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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『グリーンブック』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『グリーンブック』
あらすじ
1962年、ニューヨークの高級クラブで用心棒として働くトニー・リップは、教養はなく、手癖も悪いが喧嘩には滅法強く、悪質な客を日々追い出していた。
しかし、勤め先のクラブが改装工事に入ることとなり数か月仕事がないという状態に陥ってしまう。
彼には妻と2人の子供がおり、当然仕事をして養っていかなければならない上に、家賃の支払いも切迫していた。
そんな中で何とか実入りの良い仕事を探している時、彼は南部でコンサートツアーを計画する黒人ピアニストのドクター・シャーリーに出会い、彼に運転手(兼ボディガード)として雇われることとなる。
黒人用旅行ガイド「グリーンブック」を頼りに、何とか南部でのコンサートツアーを成功させようとする2人。
住んでいる世界も、教養も何もかもが違う2人だが、旅の中で少しずつ絆を深めていく。
しかし、そこで待ち受けていたのは想像を絶するような色濃い「黒人差別」だったのだ・・・。
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作品情報
- 監督:ピーター・ファレリー
- 脚本:ニック・バレロンガ
本作の監督を務めるピーター・ファレリーは、これまで『メリーに首ったけ』のようなコメディ映画を主戦場としてきた映画監督です。
そんなコメディ映画監督らしい感覚が随所に反映されていて、本作『グリーンブック』は笑えるシーンもかなり多くなっています。
そして脚本を担当したニック・バレロンガは、本作に登場するトニー・リップ(本名トニー・バレロンガ)の実の息子なんですね。
アカデミー賞脚本賞を受賞することとなりましたが、過去の人種差別的なツイートへの支持の姿勢の表明が問題視されており、受賞に疑問符がつけられています。
- ヴィゴ・モーテンセン:トニー・“リップ”・バレロンガ
- マハーシャラ・アリ:ドクター・ドナルド・シャーリー
主演のヴィゴ・モーテンセンは、デヴィッド・クローネンバーグ監督の『イースタン・プロミス』にてアカデミー賞にもノミネートされた実力の持ち主です。
今作『グリーンブック』においては、役作りのためにかなり増量した感が伺えるので、これまでの作品における彼を知っていると、驚く部分もあるかと思います。
また、助演を務めるマハーシャラ・アリは2016年の映画『ムーンライト』にてアカデミー賞助演男優賞を受賞し、さらに今作でも同賞を受賞しました。
黒人の身ながら、威厳と風格を漂わせ、上品に話すシャーリーの人格を完璧に身に纏っており、傑出した演技であったことに疑いの余地はありません。
より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!
『グリーンブック』感想・解説:なぜアカデミー賞脚本賞を獲れたのか?
今回は『グリーンブック』がアカデミー賞脚本賞を受賞したということで、その脚本を徹底的に分析していきたいと思います。
よく「脚本が良い!!」という評価を目にしますが、「脚本=ストーリー」ではないということはまず頭に入れておかなくてはなりません。
脚本とは、プロットだけではなく、セリフの1つ1つや、シーンの描写に至るまで様々な要素が記された「指示書」なのです。
そのためストーリーが優れていることと、脚本が優れていることをイコールに考えるのは、必ずしも正解とは言えません。
その上で、優れた脚本には、いくつかの鉄則があり、そこに忠実に作られた作品がアカデミー賞脚本賞を受賞する傾向にあるわけです。
今回はリンダ・シーガー氏の『アカデミー賞を獲る脚本術』という書籍を参考にさせていただき、以下の11のポイントを挙げてみました。
- 映画の構成
- 物語の推進力
- シーンの使い方
- ひねりと転換
- 主題性
- 映像によるテーリング
- 登場人物の魅力
- 登場人物の変化
- 効果的なセリフ
- スタイルの確立
- 観客を変化させる
この11の視点から、今回は映画『グリーンブック』の脚本が如何に素晴らしく、如何にアカデミー賞脚本賞を獲るべくして獲ったのかを解説していきたいと思います。
