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目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ビューティフルボーイ』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけくださいませ。
良かったら最後までお付き合いください。
『ビューティフルボーイ』
あらすじ
デヴィッドとニックは仲の良い親子であり、良好な関係を築いていた。
しかし、ニックは薬物に依存するようになってしまい、あまり大学にも通わなくなり、実家で過ごすことも増えていた。
そんなある夜、彼は家から忽然と姿を消し、そのまま2日間家に戻らなかった。
デヴィッドは彼が既に自分の意志では、薬物を断ち切れないところまで来ていることを把握し、彼を1か月の更生プログラムに参加させることを決心する。
更生プログラムを経て、薬物から少し距離を置くことに成功したニックはその後も更生施設に留まることを決心する。
そんなある日、更生施設の他の男性から「大学に行かないのは勿体ない」と言われ、彼は自分の将来のためにも大学に戻ることを決心する。
そんな前向きな決心を、父デヴィッドも快く受け入れ、彼は大学へと戻り、寮暮らしを再開する。
当初は、薬物に対する自制心も働いており、再び薬物に頼ることもなく生活を送れていたが、友人の家で鎮痛剤を飲んだことから少しずつ歯止めが効かなくなり、すぐに薬物中毒を再発してしまった。
薬物依存からの脱却とその再発を繰り返し、徐々に蝕まれていく身体と脳。
そしてそれを支えるデヴィッドたち家族も徐々に、ニックを支えることに限界を感じるようになっていた・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:フェリックス・バン・ヒュルーニンゲン
- 製作:ブラッド・ピット&デデ・ガードナー
- 脚本:ルーク・デイビス&フェリックス・バン・ヒュルーニンゲン
- 撮影:ルーベン・インペンス
- 美術:イーサン・トーマン
- 衣装:エマ・ポッター
- 編集:ニコ・ルーネン
本作の監督を務めるのが、ベルギー出身の新鋭フェリックス・バン・ヒュルーニンゲンです。
2012年公開の『オーバー・ザ・ブルースカイ』が第86回アカデミー外国語映画賞にノミネートされるなど注目を集めた映画監督です。
ブルーグラスと呼ばれる音楽を作品に取り入れ、淡々と続く1組の男女の幸福と苦難の物語を描き出し、最後に仄かな希望の香りを残しつつ幕を閉じるという美しい映画でありました。
今回の『ビューティフルボーイ』でもそのストーリーテーリングは一貫していて、それでいて美しい音楽が作品を彩りました。
- ジョン・レノン
- ニール・ヤング
- デヴィッド・ボウイ
- ニルヴァーナ
他にも多くの名曲が作品の中にあしらわれ、非常に美しい仕上がりの映画になっております。
脚本には、当ブログ管理人が2017年のワースト候補として挙げた『LION 25年目のただいま』の脚本を担当したルーク・デイビスがクレジットされています。
個人的にはあのウェットな作りの脚本が苦手ではあったんですが、今回の『ビューティフルボーイ』に関しては一転してドライな作劇を貫いていて、非常に良かったです。
その他にも『RAW 少女のめざめ』でも知られる撮影監督のルーベン・インペンスや、フェリックス・バン・ヒュルーニンゲン監督と前作でも仕事をしたスタッフが多く参加しています。
- スティーブ・カレル:デヴィッド・シェフ
- ティモシー・シャラメ:ニック・シェフ
- モーラ・ティアニー:カレン・バーバー
- エイミー・ライアン:ヴィッキー・シェフ
- ケイトリン・デバー:ローレン
まず本作の主人公ともいえるデヴィッドとニックの親子をそれぞれスティーブ・カレルとティモシー・シャラメが演じています。
前者はもともと『40歳の童貞男』のようなコメディ映画要員としてハリウッドで注目され、近年『フォックスキャッチャー』や『バトルオブセクシーズ』、『バイス』のような社会派作品にも出演するようになりました。
特に2014年公開の『フォックスキャッチャー』ではアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、演技派俳優としての実力を認められました。
一方のティモシー・シャラメは近年急速に評価を高めつつある若手俳優で、2017年公開の『君の名前で僕を呼んで』での演技は特に大絶賛され、ゴールデングローブ賞にもノミネートされました。
グレタ・ガーウィグ監督作である『レディ・バード』では、主人公の少女を弄ぶ、ドクズなキャラクターを演じていて、これがまた最高でして、演じ分けが素晴らしいと思いました。
より詳しい作品情報を知りたい方は公式サイトへどうぞ!!
