【ネタバレあり】映画『人魚の眠る家』感想・解説:色彩演出に込められた意味を考察

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね『人魚の眠る家』についてお話ししていこうと思います。

本記事は一部作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事になっております。

そのため作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

『人魚の眠る家』

あらすじ

離婚を間近に控えた夫婦、和昌と薫子。

そんな彼らの下に突然の悲報が届きます。

その内容は、彼らの娘である瑞穂がプールで溺れてしまい、病院に緊急搬送されたというものでした。

病院に駆け付けた2人。そんな彼らに突きつけられたのは瑞穂の脳死の可能性でした。

法的なプロセスに則り、臓器移植を受け入れて、娘の脳死を認めるか否かを迫られる2人。

一晩、その決断の是非に考えた彼らは、翌日臓器移植に同意します。

そこにやって来る臓器移植コーディネーター。

その時、薫子はかすかに娘の手が動いたのを感じ取りました。

そして彼女は告げました。「瑞穂は生きています。」

臓器移植を拒否した彼らは、驚愕の方法で愛する娘を延命します。

それは果たして愛なのか?それとも狂気なのか?

現代を生きる我々に「人の死」とは何かを問い直す衝撃の問題作です。

作品情報

原作を著したのは東野圭吾さんですね。

日本を代表する大人気作家の1人ですよね。

今年だと彼の著した『ラプラスの魔女』なんかも三池崇史監督の下で実写映画化されています。

ナガ
正直『ラプラスの魔女』に関して言うと、あまり面白くはなかったよね・・・。

原作も映画版も両方鑑賞しましたが、正直あまり面白いとは感じませんでしたかね。

ただ『人魚の眠る家』に関しては原作を読んで、すごく深く考えさせられましたし、一読の価値がある作品だと感じました。

ここからは同名の実写映画版に関する作品情報になります。

まず監督を務めたのが堤幸彦さんですね。

『ケイゾク』『トリック』『SPEC』シリーズなどの監督を務めたことでも知られる、日本を代表する映画監督の1人ですね。

ナガ
正直あまり好みの映画監督ではないなぁ・・・。

良くも悪くも大作邦画らしい映画を撮る監督で、映画ファンの間でもかなり好みが別れることと思います。

ただ個人的に『SPEC』シリーズは大好きでした。

そして本作の主演を務めるのが篠原涼子さんですね。

ナガ
何というか原作を読んで、納得の配役だったなぁ~

日本映画界の女優で、本作『人魚の眠る家』の母親役を演じられる方がどれくらいいるかと考えてみた時に、私は冗談抜きにして篠原涼子さん以外に思い浮かびませんでした。

そしてそんな薫子の夫である和昌を演じるのが西島秀俊さんですね。

ナガ
これまた抜群の配役ではないかと思います。

自身の経営する会社の科学技術の可能性を信じながらも、それに支えられて延命する娘の姿を見て、疑念を抱くようになるという難しい役どころを彼ならば間違いなく全う出来ることでしょう。

他にも坂口健太郎さんや川栄李奈さんといった注目の若手俳優も出演しており、2018年の終盤に向けて豪華な顔ぶれが揃う映画となっています。

より詳しい映画情報が知りたい方は公式サイトへどうぞ!

参考:『人魚の眠る家』公式サイト

ぜひぜひ原作もお手に取ってみて欲しいですし、映画版が気になるという方は劇場に足を運んでみてください。

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『人魚の眠る家』解説

「脳死は人の死」その遍歴とは?

本作『人魚の眠る家』のキーワードは無論「脳死」です。

まずは日本において「脳死」というものがどういう風に考えられてきたのかについて簡単に解説しておこうと思います。

そもそも日本という国においてなぜ脳死者からの臓器移植が諸外国に比べて遅れていたのかという点を考えてみますと、1968年の和田心臓移植事件に触れておく必要があります。

これは21歳の溺水事故を起こした男子大学生の心臓を心臓弁膜症の18歳の男子高校生に移植するという日本初の心臓移植手術だったのですが、失敗に終わり、その後多くの疑惑が浮上し、執刀医らが刑事告発されるまでに至った事件です。