映画の構成
まず、『グリーンブック』の脚本の構造はシンプルな直線型で、構成は三幕構成ですね。
直線型構成は、物語が時系列に沿って直線的に展開していく脚本で、映画の構成としては最もオーソドックスなものとなっております。また三幕構成も映画の中ではよく使われる構成です。
- 第1幕:セットアップ(ストーリーの背景や登場人物の問題、行動のきっかけとなる情報が提示される)
- 第2幕:コンフリクトや主題の提示(人間関係が発展し、ストーリーが展開される)
- 第3幕:クライマックス(第2幕の行動が導き出す結果が描かれる)
映画『グリーンブック』はまさに上記の脚本の教科書的な直線型三幕構成に忠実です。
上記の構成に当てはめて考えると、『グリーンブック』は旅のシーンが長い第二幕の扱いとなり、それぞれトニーとシャーリーがニューヨークを出発するまでが第1幕、旅のシークエンスが第2幕、ニューヨークに帰って来てからが第3幕となります。
また、そのストーリーを展開していく上で、大切なのは常に原因と結果、目的と行動を積み重ねていくことであり、その連続が映画を形作ります。
様々な状況や出来事に登場人物が遭遇する中で、ストーリーが進行していき、登場人物の考え方や行動、心情が変化していくことが大切なのです。
そしてその映画の基本とも言える進行プロセスが忠実に守られているのが『グリーンブック』の脚本の素晴らしさであり、安定感とも言えます。
物語の推進力
映画脚本において何よりも大切なのが、物語の推進力が備わっているかどうかです。
『グリーンブック』においては開始から数分程度のシーンで、トニーが失業してしまったことが判明し、家族を養い、家賃を払い続けていくために「お金」が必要という分かりやすい動機と目的が描かれています。
これが物語序盤から中盤にかけての推進力になっていることは明白です。
お金が必要だからこそシャーリーの運転手(兼ボディガード)を務めることとなり、それ故に南部へと旅をすることとなります。
物語の中盤付近までは明らかにトニーの金銭的な欲求が物語を支配し、突き動かしていきます。
しかし、後の章でも触れますが、中盤付近である種の「転換」が生じ、シャーリーの物語が占めるウエイトが徐々に大きくなっていきます。
彼の南部でコンサートをすることへの謎の情熱が物語を動かし始める、というよりもこの時点ではその情熱や動機が判明していないため、何かに物語が突き動かされているような感覚があるという印象です。
そして後のシーンで彼が抱えていた思いや、南部でコンサートツアーをすることの目的が判明してすることで、我々はそれまで物語の推進させていた謎の力がシャーリーによるものだったことに気がつきます。
思えば序盤はトニーの選択で物語が展開し、後半はシャーリーの選択で物語が展開するという区分けが明確なんですよね。
前半
- シャーリーの運転手として南部へと向かうという決断
- バーでの騒ぎをどう解決するかという選択
- イタリア系の友人に再会しても尚、シャーリーの運転手を続けるという決断
- 差別的な対応をする警察官に暴力を振るうという選択
後半
- 警察に対しては暴力を振るうのではなく、威厳を見せるという選択
- トニーとの口論に際し、一度は車から去ろうとした選択
- 差別的な対応をしたレストランでの演奏を辞退するという決断
- 帰り道の運転を自ら担当するという選択
- クリスマスにトニーの家を訪れるという決断
このように常にキャラクターに目的と動機があり、そこから自然と生じる選択と決断が物語を動かしていくように設計されているため、『グリーンブック』の脚本にはしっかりとした推進力があるわけです。
加えて、脚本によって1つのストーリーを確立していくのは、非常に難しい作業です。
ここのシーンがどれだけ素晴らしい出来であったとしても、それを1本の糸で繋ぐことができなければ、その映画は凡庸になってしまいます。
ただ単に印象的なシーンをいくつもパッチワーク的に張り合わせた脚本でもダメですし、複数のストーリーを単純に配置しただけの脚本でもダメです。大切なのは「統一感」があるかどうかなのです。
「統一感」がきちんと脚本の段階で備わっていれば、物語には推進力が生まれ、自ずと進行していきます。
ここに脚本家としての技量が多分に反映されることは言うまでもないでしょう。
まず、『グリーンブック』が巧いのはシークエンスの作り方でしょう。
