(C)2018「来る」製作委員会
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『来る』についてお話していこうと思います。
本記事はとりわけ映画『来る』と小説『ぼぎわんが、来る』の違いにフォーカスした考察となっております。
そのため映画、原作のネタバレ要素に一部言及します。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
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・映画『来る』のキャストやスタッフの情報まとめ
・原作『ぼぎわんが、来る』の考察記事(ネタバレあり)
ぜひぜひ読んでみてください。
映画『来る』解説:原作との違いはどこ?
さて、ここからは5つのポイントに絞って原作『ぼぎわんが、来る』と映画『来る』の違いを解説していこうと思います。
ネタバレを含む内容になるのでご注意ください。
黒木華演じる香奈について
おそらく原作から映画脚本にコンバートされるに当たって一番キャラクターとしての設定が変更されているのが、黒木華さんが演じた香奈だと思われます。
・原作では
- 夫の秀樹の「イクメン」である自分に酔った様子や育児への非協力さに呆れ、ストレスが蓄積しノイローゼ状態に陥っている。
- 唐草(映画では名前が津田に変更)に言い寄られるも、不倫行為には及ばなかった。
- 秀樹亡き後は、解放されたような心情になり、心を入れ替え知紗をきちんと育てていくことを決意する。
- 特に母親に関する描写はない。
- 死なない。
・映画『来る』では
- 夫の秀樹の「イクメン」である自分に酔った様子や育児への非協力さに呆れ、ストレスが蓄積しノイローゼ状態に陥っている。
- 津田(原作では唐草)に言い寄られ、秀樹の存命時から不倫関係にあった。
- 秀樹亡き後は、精神的に不安定になり、津田との不倫関係に溺れるようになる。
- 母親に虐待を受けていた過去がある。
- 死ぬ。
そうなんですよ。香奈に関しては原作と真逆のキャラクター設定に改変されていると言っても過言ではありません。
彼女は原作では秀樹亡き後、必死に知紗のために「良い母親」になろうと努力し、ぼぎわんがやって来るまで、しばし良い親子関係を築いていました。
ただ映画『来る』の香奈はとんでもない「悪女」になってしまっていて、衝撃的でした。
玄関に置かれた盛り塩の器を踏み潰すシーンのあの表情には寒気と鳥肌が止まりませんでした。
ただこの改変には間違いなく中島監督の意図があると踏んでいます。
岡田准一演じる野崎について
岡田准一演じる野崎 (C)2018「来る」製作委員会
彼のキャラクターも原作から大きく設定が改変された人物の1人だと思います。とは言ってもとある1点が大きく変わっているというだけなんですが、作品の主題的には意義のある変更だと感じました。
・原作では
- オカルトライター
- 真琴と付き合っている。
- 以前に結婚していたが自身の無精子症が原因で離婚。
・映画『来る』では
- オカルトライター
- 真琴と付き合っている?
- 以前に結婚していたが、子供の中絶を選択したことがきっかけで離婚。
基本設定はそのままですが、野崎に関してはその過去について大きな改変点が生じています。
実はこの改変はすごく重要なポイントになってくるので、注目しておく必要があると思います。
秀樹の祖母についての描写
これに関しては映画版ではすっぽりと抜け落ちていて、逆に香奈の両親の描写が追加されたというコンバートが成されています。
・原作では
- 3人の子供を授かっていた。
- そのうち2人を夫(祖父)による虐待で殺されている。
- それが原因で夫を殺すために呪術に傾倒し、「ぼぎわん」を呼び寄せてしまった。
・映画『来る』では
- 何者かに名前を呼ばれたと縁側で呟いていた。
- 認知症になっていたと思われる。
そうなんですよ。映画版では、幼少期の秀樹が「ぼぎわん」を知るきっかけになったのは、とりわけ幼馴染の少女によるものでしたが、原作では祖父母が原因ということになっています。
また「ぼぎわん」を呼び寄せる呪いをかけてしまった張本人が祖母であり、そもそもは自分の夫を憎んでのことだったとされています。
映画版ではタイトルから「ぼぎわん」が抜けていることからも分かる通りで「ぼぎわん」の正体が何か?という点にはあまりフォーカスが当たっていません。
