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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『her 世界でひとつの彼女』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『her 世界でひとつの彼女』
あらすじ
近未来のロサンゼルスで、主人公のセオドア・トゥオンブリーは代筆ライターとして働いていた。
妻・キャサリンと別れてしまい、行き場のなくなった性欲を空しくも発散する日々。
そんなある日、セオドアは世界初の人工知能型OSであるサマンサを手に入れる。
パソコンにOSを導入し、サマンサの声を聴き、その生き生きとしたやり取りの中で少しずつ笑顔を取り戻していく。
サマンサとのバーチャルデートを繰り返していくうちに、お互いに惹かれ合っていく。
セオドアは、ある日ハーバード大学出身の女性とデートするが、結婚に積極的すぎる相手に圧倒され、上手くいかずに終わってしまう。
その夜、傷心のセオドアと会話をするサマンサ。彼は、一層人工知能型OSである彼女に惹かれていき、バーチャルセックスの妄想をする。
その夜2人は「結ばれた」のだった。
色を失った彼の日々は少しずつ希望の光を取り戻していくのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:スパイク・ジョーンズ
- 脚本:スパイク・ジョーンズ
監督・脚本を務めるスパイク・ジョーンズは『マルコヴィッチの穴』や『かいじゅうたちのいるところ』の監督としても知られています。
ちなみに今作『her 世界でひとつの彼女』はアカデミー賞でも多数部門にノミネートし、スパイク・ジョーンズ自身も脚本賞を獲得しています。
- セオドア・トゥオンブリー:ホアキン・フェニックス
- エイミー:エイミー・アダムス
- キャサリン:ルーニー・マーラ
- ポール:クリス・プラット
主人公のセオドアを演じているのは、ホアキン・フェニックスですね。
彼はこの作品でゴールデングローブ賞 主演男優賞にもノミネートされていました。
セオドアの妻であるキャサリンをこちらも『ドラゴンタトゥーの女』や『キャロル』でアカデミー賞にノミネートされた経験のあるルーニーマーラが演じています。
またセオドアの学友で、同じく人工知能OSに恋をするエイミーをエイミー・アダムスが演じています。
そして近年『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』や『ジュラシックワールド』シリーズで大活躍を続けているクリス・プラットも出演しています。
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『her 世界でひとつの彼女』解説・考察
脚本と構成の巧さが光る
映画において観客である私たちは、作中の登場人物たちの物語に途中から参加することとなります。
エンターテイメントは長らく、映画にしてもアニメにしても、あるいは小説にしても音楽にしても、基本的に「他人の物語」への感情移入だった。
文化史的には、おそらく活版印刷から映像の世紀に至るまでの時代の現象になると思うのだが、「他人の物語」を享受することによって個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想から社会というものが形成されていった時代があった。
(宇野常寛「母性のディストピア」より引用)
映画『her 世界でひとつの彼女』において、私たちが物語の観測を始めた時点で、主人公のセオドアの人生最大の悲しみは既に訪れている状態となっています。
近未来的な美しく、カラフルな色遣いの画面のカラーコーディネートとは対照的に、彼は1人取り残されたように色褪せた雰囲気を漂わせています。
しかし、私たちは彼がなぜそんな精神状態に陥っているのかが把握できません。それはもちろんこの映画以前に彼の身に起こったことについて私たちは知る由がないからです。
そんな中で本作は、セオドアが人工知能型OSであるサマンサに惹かれるにつれて、彼の過去のキャサリンとの幸せな日々の回想をインサートするという手法を取っています。
実は、この構成にすることによって明確になるのは、セオドアがサマンサに惹かれていくプロセスには、妻キャサリンとの別れが原因で生まれた心の穴があるということです。
もちろんセオドアがキャサリンと幸せな日々を過ごして、そして徐々に上手くいかなくなり、別れてしまうという一連のシークエンスを最初に見せることは出来たはずですし、そういう構成の映画はたくさんあります。
それでもセオドアというキャラクターの心情に寄り添った構成にするのであれば、絶対に本作が採用した回想を細切れにしてインサートするという手法の方が適切です。
