも問題なくストーリーに入り込めるものを目指しています。
感想や解説等は後ほど詳しく掲載します。
より詳しい作品情報を知りたい方は公式サイトへどうぞ!
アニゴジ関連記事
ここで当ブログでこれまでに書いてきたアニゴジ関連の記事を一挙ご紹介しておこうと思います。
ひたすらに巨大怪獣たちに地球が蹂躙されていく様を描いた傑作怪獣小説『怪獣黙示録』の解説記事になります。
参考:【ネタバレあり】『GODZILLA 怪獣黙示録』解説:これは全ゴジラファン必読のノベライズだ!
なぜ人類は滅んでしまったのか、人類が繰り返した醜い過ちの過程を詳細に描き出した『プロジェクトメカゴジラ』はこれまた傑作です。
参考:【ネタバレあり】『プロジェクトメカゴジラ』感想:この小説のラストを涙なしで読めない・・・。
賛否ありましたが、個人的には嫌いに離れない映画です。「プロジェクトメカゴジラ』を読むとずいぶん見え方が変わる映画でもありますね。
参考:【ネタバレあり】『GODZILLA 怪獣惑星』感想・解説:日本ゴジラ史に刻む新たなる一歩
メカゴジラが出てこない!!という批判意見も多く浴びた作品ではありますが、こちらも個人的には大好きです。
参考:【ネタバレあり】『GODZILLA 決戦機動増殖都市』解説・考察:東京SOSへのアンサーとして
ぜひぜひ他の記事も読みに来てください。
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『GODZILLA 星を喰う者』解説
1本の映画として純粋につまらない
アニゴジのこれまでの2作品でもさんざん言われていたんですが、当ブログ管理人は意外と楽しめていた節がありまして、世間の批判意見もどこ吹く風状態でした。
まず、映画として圧倒的に優れていないんですよ。これはもう断言できます。
そもそも『GODZILLA 星を喰う者』は脚本というかストーリー構成が絶望的なまでに酷いです。
2016年に大ヒットした『シンゴジラ』も会議シーンや会話シーンが作品の大部分を占めてはいますが、その会話シーンの演出に非常に工夫がなされていますし、テンポ感やリズムが緻密なまでに計算されています。
一方の本作の冒頭から続く会話劇は酷いもので、豪華声優陣による音読大会ですからね・・・。
いや冗談抜きで、目を瞑っていても状況が理解できるくらいに登場人物のセリフであらゆる情報を提供してしまっているので、もはやこれが映画だとは到底思えないんですよね。
さらに酷いのがギドラの登場シーンとギドラとゴジラの対決シーンですよ・・・。
このシーンを例える表現を個人的に考えていたのですが、1つ的確なものが思いつきました。
おそらく私が映画『GODZILLA 星を喰う者』のギドラの登場シーンやゴジラとの邂逅シーンを見ていて感じたのはこういう気分なんです。
当ブログ管理人はカバディというスポーツのルールなんて全く把握しておりません。
ですので、正直プレイしている人たちがどれだけ熱い攻防を繰り広げているのかなんて微塵も分かりません。
そうなると必然的に冷めた目で見てしまうことになるんですが、「カバディ史に残る世紀の一戦」なので実況はボルテージMAXで盛り上がっているんですよ。
『GODZILLA 星を喰う者』のギドラ関連のシーンってまさにこれなんです。
キングギドラが登場したというのに見ている自分には何の高揚感も無いんですが、登場人物がボルテージMAXで「実況テイスト」でよく分からないことを宣っていて、ひたすらに温度差を感じてしまいます。
とにかく恐ろしい映画です。
ゴジラとギドラのカバディ世紀の一戦の実況中継を自分は見てきたんだという感覚だけが確かに残っておりますよ。
それでもアニゴジのラストバトルとしてはこれしかない
本作『GODZILLA 星を喰う者』がおそらく批判を集めるであろうポイントは、結局ギドラVSゴジラはほとんど描かれず、その決着がメトフィエスVSハルオにおいて着いてしまったところでしょうか。
前作の『GODZILLA 決戦機動増殖都市』でもメカゴジラが「メカゴジラシティ」での登場というゴジラファンからすると納得のいかない描かれをして批判を浴びておりました。
ただ冒頭で引用したインタビュー記事にもありますように、配給の東宝ないしスタッフ陣はこのアニメゴジラシリーズを「怪獣プロレス映画」にはしないことを明確にしています。
それに加えて、このアニゴジシリーズというのはゴジラや怪獣という存在を「概念」的なものとして捉え、思想的に脱構築していくという試みでもありました。
特に前作の「メカゴジラシティ」は強烈でしたよね。
そしてシリーズ第3作となる『GODZILLA 星を喰う者』ではキングギドラが「圧倒的な神」的な存在として登場していました。
