映画『ROMA』より引用
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ROMA ローマ』についてお話していこうと思います。
本記事は一部作品のネタバレになるような要素を含む感想・解説記事になります。
現在Netflixの方で配信中ですので、まずはそちらで本編をご覧になることを推奨します。
良かったら最後までお付き合いください。
『ROMA ローマ』
監督はアルフォンソ・キュアロン
本作『ROMA ローマ』は1970年代のメキシコを舞台にした監督の自伝的映画になっています。
そんな本作の監督を務めたのは、あのアルフォンソ・キュアロンです。
解説していきますと、2013年に日本で『ゼログラビティ』という映画が公開されましたよね。
その映画の監督がアルフォンソ・キュアロンでして、彼はこの作品でアカデミー賞監督賞を受賞しています。
そして彼はこの『ROMAローマ』という作品で、既に各国の賞レースを勝ち抜いています。
- ヴェネツィア国際映画祭:金獅子賞
- ニューヨーク批評家協会賞:監督賞・撮影賞
- ロサンゼルス批評家協会賞:撮影賞
本当にそうなんですよ・・・。
正直に言うと、内容的には映画興行を鑑みると厳しいものがあると思います。
ただ監督がここまでこだわり抜いて作り上げた映像作品をNetflix媒体でしか見られないというのは、いささか辛いものがありますよね。
撮影がエマニュエル・ルベツキじゃない?
皆さんはエマニュエル・ルベツキというシネマトグラファーをご存じですか?
彼は近年の映画撮影を語る上では、もはや欠かせない人物になっています。
『ゼログラビティ』『バードマン』『レヴェナント』で3年続けてアカデミー賞撮影賞を受賞するという快挙を成し遂げ、名実ともに世界最高のシネマトグラファーの1人になりました。
そしてこのルベツキ監督は、アルフォンソ・キュアロン監督の映画にはある種欠かせない人物でした。
彼が2001年に発表した同じくメキシコを舞台にした『天使の口、終りの楽園』でタッグを組み、さらには2013年に公開された『ゼログラビティ』でもタッグを組んでいます。
彼の作品の息を飲むほどに圧倒的な映像はこのエマニュエル・ルベツキ監督によって支えられていたわけです。
そうなんです。実はここには撮影秘話があったようです。
監督は当初は撮影をエマニュエル・ルベツキに任せる予定にしていたそうです。そのつもりで撮影現場にも呼んで、2週間ほど本作の制作過程に関わっているようですね。
ただ「撮影時間が足りない」などの問題が生じ、ルベツキ監督は自分の満足のいくものが撮れないだろうと作品から去ってしまったのです。
その結果、アルフォンソ・キュアロン監督自身のシネマトグラファーとしての才能を誇示することになってしまったわけですから何とも面白いんですけどね。
Dolby Atmosでの鑑賞が真価を発揮させる?
まず撮影的な部分のお話ですが、映画『ROMA ローマ』にはALEXA65という65ミリフィルムカメラが用いられています。
これは『ローグワン スターウォーズストーリー』や来年公開の『スターウォーズ9』でも使用される予定になっているカメラで、2014年ごろに解禁されたカメラです。
その特徴は何と言っても映像のシャープネスだと言われています。
つまり他のカメラと比較しても格段に解像度が高いということになるんですが、ギャレス・エドワーズ監督が『ローグワン』の撮影にあたり、このカメラを選択した理由として「奥行き感」を挙げておられました。
モノクロ映画の難しさって、色彩がモノトーンになってしまうためにどうしても作品に映像的な「奥行き」を生み出すのが難しいところです。
アルフォンソ・キュアロン監督は、そんな『ROMA ローマ』という作品をALEXA65で撮影することで、光と影のコントラストを際立たせ、映像に「奥行き」を生み出しました。
さらに本作は音響にも非常に力を入れていて、特にDolby Atmosでの上映を目した音響に仕上げているそうです。
Dolby Atmosの最大の特徴は「包み込むような音」だと言われています。
『ROMA ローマ』という映画は60年代、70年代のメキシコの空気感をそのまま切り取ってフィルムに閉じ込めたような映画なので、その空気感を再現するためにも音響は重要な要素です。
だからこそ観客を全方向から包み込むようなDolby Atmos志向の音響をくみ上げた点は当然とも言えますし、だからこそ日本では現状Netflixでしか見られないのが残念です。
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『ROMA ローマ』感想
美しい映像に飲み込まれる
私はこの映画に登場する犬の糞なら食べられるかもしれない。
この映画を見終わって、本気でそう思いました。
映画『ROMA ローマ』はその全てのショットが綺麗に包装された宝石のように美しいのです。
皆さんは(私も含めて)今を生きているわけで、今自分が生きている世界ってどんな風に見えていますか?
