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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『アンブレイカブル』についてお話していこうと思います。
本記事は一部作品のネタバレになるような要素を含む解説・考察記事となっております。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『アンブレイカブル』
あらすじ
ある日、悲惨な列車衝突事故が起こりました。
乗っていた人のうち、生き残ったのは、スタジアムの警備員として働くデイヴィッド・ダンただ1人でした。
フィラデルフィア病院の緊急救命室で意識を取り戻したデイヴィッドは、自分だけ助かったことに一抹の疑問を感じてしまいます。
すると、突然彼の車のフロントガラスに謎のメッセージが入った封筒が置かれていた。
『あなたは今までの人生で何日病気になりましたか?』
彼は手紙に印字された「Limited Edition」という文字を頼りに、その送り主である漫画コレクター・ギャラリーのオーナー、イライジャ・プライスに会いに行く。
イライジャは骨形成不全症という難病に生まれつき侵されていて、何度も入院を繰り返す中で次第に漫画の世界に惹かれていきました。
彼はそのストーリーから、この世界は陰と陽のような対極の存在によって成り立っており、自分のような脆い肉体の対極には、必ず不滅の肉体の人間が存在するはずだとの仮説に辿り着きました。
そしてようやく見つけた自分の対極の存在こそが、デイヴィッドだというのです。
デイヴィッドはイライジャを空想癖のある変人だとしてその場を立ち去ります。
しかし、彼の言葉には妙な説得力があり、さらに自分の人生を振り返ると、思い当ることが多々あり、デイヴィッドは自分の存在に対する疑惑が膨らませていくこととなりました・・・。
監督・キャスト
監督・脚本を務めるのはあのM・ナイト・シャマランですね。
映画をある程度見ていて、彼の作品を1作品も見たことがない方というのもなかなか珍しいというくらいに有名な映画監督です。
おそらく一番有名なのは、『シックスセンス』という作品になるでしょう。
また、この監督は映画を作るために配給から予算を受け取らずに、自分の私財を抵当に入れて、映画製作に臨むという一風変わった人物であることでも有名です。
『シックスセンス』や『サイン』といった作品が興行的に成功しながら、その後の映画はパッとせず、「終わった映画監督」の烙印を押されていた彼ですが、『ヴィジット』という映画で名実ともに復活を遂げました。
POV視点のホラーサスペンスで、演出や撮影のレベルが全てにおいて高水準で、まさにシャマラン復活を印象づける内容でした。
その後、映画『スプリット』を製作し、今年2019年に日本でも『アンブレイカブル』と『スプリット』の続編にあたる『ミスターガラス』を公開する運びとなりました。
主人公のデイヴィッド・ダンを演じるのが、ブルース・ウィリスですね。
実は『アンブレイカブル』って日本でも興行収入30億円近いヒットを記録しているんですが、おそらくそれは当時人気があったブルース・ウィリス効果でもあると思います。
また、本作のもう1人の主人公とも言えるイライジャ・プライスをサミュエル・ジャクソンが演じています。
当時を考えるとかなり豪華なキャスト陣の顔ぶれとなっていますね。
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『アンブレイカブル』解説・考察
最も過小評価されたヒーロー映画?
では、ここからは映画『アンブレイカブル』の解説と考察に移っていきましょう。
そもそもシャマランの映画って特に日本では「衝撃の展開」「どんでん返し」というところばかりが宣伝文句的に使われて、見る人もそこにばかり期待して見てしまっているんです。
シャマランの凄さはやはり個人的には映像的な部分だと思っています。
『シックスセンス』しかり、彼の復活を印象付けた『ヴィジット』しかり、素晴らしいのはプロット云々よりも映像なんです。
ただ日本では「衝撃の展開」というキャッチコピーを押し出しすぎて、観客が映像の部分をあまり評価していないんです。
そういう点で、ちょっと正当に評価を受けていないように見えるのがシャマランの作品なんだと思います。
そして今回お話していく『アンブレイカブル』に関しても日本のレビューサイトを覗いてみると、あまり高い評価を受けていません。
私はヒーロー映画の中で好きなものを3つ挙げてくださいと言われれば、以下の3つを挙げます。
- 『アンブレイカブル』
- 『スパイダーマン2』
- 『X-MEN ファーストジェネレーション』
それくらいにこの『アンブレイカブル』という作品は優れたヒーロー映画だと個人的には思っています。
そこで今回は『ミスターガラス』の公開も控えているということで、『アンブレイカブル』という作品を「衝撃の展開」という言葉から少し距離を取って、解説していけたらと思います。
ヒーロー映画黎明期の映画
今現在ヒーロー映画というジャンルは、世界映画興行の中心に君臨していて、ビッグバジェットで制作され、それをとんでもない興行収入を叩き出して回収してしまう勢いです。
