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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は映画『ダンボ』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
実写『ダンボ』
あらすじ
サーカス団で馬術師として活躍し、元看板スターだったホルト・ファリアは従軍中に片腕を失いながら家族の下へと帰還した。
しかし、最愛の妻は流行りの感染症により命を落としており、サーカスでの仕事も無くなっていた。
仕事のないホルトは、2人の子供を養うために団長のマックス・メディチに頼み込み、新しく購入した象の世話を任される。
彼が飼育を任されたアジアゾウは子供を身籠っており、すぐに出産の日を迎えた。
ただ、彼女が産んだ子象は耳が身体に不釣り合いなほどに大きく、サーカスの人間からも笑いものにされてしまう。
ある日、サーカスでデビューを果たした「ダンボ」は、その大きな耳が故に観客から嘲笑されてしまうが、そんな我が子を守ろうと母ジャンボは大暴れしてしまう。
結果的に、ジャンボは檻に閉じ込められて、「ダンボ」と引き離されてしまい、その後売り払われてしまう。
ミリーとジョーは母親を失って意気消沈する「ダンボ」に、母を取り戻すためにショーで活躍して、資金を集めようと持ち掛けるのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:ティム・バートン
- 脚本:アーレン・クルーガー
- 撮影:ベン・デイビス
- 美術:リック・ハインリクス
- 衣装:コリーン・アトウッド
- 編集:クリス・レベンゾン
- 音楽:ダニー・エルフマン
映画『ダンボ』は、これまでにも数多くの名作を世に送り出してきたティム・バートン監督の最新作となります。
彼の作品は、やはりキテレツなビジュアルと、狂気を孕んだ映像や空気感が特徴的で、多くのファンがいますよね。
個人的に好きなのは、『バットマン』『マーズ・アタック』『シザーハンズ』ですかね。
脚本には、映画『トランスフォーマー』シリーズやハリウッド映画版『ゴーストインザシェル』などで知られるアーレン・クルーガーですね。
正直フィルモグラフィを見ていると、ただただ不安になる作品達が並んでいますよね・・・。
他にも、撮影にはMCUの『ガーディアンズオブザギャラクシー』『ドクターストレンジ』などで知られるベン・デイビスが、美術にはティム・バートン作品に長らく携わってきたリック・ハインリクスが参加しています。
- コリン・ファレル:ホルト・ファリア
- マイケル・キートン:V・A・ヴァンデバー
- ダニー・デビート:マックス・メディチ
- エヴァ・グリーン:コレット・マーチャント
- アラン・アーキン:J・グリフィン・レミントン
- ニコ・パーカー:ミリー・ファリア
- フィンリー・ホビンス:ジョー・ファリア
主人公のホルト・ファリアを演じたのは、コリン・ファレルで2人の子供との関係性に悩む、ナイーブな父親を見事に演じ切っていたように思います。
そして本作のヴィラン的立ち位置となるV・A・ヴァンデバーを演じたのが、マイケル・キートンです。
彼は『スパイダーマン:ホームカミング』でもヴァルチャーという印象的なヴィランを演じていましたし、『ファウンダー』というマクドナルドを題材にした映画でも商売至上主義のダーティーな経営者を演じていました。
本作『ダンボ』の役どころは、『ファウンダー』の時を想起させる利益主義の経営者でしたね。
他にもティム・バートン監督の前作『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』に出演しインパクトを残したエヴァ・グリーンも出演しています。
2作続けてのメインキャスト起用ということは、相当お気に入りなんでしょうね。
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実写『ダンボ』感想・解説
ティム・バートン監督らしさとアニメ『ダンボ』
ティム・バートン監督は、やはりその独特の世界観を有する作風が多くの人を惹きつけて止まないのだと思います。
近年は徐々にその奇抜さは落ち着きつつありましたが、2017年には完全復活を印象づける『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』を公開し、存在感を示しました。
そしてアニメ版の『ダンボ』ですが、大きな耳の象が空を飛ぶほのぼのしたアニメーション映画だと思われている節があります。
例えば、冒頭のサーカスのテントを雨の夜に黒人の労働者を思わせる人たちが組み立てているシーンなんかは幼少期に見た時には、怖かった記憶があります。
かつての保守的なディズニーが、こういった肉体労働者=黒人であるというイメージの下に作り上げたのではないかということがうっすら透けて見えるシーンですが、何とも不気味です。
