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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『パッドマン』についてお話していこうと思います。
本記事は一部作品のネタバレになるような要素を含む作品の感想・解説記事になります。作品を未鑑賞の方はご注意ください。
良かったら最後までお付き合いください。
映画『パッドマン』
あらすじ
インドの小さな村。主人公のラクシュミは妻と慎ましく暮らしていた。
職人として働くラクシュミは学は無かったが、その技量は確かで収入も比較的安定していた。
そんなある日、妻のガヤトリに生理の日が訪れる。
当時のインド(2001年)では、未だに「月経」は不浄のものとされており、生理が始まると女性は家から出て生活する習わしとなっていた。
そんな妻の姿を見かねたラクシュミは妻のために「ナプキン」を購入する。
しかし、当時のインドでナプキンは高級品で、1袋55ルピーという価格設定だった。
(*1ルピー=100円くらいの感覚だとよく言われるので、日本円だと5000円くらいの感覚?)
そのため、妻のガヤトリも値段に驚き、使用することに抵抗を感じてしまう。
しかし、当時のインドの女性たちは「不潔な布」を使っており、それが原因で病気や不妊を招いてしまっていたのだった。
その状況を改善するためにラクシュミは「ナプキン」を自ら作ることを決意する。
ただ当時「生理」という言葉を口にすることすら憚られていたインドで、ナプキン作りに堂々と取り組む彼は「異常」な存在として見られた。
次第に彼の周りから人が離れていき、そして家族からも煙たがられるようになる。
それでも女性のため、最愛の妻のために試行錯誤するラクシュミ。
彼は「ナプキン」でインドを変えることができるのか?
作品情報
そもそもこの映画は、製作を担当したトゥインクル・カンナーがムルガナンダム(ラクシュミの元になった人物)の生き方や功績に興味を持ち、彼の活動に感銘を受けたことが発端で作られました。
また作品の製作にあたり、モデルとなったムルガナンダムも積極的に参加し、主演のアクシャイ・クマールのキャスティングや劇中に登場するナプキン製造機についてのレクチャーも担当したと言います。
インドでも3000スクリーン規模の大規模公開が敢行され、ヒットし、さらには海外でも多くの劇場で公開されることとなりました。
しかし、イスラム教が根強い国では本作『パッドマン』を上映中止にしたケースもあり、まだまだ女性の生理用品に対する認識が追い付いていない国や地域があるという現状を浮き彫りにしています。
・キャスト
ラクシュミ(アクシャイ・クマール)
パリー(ソーナム・カプール)
ガヤトリ(ラーディカー・アープテー)
・スタッフ
監督:R・バールキ
脚本:R・バールキ
音楽:アミット・トリベディ
撮影:P・C・スリーラム
より詳しい映画情報は公式サイトをご覧ください。
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映画『パッドマン』解説:本作はどれくらい実話なのか?
映画『パッドマン』の主人公であるラクシュミは、実在の人物アルナーチャラム・ムルガナンダムをベースにしています。
そうなんです。基本的に「自伝映画」「伝記映画」と呼ばれるようなジャンルの作品って脚色を加えてあります。
ただ、気になるのはどこまでが脚色だったんだろうか?というポイントです。
今回はどこが事実で、どこがノンフィクションだったのかについて書いていこうと思います。
登場人物の名前
そもそも本作『パッドマン』の登場人物はその名前が事実ベースではありません。
例えば、主人公ラクシュミの名前は実際にはアルナーチャラム・ムルガナンダムでした。
では、なぜ登場人物の名前を変える必要があったのかについてまずは考えてみましょう。
ラクシュミ
主人公ラクシュミの名前は、劇中でも触れられていましたが、女神ラクシュミーから取られたものです。
ラクシュミーというのは、インドにおける美と豊かさ、幸運の女神です。
この女神は、人を物質的ないし精神的な豊かさに導くとされています。
男性にこの名前が付けられているのが何とも象徴的ですが、インドの女性たちの「豊かな生活」のために貢献したという点で、彼が女神ラクシュミーに重なるのも無理はないでしょう。
パリー
パリーというのはインドの言葉で「妖精」という意味です。
「妖精」と言うと思い浮かぶのがシェイクスピアに代表される「妖精文学」だったりします。
例えばその代表作である『夏の夜の夢』でもそうなんですが、妖精という存在は人を森の中(夢の世界)へと導き、そして最後は別れ、人を元の世界へと戻すという役割を果たします。
これを踏まえて考えると、映画『パッドマン』におけるラクシュミとパリーの関係性についての結末に納得がいくのではないでしょうか。
「妖精」は人を導き、最後には元の世界に戻してあげなければならなかったわけです。
ガヤトリ
ガヤトリという名前は「ガヤトリーマントラ」から取ったものでしょうか。
ガヤトリーマントラというのはヒンドゥー教の聖典である「リグ・ヴェーダ」に登場する太陽神サヴィトリへの讃歌の中にあるものです。
「ガヤトリー」とは8つの音節を3つ並べた韻律を意味しています。
インドの人々の間でも髪を讃える最高峰の言葉の1つとして知られているこの「ガヤトリーマントラ」からラクシュミの妻の名前がつけられたのは印象的です。
きっと彼のナプキン製作という大仕事において、常に妻のガヤトリの存在が「ガヤトリーマントラ」のように心の支えとして存在していたのでしょう。
なぜムルガナンダムは学がなかった?