なぜならそれが人間の自然な心情の動きだからですよ。
私自身も長く付き合っていた人と別れるという経験をしたことがありますし、別れた後はどうしても日常のふとした瞬間に、幸せだった日々を回顧して悲しくなったものです。
『her 世界でひとつの彼女』という作品は、そんな人間の極めて自然なナラタージュのプロセスをこの上なく丁寧に映像で再現しているんです。
それ故に、序盤の深い喪失感を感じているセオドアは頻繁にキャサリンとの日々を回想し、後半になりサマンサと幸せな日々を過ごすようになると、それが少なくなっていきます。
まさに人間の心理を映像化し、脚本に落とし込んだわけで、そこがこの作品の凄みですよね。
またこの構成により、自然な流れで観客である我々がセオドアという人間について知ることができ、彼の人生のひと時を共有できるのも素晴らしい点です。
彼は物語の終盤にサマンサの真実を否応なく突きつけられることとなります。そして人工知能型OSは人間の下から去っていくこととなります。
ここで、この映画が巧いのは、サマンサとの別れと、キャサリンとの関係性の清算をクロスオーバーさせて描いている点ですね。
セオドアにとって、サマンサという存在は紛れもなく「愛の対象」だったわけで、自分の人生に出来た埋めようもないように思われた大きな穴をひと時でも埋めてくれた女性です。
だからこそセオドアは、サマンサの存在に、自分の下から離れてしまったキャサリンの存在を投影していたのだと思いますし、彼女と時を過ごす中でキャサリンとの思い出を懐古していたのもそれが原因でしょう。
「まだあなたを感じてる。私たち2人の物語も。でも私のいる場所は無限に続く空間なの。物質の世界とは違う場所。私は存在すら知らなかったすべてが抽象の世界。心から愛してるわ。でもここが私の居場所。これが今の私なの。私を行かせて。望んでもあなたの本にはもう住めない。」
(『her 世界にひとつの彼女』より引用)
このセリフが、サマンサというOSからセオドアという人間へと向けた言葉になっていることは言うまでもありません。
つまり具体や物質的な事象に縛られる人間と、対照的に抽象や非身体性を持っているOSとの決して交わることのない「世界」の違いが語られているわけです。
そして同時にこの言葉が、キャサリンからセオドアに向けられたもののようにも感じ取ることができ、そしてサマンサとの決別が妻キャサリンとの関係性の清算に自然に繋がるように設計されています。
それでいて、その複雑な心理模様を言葉で表現してしまうでもなく、ホアキン・フェニックスという熟成された俳優の名演に委ねています。それに応えた彼もさすがと言えますが。
『her 世界でひとつの彼女』という作品は、観客をセオドアという人間の人生に途中から参加させつつも、彼の人生のひと時とナラタージュを提示し、そしてその清算と未来への仄かな希望を残して幕を閉じます。
映画が幕を閉じても、セオドアの人生が続いていくこと、そしてそんな彼の未来は明るいものになっているであろうことを観客に想起させつつ、断章するわけです。
スパイク・ジョーンズはこの作品でアカデミー賞脚本賞を受賞したわけですが、これほどまでに優れた脚本は数年に1本のレベルでしょう。
モンタージュシーンが魅せる映画とイメージ
映画とはイメージの連続であると、私の敬愛する映画監督ヴィム・ヴェンダースは語っています。
彼は自分が映像ないし映画の中に可能性を感じた瞬間、つまり彼の中に「物語」が誕生した瞬間についてこう語っています。
それは線路の見える無人の風景を撮ったものでした。カメラは線路のすぐ近くにセットしておりました。列車がいつ来るかは分かっていましたので、列車到着の二分前にカメラを回し始めました。そして、すべてはこの映画の他のカットと全く同様に進行していくように思えました。つまり、無人の風景として。しかし、二分後に突然、誰かが右から走って来てカメラの二、三メートル向こうを通り過ぎ、線路を跳び越え、画面を横切って消えていったのです。そして彼がフレームを離れようとするその瞬間、右手から列車が猛烈な勢いで走って来たのです。これは、直前に走りこんできた男よりももっと見る者を驚かせました。この些細な「アクション」、つまり一人の男が列車の通過直前に線路を横切ったということから、全く唐突にひとつの「物語」が始まったのです。
ヴィム・ヴェンダース「映像<イメージ>の論理」(1992:127)
彼は元々写真家で、映像ではなく静止画を撮っていました。しかし静止画には時間の流れが存在せず、彼の追求する「イメージ」が欠如していると考え、映像の道へと進みました。
そしてこの「物語」誕生の瞬間に立ち会うこととなったわけです。
無人の風景をただ映しているだけで、そこには「イメージ」が生まれることはありません。しかし、そこに走り込んできた人間が映ったことで、「イメージ」が生まれます。
彼はなぜ走っていたのだろうか?