この事件で1つの大きな問題になったのが21歳の男子大学生が本当に脳死だったのかという点でした。この手術では脳死の確認が不十分であったことが指摘されています。

こういう経緯で、日本には脳死者の臓器移植に対して否定的な風潮が出来上がってしまい、諸外国に比べて格段に遅れてしまうという事態が生じました。

その後、1983年に,厚生科学研究費による「脳死に関する研究班」(竹内班)が発足したことで少しずつ遅れていた時計の針が動き始めます。

この頃発売された書籍としては中島みちの「見えない死」が有名かと思います。

この本が「脳死」という概念が話題になりつつある社会に与えたインパクトは計り知れないと思います。

脳死とは、見えない死である。医師以外の誰にも、見えない死である。生きているのか、死にかかっているのか、すでに死んでしまっているのか、どんなに見つめても、見えない死である。

呼吸と心拍の停止が誰にも明らかで、つめたく硬い従来の死は、もう生き返らぬという納得とあきらめを、まわりの人々に与えることができた。

しかし、この、見えない死、暖かな死、やわらかな死は、ベッドサイドで見守る者にとって、観念の中の死であって、ひしひしと感じられる死ではない。

(中島みち『見えない死』より引用)

心臓が止まり、呼吸が停止してしまえば人間の身体機能は完全に停止し、熱が奪われ、「冷たい死」というものが訪れます。

そうすれば身体機能が完全に停止してしまったということで、多くの人がそれを「死」であると受け取ることでしょう。

しかし、中島みちさんが指摘されているように、脳死とは「暖かな死」なんです。

『人魚の眠る家』に登場した瑞穂もそうでしたが、脳の大部分の機能が停止し法的には「脳死」と認められるであろう状態になっているにも関わらず、確かに心臓は動いていて、その体は熱を帯びているのです。

それは本当に人の死なのだろうか?この答えのない論争が社会を巻き込んで話題になりました。

そして劇中でも挙がっていましたが1985年に脳死判定基準(竹内基準)が発表されることとなりました。

これは他国の基準と比較しても厳しい内容であると評価され、国内でも大きな論争を巻き起こしました。

そして1997年に臓器移植法が制定され、「法的脳死判定基準」が定められることとなりました。

その後の日本ではこの臓器移植法の制定を機に、さらに「脳死は人の死」に関する論争が紛糾していきます。

特に小松美彦さんの『脳死・臓器移植の本当の話』はインパクトがありました。

高次の中枢が障害されれば下位の中枢がはたらくことはよく知られた事実である。したがって,大脳皮質がはたらかなくなれば,皮質下中枢が,さらには脳幹が,そして脊髄が,中枢として機能する可能性がある以上,脳死状態に陥ったからといって意識がないという保証はない。

(小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』より引用)

このように小松さんは「脳死は人の死」という考え方に対して、様々な事例をあげつつ鋭い疑念を突きつけているわけですが、実はただ批判しているわけではありません。

小松さんの主張は「脳死」というよりも、人の死というものについて人間のコンテクストの中で考えようとするところにあります。

彼は「みとる者や弔問に訪れる者や訃報を受けさまざまな思いをいだく者,これらいわば主体と死にゆく者・死んだ者との関係においてはじめて死は成立しているのではあるまいか」とも発言しているのです。

つまり、身体的な機能の停止や脳機能の停止云々ではなくて、その人の周囲にいる人が、どう認識するかというところに「死」の有無は委ねられているのではないかという指摘ですよね。