生きていれば良いこともありますし、同時に苦しいことや辛いことだってあります。
苦しいことや辛いことは自分が今まさにその中にいると、どうしたって早く過ぎて欲しい、二度と思い返したくないと思ってしまうことでしょう。
しかし、時を経て自分の記憶の中に閉じ込められたその記憶の箱を開けてみると、あの頃は犬の糞にしか見えなかったものが宝石のように輝いて見えることがあるんです。
アルフォンソ・キュアロン監督はメキシコ出身であり、本作は自分の幼少期の記憶を題材にして製作した映画であることを公言しています。
彼は自分の心に閉じ込めた記憶を丹念にナラタージュするかのように美しいフィルター越しに我々に見せてくれました。
両親の離婚、乳母の流産、山火事、大規模な暴動・・・。
60年代、70年代のメキシコでの記憶はきっと良いものばかりでは無かったはずです。
それでも時を経て、過去を顧みるようなアルフォンソ・キュアロン監督の優しいまなざしがこの映画の視点になっていることで(監督自身が撮影を担当したことも相まって)、その全てが美しい記憶の断片に思えてくるんです。
映画というメディアがリュミエール兄弟による「記録」という側面に端を発して生まれたことから考えても、映画の才能の1つに如何に作品内にリアリティを生み出せるかという項目はずっと存在していたように思います。
ただ今作『ROMA ローマ』においてアルフォンソ・キュアロン監督が志向したのは、60年代、70年代のメキシコのリアルを映し出すことではなりませんでした。
彼が撮りたかったのは、自分の記憶の宝石箱に閉じ込めた、極めて主観性に裏打ちされたメキシコだったのです。
まさに映画を見ている間、監督の頭の中を覗いているような感覚がずっと続いていて、ただただ映画の世界に自分が飲み込まれたように錯覚されました。
もう「奇跡の映画体験」としか形容できないようなそんな作品に出会えたような気持ちです。
血の繋がらない家族の物語として
この映画のラストに「リボへ」というクレジットが表示されます。
これが何を意味しているのかと言いますと、アルフォンソ・キュアロン監督が幼少期に自分の世話をしてくれた乳母の名前なんだそうです。
つまりこの『ROMA ローマ』という作品は「手紙」なんですよね。監督自身が自分の恩人である乳母に向けて綴ったメッセージになっているわけです。
映画『リメンバーミー』はメキシコの伝統的な家族観を映し出した映画として2018年に日本でも公開されました。
家族第一主義を掲げるメキシコの家族観が、現在の世界を取り巻く「家族の崩壊」を巡る現状にアンチテーゼ的に機能し、強いメッセンジャーとなったことは言うまでもありません。
しかし、『ROMA ローマ』に映し出される家族は、とりわけ男たちは家族第一主義なんて思想からはかけ離れた人物たちです。
それでも乳母は、自分の血を分けた実の子が死産するという悲しみに襲われながらも、必死で自分たちのために働いてくれ、そして命を救ってくれました。
だからこそこの映画はそんな血の繋がらない家族リボへの、感謝の手紙なんでしょうね。
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『ROMA ローマ』解説
タイトルの『ROMA』の意味とは?