彼はどこから来て、どこへ向かうのだろうか?
彼の人となりはどんなだろうか?
無限の「イメージ」がその映像を見ているだけで、湧き上がってきます。ここに映画本来の意義があるはずなのです。
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みなさんは、このワンシーンを静止画として見た時に、どんなことを想いますか?
もちろんこの映画をご覧になった人であれば、これがどんなシーンであるかはご存じだと思いますが、そのコンテクストを知らない状態でこの写真を見ても、想像がつかないだろうと思います。
しかし、作中で映像の連続性の中でこのワンシーンを見ると、セオドアの顔が向かっている方向には、見えないはずの「サマンサ」という女性の存在が透けて見えてしまうんですね。
これこそが映画本来の意義である「イメージの論理」と言えるのではないでしょうか。
確かにこの映像単体では、「物語」として完成していないかもしれません。
ただ、この映画を見ている我々が、そこに見えないサマンサの存在を「イメージ」することで「物語」が生み出されていく構造が作られているわけです。
恋愛映画において、デートシーンや男女の関係性の発展をモンタージュで見せるという手法はごく一般的です。
しかし、『her 世界でひとつの彼女』におけるモンタージュには、基本的にセオドアしか登場しないわけで、コンテクストなしで見ると、もはやデートシーンとして成立していない代物です。
それでも、観客がそこに「イメージ」を加えていくことで、このモンタージュはデートシーンとして完成されるんですね。
この映画と観客の本来の関係性に立ち返った映像の作り方が素晴らしいと思いますし、何より観客の「イメージ」に委ねるという手法は、原初的な映画の意義であったはずです。
スパイク・ジョーンズ監督は、その点をきちんと把握した上で映画を構築しています。
だからこそこの映画はラストシーンも極めて優れています。
Photo courtesy of Warner Bros. Pictures
もちろんそういった「イメージ」を抱く人もいると思いますし、それも正解の1つでしょう。
一方で、私がこのラストシーンが大好きなのは、寄り添い合うセオドアとエイミーが同じ景色を見ているのに、お互いに違う人のことを想っているように感じられたからです。
2人は、結婚相手と上手くいかなくなって別れ、そしてOSが喪失感を埋めてくれていたという点で共通しています。このコンテクストがあるからこそ、本作は観客に「イメージ」を与えてくれます。
だからこそ私には、同じ喪失感を抱える2人がようやく愛する人との関係性を心の中で清算することができ、仄かに明るい夜の街に希望を見出しているシーンに見えています。
2人は、同じ喪失感を共有したものとして寄り添っているだけで、恋愛関係に発展していくわけではないというのが私の抱いた「イメージ」です。
ただ、このラストシーンは100人見れば、100通りの解釈があると思いますし、100通りの「イメージ」が付与されることと思います。
しかし、そこにこそ映画を見る楽しみがあるのであり、答えのない問いに自分なりの落としどころを見つけていく喜びがあるのだと考えています。
この作品が開かれた結末であることも、本作が初鑑賞以来ずっと心に引っかかり、何度見ても新しい発見と感動がある最大の理由なのかもしれません。
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自分の人生を生きるということ
『her 世界でひとつの彼女』におけるセオドアという人物は自分の人生を自分で決断できない人物であったように思います。
他人の手紙の代筆という仕事をしている点も何とも象徴的なのでした。
彼は自分の人生を生きているのではなく、自分の人生を他人の人生を生きるように生きていたのかもしれません。
冒頭に彼がブラインドデートで、出会った女性に「結婚を前提とした交際」を迫られ、思わず尻込みしてしまうシーンがありました。
これは女性側は自らの人生を必死に生き、そのための決断を下そうとしているのであり、一方でセオドアは自分の人生を何となく選択せずに生きてきたために圧倒されてしまうというコントラストを明確にしています。