このように2000年代前半は「脳死」や「人の死」について改めて考え直す動きが活発に見られました。

その後、2010年に改正臓器移植法が全面施行されたことで、本人の意思が不明な場合には、家族の承諾で臓器が提供できるようになりました。

これが本作『人魚の眠る家』において重要な点でしたね。

それでも「脳死」と「人の死」に関する考え方を割り切ってしまうことはできません。

今後この論争がどんな方向に向かっていくのかも含めて非常に興味深いですね。

『人は二度は死なない』に込められた強烈な意味

本作で一番衝撃を受けたシーンは何と言っても終盤の薫子が娘の瑞穂に出刃包丁を突きつけるシーンかと思います。

単純に母親が娘に対して包丁を突きつけるというシーンは猟奇的ですが、それ以上に薫子が娘を「殺そう」とする動機が強烈なんです。

というのも薫子は周囲の人から、もう瑞穂は生きていないんだと諭され、しまいには夫や息子からも「瑞穂はもう死んでいる」と言われてしまう始末でした。

それでも彼女は家族に、周囲の人間に、そして法律に自分の娘が生きていると認められたかったんですよ。

そして自分がこれまで必死に続けてきた瑞穂の延命治療を否定されたかのような気持ちになった彼女が取った行動が、これだったわけです。

その真意というのは、自分が瑞穂を殺して、「殺人罪」に問われたとしたら、それは逆説的に娘が生きていたことの証明になるし、逆に問われなったとしたら、娘はプールで自己に遭ったあの日にもう死んでいたと納得できるというものでした。

それはもはやシュレディンガーの猫が閉じ込められている箱の蓋を開けて、その中身を確かめるような行為と言えます。

自分が殺すことができたなら、娘は生きていた。逆に殺せなかったとしたならば、娘は死んでいた。その白黒を彼女ははっきりとさせようとしたわけです。

薫子は娘への愛ゆえに、必死に延命を続け、介護を続けてきたわけですが、もうこのシーンになると完全に彼女のエゴが表出しています。

それは娘に生きていて欲しいというよりも、自分が必死に取り組んできた数年間を無意味なものだと思いたくはないというある種の自己肯定志向の感情ゆえなのではないかとすら考えさせられます。

確かに人は二度は死にません。

それを逆説的な形で作中に登場させ、殺人罪に問われるか否かで「娘の死生」を判断しようとしたのは非常に興味深い描写だったと思います。

色彩演出に込められた意味を読み解く

映画『人魚の眠る家』を鑑賞してきまして一番印象に残っているのが、本作の色彩演出です。

まず映像の鮮やかさに注目してみます。

まず瑞穂が事故に遭うまでのシーンの映像って確かに鮮やかなんですが、見ていて「美しい」と感じられる生命感に溢れたビビッドなトーンになっています。

しかしその後、瑞穂が事故に遭って病院に搬送されますが、その時に一気に映像のトーンが変わるんですよ。

これまでの温かみのある映像とは違って、急に冷たく生気のない映像になっています。

その後、しばらく暗く、冷たいトーンの映像が続くんですが、瑞穂が家に戻ると少しずつ冒頭のような鮮やかさが取り戻されていきます。

ただこれまた注目してほしいのが、瑞穂が家に戻った後、母親のエゴが加速していくたびに映像は彩度を増していって目が痛くなるほどの狂気的な鮮やかさを帯びていきます。

そして終盤の薫子が瑞穂にナイフを突きつけた事件が起こった後に、少しずつ映像のトーンは落ち着いていきます。

このように映画『人魚の眠る家』では映像の鮮やかさを巧みに使い分けることで、登場人物の心情の変化を表現しているのです。

そしてさらに驚くべき点は、本作において青色、赤色、黄色の3色が果たした役割です。

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

まず、青色について触れていきます。

最近、非常に興味深い研究成果が発表されまして、死にゆく線虫に紫外線を当てて観察すると、死の過程で青い蛍光が放たれることが判明したそうなんです。

これは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のデイヴィッド・ジェムズらによる研修成果でして、その青い光は「死の蛍光」と呼ばれています。

参考:「死」は青い光を放つことが判明

また、小林康夫氏は著書『青の美術史』の中で青色について次のように指摘しています。

ある意味では、青の向こうには、暗黒があり、闇があり、死があると言ってもいいでしょう。青を通して生命の高い理想を見、同時に、死を見ていた。

小林康夫『青の美術史』より引用

このように青色というのは、非常に強く死を連想させる色なのです。

一方で、赤色という色は「血の色」であることからも強く結びつけられるのですが、「生命の色」と捉えられることが多いです。

映画『人魚の眠る家』はそんな赤色と青色の光の演出を巧妙に使い分けしています。

例えば、作中で瑞穂が星野の技術によって微笑むシーンがありますよね。

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

このシーンでは、瑞穂の顔の半分に赤色の光が、もう半分に青色の光が当てられていて、彼女が死と性の境界線上に位置している存在であることを示唆しています。

他にもこの映画では、基本的に母親の薫子の視点が中心になって物語が展開しているため、彼女のフィルター越しに見る世界は「赤み」を帯びています。

これは薫子自身が瑞穂が生きていると強く信じているからこその世界の色合いなのでしょう。しかし、そこに真緒(川栄李奈)や和昌(西島秀俊)の視点が入り込んだときに、ふいに瑞穂のいる部屋が「青み」を帯びて映し出されるんですよ。