本作のプロットは基本的に車に乗ってコンサート会場へと向かい、そこで演奏したら、また次の会場へと向かう、その繰り返しによって構築されています。
そのためよく言えば、纏めやすいのですが、逆に言うとこれを技量のない脚本家が担当するとあまりにも写実的になってしまい、映画として物語の推進力が失われてしまうことになりかねません。
そこで本作の脚本家であるニック・バレロンガは、2人の旅をいくつかのシーンに分け、それを1つの主題性の下でシークエンスとして纏めているために、物語に統一感があります。
- 最初のコンサートシーン:何事もなく上手くいく
- 次のコンサートシーン:黒人にスタウィンウェイのピアノは出せない
- 3度目のコンサートシーン:夜のバーでシャーリーが暴行され、トニーが仲裁する
- 4度目のコンサートシーン:夜に密会をしていたシャーリーが警察逮捕されていたのをトニーが救う
- 5度目のコンサートシーン:道中で警察に差別的な対応をされ、トニーが激高し、拘留される
- 最後のコンサートシーン:VIPとして迎えられたはずのシャーリーが演奏予定のレストランでの食事を拒否される
これらの一連のシーンは、全て「人種差別」という言葉の下に集約され1つのシークエンスとなっています。
ここが崩れていない故に、『グリーンブック』は同じシチュエーションの繰り返しでありながら、ストーリーが自然に進行し、かつ全体の主題性にブレがないのです。
また、映画において、アクションとリアクションの関係は重要です。
ここを巧く構築すれば、観客を退屈させずに物語に引き込むことができます。要は「伏線」ですね。
『グリーンブック』に関して言うと、アクションに対するリアクションのシーンを時間差で配置することによって、観客を飽きさせないように計算されています。
例えば、第1幕ではトニーとシャーリーが旅立つまでの描写が描かれるわけですが、ここでもいくつかのアクションが起き、そのリアクションを「待ち」の状態にして次へ進みます。
- トニーはクリスマスの夜に家に帰ってきて欲しいと妻に告げられている。
- トニーは妻に手紙を書くように求められている。
- 質屋に入れた彼のお気に入りの時計は年内に60ドル払うことでしか回収できない。
これらのシーンはアクションであり、そのリアクションはそれぞれ別のタイミングで描かれています。手紙を書くシーンは第2幕の旅の中で幾度となく配置され、残りの2つのアクションに対するリアクションは第3幕で描かれます。
また物語のキーとなるアクションに対するリアクションもかなりの時間差で提示されました。
その1つが、南部で車がエンストした際に、シャーリーが農場労働者の黒人たちから鋭い眼光で睨まれているシーンですよね。
このシーンの直後には、彼がそのような視線で見られた理由は提示されません。しかし第2幕の終盤で彼が白人にも黒人にも受け入れられない何者でもない自分の存在を嘆くシーンにて、ここのリアクションが描かれます。
このようにアクションとリアクションの関係がきちんと整理されていることに加えて、リアクションを敢えて「遅らせて」提示することで鑑賞する側の興味を損なわないように配慮されています。
また、『グリーンブック』においては緑色のキャデラックという小道具が旅のシーンを繋いでおり、それが定期的に映し出されることによって全体の映像的な統一感が崩れていないという効果もあります。
こういった奇をてらったわけではなりませんが、基本に忠実に作られた「統一感」の演出とシーンの配置の仕方が物語に推進力を生み出し、観客の中で自然と展開されるようになっているわけです。
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シーンの使い方
映画『グリーンブック』はそのシーンの使い方も抜群に巧いといえます。
まず、驚かされたのが、冒頭5分間程度のトニーという人物設定を明らかにしていくための一連のシーンです。
5分程度の短い時間の中で、シーンの連続だけで観客にトニーという人物の設定の大半を理解させてしまうのですから、この脚本が優れていないはずがありません。
- 音楽が流れているクラブで働いている
- 自分が儲けを得るために小汚い手法を使っている(帽子の一件)
- 悪質な来客があれば、殴って追い出すという粗野で暴力的な一面
- しかし、騒動が起きれば真っ先に名前を呼ばれるあたり、相当腕が立つと信頼されているのだろう