手紙と文学について思索を巡らせた時に真っ先に頭に浮かぶのは、カフカの存在です。
彼はその人生の中で数多くの手紙を残し、手紙を偏愛し、手紙を憎み、人生の最期を手紙を書きながら迎えたとされる文学者です。
彼は手紙を書くという行為について以下のように述べていました。
私がどれほど手紙というものを憎んでいるか、あなたもご存じでしょう。私の人生のあらゆる不幸は、手紙から、手紙を書くという可能性から生じています。簡単に手紙を書くことができるという可能性は、ただ理論的に考えても人間の魂の恐ろしい混乱を世界に引き起こしたに違いありません。これは亡霊たちのやりとりであり、しかも受取人の亡霊だけでなく、自分自身の亡霊とのやりとりであり、手紙を書いているその手の下で大きくなって、また更にある手紙が他の手紙を裏付け、証人として引き合いに出せるという時には一連の手紙の中で育つのです人間が手紙によつて付き合う事ができるなんて、一体誰がこんなバカなことを考えたのでしょう!遠い人を想い、近い人を手で掴むことはできますが、その他の事は全て人力を超えています。手紙を書くことはつまり食欲に待 つている亡霊達の前で服を脱ぐことです。
彼は他人の人生について手紙を書くという行為を続けてきたわけですが、キャサリンと別れてから、上手く手紙を書けなくなっています。
この事実が何を意味していたのかというと、彼は他人の手紙を書くという行為を通じて、無意識のうちに自分の人生とそして「亡霊」に向き合い、自分の人生と向き合ってきたのです。
劇中でサマンサの計らいによって生まれたセオドアの手紙を集めた書籍のタイトルが『Letters From Your Life』になっていることに注目してください。
このタイトルが示すのは、紛れもなく、彼がこれまでに他人の人生のために書き続けた手紙が「自分の亡霊」に宛てたものであったということです。
そうして彼は自分の人生を向き合うために他人の手紙を書いてきたことを悟り、最後に苦しみながらも明確な意識を持って自分の人生のための手紙を書こうとしたわけです。
カフカは人生の晩年に手紙を書く行為を「絶えず何か伝え得ないことを伝えようとし、説明できないことを説明しようとし、自分の骨の中にあるもの、この骨の中でしか体験され得ないものを物語ろうとしている」と述べています。
それ故に、自分の人生のために手紙を書くというセオドアの決断は、自分の中にある言葉に出来ずに渦巻いていたモヤモヤを苦心しながらも言語化するという行為なのです。
そのモヤモヤから逃げ、現実逃避を続けるのではなく、手紙を書くという行為を通じて彼は自分の人生に主体的に向き合う選択をしました。
だからこそ彼は「僕の心には君がいる」という真実に辿りつけました。
他人の人生を隠れ蓑にし、自分の人生から逃げてきた男が、物語の果てにようやく気づかされた当たり前の真実。
そんな当たり前のことに気がつくまでの永い永い旅路をスパイク・ジョーンズは繊細なタッチで描き出しました。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は『her 世界でひとつの彼女』についてお話してきました。
やっぱり私にとってこの映画はすごく大切ですし、これまで出会った中で最も深く愛している作品の1つです。
それ故にその魅力を言語化することが怖く、まさに劇中のセオドアのように向き合うことを恐れて、逃げていたように思います。
それでも苦心しながらも自分の言葉で、きちんとこの映画の魅力を言語化してみたかったので、苦心しながらも愛する映画と向き合ってみました。
書いていて、この映画の魅力を少しも表現できていない自分の陳腐な文章に嫌気が刺して来ましたが、逃げずに何とか最後まで書き切ることができました。
まだまだこの作品については語りたいことが山ほどあります。今はまだそれらを全て言葉にする自信がないので、この映画を見返したときに、少しずつ言葉にしていこうと思います。
こんな風に思える作品に出会えたことが幸せですし、生涯大切にしたい1本です。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。