【ネタバレあり】『アナイアレイション』解説・考察:人類の意志が掴み取る再創造の先へ

Netflix映画「アナイアレイション 全滅領域」より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『アナイアレイション』についてお話していこうと思います。

Netflixは長らく登録を避けていたんですが、先日どうしても見たい映画がありまして、会員登録しました。

ナガ
案の定ドハマりして映画漬けの日々になっちゃってるよね(笑)

そんな中で今回は今までずっと見たい見たいと思い続けていたんですが、見られなかった『アナイアレイション』という作品について解説と考察を自己解釈に基づいて書いていきます。

本記事は一部作品のネタバレになるような要素を含む内容になっておりますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

映画『アナイアレイション』

あらすじ

軍を退役し、生物学教授として大学で勤めるレナのもとに、極秘任務に赴いたまま行方不明だった夫のケインが1年ぶりに突然現れました。

しかし、戻ってきたケインはかつてレナと過ごしていた頃の記憶が曖昧になっており、彼女はショックを受けるのでした。

食卓につく2人でしたが、ケインは突然、水を飲むと血を吹き出し始めます。救急車に乗り、病院へと搬送されようとされるケインでしたが、その道中、軍隊が現れ、2人は拘束されてサザリーチにある研究施設に連行されました。

そこでレナは、研究所の目前に迫っている「シマー」と呼ばれる空間に夫ケインの舞台が突入し、彼が唯一の生き残りであったことを告げられます。

研究所はベントレスを中心として新たな部隊を「シマー」に送り出すことを検討しており、レナは夫の症状の秘密を探るべく、部隊に参加することを決意します。

スタッフ・キャスト

本作の監督・脚本を担当したのはアレックス・ガーランドですね。

彼は2014年公開の『エクス・マキナ』で非常に大きな注目を集めた監督ですよね。

デビュー作で、しかもアカデミー賞視覚効果賞を受賞するなど非常に高い評価を獲得しました。

そして本作の主人公であるレナを演じたのは、ナタリー・ポートマンですね。

1994年にリュック・ベッソン監督の『レオン』でいきなり鮮烈なデビューを飾り、一躍人気になりました。

ナガ
マチルダ役のナタリーポートマンは今でも多くの人を虜にしてますよね!

そしておそらく一番有名なのが『スターウォーズ』EP1~3のパドメ役でしょうね。

ちなみに2010年に映画『ブラックスワン』にてアカデミー賞主演女優賞を受賞しております。

ぜひぜひアレックス・ガーランドの他の監督・脚本作品や、ナタリー・ポートマンの出演作もチェックしてみてくださいね。

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『アナイアレイション』解説・考察

美しき救済の否定

Netflix映画「アナイアレイション 全滅領域」

キリスト教的な世界観においては、祈り続けることでいつか自分の下に「救済」が到来するという考え方が存在しており、「救い」がもたらされることへの確信が重要であるなんてことも説かれています。

テサロニケ信徒への手紙の中にこのような記述があります。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

これがいわゆるステレオタイプ的なキリスト教的な「救済」のイメージですよね。

映画『アナイアレイション』に登場する「シマー」と呼ばれる極彩色の空間は、非常に美しくまさに人類に「救済」をもたらすようなイメージに重なります。

この映画を見ていて、皆さんが1つ疑問に思うのは、ベントレスたちはなぜこれまでに「シマー」に突入した部隊が全滅に近い有り様になっているにも関わらず志願したのか?という点だと思います。

それは彼らにとっては「シマー」が「救済」や「福音」をもたらしてくれるものに思えたからではないでしょうか?