それに伴って「ぼぎわん」の正体についての描写や、それに関わっていた祖母の描写は大幅にカットされたという運びになっているんだと解釈しています。
終盤の「ぼぎわん」との対決
これに関してはまるっきり別物になっていましたね(笑)
まさか日本映画であんな「祈祷バトルエンターテインメント」が見られるとは思ってもみませんでした。
どのあたりが違っているのかについて簡単に纏めてみますね。
・原作では
- 秀樹と香奈の住んでいたマンションの一室で細々と行われる直接対決
- ここで「ぼぎわん」の正体が明かされる。
- 最終的には、琴子が「ぼぎわん」を除霊する。
・映画『来る』では
- マンション付近一帯を封鎖して行われる大規模祈祷バトルエンターテインメント
- 「ぼぎわん」の正体については言及されない。
- 最終的には、「ぼぎわん」を倒せたかどうかは不明だが知紗と真琴を取り戻す。
ちなみに原作ではこう記述されています。
人だったのか。子供だったのか。
口減らしで村からさらわれた子供の成れの果てなのか。
(角川ホラー文庫『ぼぎわんが、来る』より引用)
このように映画と原作ではスポットが当たっている部分が異なっているのも印象的です。
また映画版では原作に比べてあまり琴子(松たか子)が霊媒師としての実力を見せつけないどころか、むしろ「弱さ」を見せるというのも驚きです。
ラストの知紗の描写
原作と映画で隔たりがあるのは、ラストの知紗の描写です。
ここはかなり重要な改変になっているので、深く検討してみる必要性アリでしょう。
・原作では
- 真琴と野崎に寄り添われて眠っている。
- 眠っていて、夢を見ている様子である。
- 真琴と野崎は「幸せな夢を見ている」と解釈している。
- 「さむあん、ちがつり」という意味深な寝言を発している。
・映画『来る』では
- 真琴と野崎に寄り添われて眠っている。
- 眠っていて、夢を見ている様子である。
- 真琴と野崎は「オムライスの夢を見ている」と解釈している。
- オムライスの国で知紗が歌っているシーンが挿入される。
ここもかなり重要な点が変更されていますよね。
基本的に作品の幕切れのさせ方は非常に重要な点ですので、そこを改変したということは中島監督なりの強い意図があってのことだと思います。
映画『来る』考察
では、ここからは先ほどまで指摘してきた5つのポイントに則りながら、中島監督がこの映画『来る』で何を描こうとしたのかについて考えてみようと思います。
「痛み」というキーワード
私が映画『来る』を見ていて、一番重要なキーワードになっているのは「痛み」ではないかと感じました。
この「痛み」というワードは原作小説ではそれほどプッシュされているものではありません。
映画では柴田理恵演じる霊媒師の逢坂セツ子が「生きているということは、痛みを感じるということ」という点をセリフとして発していたり、非常に強く印象づけられました。
本作と原作小説で共通しているのは、子捨て、虐待、ネグレクトといった要素が非常に重要な主題として絡んできているという点です。
ただ映画版における「ぼぎわん」の存在意義は原作とは解釈的に異なっている部分があって、それが非常に興味深いんですよ。
香奈のエピソードの改変
黒木華演じる香奈 (C)2018「来る」製作委員会
まずは先ほど挙げた黒木華演じる香奈についての改変について考察していきます。
原作では、秀樹の亡き後に必死に知紗と向き合い、彼女の「母親」になろうとした彼女が、映画版では娘から目を背け不倫行為に及ぶようになります。
この改変にも間違いなく「痛み」というキーワードが絡んでいます。
不倫行為というのは、まさしく「痛み」から逃れるための逃避行動なんですよね。
もちろん自分の娘と向き合い、仕事と両立させながら生きていくという行為は、とんでもない「苦労」と「痛み」を伴う生き方です。
当初は香奈もその生き方を選ぼうとしました。
しかし、結局は自分の母親が自分にしたような虐待行為とネグレクトの傾向を発症してしまいました。
つまり「痛み」と向き合うことを諦めてしまったわけです。
さらに言うと、自分がそういった行いをすることによって知紗が感じているであろう「痛み」にすら鈍感になってしまいました。
柴田理恵が演じた逢坂セツ子が「痛みを感じないということは死んでいるということ」と発言していましたが、香奈はまさしくそんな状態に陥ってしまいました。