他にもダンボが、お酒を飲んで、酔っぱらった際に登場するピンクの象の夢は、多くの子供にある種のトラウマを植え付けたのではないかと思います。
アニメ『ダンボ』より引用
こういった具合にアニメ版の『ダンボ』ってかなり狂気染みたビジュアルが散見されるので、それをティム・バートン監督がどう調理してくるのか?という点は1つ注目しておりました。
そして実写『ダンボ』ですが、全年齢対象で、近年のディズニーの傾向的にあまり奇抜なことは出来ないという中でティム・バートン監督らしさをきちんと魅せてくれたという印象です。
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シャボン玉演出での再現でしたが、きちんとオリジナル版のこういう描写にも言及してくれている点には好感が持てました。
他にも後半のジャンボ救出シークエンスの一連のホラー調の演出や、ダンボの可愛らしいというよりも不気味さを感じさせるようなビジュアル面など所々で彼らしい表現が見られました。
ただ前作『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』のぶっ飛び具合を見ていると、ティム・バートン監督はやっぱりその作風を全面に押し出せる作品で勝負してほしいかなという印象はあります。
何はともあれ、次回作にも期待したいと思います。
物語的な巧さとアニメ版からのアップデート
アニメ版の『ダンボ』ってそもそも1940年代にアメリカで公開された作品です。
そうなると必然的に社会状況が全く違うわけですから、大きく物語を改変する必要があります。
というのも先ほども少し書きましたが、『ダンボ』という作品の人種差別に対する言及は、かつての保守的なディズニーのステレオタイプ的な価値観が反映されているので、今の時代にはそぐわないです。
サーカスで働いている労働者をあからさまに黒人として描写してみたり、物語の後半に登場する鳥たちが明らかに黒人を想起させるものだったりしています。
これらの描写は保守的な白人が有する黒人に対するある種の恐怖感や優生思想みたいなものが反映されていて、ポリコレ全盛の現在のハリウッド映画シーンに送り出せば、批判を浴びることでしょう。
他にもラストのダンボが母親と共にサーカスに留まって、スターとして活動を続けるという描写も現代だとかなり物議を醸すものと言えるでしょうか。
『グレイテストショーマン』が公開された時もサーカスや見世物小屋に対する批判的な視点が立ちましたが、やはり「フリークショー」に対しては、差別を生み出したという批判があります。
そうした中で、自分の本当の力に気がついたダンボが、それを「サーカス」の見世物として搾取されるという結末は、明らかに今の時代ではアウトオブデイトです。
こういった具合にかなり時代錯誤な側面が目立つ中で、当然ディズニーはこういった一連の描写や設定を現代版にアップデートし、物語を再構築しています。
例えば、主人公のホルト・ファリアが戦争からの帰還兵でかつ、本作にアジアゾウという生き物が登場する点は、ベトナム戦争の過去を想起させます。
その視点で捉えていくと、彼が尽力し、最後の最後でダンボを故郷へと帰してあげるという選択は、やはり戦争を泥沼化させ、多くの尊い命を喪失させたアメリカの反省が垣間見えるポイントです。
他にもこれも終盤で描かれたメディチ・ファミリー・サーカスの「動物を檻に入れない」というくだりも、やはりアニメ版の『ダンボ』を自省的に捉え、付け加えられた設定ですよね。
オリジナル版で、ダンボたち動物が結局人間にとって都合の良い見世物にしかなっていないという指摘が得られるからこそ、その「解放」を印象付ける必要がありました。
人種差別的な側面から見ると、今作ではサーカスの「フリークス」とされたマイノリティたちがダンボと共に立ち上がり、白人支配層から「自由」を勝ち取るという描き方が印象的です。
オリジナル版でも黒人を想起させる黒い鳥たちがダンボにアドバイスをし、そしてダンボの終盤での覚醒に繋がるという流れがありましたが、その辺りを実写版では現代風にアップデートしています。
またヴィランであるV・A・ヴァンデバーの描き方も「ディズニーの自省的な視点」が垣間見えて、面白いですね。
この当時のディズニーは資金繰りに苦しんでおり、レイオフやストライキなどの問題が絶えませんでした。
そういったディズニーの歴史がV・A・ヴァンデバーに反映されています。
だからこそ本作で彼が没落し、ドリームランドが崩壊するという光景は、ディズニーが過去に起こしてきた問題に対する反省なんですが、ディズニーって皮肉にも最近また同じことを繰り返しているんですよね・・・。
全然反省してないし、むしろ変わってないなという印象しか見受けられないんですが・・・(笑)
そこも含めて自分たちを自嘲的に描いているということなんですかね?