そんな神たるギドラを倒すのはゴジラではなく人間です。人間の思考でもってギドラを打倒するのです。
映像的なエンタメ性はもはやアニゴジシリーズにはほとんどありませんし、ひたすらに思索と脱構築の問答的な展開が繰り広げられてきたわけです。
だからこそ本作のラストバトルたるギドラとゴジラの対決がメトフィエスとハルオの概念的、観念的な代理戦争になっているというのは、アニゴジの潮流に鑑みるときわめて適格といえるでしょう。
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『GODZILLA 星を喰う者』考察
ラストシーンの無意味性
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本作の終盤の一連のシーンがあまりにも意味不明すぎると言いますか、アニゴジの存在意義を疑いたくなる内容であることは触れておかねばならないでしょう。
『GODZILLA 決戦機動増殖都市』がそのラストシーンで打ち出したメッセージは「人としてゴジラを打倒せねば意味がない」というものでしたよね。
この「人として」という部分がアニゴジシリーズの大きなポイントになっていたことは言うまでもありません。
『GODZILLA 星を喰う者』もまた人が人としての形を放棄して、ギドラに寄与することでゴジラを打倒するというメトフィエスの考え方に、ハルオが「人として」それは間違っているのではないかという反旗を翻し、勝利したわけです。
そうして地球にはゴジラアースが「大樹」のように息づき、世界には春が訪れ、人はフツアと共に新しい文明を築き、子をもうけています。
そんな世界の中でハルオが最後に取った行動というのは、ナノメタルという「人の」負の遺産と「人が」ゴジラに対して有している憎しみの感情を背負って自爆するというものでした。
エンドロール後のシーンでは、人類とフツアが同化している様子が映し出され、「憎しみ」という概念が存在しないフツアへと人間がコンバートされていった様子が伺えます。
また、ハルオがある種神格化されており、子供たちが恐怖を振り払うために祈りを捧げている儀式のようなものも描かれていました。
思えば『GODZILLA 怪獣惑星』から本作におけるゴジラとの戦いを主導してきたのは、ハルオでしたし、もっと言うなればハルオの中にあるゴジラへの強い憎しみの感情が人間を対ゴジラへと突き動かしてきたわけです。
そう考えると、本作『GODZILLA 星を喰う者』のラストシーンというのは、そんな全ての「憎しみ」という概念を背負い、ゴジラに敗北することで、世界から「憎しみの感情を払拭しようとしたかに思えますよね。
ただ個人的にはこのラストシーンが本当にふさわしかったのかという点に関して疑問が残ります。
なぜなら本作のキーワードは「人として」だったはずだからです。
『GODZILLA 星を喰う者』のラストシーンにおけるハルオの決断というのは、「人として」という考え方からの逃避なんですよね。
ゴジラに対して「人として」勝利することを諦め、その後人類はフツアという種族へと併合されています。
メカゴジラ(ナノメタル)やキングギドラに対して一貫して「人として」の勝利を貫いてきたハルオが、最後の最後で憎しみという感情を「人として」超越することを諦め、人間の発展への飽くなき欲求に立ち向かうことを諦め、自爆するという決断はどう考えても矛盾しているように思えます。
ゴジラシリーズが常に描いてきたのは、人間という不完全で欲深い怪物の姿でもあります。
そんなゴジラの物語を脱構築しようとしてきたアニゴジの結末が、人類が新人類たるフツアへとコンバートされ、憎しみを超越したというのでは、あまりにも酷すぎます。
あくまでもハルオには最後まで「人として」憎しみや欲望(ナノメタル)と向き合い続けて欲しかったですし、そんな彼の憎しみの矛先であるゴジラと「人として」共生する道を模索してほしかったと思います。
とにかく第2作の『GODZILLA 決戦機動増殖都市』におけるハルオの決断や行動を称賛した当ブログ管理人として、『GODZILLA 星を喰う者』のこの結末は受け入れ難いものがありました。
ゴジラという存在の脱構築
劇中でフツアの口から「まれびと」という言葉が発せられていたかと思いますが、映画『GODZILLA 星を喰う者』におけるギドラはある種の「まれびと」的な役割を果たしています。
「まれびと」という概念を日本に持ち込んだ人物とも言える折口信夫氏は次のように述べています。