そういう風に視点の変化に伴って、世界の色合いを変えることで、登場人物がそれぞれに瑞穂という存在をどのように捉えているのかを明らかにしているわけです。

それに加えて、本作ではもう1つ黄色が有効に機能しています。

映画『人魚の眠る家』の中で登場した黄色のモチーフは、薫子たちが暮らす洋館の庭に咲いていたバラともう1つ瑞穂が最後に描いた絵のハートの色ということになるでしょう。

これに関して、ゲーテの『色彩論』を引き合いに出してお話してみます。

ゲーテはこの著書の中で黄色を最も光に近い色、青色を最も闇に近い色と定義しました。

そしてそんな黄色と青色が互いに呼び求め合う中で、最終的に誕生する色が赤色であると定義したのです。

黄色いバラの香りが漂う洋館。瑞穂に漂う青い死。それらが物語の果てに呼び合い、最終的には生命や愛といった赤色で表現されるような感情やものを導き出しました。

薫子は自分の娘の「生命」の存在を信じることができるようになり、家族には「愛」が戻ってきました。

ちなみに原作では洋館に咲いている薔薇が黄色であるという指定は無かったので、映画として施された演出だと思いますし、赤色と青色、黄色というモチーフと演出を巧みに配置している点は、意図的な演出だと思いました。

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『人魚の眠る家』感想

価値観を超えて

本作は価値観というものについて非常に深く考えさせてくれる作品でもあったと思いました。

主人公の薫子が娘の瑞穂のためを思い、施す数々の延命治療は周囲の人から「狂気的である」として敬遠されていきました。

確かに彼女の取った行動というのは、もはや狂っていると形容しても差し支えないレベルに達していましたし、無意味なことだったのかもしれません。

しかし、彼女が娘を必死に延命した時間は確かに意味があったと『人魚の眠る家』という作品は肯定してくれます。

人間という生き物はしばしば自分と異なる価値観を持つ人間を否定して、排斥してしまおうとします。人間とはつくづく他人を説得し、自分と同じ考えを植え付けることで安心感を得る生き物なのです。

しかし『人魚の眠る家』という作品は終盤に1つの答えに辿り着いています。

「何とも思いません。私がその人たちを説得する理由なんてありませんから。たぶんその人たちが私を説得することもないでしょう。この世には、意思統一をしなくていい、むしろしないほうがいい、ということがあると思うのです。」

東野圭吾『人魚の眠る家』より引用

近年「多様性」という言葉が取りざたされ、とりわけ重要視される傾向にあります。

それはこの世界に数多存在する多様な価値観に関して、その1つ1つに対して共感性を有せるようになることであると勘違いされがちです。

「多様性」の尊重というのは、むしろ多様な価値観が存在しているという状態を認識しておくことに過ぎないのであって、共感性は問題ではありません。

つまり、この世界には多様な価値観があって、もちろん自分にとっては受け入れ難いものもあるかもしれませんが、その存在だけはきちんと認めていく。これが多様性の尊重であるわけです。

そういう意味で、『人魚の眠る家』という作品において薫子が辿りついた、周囲に狂気的であるとか、神への冒涜などと言われようと、自分なりの娘への愛を貫くという強い決意にはすごく感動しました。

無理に相手の価値観に寄り添う必要はなく、むしろ自分の価値観も信じてみても良い。

それは「人の死」について考える際も同じなのかもしれません。

小松美彦さんがかつて人と人とのコンテクストの中で「人の死」が成立するという点を指摘していましたが、そう考えると「人の死」というのは、自分がそれを始めて認識した時に発生すると定義づけられるやもしれません。

本作の終盤で瑞穂の「死亡の日時」に関して論争が起こる場面もありましたが、まさに「死」というものはまだまだ個人の考え方や主観に依存する部分が多いということを如実に表していると感じました。