あとは、ミリー・ファリアの描き方に見られる女性の自立や活躍というポイントですね。
彼女が見つめていた「キュリー夫人」は、19世紀末~20世紀初頭にかけて活躍した人物で、放射能研究に取り組みました。
学問の世界という当時まだまだ女性に対する偏見が強かった時代に、それを跳ね返して活躍した彼女の存在に、ミリーという少女の将来像を重ねる描写は明らかに近年のフェミニズムの風潮を反映させたものです。
そして物語的な側面から切り込むとすると、母親ないし妻という重要な存在を失ったファリア一家が、同じく母親を奪われたダンボに共感的になれるという関係性は良かったですよね。
ダンボが母親を取り戻すというところに、自分たちの母親への思いを重ね、それを昇華させていくというプロセスはディズニーらしい「家族モノ」の描き方だったと思います。
このように本作は、60分程度のオリジナル版には無かった要素を大幅に追加しつつも、現代的な主題を多く取り入れ、過去を自省的に顧みつつ、王道の「家族モノ」として『ダンボ』を再構築したんですね。
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ディズニーは何でもレリゴーさせなくて良い
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ただ私の実写『ダンボ』に対する評価は、「2019年ワーストクラス」で動かないと思います。
そもそもオリジナル版の『ダンボ』は、ダンボを初めとする動物たちの視点から描かれています。
動物の視点から描かれたこそ、ダンボが空を飛び、サーカスで活躍し、母親との暮らしを取り戻すというプロセスに「人間のエゴに対抗する動物たちの主体性」がありました。
例え、サーカスという人間の作り出した枠組みに囚われていたとしても、ダンボが母親と共に居られる環境主体的に勝ち取ったわけですからそこに意義はあります。
実写『ダンボ』の終盤で描かれたダンボが母親と共に故郷に帰るという展開が全く持って受け入れられない理由は主に以下の3つです。
- 人間があらゆる点で計画、御膳立てしたことで実現した2匹の「解放」だった。
- そもそも「故郷に帰る」という選択がダンボではなく、人間のエゴになっている。
- 故郷に帰ったとしてダンボに幸せな未来が待っているとは限らない。
まず、1つ目と2つ目については、不快に感じた理由は共通していて、オリジナル版ではダンボの選択として描かれていた部分を全て「人間のエゴ」で実現させてしまったからです。
実写版の『ダンボ』は動物たちが言葉を話さないので、そういった動物主体の作劇が難しいのは分かりますが、それにしても人間発信で、彼らを故郷に帰らせようとするのはダメでしょう。
また、ダンボが母親を救う一連の過程についても、人間がその大半を担っており、人間がダンボという存在を自分たちの作戦に当てはめた形になっているのが手痛いです。
とにかく実写『ダンボ』が失敗しているのは、あらゆる選択や決断を「人間主体」で進めてしまったことだと思います。
そして3つ目についてもオリジナル版を見ている人ならば、あれがダンボにとっての幸せなのかどうかに懐疑的な視点を持つことができるでしょう。
ダンボは故郷に帰れたとしても、その特徴的な「耳」故にコミュニティから疎外される可能性が少なくともありますし、その可能性をオリジナル版で示唆しているんです。
そう考えると、「故郷に帰る=ダンボ親子の幸せ」という方程式は、人間の価値観と動物たちに対する「幸せ」の押しつけでしかないわけですよ。
上記の点が本作が、『ダンボ』の実写版として最悪すぎる理由となります。
ここからは、近年のディズニー映画の風潮について考えてみたいのですが、ディズニーはやはり『アナと雪の女王』以降に顕著なんですが、「解放」を作品のキーワードに据えているんです。
そして特に最近顕著なのが、「与えられた役割からの解放」という主題です。