まず映画『パッドマン』において主人公のラクシュミは、学がなく(学校に満足に通っておらず)職人として働いている状態でした。
こんな状況に置かれていた経緯が映画版では描かれていませんでした。
ラクシュミのベースになったアルナーチャラム・ムルガナンダムという人物は元々貧困層に生まれついたわけではありません。
彼が生まれた家は元々比較的裕福な家柄でした。
しかし、彼がまだ幼少の頃に交通事故に遭って命を落としてしまったのです。
それによりムルガナンダムの家族は没落していき、お金がなく、彼は学校にも満足に通うことができませんでした。
現在日本ないし世界中で、親の経済状況が悪いとその子どもがそこから抜け出すことが難しくなっているという状態が存在しています。
だからこそアイデアと熱意で、そんな逆境を跳ね返して偉大な発明家として知られるようになったムルガナンダム
その姿に胸を打たれました。
ラクシュミがナプキンを作ろうとしたきっかけ
映画の中でラクシュミは自分の妻が隠れるようにして「生理の5日間」を過ごしていることに、結婚した後に気がつきました。
そして何とかその風習を止めさせるために、彼は店で「ナプキン」を購入するわけですが、その値段があまりにも高く妻のガヤトリも使用することを躊躇ってしまいまいます。
それが彼の「ナプキン」作りの原点になるわけですが、この経緯は全てムルガナンダムの実話です。
さらに言うと、彼はその後ナプキン開発を続けたことで、妻に逃げられ、母に逃げられ、村を追われと悲惨な末路を辿ることとなるのですが、これも実話だそうです。
ちなみにムルガナンダムはこの映画は「85%」が実話だよと話しています。
パリーという存在
パリー © 2018 SONY PICTURES DIGITAL PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED.
個人的には好きなんですが、その一方でいまいち好きになれないのが「パリー」という女性の存在です。
実はこの「パリー」という女性は実在していなくて、この映画の脚色であることが分かっています。
それを知った時にふと頭に浮かんだのが『ブルーに生まれついて』というジャズ演奏家チェットベイカーの伝記映画です。
この映画には実際のチェットベイカーの人生には登場していないジェーンという女性が登場し、重要な役割を果たしています。
このように伝記映画に実際には存在していなかった「異性」や「恋愛」の要素を加えて、フィクションとして脚色していくという手法はこれまでも取られてきました。
しかし、映画『パッドマン』に関して言うならば、この脚色が生きていなかったように感じられたのが本音です。
これが個人的に「パリー」という実在しない女性を物語に加えたことへの最大の疑問点なんですよ。
パリーという女性があまりに献身的にかつ聖女のようにラクシュミを支える様子が描かれるため、ラクシュミの妻であるガヤトリがあまり良く映らないんですよ。
ナプキン作りに奔走する彼に恥をかかされたとして、距離を置いた彼女が新聞で成功した彼の姿を見つけて、電話をかけて来るわけですから、パリーがいるとどう考えてもガヤトリは「金にがめつい女」になってしまいますよ・・・。
ただ忘れないで欲しいのが、ムルガナンダム自身も、そして映画の中のラクシュミも「ナプキン」作りへの情熱の根源はあくまでも「彼の妻のため」というところにある点です。
パリーという女性を登場させ、彼女とのラブロマンスを匂わせた点は映画としてのエンタメ性を高めはしましたが、ムルガナンダムの「妻のために」という行動理念をぼやかしてしまった印象があります。
その点で手放しで称賛はし難い脚色だと感じました。
5年の出来事が5週間くらいに見える?