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『ビューティフルボーイ』感想・解説(ネタバレあり)
ティモシーシャラメがニックを演じたことの意義
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この映画の素晴らしさを語っていくうえで、ニックを演じたティモシー・シャラメの存在を避けて通ることは不可能です。
フィガロジャポン副編集長の森田聖美氏が彼の魅力を次のように評しておられました。
「知的なムードがあるし、ギリシャ彫刻のような美しさ。それにファッションセンスもいい」と魅力を語る一方、「演技では一歩引いて、まるで完ぺきな自分を恥じるかのような純粋さもあり、それが女性の心をつかんでいると思う。ファンの執着心をかきたてる俳優」と人気の理由を分析。
まず知的なムードとギリシア彫刻のような美しさとありますが、これに関しては映画『君の名前で僕を呼んで』で彼が注目されるに至った理由にもつながってきますよね。
彼がもう人間を超越したもはやサイボーグ的なまでの完璧な容姿を有していることが、男女を問わず彼を見ると「美しい」と感じさせられてしまう理由なのでしょう。
ただ、それでいて映画におけるキャラクターを演じる時には、そういう完璧さを見せず、どちらかというと若さや未熟さが際立つ人物像を演じることが多いんですよ。
これは『君の名前で僕を呼んで』においても『レディバード』においてもそうでした。
完璧すぎる容姿を持ち合わせながら、どこか未熟でかつ純粋でつけいる隙があるように感じさせるというギャップが、まさに「ファンの執着心を掻き立てる」狂気的な魅力につながっているのでしょう。
では、そんな観客からの視線と愛を一手に引き受けてしまう宿命を背負ったティモシーシャラメが薬物依存のニックという青年を演じるとどうなると思いますか?
そうなんです。
観客の心理としては、どんなに薬物依存で落ちぶれていったとしてもティモシーシャラメであれば彼のことを救いたい!!とそう思わされてしまうんです。
確かに観客が「救いたい」と最初から最後まで思わされてしまうのであれば、それは劇中のキャラクター(とりわけ父のデヴィッド)に対する共感性が生まれなかったこととなり映画的には失敗です。
ただこの『ビューティフルボーイ』はとにかく「薬物依存→更生の兆候→再発」のループを延々と繰り返すんですよ。
観客がこのままハッピーエンドを迎えるだろうと予期した矢先に、主人公のニックは再び薬物に侵されていき、それが何度も何度も映画の中で繰り返されるのです。
そうなると観客の心理としてはどうなるのかというと、ここまで裏切られてしまうと、いくらティモシーシャラメであっても、もう限界だ・・・というある種の「諦念」を感じさせられるようになります。
それが劇中で父デヴィッドが感じていたニックに対して感じるようになる「諦念」とリンクすることは言うまでもありません。
ティモシーシャラメは全人類に「彼は自分の息子だ」と感じさせてしまうだけの愛嬌と支えてあげたくなるような未熟さを有しています。
しかし、そんな彼であっても、観客が「もう支えられないよ・・・。」という諦めの境地に達するまで、ひたすらにニックは裏切り続けます。
父のデヴィッドですら、自分の愛する息子のことを諦めようとする中で、その思いが痛いほどに分かってしまう観客の我々。
ただ、『ビューティフルボーイ』という作品はそこで終わることはありません。
父親のデヴィッドは、薬物依存者を支える親の会にも参加し、改めて自分の息子と向き合おうと努力します。
そして映画の最後にはニックが家族と支援者の支えもあり、その後8年間薬物から遠ざかっているという驚くべき事実が明かされます。
それはまさに彼を支える人が、諦めずに向き合い続けたことの成果です。
この事実に驚きを素直に感じることができるのも、我々が一度は愛着を持っていた人間に対して「諦念」を感じた経験をしたからなんです。
『ビューティフルボーイ』において父デヴィッドが息子に感じている愛着と、そして後に感じることとなる「諦念」を観客と共有することは、本作のメッセージを引き立たせる上で非常に重要でした。
そしてそれを俳優自身が持っている魅力と雰囲気で実現させることができたのがティモシーシャラメだったというわけです。
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ラストに流れる「Let It Enfold You」に込められた意味
本作『ビューティフルボーイ』においてそのラストシーンではアメリカの作家・詩人であるチャールズ・ブコウスキーによる「Let It Enfold You」という詩が朗読されます。
まず作家のチャールズ・ブコウスキー自身は破天荒な生き方をしていた自分として知られ、世の中への強い反発を込めた詩を余に多く送り出していました。
こういう詩人だったがゆえに、主人公のニックは今自分が置かれている境遇を重ね合わせ、彼に惹かれていったのでしょう。
そして今回用いられた「Let It Enfold You」という詩は、彼の詩の中でも比較的ポジティブで、前向きな内容になっていると言われています。
まず、前半のパートでは、彼の暗い人生やそれを紛らわせるためにお酒で現実逃避を図っていたころの気持ちが込められているように思えます。
現実と非現実の境界が曖昧になり、現実の何もかもが嫌になり、自分を排除しようとしているようにすら感じられ、精神が錯乱している状態がその詩にも表れています。
peace and happiness to me
were signs of
inferiority,
tenants of the weak
and
addled
mind.チャールズ・ブコウスキー「Let It Enfold You」より引用
この一説では、「平穏や幸福は下等なものの象徴である」とまで書いていて、まさに破壊や退廃に惹かれていく、チャールズ・ブコウスキーないし、『ビューティフルボーイ』におけるニックの心情が繋がります。
しかし、この詩は途中からその色合いが変わり始めます。
I began to see things:
coffee cups lined up
behind a counter in a
cafe.