カタカナ表記で「ローマ」と聞くと、皆さんが真っ先に思い浮かべるのがイタリアの首都であるローマですよね。
ただそのローマは英語で綴ると『ROME』なんですよ。
そうなると一体どんな意味があるんだろうかと考えてはみるんですが、結局のところ地名なんですよね。
メキシコシティに「コロニア ローマ」と場所がありまして、本作の映画のタイトルはその地名から取ったものであると思われます。
特にこの地区は1960年代~1970年代にかけて経済的な不況が発端になり、急進的に街の様子が変わっていった場所であるとも言われています。
もう1つ「ROMA」と聞くと想起してしまうのが「ロマ族」という存在です。
ロマは定住する場所を持たず、移動し続ける遊牧民族のことを指しています。と同時にロマは激しい差別に晒されてきた民族でもあります。
そう考えると、アルフォンソ・キュアロン監督がこの「ROMA」という言葉を用いたのは、使用人として自分の家で働いてくれていた、家無きリボに対して「あなたの家はここですよ。」「私たちはあなたの家族ですよ。」という意味も込められていたのではないでしょうか。
そう考えると、すごく深く感じられるタイトルですね。
60・70年代のメキシコ社会
映画『ROMA』より引用
メキシコでは、1970年にサッカーワールドカップが開催されるなどして、盛り上がりを見せていました。
しかし、その一方で映画『ROMA ローマ』にて描かれた時代は、決して輝かしい進歩の歴史などではありませんでした。
1950年代以降、メキシコでは政権も制度的革命党(PRI)政権によってコーポラティズム国家体制が構築されていました。
制度的革命党は、労働者や農民など社会の主要な勢力を党内の柱として取り込むことで、コーポラティズム国家体制を構築し、他のラテンアメリカ諸国で反発が起こっているのを他所に、長期の安定政権を実現しました。
しかし方針の転換が為され、近代化政策を優先したために、資本蓄積を重視する一方で、労働条件改善や農地改革などの民衆への利益分配政策を疎かにするようになりました。
そのためメキシコは経済的に飛躍的な発展を遂げましたが、その一方で政権への不満は大きくなり、反対勢力もどんどんと拡大していきました。
そして国家の発展の象徴とも言える、近代オリンピックをラテンアメリカで初めてメキシコシティにて開催できるほどに経済的に豊かになりました。
その一方で、オリンピックの開催直前に大規模な学生運動が勃発しますが、ディアス・オルダス政権はそれを徹底的に弾圧し、運動は鎮火させられます。
1971年にはあの有名な「血の木曜日事件」まで起こってしまいました。
このように60年・70年代のメキシコは独裁的な政治によって、どんどんと経済を遂げた一方で、貧富の差は急速に拡大し、その反発が表面化してきた時代だったのです。
ただそんな苦しい時代でさえも、思い出を回顧するように美しい映像で切り取り続けたアルフォンソ・キュアロン監督のフィルターには驚かされます。
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飛行機のショットと水平移動を多用したギミック
小津安二郎を思わせるようなカメラワークや作品性からも映画『ROMA ローマ』を見て『東京物語』なんかを思い出した方も少なくないでしょう。
さて、その中でも私が特に気になったのは本作が水平移動のカットを多用している点なんですよ。
さらに注目していくと面白いのが、この映画はその大半のシーンで「右から左への移動」を採用しているんです。
アメリカ映画において「左側=過去」「右側=未来」と結び付けられることが多いわけですが、つまりこの映画は「未来から過去」というベクトルで物語を進行させているわけです。
しかし、終盤のとあるシーンで家政婦のクレオが印象的に「左から右へと歩く」カットが登場するんです。
映画『ROMA』より引用
この時、この映画が極めて明確に「過去から未来」へ向けたベクトルへと動き始めていくのです。
もう1つ注目したいのが、冒頭とそしてラストカットに登場する飛行機ですよね。
個人的に注目したのは次の3つのポイントです。
- 冒頭の飛行機は床に反射した像であり「見下ろす」ショットで撮られている