みなさんは映画『パッドマン』での出来事がどれくらいの期間で起きたものだと感じましたか?
特にラクシュミがナプキン製造機を作成するところなんかは音楽と共にサラサラと流されてしまっていましたし、彼の借金の期限が1年だったこともあって、あまり長い年月が経過しているように見えませんでした。
しかし、実際にはムルガナンダムがナプキンの開発を始めたのは、2001年のことで最終的にBest Innovation for the Betterment of the Societyで表彰されたのは2006年のことなんです。
映画で見ていると彼の葛藤や苦難がすごく短いことのように思えますが、実際にはすごく長い期間にわたって彼が戦い続けていたということを知っておくと、もっと深く映画を味わえることでしょう。
映画『パッドマン』感想
「異常」を「普通」に変えるための闘い
映画『パッドマン』で個人的に最も印象的だったのが、ラクシュミがアンケートの結果をパリーに聞きに行ったシーンでした。
このシーンで彼のアンケートには「不満・普通・最高」という欄がありましたが、この「普通」という言葉が映画『パッドマン』において大きなキーワードになっていることは言うまでもありません。
冒頭でも示されたようにインドには生理用ナプキンについて2つの制約がありました。
- 月経が不浄のものであり、語ることすら良くないとされる風潮
- 高価すぎて庶民に手が出せる代物ではなかったこと
つまり当時のインドにおいて生理用ナプキンというアイテムは「特別」なものであり、「異常」なものだったのです。
よってラクシュミの闘いとはある意味で「最高」を「普通」にするための闘いだったと言えますし、それがパリーにアンケートを取りに行ったワンシーンで明確になっています。
また、彼が賞を受賞した後に取った行動にもきちんとその理念が息づいています。
普通であれば、発明した機械の特許を所得して企業にその技術を売り込んで大金を儲けるのでしょうがラクシュミはあくまでもナプキンを「普通」にするための闘いを続けます。
村々を転々とし、生理用ナプキンを作るための機械やノウハウを安価で売って回りました。
さらには、行く先々で「機械」を提供するだけではなく、女性の雇用「機会」をも生み出していたのが印象的でした。
また冒頭では村の中で、また家族の中で「異常」な存在として忌み嫌われていた彼が、終盤には「普通」の存在として受け入れられ、家族や名誉を取り戻すという展開には胸が熱くなりました。
一方で、インドやその周辺の国々では未だに女性の生理に対する旧来的な価値観が残っています。
クウェートやパキスタンで本作が上映禁止になったという事実がそれを証明しています。
だからこそラクシュミ(ムルガナンダム)の「異常」を「普通」にするための闘いはこれからも続いていくんだと思いますし、この映画『パッドマン』の大ヒットもその大きな助けになることでしょう。
終盤の長尺演説シーンについて
映画『パッドマン』の終盤にラクシュミが国際連合で演説をするシーンがあります。
そうなんですよ。演説が始まってから終わるまで全てが映像として流れるのでかなりの尺を取っています。
この構成が個人的に現在絶賛公開中の『ボヘミアンラプソディ』にも似ているように思いました。
というのもこの演説シーンはストーリー展開上絶対に必要だったかと聞かれると、そうではありません。
映画『ボヘミアンラプソディ』のラスト21分のライブエイドのシーン同様で、ある意味「ボーナスステージ」的な扱いになっているわけです。
では、なぜこの演説シーンにわざわざ長い尺を取ったのかというと個人的には答えは1つです。
私はこう解釈しています。
というのも映画『パッドマン』は淡々とラクシュミ(ムルガナンダム)のサクセスストーリーを時系列順に脚色を交えながら描いた作品です。
そのためこの演説シーンに至るまでは基本的に事実の羅列のようになっています。
ただこの演説シーンで初めてラクシュミ(ムルガナンダム)が映画を見ている我々に向けて語りかけ始めるんですよね。
よってこれは一種の映画と観客のコミュニケーションなんです。
これまでラクシュミの人生を見てきて、そして演説の中で彼が語っている言葉を受けて、あなたはどう考え、どう行動しますかと映画が我々に問いかけをしているわけです。
そこにこそ本作の監督を務めたR・バールキの、映画『パッドマン』が単なる映画として終わるのではなく、インド国内外の「生理用ナプキン」の現状がもっと改善に寄与してほしいという願いが込められているように感じました。
映画にどれくらいの力があるかどうかは未知数です。映画や小説なんて創作物に世界を変える力があるのかどうかは分かりません。
しかし、伊藤計劃氏の『虐殺器官』で書かれたように「言語とは人の思考を規定するもの」でもあります。