人間というものはキリスト教を進行している云々に関わらず、「美しい救い」の幻想を誰もが抱いています。

加えて「シマー」がもたらすような「美しい終わり」に「救済」の幻想を押し付け、そこに向かうことで自分は救われるのではないかなんて考えてしまうことすらあります。

しかし、そんな甘い夢想に対して映画『アナイアレイション』が突きつけるのは、「美しき絶望」です。

ベントレスたちは「シマー」に突入し、その極彩色の空間の中で次々に突然変異した動物たちに襲われ、命を奪われていきます。

福音と再創造への疑問

キリスト教(聖書)の世界観においては以下の4つのプロセスが基本的に螺旋的に回帰しています。

  1. 創造
  2. 堕落
  3. 贖い
  4. 再創造

初めに、神は天と地を創造された。

旧約聖書創世記の最初にこういった文言があることからも明らかで、まず最初の段階に神による世界の創造が行われます。

そして失楽園にて描かれたアダムとイブの「原罪」が人類の堕落があり、そしてその罪をイエスが十字架にかけられることで贖われ、その後復活したイエスが世界を再創造するというところまでが繋がっていくわけです。

しかし、イエスによる世界の再創造は聖書の中で約束されているものの、未だ到来しておらず、終末と共に訪れては行われるのではないかと考えられています。

再創造とは、つまりエデンの園(パラダイス)の回復であるわけで、ルカ伝においては「来たらんとする事物の体制」の回復とあります。

では、その「再創造」はいつ到来するのかと言われると、それはイエスが栄光の座についた時であり、その到来はエホバ神の当初の目的として保証されているということになるわけです。

本作『アナイアレイション』はそんなキリスト教的な終末の到来と世界の再創造に対する脱構築的な意味合いが強く込められているように感じられます。

「シマー」の到来はまさに世界の終末と美しい「再創造」を強くイメージさせます。

そして聖書的な価値観に基づいて考えると、それは「人類のパラダイス」を実現すると考えられているわけですが、実はそうとも限らないのではないかというのがこの映画の1つの主題のように思えるのです。

この作品で、「シマー」に突入していく女性たちはどこか終末を待ち望むような思想に囚われています。

ベントレスはガンに侵され余命僅かですし、ジョシーもまた自殺願望的な側面を有していますし、シェパードも娘の死後失うものはもう何もないと語っています。

そんな「自己破壊的な」衝動が彼女たちを「シマー」へと向かわせ、そして「死」がもたらされていきます。

つまりこの作品において、「自己破壊的な」感情やキリスト教的な「終末思想」は人類に「救済」をもたらさないことが物語の中で明らかになっています。

映画『アナイアレイション』が導くゴール

では、映画『アナイアレイション』はどこに向かおうとしていたのでしょうか?

その答えは、レナの行動が示していると考えるのが自然でしょう。

彼女は、共に「シマー」に飛び込んだ仲間が次々に命を落としていく中で、灯台にて自分の分身と対面しました。

その中でケイン(旧約聖書のカインを想起させる名前)は、「自己破壊的な」衝動に駆られ、自らの存在を殺害してしまいました。

これは旧約聖書において「人類初の殺人」を犯したカインの姿にも重なると言えるでしょうか。

一方でレナが選んだのは、自己破壊による救済ではなく、自分の分身を葬り去ることにより生き延びる道でした。

そうして「シマー」を消失させた彼女は、元の世界へと戻っていきます。

それは終末的な世界の崩壊と再創造の幻想の破壊であり、ある種のキリスト教的な「救い」の到来の否定でもあるのです。

ラストシーンが意味したものとは?

Netflix映画「アナイアレイション 全滅領域」より

さて、ここからは多くの人が疑問に感じている映画『アナイアレイション』のラストシーンについて自分なりの解釈を書いていきたいと思います。

既に多くの方が指摘されている通りで、本作のラストシーンにおいてレナとケインが旧約聖書のアダムとイブであるかのように描かれています。

これは先ほども指摘した通りでキリスト教的な世界の再創造の到来は、アダムとイブが原罪を引き起こす以前の「パラダイス」の状態に回帰させる形でもたらされるという言説に基づいていると考えられます。

しかし、その「再創造」が「シマー」による人類の自己破壊と終末によってもたらされず、レナがそれを拒んだことによってもたらされたという点が重要です。

レナはグラスに入った水に口をつけてもケインのように出血することはありませんでした。

しかし、ラストシーンにて彼女の虹彩はケイン同様に極彩色の輝きを放っていることから、彼女が「シマー」に入る以前の彼女とは異質な存在であることは明らかです。

「あなたはケインじゃない、そうね?」

「ああ。」

「君はレナ?」

(映画『アナイアレイション』より引用)

しかし、ケインのように記憶が曖昧になっているということはありません。

この結末は一体何していたのでしょうか?