だからこそ映画版の香奈は原作とは違い、命を落とします。
つまり映画版の「ぼぎわん」というのは、子供を虐待し、ネグレクトし「痛み」に鈍感になってしまった親に死をもって「痛み」を突きつける存在なのではないかと考えられるわけです。
野崎の過去纏わる改変
映画版では野崎の過去についての設定が変更されています。
無精子症のために子供を望めないという設定だった原作に対して、映画版では、人を愛することができず、妻に中絶手術を強いたという過去になっています。
原作では、無精子症で子供を望めないために同じく子宮摘出のために子供を望めない真琴と恋愛関係になったのではないかという仄めかされます。
一方で映画『来る』において野崎が子供を望めない真琴を恋人に選んだのは「痛みからの逃避」なんですよね。
子供という存在が生まれてしまうと、それを愛せるかどうかという「痛み」が付き纏います、だからこそ野崎は子供を望めない真琴と恋人関係になることで、その「痛み」から逃れようとしたわけです。
そういう点で野崎の過去の改変もまた「痛み」というテーマに寄与していることが指摘できます。
終盤の「ぼぎわん」との対決の改変
ここでも大きな改変が行われていることは前述したとおりです。
原作では完全に淘汰したわけではないにせよ、一応琴子がぼぎわんを除霊しています。
一方で映画『来る』ではぼぎわんを淘汰するというよりも、ぼぎわんから知紗と真琴を取り戻すという部分にフォーカスが当たっていました。
さらに言うと「ぼぎわん」と対決する主体は琴子ではなく、むしろ野崎であったように思えました。
では映画版の終盤の対峙において何が「キーワード」になっていたのかというと、これも「痛み」なんだと思います。
野崎は真琴が知紗の面倒を見ていることに対して否定的な姿勢を表明していました。
それは彼女の「痛み」を心配してのことだったのは言うまでもありません。
子供が大好きながら、自らは子供を望めない身体であり、それでも知紗との関わりを持とうとする真琴は何とかその「痛み」と向き合おうとしています。
一方で野崎は、そんな「痛み」と向き合う彼女のことを理解しきれていません。
それでも彼は最後の最後で真琴と知紗を取り戻すことを望み、「痛み」と向き合う決意をします。
その決意がぼぎわんから2人を取り戻すきっかけになっている点は原作にはない要素です。
ラストの「オムライス」について
原作ではハッピーエンドともバッドエンドとも取れる意味深な幕切れをしていたということもあり、多くの解釈を生みました。
映画『来る』は、そんな原作のラストを大胆にも改変しています。
特に映画版を見た方が疑問に思うのは、「オムライスの夢」の解釈でしょう。
知紗という少女は、虐待を受けていた、ネグレクトを受けていた(とは言わないまでも母親からきつく当たられていた)ということになるわけです。
虐待を受けたり、ネグレクトを受けた子供というのは、最初はその「痛み」に敏感なのですが、徐々に自分を守るための防衛機制が働き「痛み」に無感覚かつ鈍感になっていきます。
そんな知紗の様子を表していたのが、保育園での「靴投げ事件」であることは言うまでもないでしょう。
彼女は親からの仕打ちによってどんどんと自分ないし他人の感じる「痛み」に鈍感になっていき、それがわからなくなった結果友人に向かって靴を投げ、反省する素振りも見せないのです。
つまり、母親の香奈が娘にネグレクト的な行動を取り、さらには不倫行為に耽っている間に、知紗は自らを「痛み」のない世界へと逃避させることで自己防衛をしていたことになります。
だからこそ「ぼぎわん」が彼女を連れて行った先は(これについては原作では言及なし)、仮初めでも、虚構でも「幸せな家族」が存在していた秀樹のブログの中だったのでしょう。
そして、肝心の「オムライス」に関してですがオムライスは明言こそされていませんが、知紗の好物だったんだと思いますし、もっと言うなれば彼女の思い描く「幸せな家族」の象徴だったんだと思います。
では、「幸せな家族」の象徴であるオムライスの夢を見ているということは映画『来る』はハッピーエンドなんだと解釈したくなるかもしれませんが、個人的にはそうは思いませんでした。
むしろあの夢があることで、知紗がまだ「ぼぎわん」に囚われている(今後も囚われる可能性がある)点が仄めかされているように感じます。