- ラストの飛行機は実物であり「見上げる」ショットで撮られている
- 共にクレオと結び付けられて用いられたショットである
「見下ろす」「見上げる」が何を意味しているのかというと、これはアルフォンソ・キュアロン監督自身の視線の動きなんだと思います。
冒頭では今現在を生きている大人になった監督の視点から飛行機を「見下ろす」形で撮影しています。
また、それが床に映った像として映し出されていることで、映画の視点がナラタージュ的に現代から「あの頃のメキシコ」へとタイムスリップするような感覚を与えます。
その後クレオ(ないしリボ)が映し出されることで、これが大人になったアルフォンソ・キュアロン監督が彼女を想う視線であることが分かりますよね。
そして先ほども指摘したように、登場人物の移動シーンの大半が「右から左」のベクトルに設定されることからも分かるように、この映画は未来から過去へと監督の記憶を巡る旅と続けていくわけです。
しかし、終盤の海のシーンで突如として物語のベクトルが反転します。
クレオが子供たちを助けるために、海へと向かっていくシーンで移動する方向が明確に「左から右」へと変化しています。
これはクレオのあの時の行動が、子供たちの「未来」を守る行動だったからであり、アルフォンソ・キュアロン監督自身が自分の「未来」を守ってくれたリボへの敬意を表しての反転とも捉えることができます。
その後、家族が車に乗って帰途につくシーンでも移動方向は「左から右」に設定されています。
そして映画はあのラストカットへと移っていきます。
ラストカットでは階段を上っていくクレオと共に空高く飛んでいく飛行機を「見上げる」ショットが使われています。
これは「あの頃」を生きていたまだ子供のアルフォンソ・キュアロン監督がクレオ(ないしリボ)を想う視線なんですよ。
つまり、飛行機という本来なら空を飛んでいる物体を地面に投影した映像を用いることで映画のファーストカットとラストカットがそれぞれ今の自分からの視点、あの頃の自分からの視点であるということを映像だけで仄めかしているわけです。
しかも、飛行機と共にクレオ(リボ)が映し出されていることで、現在の視線と、あの頃の視線がクレオ(リボ)という特異点にて交わっていることが明確になり、この映画がリボに宛てた手紙であるという側面が一層際立っています。
そして飛行機にはもう1つ役割があると私は考えています。
飛行機という1つのモチーフがクレオ(リボ)と共に登場することで、「今も昔もあなたに対する思いは変わっていませんよ。」というある種のラブレターとしての機能を有してしまっているんですよね。
つまりこの『ROMA ローマ』という映画は現在から始まり過去に戻り、そして過去から再び現在へと戻っていくという円環を脚本ではなく、映像だけで表現してしまったというとんでもない映画なんですよ。
それだけにとどまらず、この一連の映像がクレオ(リボ)に対する思いの吐露にもなっているわけですから衝撃としか言いようがありません。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は当ブログ管理人の極めて主観的な解釈に基づいて映画『ROMA ローマ』を分析してみました。
これが映画史に刻まれる傑作であることは間違いありません。
こんな映画体験は近年経験したことがありません。
日本の映画関係者様!!どうか!どうか!この映画を劇場で放映するようご検討をお願いいたします。
当ブログ管理人、5回は何とかして見に行く所存でございます!
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
同感です。映画館でぜひ見てみたいです!
dalichokoさんコメントありがとうございます!
どうやら来年劇場公開らしいです!楽しみですね(^^)
こんにちは。
100人余りの、小さな劇場で鑑賞しました。クレオが走り回るあの家が好きになりました。
右から左と左から右、下から上へ、貴レビューを拝見してなるほどーと思いました。モノクロの映像が優しく脈絡のないストーリーは、監督の記憶、かあ…。
『万引き家族』の海のシーンもほんの一時の優しい記憶、みたいだったのを思い出しました。