- クラブが改装工事のため、失業してしまう
- 家族がいて、妻と2人の子供を養っている
また本作はシャーリーというピアニストが題材になっている「音楽映画」の側面もあるが、本作のファーストシーンはクラブとそして音楽の演奏シーンです。つまりファーストシーンがこの映画のジャンルと方向性を既に明確にしているとすら言えます。
映画脚本において如何にして冒頭の短い時間で、主人公となる人物の設定や時代背景、物語の方向性を提示できるかは、観客の心をつかむための至上命題でもあります。
第62回アカデミー賞で脚本賞を制した『いまを生きる』にしても惜しくも第66回アカデミー賞で脚本賞を『ピアノレッスン』に譲りはしたものの、前哨戦でも強かった『シンドラーのリスト』にしても、冒頭の設定シーンの使い方が非常に巧いです。
この点が、『グリーンブック』の脚本がアカデミー賞で高評価される優等生ぶりなんだと思いました。
次に指摘したのが、直面のシーンの巧さですね。
この点に関してはニック・バレロンガも多くをシャーリーを演じたマハーシャラ・アリに委ねている印象がありますし、そんな脚本的欲求に応えた彼が助演男優賞を受賞したのも必然と言えるでしょうか。
トニーとシャーリーが南部を訪れると、厳しい「黒人差別」の現状にたびたび直面させられます。
『グリーンブック』においては、終盤に至るまで徹底的にシャーリーが不当な「黒人差別」に直面するシーンを淡々と描き続けます。
ただ、彼がその時どんなことを思っているのかの部分はブラックボックスとなっており、マハーシャラ・アリの演技に託されている状態です。
- 最初の夜のホテルでトリオの仲間が白人の女性と団らんしているのを1人見つめている姿
- エンストした際に自分に鋭い眼光を向ける黒人たちを見つめる姿
- 来賓として招待されながら、林にあるトイレで用を足せと告げられた時の姿
しかし、物語の後半になると彼がどんな思いで、これまで生きてきたのか、という部分がトニーとの口論に際して表出し、これまでの直面のシーンの隠された「意図」が明らかになるのです。
そしてやはり本作はトニーとシャーリーのそれぞれの清算のシーンを綺麗に描けているのも大きいでしょう。
特にシャーリーの清算のシーンは徹底的に計算された上で演出されているように思えます。
2人が旅の途中で、シャーリーの疎遠になってしまった兄の話題になった時がありましたよね。その時にトニーがシャーリーに対して、「そういう時は待ってるんじゃなくて、自分から書いてみるもんさ。」といった趣旨のセリフを投げかけています。
このセリフが重大な伏線となり、本作におけるシャーリーという登場人物のゴールとして提示されているわけです。
そうすると、終盤にトニーの家に到着した際に、「家に寄っていくか。」と提案されたシャーリーが1人帰路につくシーンで観客は当然「自分で書いてみるもんさ。」というセリフを思い出さずにはいられません。
観客はシャーリーが戻って来て、トニーの家でクリスマスを一緒に祝うことに対しての期待値を高めていくことになるんですね。
そしてこの映画の脚本は、そんな観客の期待にきちんと応えてくれます。
「清算のシーン」というものはあまりにも明白だからということで、描かずに終わらせ余韻を残そうとする脚本家もいますが、やはりきちんと示すのがアカデミー賞に受け入れられる美しい脚本の在り方なんでしょうね。
これがカンヌ国際映画祭になると、逆に「清算のシーン」を描かずに観客に問いを投げかけるような脚本が好まれたりしますね。
ひねりと転換
リンダ・シガーは『ハリウッドリライティングバイブル』という著書の中で「転換」を次のように位置付けています。
- 行動を新しい方向へと転換させる。
- 観客を別の世界に誘い、行動の焦点が変化したと感じさせる。
- 主人公の意思や決意を宣言する。
- ストーリーの中心問題をもう一度提示し、その答えを観客に考えさせる。
- 犠牲や危険が増大する。
- ストーリーを次の幕へと前進させる。
「転換」という言葉を聞くと、「どんでん返し」的なびっくり展開のことを想起させるかもしれませんが、実際はそうではなく観客にも分かりやすい形で表出していきます。
映画『グリーンブック』でもそんな「転換」が描かれたシーンが要所要所に差し込まれています。
- トニーとシャーリーの出会い・旅立ちの決断
- 夜のホテルでバルコニーで1人酒を飲むシャーリーをトニーが見つめる