私は、いつかもたらされる終末と救いの到来をただ受動的に待ち続けるのではなく、自らの意志と「生」への強い渇望でもって自らの「再創造」を実現していくことの重要性を問うたのではないかと考えています。

終わりがもたらす受動的な「再創造」は人間に益をもたらすかどうかは分かりません。

映画『アナイアレイション』が描いたように、(旧)人間を葬り去り、(新)人類を「再創造」により作り出すことによってそれが成されることだってあるわけです。

そんな不確定な神の意志に委ねるのではなく、人間が自らの意志で世界に救いをもたらせたなら・・・。

『アナイアレイション』はキリスト教や聖書に対してある種の疑念を呈しつつ、人間が能動的に「より良い世界」を目指していくことを打ち出しているのです。

レナという名前にはギリシア語で「太陽の光」「月の光」といった「光」を連想する意味合いが込められています。

そう考えると、この作品は新世界にて、人類を照らす新たな「光」の誕生でもって幕切れているようにも考えられますね。

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ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』から考える

Netflix映画「アナイアレイション 全滅領域」より

1927年に著されたヴァージニア・ウルフの『灯台へ』について思いを馳せつつ、映画『アナイアレイション』における灯台というモチーフについて考察していこうと思います。

わしがともした小さな灯りは、弱々しくとも、一、二年は光を放つかもしれぬ。だがやがてもっと大きな灯りにかき消され、時を経てさらに大きな明るみの中に飲みこまれるに違いない。

(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』より引用)

灯台というものは本来、暗闇の中で小さな光を灯し、船を港へと導く「道しるべ」の様な役割を果たしています。

ヴァージニア・ウルフはその灯台というモチーフを「手の届かないところにある希望」というタッチで表現していますし、一方で「生命の輝き」という意味合いで登場させています。

1人1人が灯す生命の輝きは非常に弱々しく、小さいものです。それこそヴァージニア・ウルフが著したように闇の中に煌めく「小さな光」のようと形容できましょう。

先ほど引用した一節で灯台の光は「やがてもっと大きな灯りにかき消され、時を経てさらに大きな明るみの中に飲みこまれる」と表現されていました。

『アナイアレイション』に登場する「シマー」は極彩色に輝く美しくも破壊的な強い光です。その中で灯台が指し示す小さな「光」はまさにかき消されようとしています。

灯台とは「私はここにいる」という意志表明のツールでもあります。夜の暗闇の中で、孤独に「生命の輝き」を灯し続けるモチーフとも言えるでしょう。

その「光」を消してしまえば、たちまち「死」の静寂に飲まれてしまいますし、映画『アナイアレイション』的に言うなれば極彩色の強い「光」の中に埋もれてしまうことでしょう。

それでも自分の「生」への意志を持ち続け、誰に届くでなくとも「私はここにいるんだ」と言い続けること。

灯台というモチーフは人間の生命のちっぽけな様を表現しているように思えますし、それと共にその力強さをも伝えてくれます。

先ほど本作の主人公レナの名前には、「光」という意味合いがあるという点を指摘しました。

そう考えると、「シマー」の中にあった灯台が崩壊し、新しい世界にレナという「灯台」が打ち立てられた本作のラストは、『アナイアレイション』という作品を人類賛歌たらしめているようにも感じられました。

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おわりに

この映画は見る人に様々な解釈をもたらす映画ですし、監督自身も明確な主題や答えは定めないと仄めかしています。

そのため私が今回書かせていただいたのも本作の解釈の個人的な解釈に過ぎないことをお分かりいただいた上で、皆さんが自分なりの解釈を模索してみてください。

映像も素晴らしく、映画『メッセージ』を思わせるような、「覚醒系」のSF作品ということで非常に楽しめました。

今後ともNetflixオリジナル映画の記事は書いていこうと思いますので、良かったら読みに来てください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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