or a dog walking along
a sidewalk.チャールズ・ブコウスキー「Let It Enfold You」より引用
詩の中盤のこの一節になると、「カフェのカウンターの背後に並べられたコーヒーカップが見えてきた」などと記述されており、筆者が徐々に現実世界の輪郭を認識できるようになっていることが仄めかされています。
つまり、飲酒で現実と非現実の区別もつかないほどになっていたチャールズ・ブコウスキーないし、『ビューティフルボーイ』で薬物依存になっていたニックが幻覚の世界から脱しようとしている様が見て取れます。
そしてその後上司に自分が解雇されるという下りが登場しています。
He must do what he
must do, he has a
wife, a house, children,
expenses, most probably
a girlfriend.I am sorry for him
he is caught.チャールズ・ブコウスキー「Let It Enfold You」より引用
若い時は、自分が見捨てられたりしてしまうと、それは社会のせいであり、自分のせいではないのだと自分を美化ないし正当化してしまうことがあります。
特に、そういう現実世界を下に見て、薬物を摂取することで自分はそんなスーツを着た上司たちよりも高次の世界へと向かうのだと錯覚している若者もいるでしょう。
しかし、君が向き合わなければならないのは、どこまでも現実なのであり、その現実において君を見放し、見捨てようとしたその上司は当然の行動を下までなのだと、ようやくチャールズ・ブコウスキーはここで認め、そした謝罪しているんです。
その後、この一節で彼はこれまで下等のものとして卑下してきた平穏や幸福を受け入れる姿勢を見せています。
I welcomed shots of
peace, tattered shards of
happiness.チャールズ・ブコウスキー「Let It Enfold You」より引用
ただ、完全に立ち直ったわけではなく、その後の一節にて、次のように記述されているところを見れば、彼が今後も破壊的な衝動へ引き寄せられることを懸念していることは読み取れます。
The knife got near my
throat again,
I almost turned on the
gas again
but when the good
moments arrived
again
I didn’t fight them off
like an alley
adversary.チャールズ・ブコウスキー「Let It Enfold You」より引用
「ナイフが再び自分の喉元へと近づいてくるかもしれない」という表現は、つまり再び自殺衝動に駆られることの直喩的な表現でしょう。
ただ、そうなったとしてもいつか「良い瞬間」が訪れると信じられるし、だからこそ自分はもう「幸せや平穏」を敵とみなして、退けたりはしないよと語っていますよね。
そして、劇中でも登場した「妻の頭の形」についての記述ですよね。
これはまさに彼がたどり着いた、現実を調和を図るための「愛のカタチ」のメタファーでもあると思います。
つまり再び破壊的衝動に駆られ、現実から逃避してしまいそうになる自分を繋ぎ止めてくれるものなのです。
そんな妻の額にキスをすることで、自分は何とか今日も現実を生き抜いていくことができるんだという希望でもって、このチャールズ・ブコウスキーの詩は締めくくられているように感じます。
こう解釈してみると、『ビューティフルボーイ』という作品が「Let It Enfold You」という詩にリンクする部分は大きいと感じることができたのではないでしょうか?
本作におけるニックもまた、チャールズ・ブコウスキーの思想や作品に傾倒し、薬物によるトリップ感で「つまらない現実」から逃避しようとしていた人間の1人です。
しかし、彼はこの詩の中で描かれた物語のように、最後には現実に戻ってくることができ、家族や支援者の力を借りながら現実を生きていくことができるようになりました。
そして、ニックが物語の果てにたどり着いた愛の形というのが作中で幾度となく出てきた「ハグ」だったのだと思います。
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ニックにとっての「ハグ」は、チャールズ・ブコウスキーにとっての「妻の頭の形」であり「額にキスをするという行為」と同質のものです。
きっと若い頃は平穏や幸福といったものを卑下し、不安定で破壊的な衝動に魅力を感じてしまうものなのでしょう。アメリカの薬物の使用状況を鑑みると、その傾向は顕著なのでしょうね。
そしてその非現実に囚われて、現実に戻ってこられなく人もたくさんいます。またそういう人を多くの他人は見捨ててしまいます。
それでも諦めずに、その人を愛し、見守ってくれる人がいれば、その存在が「現実につなぎとめてくれるキー」になるのかもしれません。
今作の伝えたかったメッセージは、まさにエンドロールにおける1つの詩に集約されていたようにすら感じられました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ビューティフルボーイ』についてお話してきました。
映画的に傑出しているというわけではないのですが、淡々とした作劇で、薬物依存からの脱却を安い感動ポルノにしないような配慮が随所に感じられた点には好感が持てます。
それでも物語の最後には、未来への仄かな希望を匂わせつつ、薬物中毒で亡くなる人が多いアメリカ社会への1つのメッセージを残しました。
加えて、ティモシーシャラメという役者の存在がこの作品にとって大きなものであったことは言うまでもありません。
ぜひぜひ劇場で鑑賞して、その魅力に浸ってほしいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
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