- 夜のバーでシャーリーがリンチ未遂に遭う
- シャーリーの目的と動機が明らかになる
- クリスマスの夜の帰り道に運転手がシャーリーに交代する
上記に赤色で着色した2つ(1と5)はとりわけ、第1幕の終盤と第2幕の終盤に起こる「ストーリーを次の幕へと前進させる」ための「転換」ですよね。
次に青色で着色した2の描写ですが、これはシャーリーという人物に対するトニーないし観客の目線が「転換」される重要なシーンと言えます。
3は専ら「犠牲や危険が増大する」シーンであり、それ以後はこれまでのシーン以上に「黒人差別」が強まり、緊張感が高まっていきます。
4も「主人公の意思や決意を宣言する」シーンに該当すると言えるでしょう。
このように『グリーンブック』は、まさに教科書的にその脚本の中に「転換」を配置し、物語を展開させています。
主題性
映画脚本を製作していく上で、テーマがない作品は当然あっても良いわけですが、アカデミー賞で脚本賞を獲れる脚本には主題性はマストです。
『グリーンブック』が扱った主題は、基本的には明確で、60年代の「人種差別」とそれに直面した2人の男の心理的な変化であると考えております。
その主題性が明確でありつつ、その描き方が何とも丁寧で上手いですよね。
シャーリーは劇中で「品位を保つことが勝利なのだ。」という言葉をトニーに投げかけています。
つまり自ら迎合しようとするのではなく、毅然とした態度で振る舞い、勇気を見せることで、相手が歩み寄って来てくれるだろうというのが彼の考え方なのでしょう。
ただその態度が彼を白人社会にも、黒人社会にも溶け込めない状態を生んでいることに観客も徐々に気がつき始めます。
しかし、彼は旅の終わりに立ち寄ったジャズバーで、黒人たちの前で心の底から笑顔を見せ、音楽の楽しさを再認識しました。
これが序盤に彼がホテルで黒人に声をかけられた際にその場を立ち去り、バーへと向かい、白人にリンチされそうになったシーンと呼応しているのは明確でしょう。
ニューヨークへの帰路で、警察官に差別的な対応をされなかったというシーンもありました。
つまり本作の主題はやはり「人種差別」問題であり、それでいて、人が共生していく上で大切なのは「歩み寄ること」であるというテーマです。
それ故に物語の終盤でシャーリーは、クラシックにこだわっていたにも関わらずジャズを演奏し、彼自身がキャデラックを運転し、そして一度は断ったトニーの家でのクリスマスパーティに参加するわけです。
「人種差別」問題という近年のアカデミー賞で評価されやすくなっている題材ということもさることながら、その描き方が押しつけがましくなく、優しい1つの希望として提示されるところにも本作の脚本の巧さが垣間見えました。
映像によるテーリング
映画においてあらゆる要素をセリフによって表現してしまおうとする脚本家がいますが、それは技量が足りていない証拠です。
技量のある脚本家は、セリフに過度に頼りすぎることはなく、映像に物語を託し、心情描写を役者の演技に託します。
『グリーンブック』は丁寧にそれが成されているために、映像が雄弁であり、映画として優れているのです。
まず、本作は映像だけで60年代アメリカの白人たちの根底にあった差別意識をあぶり出すことに成功しています。
この作品の中でシャーリーのコンサートを聴きに来る富裕層の白人たちは、ピアノを弾いている彼には最大限の敬意と賛辞を表明するにもかかわらず、そうでない時はレストランでの食事を禁じたり、トイレの使用を禁じたりしています。
つまり積極的に差別こそしておらず、表面的には黒人のクラシック音楽を聴くという懐の深さを見せながらも、その一方でその心の奥底には、もはや無意識に近いレベルの差別意識が存在しているわけです。
こういう事実があることを我々が本作を見ていて、明確に知覚するのは、終盤のシャーリーとトニーの口論のシーンなのですが、それに至るまでは一切セリフで語られず、淡々と映像を見せることに終始しています。
その不気味さを敢えて、すぐに言語化してしまうのではなく、何度か映像情報として観客に提示しつつ十分に見せ、観客に体感させた後で「解説」という形で後からその意図を添えたという構成も見事ですね。
極めて高度な映像による主題や状況のテーリングだったように思います。
次に、映像によるテーリングとして、対比的なシーンを配置するという手法があります。
