みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『愛がなんだ』についてお話していこうと思います。
小規模上映作品ながら、興行収入4億円に迫る大ヒットを記録し、今泉力哉監督の代表作とも言われています。
片想い映画でありながら、「愛」とは何か?を追い求めるような本作は、何と言うか過去の恋愛によってできたかさぶたを剥がされるような痛みを伴う作品になっており、見ているとかなりダメージを受ける方も多いでしょう(笑)
しかし、それでも希望に満ちた、ポジティブな選択や決断が描かれる映画であり、見終わると不思議な肯定感に満たされる物語でもあります。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『愛がなんだ』
あらすじ
28歳のOLである山田テルコは、5ヶ月前にマモちゃん(マモル)に出会ってからというもの、世界が一変してしまった。
仕事中であっても彼からの電話に平気で出ては、勝手に早退し、彼に会いに行く。
真夜中に呼び出しがかかると、時には朝まで一緒に過ごし、そして会社には平気で遅刻した。
友人や同僚からの誘いや約束の大半を反故にし、職場でも煙たがれる存在になっていった。
しかし、それも全てマモちゃんのためであり、彼女にとっては彼以外のことはどうでも良かったのだ。
彼と出会ったその日に意気投合し、その後何度か飲みに行った後に彼の家で身体を重ねた。
その後も、定期的会っては飲み明かし、彼の布団で眠った。
しかし山田テルコは、未だにマモちゃんと恋人関係ではない。
今日も彼女は病気の彼のために買い出しを頼まれ、家を訪れたが、終電もなくなった頃に家を追い出され、トボトボと徒歩で帰途につく。
それでも彼のことが好きだから、やめられない、少しも苦に思わない。
イタイと突き放したいのに、どこか人ごとに思えない、全ての恋する人に贈る不思議なラブストーリー。
スタッフ・キャスト
- 監督:今泉力哉
- 原作:角田光代
- 脚本:澤井香織&今泉力哉
- 撮影:岩永洋
- 照明:加藤大輝
- 編集:佐藤崇
- 音楽:ゲイリー芦屋
- 主題歌:Homecomings
本作の監督を務めるのが、『知らない、ふたり』や『パンとバスと2度目のハツコイ』で知られる今泉力哉さんですね。
これまでの作品もラブストーリーが多めですが、とりわけ男女の微妙な距離感を映像化するのに長けた映画監督で、それ故に今回の『愛がなんだ』にも注目が集まります。
そして本作の原作を著したのが角田光代さんですね。
『八日目の蝉』や『紙の月』といった作品が10年代に入ると映画化されています。ちなみに今回の『愛がなんだ』はとりわけ彼女の初期の作品に分類される1作です。
エッセイストとしても有名な彼女の作品は、女性の繊細で、独特な感情を見事に言語化しており、多くの人の共感を集めています。
脚本を担当した澤井香織さんは、リリーフランキーさん主演の『シェルコレクター』などでも脚本を担当していたことでも知られていますね。
主題歌はHomecomingsの『Cakes』となっています。
昨年アニメ映画『リズと青い鳥』の主題歌を務めたことでも知られるHomecomingsが主題歌ということで、非常に楽しみです。
- 岸井ゆきの:山田テルコ
- 成田凌:田中マモル
- 深川麻衣:葉子
- 若葉竜也:ナカムラ
主演を務める岸井ゆきのさんは、インディペンデント系の映画で出演経験を積み、近年頭角を現してきた女優ですよね。
当ブログ管理人が特にお勧めしたいのが、『友だちのパパが好き』と『おじいちゃん、死んじゃったって』の2本ですね。
どちらもかなり癖の強いキャラクターを演じていますが、『おじいちゃん、死んじゃったって』の歯に衣着せぬ口ぶりや濡れ場が素晴らしかったので、特にお気に入りです。
そしてテルコと微妙な関係性を築くマモルを演じるのが成田凌さんですね。
その風貌のせいかいわゆる「悪い男」の役が似合う俳優で、また昨年は『スマホを落としただけなのに』で衝撃的な怪演を披露し、俳優として一皮むけた印象を与えてくれました。