マレビトとは何か。神である。時を定めて来り、臨む大神である。(大空から)あるいは海のあなたから、ある村に限つて富みと齢とその他若干の幸福とを齋して来るものと、その村の人々が信じてゐた神の事なのである。
この記述を読むと、本作におけるギドラの描写が極めて「まれびと」的であることは言うまでもないでしょう。
空からやって来る「神」であるギドラは、地球に生ける人間が「信じること」で具現化し、終焉とそれに伴う永遠をもたらす祝福の化身として現れたわけです。
一方で、『GODZILLA 星を喰う者』ないしアニゴジシリーズにおけるゴジラというのは、「まれびと」的とは言えませんよね。
「ゴジラアース」という名を冠した本作のゴジラは、地球から去ることはありませんし、そこに留まり続けています。そして破壊と終焉をもたらす存在であり、その点でギドラとのコントラストを有しています。
ただ、基本的に多くの人がゴジラは戦いを終えると海に戻っていくというイメージをお持ちだと思うんですよ。それは初期作の頃からの定型でして、ゴジラは破壊をもたらす「まれびと」のような描かれ方をしてきたわけです。
そんな潮流が変わったのが、『三大怪獣 地球最大の決戦』であるということは既に指摘されている通りです。
ゴジラとキングギドラが対決した映画ということもあるんですが、それ以上にこの映画のラストシーンが興味深いんですよね。
この映画のラストでは、インファント島への帰途につくモスラと小美人を、日本の岸辺にてゴジラとラドンが見守っているという構図が登場します。
そういった描写もあったことで、これまで恐怖の化身、破壊をもたらす「まれびと」として描かれていたゴジラがある種の「日本のガーディアン」のような存在へとコンバートされたわけです。
『GODZILLA 星を喰う者』はそんな『三大怪獣 地球最大の決戦』に間違いなく影響を受けています。
アニゴジのこれまでの2作品では、一貫して人類の敵として描かれてきたゴジラが本作においては「ゴジラアース」という名の通り、「地球のガーディアン」としての役割を果たしています。
そして地球に「まれびと」として到来するキングギドラは、そんな地球の守護神たるゴジラを脅かす存在として登場します。
これはキングギドラが『三大怪獣 地球最大の決戦』において富士山麓の浅間神社を攻撃するシークエンスにも重なる構図と言えます。ギドラというのは、日本に登場し、日本の神が祭られている神社を攻撃した怪獣なのです。
この点からも『GODZILLA 星を喰う者』という作品がゴジラの在り方を変えようと、意気込んで作られた作品であることが伺えます。
そしてそのラストでゴジラという存在を「恐怖」と「憎しみ」から解き放ったわけですが、これに関して『ゴジラ』の原作者である香山滋さんの興味深いお言葉を引用させていただきます。
だからぼくは『ゴジラの逆襲』を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している。若し書くとすれば、それは、原水爆の象徴としてではなく、別の意味の『ゴジラ』として生れかわらせる外には、絶対に今後姿をあらわすことはない。
基本的にはゴジラとは原水爆の象徴であると考えられているわけですが、アニゴジシリーズはゴジラを日本内存在から地球内存在へと置き換えることで、そのイメージを払拭しています。
そしてそのラストにおいてゴジラは、地球に根付き人間を見守る母なる自然のような存在になっています。(ゴジラアースが大樹のようなビジュアルだったことも頷けます。)
人間が向き合いこれからも共に生きていかねばならない存在としてゴジラを描いたのは『シンゴジラ』にも共通しているように思います。
何はともあれ、アニゴジ3部作も「恐怖」や「憎しみ」という感情から解き放たれたゴジラの在り方の模索の1つのアプローチだったんでしょうね。
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おわりに
昨年の秋ごろから始まったアニメゴジラシリーズがようやく完結しました。
3部作を個人的な評価順に並べると、一番面白いのは第2作の『GODZILLA決戦機動増殖都市』だと思いますし、ダントツで一番面白くないのが本作『GODZILLA 星を喰う者』だと思います。
スタッフ陣は最初からこの結末を決めていたと言いますが、本当にこの結末でよかったのかどうかには個人的には疑問が残りますね。
アニゴジは成功です!!とは言いづらい部分はありますが、製作した意義がなかったとは思いません。
今後とも国産ゴジラコンテンツが生まれてくれると嬉しいですね。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。