原作との違いに見る「前進」のコンテクスト

『人魚の眠る家』は原作が450ページ近くあり、映画化するに当たっては当然「引き算」の脚本製作が求められます。

映画版は大筋は原作をなぞっていますが、物語中盤にあった瑞穂の特別支援の教員である新章先生との関わりに纏わるエピソードが全てカットされています。

あとは、薫子が夫との離婚を控え、良い雰囲気になっていた榎田というクリニックの男性とのエピソードもキャラクター自体がカットされていたので、存在しませんでした。

目立った展開のカットはおそらくこの2つということになると思います。

そして映画版として加えられた演出の中で一番印象的だったのが、瑞穂の描いた絵です。

ナガ
実はこの絵に纏わるエピソードは原作にはないんだよね。

瑞穂の描いた絵が一体作品の中でどんな役割を果たしていたのかというと、それはプールで溺れ、瑞穂が脳波を喪失したあの日の象徴的な役割です。

薫子は、そんな瑞穂と一緒に見に行こうと約束したその絵に描かれた光景を見る明日を永遠に失ってしまいました。

つまりこの絵が意味するのは、薫子や和昌の時間は、あの日のまま止まってしまっていたということです。

しかし、物語の終盤に彼らは瑞穂が絵に描いていた光景を見つけ、それを瑞穂と一緒に見ます。

その光景というのはまさに、あの日止まってしまっていた、永遠に失われたかに思えた「明日」を手に入れた瞬間でありますし、家族がようやく前に進めた「前進」のモチーフなのです。

セリフではなく、視覚的に物語を進めようという意図が感じられる素晴らしい追加要素だと思いましたし、この映画で最もエモーショナルな瞬間の1つだったと言えるでしょう。

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ラストの展開が意味したもの(ネタバレ注意)

本作のラストのとある展開の意味がいまいち伝わっていないのかな?と思ったので、個人てな解釈ではありますが、お話させていただこうと思います。

終盤に瑞穂が枕元に現れて、その後容体が悪化、両親は脳死判定を受けさせることを決意し、娘の死を受け入れるという展開がありました。

これに関して、展開が安直すぎる、エンタメに寄せてしまったという意見もあるとは思うんですが、個人的には全くそうとは感じませんでした。

その最大の理由というのが「瑞穂の命日」ですよ。

というのも瑞穂の容体が急変したのが、3月31日でして、そこから脳死判定を確定しようと思ったら、1日のブランクを経ての2度の検査が必要になります。

そのため法的な、医学的な見地に基づいた瑞穂の命日は4月1日にならないと不自然なんです。

これは劇中で新藤先生が指摘していた通りですよね。

ではなぜ娘の命日は「3月31日」なのかというと、それはあの母親にとって、自分の娘が旅立って行ったと感じたのがその日だったからです。

ちなみに原作では、薫子が新藤先生に娘の命日を「3月31日」にしてほしいと詰め寄るシーンがあります。

これに関して映画版は正しい取捨選択をしたと私は思っています。

なぜなら、このシーンは個人的に原作のテーマ性がブレていると感じるところだからです。

薫子は一連の展開を経て、自分たちが瑞穂が生きていると思えれば良いという結論に達しています。

それにも関わらず、原作の薫子は最後の最後で「医学的な死亡日」を3月31日にしてくれと詰め寄るんですよ。これはすごく矛盾していると思いませんか。

そんなことをするということは、まだ薫子は自分の娘の生命が存在しているという思考を法律に、社会に押しつけようとしているということにも捉えられてしまいます。

しかし、映画版ではきちんとこの描写がカットされています。

ナガ
ここは映画版の脚本を書いた人に拍手を贈りたいよね!

サラッと瑞穂のお葬式の場面で、命日の設定に触れるだけに留めることで、映画版の『人魚の眠る家』は薫子が自分にとっての「瑞穂の生」を肯定できたことを仄めかしているわけです。

こういう取捨選択もこの映画版は抜群に巧いんですよね。

おわりに

いかがだったでしょうか。

一旦原作を読んで感じたことや脳死に纏わる遍歴を解説として纏めてみました。

映画版を鑑賞しましたら、さらに解説や感想を追記していこうと思います。

鑑賞し終えた後に深く考えさせられること間違いなしの1作です。

ぜひぜひ書店で本の方をお手に取ってみて欲しいです。また気になった方は劇場に足を運んでみてください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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