『グリーンブック』で言うと、分かりやすいのは、中盤と終盤に2度シャーリーとトニーが警察車両に止められるという出来事が起きている点です。
中盤のシーンでは、警察が2人に差別的な対応をし、激高した彼が暴力で抵抗してしまうという描写になっていました。
一方の終盤で、同じシチュエーションが登場した際に、我々はまた「人種差別」的な対応をされるのではないかと勘ぐってしまうのですが、そこでは全く正反対の出来事が起こります。
このように同じシチュエーションでありながら、対照的なシーンを作るという工夫が映像の雄弁さに貢献しているのです。
最後にメタファーを取り入れた映像ということになります。
これに関しては、終盤のシャーリーが自室で1人、翡翠の石を見つめているシーンが素晴らしかったですね。
翡翠の緑色とキャデラックの緑色が呼応することで、あの翡翠の石が、「2人の2か月に及ぶ旅」のメタファーとして機能しています。
それを懐かしそうに、しかしどこか寂しそうに眺めるマハーシャラ・アリの演技力も素晴らしいですよね。
あのワンシーンが、翡翠の石というメタファーによって、シャーリーの心情描写としても機能し、加えて彼の抱える最後の選択肢とその後の決断を言葉にせずとも形にしているわけです。
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登場人
物の魅力
(C)2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.
『グリーンブック』はメインキャラクター2人の魅力の演出の仕方が最高に巧いですし、それを表現したヴィゴ・モーテンセンとマハーシャラ・アリがやはり素晴らしいですね。
先ほどもこの映画が冒頭の僅か5分程度のシークエンスでトニーという人物像を明確にできていたという点を指摘しました。
それに加えて、この映画は会話の中で登場人物の特徴を浮かび上がらせる技術に長けていました。
冒頭のトニー宅で食卓を囲むシーンなんかは非常に面白くて、何気ない団らんのシーンなんですが、その会話の節々にトニーの人格や気質を示唆する内容が込められています。
また旅に出てからも、最初に入ったダイナーのシーンでは、何気ない2人の会話から、2人の受けてきた教育や教養の違いをあぶり出してみせました。
そして多くの人が魅力を感じたであろう、あのキャデラックの車内でケンタッキー・フライド・チキンを食べるシーンですよね。
あのシーンでも、映像は2人の食べ方の違いを演出し、また当初は嫌がっていたのに、差し出されたチキンに積極的に手を伸ばすシャーリーの姿が無性に愛らしく描かれていました。
また、登場人物を魅力的にし、そのキャラクターを確立させるには、その人物が作中でどんな動機や目的で、どんな行動を取っているのかを体系づけて描けているかどうかも重要です。
これまで指摘してきたようにトニーは当初家族を養う「お金」が必要だからという行動基準が明確です。
そしてシャーリーに関しては彼を突き動かす動機や目的は明確にあるのですが、それを敢えて観客には明確化せず、終盤に観客に提示するというアプローチを取っています。
そして終盤に明かされる真実がシャーリーという人物の魅力を一層引き立たせ、物語の推進力を加速させます。
登場人物の変化
映画『グリーンブック』の脚本において、特に優れていた部分を上げろと言われれば、私はこの「登場人物の変化」の描き方を挙げると思います。
まず、物語を大枠で捉えた時に2人にもたらされた小さな変化は第2幕終盤・第3幕の中で描かれています。
- トニー:お金で買収しようとしたレストランの支配人に激高。黒人差別に対して反発するようになる。
- シャーリー:自ら歩み寄ってみようという意志に芽生えた。
ここが1本の映画を通じての「変化」となっていることは明白です。
ただそこに至るまでに、この映画は幾度となく「変化」の描写を取り入れ、登場人物を少しずつ変化させてきました。
その中でも、やはりトニーの変化の描き方は抜群に巧いと思いました。
序盤から中盤の物語の推進力の中心は、トニーの金銭的な欲求に付随していました。それ故に、シャーリーのコンサートツアーに出向くにも関わらず、彼が旅を支配しているかのように見受けられたほどです。
旅の途中でギャンブルに興じてみたり、落ちている翡翠の石を盗もうとしたり、お金で警察官を買収したりとやりたい放題していました。
ただ映画の中盤にこんなセリフを彼が言っていたのを覚えていますか?