だからこそR・バールキ監督は演説シーンを映画の構成を歪にしながらも長尺で採用し、その「言葉」に自身の願いと思いを託したように思えます。
つたない英語(ラクシュミ・イングリッシュ)ながらも必死で彼が紡ごうとする1つ1つの言葉が、ダイレクトに胸に響いてきてとても感動しました。
ぜひぜひ映画『パッドマン』の演説シーンをご覧になってみて欲しいと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『パッドマン』についてお話してきました。
この作品はインドでは公開初週末の興行収入が4億ルピーを超えるという大ヒットを記録しました。インド国外でも公開され、日本でもこうして公開される運びとなりました。
インドで「ナプキン」を開発したという事実も非常に興味深いのですが、それ以上にラクシュミ(ムルガナンダム)自身の生き方にもすごく学ばされることが多いように感じました。
きっと自分がこれから生きていく上で参考になるヒントが散りばめられていることと思います。
映画『パッドマン』をぜひぜひ劇場でご覧になってみてください。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
こんにちは。
この映画、ラクシュミ自身の研究開発のように、丹念に作られていたなあ、と思いました。登場人物の命名についての考察、なるほど!でした。顧客第1号のパリーも「普通よ」と答えてましたね。それが最高の褒め言葉だったのですよね。
それにしても、やはり踊ってました、インド映画。
さるこさんコメントありがとうございます!
「普通」を作るってすごく難しいんだなぁ〜と痛感される映画でしたね!
やっぱり踊りありきのインド映画ですよね笑
はじめまして!
映画をみました。
ガヤトリが実家に戻った際に、実兄が妻に向かって暴言を吐いていましたよね? 太り過ぎだ、ご飯を食べるな、と。そして妻の健康よりも家の設備の心配をしていました。このような男尊女卑が日常に根付いていたのではと思われます。それを目の当たりにして、いかにラクシュミが誠実で思いやりのある男性であったか、自分たちが幸せな夫婦であったかを痛感したのではないでしょうか? 私に恥をかかせた、最低の夫ではあるが、それ以外は愛していた男性に対して、お金目当てでもなく、名誉を手にしたからでもなく、ただただ未練があったために連絡してしまったのではないかと、私は思いました。^^
なつさんコメントありがとうございます。
もちろんガヤトリの心情としては、なつさんの仰っている通りだと思います。
私がブログに書いたのは、1番辛い時に献身的に支えたパリーの存在があるためにガヤトリの純粋な感情が濁って見えるというお話です。
ラクシュミの動機そして目的は徹頭徹尾妻にあったわけですから、余計な脚色をして、そこをぼやかす必要は無かったんじゃないか?とどうしても思ってしまった次第です。
返信ありがとうございます。
「同じ女性でも、育った環境・受けた教育で価値観・考え方が全く違う」
ことが描かれた映画ですね。
パリーの行動は「ラクシュミを支える」というより「社会貢献」だと思います。
この映画はラクシュミの功績と同時に、女性の権利、新しい女性観、自立した女性(つまりパリー)、を描きたかったのではないかと思います。ガヤトリがあまり良く映っていないとしたら、「もうその女性観は古い」「女性に権利を、教育を」というメッセージでもあるのではないでしょうか?
なつさん返信ありがとうございます。
社会貢献なのだとしたら、キスをした意味は分かりません。
自立した女性を描くためにパリーという架空のキャラクターを作ったんだとは思いますが、それと対比して実在した人物をベースにしたガヤトリを「古い」と言い切るのは、あまり好きではありません。
ラクシュミとパリーのラブロマンス的な展開は、やはり作品の主軸やなつさんの仰っている自立した女性というテーマもぼんやりさせてしまった印象は強いです。
はじめまして。
先日、映画を見ました。
ナガさんの解説、とても面白かったです。
じぶんとは違う視点の方の捉え方をみると、新たな発見もありました。
私は2001年の映画ということでそこまで昔の出来事でもないのに
こんなに生理に対する見方が違うのかということにただただ驚きました。
同時に昔の日本みたいだな、とも思いました。
(生理用品に興味があり、以前”生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ”という本を読みました。)
ですが、愛する奥さんの為に突っ走ったラクシュミにはあっぱれ以外の言葉がありません。
かれんさんコメントありがとうございます!
やはりいろいろ他の方の感想読んで気がつくこともありますよね!
挙げておられる本興味深いです!また読んでみますね!(^^)