ここまで書いてきたように映画版における「ぼぎわん」は子供を虐待する無感覚な親に対して「痛み」をもたらし命を奪う存在であり、同時にそんな子供を「痛み」から解放する存在です。
そう考えると、「オムライスの夢」というモチーフは、秀樹や香奈がいた頃の、それこそブログに書かれていたような「幸せな家族」の時間の表象です。
眠っている知紗 (C)2018「来る」製作委員会
父親が命を落とし、母親の香奈からネグレクト(まがいの行為)を受ける彼女は心に傷を負い、「痛み」を失ってぼぎわんに囚われました。
つまり映画『来る』のラストにおける知紗はまだそんな「痛みのない世界」から解放されていないんです。
これって子供が虐待によって負った心の傷の深さを描いているように思いました。
子供は親から虐待を受けると、心に傷を負い、それは虐待から解放されてもずっと残り続け、その人の人生に影響を与えると言われています。
知紗もまたそんな「傷」が癒えていない状態なのでしょう。
しかし、映画『来る』は同時に1つの希望を示しています。
それは知紗には、寄り添ってくれる真琴と野崎という「両親」がいるという点です。
虐待というものが子供に与える計り知れない影響を示唆しつつも、これから少しずつ彼女の心の傷が癒されていくのではないかという優しい未来をもこのラストは示唆しています。
着地の仕方こそ原作と異なりますが、着地点は原作と同じだと個人的には感じましたよ。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は原作と映画の違いに焦点を当て、「痛み」というキーワードから本作を考察してきました。
個人的に非常に心に残っているのが、やはり逢坂セツ子が秀樹(妻夫木聡演じる)にナイフを突き立てて、「痛みを感じないということは死んでいるということ」と告げるシーンです。
結局、親と子が一度互いに「痛み」から逃げてしまう、無感覚な状況になってしまうと元には戻れないのかもしれません。それは死んだ状態から生き返ることができないのと同様です。
しかし、人間は「痛み」から逃れようとしてしまう弱い生き物です。
ぼぎわんはそんな「痛み」を失った家族の下にやってきます。そして最後にはその生命をも奪っていきます。
「痛み」を感じる弱い自分を肯定する「強さ」を持つことの重要性を『来る』という作品は説いていたのだと思います。
人間は確かに弱い生き物です。
それでも「痛み」を感じるという性質が、人間に他者と共感的な関係性を築く可能性を広げ、そこから発展して家族という共同体を生み出すきっかけを与えていることは言うまでもありません。
だからこそそんな「弱さ」から目を背けるのではなく、きちんと受け入れていかなければなりません。
岡田准一さん演じる野崎は、津田に「お前と俺は鏡のような存在だ。」と告げられていました。
まさしく津田という存在は野崎の「痛み」から逃げる弱さを体現したような人物です。
きっと皆さんにも自分の弱さや醜い部分が鏡のように見えていることと思います。大切なのは、そこから目を背けないことです。
目を背けなければ「呼ばれる」ことはありませんからね。
目を背けないこと、向き合い続けること、それ即ち「生きること」なのだと。
そんな力強いメッセージを中島監督はこの映画に託していたように感じられました。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
素晴らしい解説ありがとうございました!
原作読んでないので比較はありがたかったです!
いやー、最高の映画に出会えました。
コルナさんコメントありがとうございます!
ありがたいお言葉です(^^)
ぜひぜひ原作もチェックしてみてください!
"目を背けないこと、向き合い続けること、それ即ち「生きること」なのだと。"
すごく刺さりました。素敵な解説を読めてうれしいです。
しーこさんコメントありがとうございます!!
見終わった後にいろいろと考えさせられる映画でしたね!
原作だと秀樹のマンションではなくて、真琴のマンションだと思いますよ!!
秀樹の会社の同僚の意味深な発言をしていた女性は何者なんですか?
(マンションの値段を知っていたり)
じんさん2度もコメントをいただきありがとうございます。
原作で秀樹は会社の女性に愛人を作っていたという設定があるので、おそらくはその類ではないかと推察しております。