ただ『アンブレイカブル』という作品が公開されたのはなんと2000年のことなんです。
これがどういう時期かというと、サムライミ監督の『スパイダーマン』が公開された2002年よりも前、クリストファーノーラン監督の『バットマン ビギンズ』が公開された2005年よりもずっと前です。
つまり我々の今見ているいわゆる「スーパーヒーロー映画」の大半が生まれてなかった頃に作られたヒーロー映画ということなんです。
それは間違いないです。確かに今見ると、こんなのよくあるヒーロー映画なんです。
ただ、皆さんは近年生み出された数々の映画を基準にして「よくあるヒーロー映画」と評しているわけですが、『アンブレイカブル』が製作された当時それらの基準になっている映画は一通りまだ生まれてなかったんですよ。
つまりはそういうことです。
近年のMCUやDCEUが評価されている理由として、コミックスの世界観をコマ割り等を含めてそのまま映画に落とし込むという映像的な技術が挙げられると思います。
ただそれをヒーロー映画黎明期の1990年代の終わりに既にやっていたのがシャマランなんですよ。
『アンブレイカブル』という作品は特に日本では「『シックスセンス』のシャマランの映画」という先入観が先行して、ヒーロー映画としての文脈で評価されづらかったのではないかと推察します。
ただ今これだけ世界の映画興行の中心にヒーロー映画が君臨している現状を見ると、その黎明期に送り出されたこれほどまでに革命的な作品を再評価する流れが来ても良いと思います。
コミックスを意識した撮影と演出
この映画は冒頭の電車のシーンから既にコミックス的な演出と撮影を採用しています。
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デイヴィッドが女性に話しかけて、口説いているのだと勘違いされるシーンですよね。
このシーンをよく見ていただけると分かるんですが、一台のカメラを使ってそれを動かしながら撮影している上に、前列の座席の隙間から撮影するというアングルを採用しているんですね。
それによってこのシーンにおいて会話をしている2人が同時に画面に映りこむことがないんですよ。
通常の会話のシーンの撮影であれば、イマジナリ―ラインを引いておいて、その手前に2台のカメラを置くなりして、2人を同時に映りこませるアングルで撮影し、2つのカメラの映像を切り替えながら編集で繋ぐことと思います。
ただシャマランは『アンブレイカブル』の冒頭のシーンで敢えて、その逆の手法を採用しているんです。
それによってコミックスのような会話シーンで1コマに登場人物が1人映りこみ、次のコマでまた別の人物が1人話しているという「コマ割り」を再現しているわけです。
それはつまり、コミックスを読むときの我々の視線の動きの再現なんです。
我々はコミックスを読む際にあるコマから次のコマへと視線を移動させますよね。その動きを1台のカメラを動かしながら交互に人物を映し出すことで再現しているんですよ。
他にもコミックス的な演出がこの映画には散見されます。
例えば、デイヴィッドが電車の事故の後に病院に運ばれた際のこのシーンなんて、もう天才としか形容できないアングルで撮影しています。
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普通ならデイヴィッドが治療されているというのがこのシーンの要旨なわけですから、彼が診察されている部屋の中にカメラを置くはずですよね?
ただ、映画『アンブレイカブル』はそうはなっていません。
彼の病室の外から、他に人が治療されている場所越しに、奥にある彼の診察室を映し出しているんです。
ここで重要なのは戸口の向こう側からデイヴィッドを映し出したという点です。
これによりデイヴィッドと診察医が戸口の枠越しに映し出されることとなり、それがそのままコミックスの「コマ」を意識させているんですよ。
他にもこういった扉の外から室内を撮影するというアングルや、ガラスや鏡に人物が反射している様を取るという手法がしばしば採用されていて、それらがコミックスの「コマ」を意識させるように機能していることが伺えます。
コミックスを映像作品で再現するための1つの手法をシャマランは『アンブレイカブル』という作品で、ヒーロー映画黎明期に示していたんですね。
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色とコミックス、新聞を使ったコントラスト
本作でまず触れておきたいのは、やはり色を使ったコントラストでしょう。
映画『アンブレイカブル』では、基本的にデイヴィッドが「緑」、イライジャが「紫」という色が当てがわれています。
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その対比は彼らが着ている服に留まらず、部屋の内装であったり、ベッドのシーツの色といったところにまで及んでいます。
では、なぜこういう「緑」と「紫」という対比が使われているのでしょうか。
皆さんはヒーロー映画を見る時に、色って非常に強く意識しませんか?