第1作で「与えられた役割を全うすることの尊さ」を描いた『シュガーラッシュ』シリーズが、第2作でそれをひっくり返して「与えられた役割からの解放」を描いちゃったんですよね・・・。
ディズニーは近年、その主題を描くことに狂気染みたほどに固執していて、あらゆる作品をその主題性に落とし込もうとしている病気にでもかかっているかのようです。
確かに現代は、マイノリティの「解放」が1つ重要な課題になって来ますから、それを作品に取り入れることに意義があるのは分かります。
ただその主題性を作品に盛り込もうとし過ぎるがあまり、「物語」そのものを軽視しているような印象を受けるんですよ。
例えば、『シュガーラッシュオンライン』では、1作目のヴィランであったターボの行為(自分がプログラムされたゲームから他のゲームへと移る行為)を2作目では「解放」の名目でヴァネロペにやらせています。
そして実写『ダンボ』では、人間のエゴと価値観、幸福観に強く依拠する形で、ダンボ親子を「解放」させました。
レリゴーさせたい気持ちは分かりますが、それならばダンボ自身の選択と決断である必要があったのは間違いありません。
そしてもう1つこれも『シュガーラッシュオンライン』で見られたんですが、選択や決断に当然伴うべき視点が欠如している点ですね。
『シュガーラッシュオンライン』では、ゲームキャラクターの「解放」を描きたいという思いが先行しすぎた余りに、それを扱うユーザーの存在を明らかに軽視していました。
一方で実写『ダンボ』では、オリジナル版では動物たちないしダンボ自身に主体性が委ねられていたにもかかわらず、その主導権を人間に握らせるというコンバートを実行しました。
その改変により、半ば強引にダンボ親子をサーカスという「与えられた役割から解放」し、故郷に帰すというラストを実現したわけです。
そんな「与えられた役割からの解放を描きたい病」を発症したディズニーの作品に個人的には、だんだん恐怖に似た感情を感じるようになってきました。
そしてこれは既に多くの人が感じ取っている事だと思いますが、ディズニーがこの主題を『トイストーリー』シリーズに持ち込んでしまう可能性があるということです。
『トイストーリー』シリーズって間違いなく「与えられた役割を全うすることの尊さ」に裏打ちされてきたシリーズですし、そしておもちゃという存在をきちんとユーザーありきで描き続けてきました。
そこにおもちゃの「主体性」を持ち込み、ユーザーの存在が欠如した「与えられた役割からの解放」の物語を描いてしまうのであれば、当ブログ管理人は怒りが抑えきれなくなると思われます。
かつて、ディズニーはあらゆる面で作風が保守的であると言われていました。
しかし、近年は一転して進歩的な主題を作品に盛り込むようになり、その結果エポックメイキングな作品を世に送り出すようになりました。
過去作の実写化、続編ばかりに着手し、主題性も殆どの作品が「解放」でしかないという停滞感をもはや拭いきれなくなっている印象があります。
ディズニーは今一度、原点に立ち返り、意義のある物語を創り出すということよりも、純粋に面白い物語を創り出すというところに立ち返ってほしいと思います。
今のディズニーが作る『トイストーリー4』には正直不安しかないんです・・・。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は実写『ダンボ』についてお話してきました。
ティム・バートン監督が、前作で復活の兆しを見せてくれたので、少し期待感を持って見に行ったのですが、彼らしさはかなり脱臭されてしまっている印象でした。
また、ディズニーの主題性への固執が、『ダンボ』という作品においてはあるまじき物語展開を実現させていて、そこがひたすらに苦痛でした。
今年の夏公開の『トイストーリー4』に向けて、ただただ不安を増長させられる結果となった、実写版『ダンボ』でした。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。