『お金のことしか考えないやつと思うか?』
このシーンで、一見するとトニーは人として変わったようにすら見受けられます。しかし、これは彼が言葉で発しているだけに過ぎない情報であり、その本心が透けて見えることはありません。
現に、その後のシーンではシャーリーと口論になった際に、「コンサート会場に辿り着けなければ、俺だって損をするんだ。」という旨の発言をしており、彼が金銭的な執着から抜けられていないことは明白です。
これは登場人物の描き方における脚本のテクニックで「変化できない登場人物」というものです。
人が変わることは映画の中でと自然に演出できますが、現実世界において容易ではないことは察しが付くでしょう。
だからこそ映画の中の登場人物にも「変わりたいけども簡単には変われない」というコンフリクトを背負わせ、物語を深化させているのです。
ただ、終盤に彼がレストランのオーナーに紙幣で買収を申し出られた時、彼は本能的にそれを跳ね除けます。
ここでようやく彼は「変化」に到達することができました。
変わりたいという目的と動機はあるものの、それを行動に移せなかった彼が、最後の最後でそれを行動に移すというカタルシスが非常にエモーショナルです。
「変化」というものがない映画脚本はやはりアカデミー賞では評価されませんし、登場人物の「変化」を如何にして巧みに演出できるかは、アカデミー賞脚本賞レースを争う上で重要なファクターです。
『グリーンブック』はそれが他の映画よりも上手だったわけで、それが受賞につながったとも言えるでしょう。
近年のアカデミー賞脚本賞受賞作品を見ていても、「変化」を巧く映画他作品が非常に多い印象を受けます。
- 『英国王のスピーチ』
- 『ミッドナイトインパリ』
- 『her』
- 『バードマン』
- 『マンチェスターバイザシー』
そう考えても脚本賞を『グリーンブック』が受賞したのは妥当と言えますね。
効果的なセリフ
『グリーンブック』のセリフの使い方はこれまた秀逸でした。
リンダ・シーガー氏の『アカデミー賞を獲る脚本術』には映画の効果的なセリフについて次のようにありました。
セリフはたんなるおしゃべりではない。話し合いでも、仲間内での雑談でもない。ストーリーを説明するものでも、脚本家が人生哲学を披露する場でもない。セリフは登場人物とストーリーについて、必要な情報だけを伝えるべきであり、テーマを表現し、登場人物を明確に描き、変化を暗示したりするものである。
リンダ・シーガー『アカデミー賞を獲る脚本術』より引用
アカデミー賞脚本賞を獲れる作品のセリフは洗練されていて、無駄がなく、それでいて説明チックでなくナチュラルなんですよね。
ただ『グリーンブック』が非常に高度なことをやっているのは、やはりあの旅が始まり、最初に訪れたダイナーでの食事シーンです。
あのシーンで2人が繰り広げているトークは、完全に雑談です。しかし、それが映画を展開するに当たって、登場人物を掘り下げるに当たって、ノイズになっていないんですね。
というよりもむしろ登場人物の掘り下げを深くする方向に働いています。つまり何気ない会話の発音やトーン、語彙から2人の教養やこれまで生きてきた世界の違いが浮き彫りになっているのです。
セリフそのものが意味を持たなくても、登場人物がセリフをやり取りさせているだけでどんどんと作品に厚みが増していくという何とも素晴らしい脚本になっているんですね。
それに加え、基本的に『グリーンブック』はテーマに言及するような積極的なセリフが少ないんですが、後半にシャーリーとトニーが口論する際に、一気にセリフのトーンが変化し、「人種差別」問題に言及し始めます。
水を溜めに溜めた浴槽の栓を抜き、一気に水を解放するが如く、吐き出される感情と本音に思わず圧倒されます。
このように本作はセリフ回しにおいてもきちんと強勢を置く部分が明確になっており、だからこそそのセリフがストレートに観客の心に突き刺さります。
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スタイルの確立
これに関しては、監督であり脚本の共同執筆も担当したピーターファレリーに言及することになるでしょう。