日本の特撮戦隊モノとかを想像していただくと分かりやすいですが、各キャラクターにイメージカラーというものはたいていの場合振り分けられています。
それはアメリカンコミックスでも同じです。
マーベルコミックスで言うなれば、キャプテンアメリカは星条旗カラーが基調になっていますし、アイアンマンやスパイダーマンは「赤」が強く印象づけられるヒーローです。
そういったアメコミヒーローコミックスの「色」を使ったキャラクター描写を『アンブレイカブル』はきちんと踏襲しているわけです。
さらに面白いのが、デイヴィッドがしばしば読んでいるのが新聞で、イライジャが読んでいるのがコミックスであるというコントラストですよね。
この対比はまさにそれぞれのキャラクターの特性を視覚的に表現しています。
新聞という現実世界の出来事をそのまま描写したメディアと、フィクションであるコミックス。そのメディアの特性をキャラクター描写のレイヤーにまで落とし込んでいるわけです。
そしてもう1つコミックスを使った粋な演出が施されているシーンがあります。
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この拍子に描かれているヒーローのイメージカラーが「緑」であるという点も示唆的なのですが、このシーンのカメラの使い方に注目してほしいんです。
最初にイライジャが包みを開けた時には、カメラはイライジャ側から見た視点になっています。そのためコミックスの見え方が逆になっています。
そして彼が自分に正対するようにコミックスを回転させていくんですが、この時に面白いことにカメラもコミックスと同じ方向に回転していくんですよ。
そうすると、出来上がるのがイライジャには正位置でコミックスが見えていて、映画を見ている我々には逆位置にコミックスが見えているという状況です。
これはイライジャと映画を見ている我々の対比を浮き上がらせる演出なんです。
イライジャに見えている世界は、我々に見えている世界とは文字通り「180度」異なるものなんだということを視覚的に表現しているんですね。
この意味に気がついてしまうともう「天才的」という言葉しか出てきません。
コミックス的なキャラクター描写も巧い上に、コミックスというモチーフそのものの作品への落とし込み方も秀逸なので、もう非の打ち所がない状態です。
ポストモダニズムヒーロー映画として
ポストモダニズムというのは、既存の価値観や世界観に疑問を呈していくことで、それらを脱構築していき、新しい何かを模索していくという思想の在り方です。
今や、普通に生きていた人間が自分の内に秘められた能力に気がついて・・・なんていうプロットを用いたヒーロー映画は数多く存在します。
しかし、この作品が公開された2000年頃こういったポストモダニズム的な思想に裏打ちされたヒーロー映画ってほとんど存在していませんでした。
そしてその後そういったプロットのヒーロー映画が増えていったことを考えても、やはり『アンブレイカブル』という作品がヒーロー映画というジャンルに及ぼした影響は非常に大きいと言えるでしょう。
加えて、本作の作品構造は非常に傑出しています。
というのも2018年に公開されて全世界に衝撃を与えた『アベンジャーズ インフィニティウォー』が使った作品構造を2000年に公開された『アンブレイカブル』は先駆けて使っているんですね。
『アベンジャーズ インフィニティウォー』はサノスのヴィランビギンズという側面で語られることが多いんです。
ヒーローアッセンブルの様相を呈しながら、そのラストに「サノスは帰ってくる」と表示することでそれらをサノスというヴィランの物語の一要素に組み込んでいるわけです。
実は『アンブレイカブル』という作品は先駆けてその構造を打ち出してしまっていたのです。
この作品は一見すると、デイヴィッドという男が自分の隠された能力に気がつき、ヒーローとして目覚めていくというヒーロービギンズです。
ただ、注目してほしいのはそのラストシーンでして、この映画は徹底的にヒーローの活躍を描きながら、最後の最後でそれらが全てヴィランたるイライジャのシナリオの内だったという作品構造を提示したんですね。
つまりヒーロー映画であると見せかけながら、最後の最後で実はヴィランのビギンズだったんだよという種明かしをしているわけです。
これはヒーロー映画というものを脱構築する中で生まれた作品構造なんだと思っています。
Good cannot exist without evil and evil cannot exist without good.
シャマランは次のような言葉を『アンブレイカブル』という作品に込めています。
基本的にヒーローが登場する作品においては、悪に対抗するためにヒーローが誕生したり、逆にヒーローに対して憎しみを抱くヴィランが登場したりするのが定石です。
ただ『アンブレイカブル』という作品は、これまでの作品に縛られない作品構造を有しています。
まず、この作品には殺人鬼というヴィランがデイヴィッドの前に立ちはだかるんですね。
つまりこの時点でヒーロービギンズとしての物語は十分に完成しているわけです。
ただそれを包み込む形で「ミスターガラス」の物語のレイヤーが存在しているんですよ。
というのもヴィランであるはずの「ミスターガラス」は最後までヴィランであると明かされない上に、デイヴィッドのヒーロービギンズの物語の外側にいる人物です。
さらに言うと『アンブレイカブル』という作品は、ヴィランがヒーローを誕生させることで自分の存在意義を見つけ出すという物語でもあります。
そういう点で、この作品は既存のヒーロー譚の在り方を脱構築することで生まれたポストモダニズムヒーロー映画と形容することができるように想います。
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おわりに
いかがだったでしょうか?
今回はM・ナイト・シャマラン監督の『アンブレイカブル』についてお話してきました。
映画『ミスターガラス』が公開されるということで見直している方も多いのではないかと思い、この機会に本作の魅力をお伝えできたらということで書いてみた次第です。
まだまだ本作の魅力を語り切れているとは言い難いですが、こういったポイントに注目して本作を再度鑑賞してみて欲しいと思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。