『グリーンブック』という作品は60年代の黒人差別の残酷な現実を見せる作品でありながら、独特のオフビート感があり、暗くなりすぎることはありません。
これは間違いなくピーターファレリーの功績であると言えるでしょうね。
彼がこれまで手掛けてきた作品を調べてもらうと一目瞭然なのですが、基本的にコメディ映画ばかりです。それもまあB級感満載のコテコテのコメディ映画が大半です。
その作家性とスタイルを確立している彼が脚本に参加したからこそ、『グリーンブック』にはアカデミー賞受賞作品らしからぬコメディテイストに仕上がっています。
人種差別問題を重く捉え、重厚な人間ドラマに仕上げるのではなく、オフビート感のある肩の力を抜いて見られる社会派映画というスタイルを確立できていたことが『グリーンブック』という作品の賞レースにおける強みになったことは間違いありません。
観客を変化させる
これもかなり難しいポイントですよね。
ここまでの10の要素はあくまでも脚本家の範疇で完結していた技法のお話ですが、この最後の要素に関しては観客にどう伝えるのかという視点になってきます。
まず、観客に映画の内容をきちんと理解させられる脚本というのは優れています。
ただこれも観客が無知だろうとして、過剰なホスピタリティを見せると、それを観客が感づいて、作品に対する嫌悪感に繋がりかねないのでバランスが難しいところです。
一方で、観客も理解できなくて良いんだ!!という方向に突っ走りすぎると、リンチの『マルホランドドライブ』のような脚本としては破綻した代物に仕上がってしまいます。
その点で、『グリーンブック』という作品はやっぱり優れているんですよね。
黒人差別の問題、南部で初めて白人の前で歌った男性、フライド・チキンのコンテクストなど、アメリカに住んでいる人であれば敏感に感じ取れているであろう内容を如何にしてユニバーサルなものに還元していくか、ここは難しいんですよ。
日本の映画って基本的に多くが海外向けに作っていないので、そのあたりを無視して日本人に理解出来たら問題ないという脚本も散見されます。
ただハリウッド映画はグローバルな市場に向けて作品を送り出す以上、そのあたりの普遍性が当然求められますし、アカデミー賞脚本賞を獲るには、そこの対応は当然できている必要があります。
『グリーンブック』はトニーという人物のフィルター越しに見る南部の人種差別とそれと戦うシャーリーという構図を取っていてかつトニー自身が教養に乏しいという人物設定なので、シャーリーや周囲の人間が彼に「教育する」という形で観客を同時に教育できるようになっています。
その点でアメリカの史実や社会について知見がない人にでも、疑問を感じることなく最後まで見られる普遍性の高い脚本に仕上がっているわけです。
加えて、映画が主題性を全面に押し出すぎて、観客に「説教」や「プロパガンダ」のように受け取られるのも悪手です。
近年アカデミー賞では、テーマを押し付け過ぎず、観客に委ねる作品が高く評価される傾向が強いように思えます。
2017年に作品賞を受賞した『ムーンライト』しかり、2018年の『シェイプオブウォーター』しかりメッセージ性や主題性を全面に押し出した映画ではありません。
しかし、『グリーンブック』という作品はきっと見終わった後に観客に変化をもたらす作品であることは言うまでもありません。
人と繋がりたい、あの人に遭いたい、自分が人と生き、人に生かされていることを感じる作品でもあります。
とにかく、本作はその主題性の観客への伝え方という点でも、近年のアカデミー賞で評価されやすい内容だったと言えるでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『グリーンブック』の脚本について11の視点から分析してきました。
久々に1万5000字クラスの記事を書いたので、めちゃくちゃ疲れました。かなり勢いで書いたので、後々リライトして内容を改善させていこうかとは思います。
とにかく第91回アカデミー賞の脚本賞に相応しい映画だったと思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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