他にも『パンとバスと2度目のハツコイ』で今泉監督とタッグを組んだ深川麻衣さんも参加しています。
『愛がなんだ』感想・解説(ネタバレあり)
他人事なのに他人事に思えない切実さ
この『愛がなんだ』という作品に登場するテルコとそしてナカムラという男性キャラクターは、好意を寄せる相手がいつか振り向いてくれると信じ、友達以上恋人未満の微妙な距離感に甘んじています。
また、テルコに至ってはマモちゃんに尽くしすぎるがあまり、自分の生活が崩壊していき、仕事も辞める羽目になっています。
しかし、どうしても読み進めていくうちにそんなイタイ「テルコ」の一連の行動がどうも他人事のようには思えなくなってきて、自分の心にちくりと棘を突き立て始めます。
自分のこれまでの人生とそして恋愛遍歴を思い出してみると、彼女とそしてナカムラが陥っている状況に、そして彼らのとってしまう行動にどことなく共感してしまうんですね。
- 好きな女の子が大切にしているペンが壊れたと言っている時に、修理してあげると言い、家に持ち帰り、新品を購入して修理したと言って返したこと。
- 好きな女の子が学校から帰る時間、通る道を予想して、話しかけるわけでもなく視界に入るように下校したこと。
- 相手が受信拒否設定をしているのに、それに気がつかず、楽観視してメールを送り続けてしまったこと。
今となってはこんなこともしませんし、昔はこんなイタイことやってたよな・・・と笑えるようになったわけではありますが、『愛がなんだ』という作品にはこういう古傷のかさぶたをベリベリと剥がしてくるような生々しさがあります。
ただ本気で人を好きなるって、結局そういうことだと思いますし、「恋は盲目」という言葉もありますが、人は恋をすると「イタイ行動」を取ってしまうことがあるんです。
というよりもそれほどに切実だし、そこまでしてでも自分の思いを成就させたいと思ってしまうんですよ。
だからこそ『愛がなんだ』という作品は、冒頭部分ではテルコの行動を「イタイ」と見下し、嘲笑できていた自分も、中盤に差し掛かると、もはや笑みは消え、苦虫を噛み潰したような表情で、自分の古傷を抉られながら読む羽目になりました。
微妙で、不思議な感情を描いているのに、どこか共感を覚えてしまうような奇妙な普選性を帯びたラブストーリーです。
テルコとマモル、そしてすみれの関係性の妙
今作の後半の物語を動かしていく主軸となるのが、テルコとマモル、そしてすみれという女性の3人の関係性です。
まず、前半部分ではひたすらにテルコがマモちゃんに猪突猛進的になりふり構わずアタックしている印象がありましたよね。
その一方で後半部分では、マモちゃんにも「本気で好きな女性=すみれ」ができて、猛アタックするようになります。
つまるところ、前半部分ではテルコが好きな人のために「都合の良い人間」になってしまう点と、彼女をそうさせてしまうマモちゃんというコントラストを描いた上で、敢えて後半では、その関係性をひっくり返しているんです。
よって今度は、すみれのために何でも尽くしすぎてしまうマモちゃんの姿が少し滑稽に描かれていくこととなるわけです。
一方で、すみれは彼の好意を特に意に介する様子もなく、テルコとの交友関係を発展させようとしてきますよね。
サバサバしていて、男っ気の強いすみれは一見するとテルコとは正反対の気質の人間です。
しかし、彼女もまた過去に男性との関係に悩んでいて、そして自分に対してちやほやしてくれなくなった彼との別れを選んでいます。
2人の恋愛に対する価値観やアプローチは確かに真逆です。
ただ、テルコは懸命に相手に尽くすことで自分の感情を「愛」確認したいのであり、一方ですみれは相手が自分に懸命に尽くし続けてくれることに「愛」を見出したいわけで、この2人の求めているものは同じなんです。
人はいつだって他人の中に「自分」を見つけようとする生き物なのかもしれません。
文学者のヘルマン・ヘッセがこんな言葉を残したと言われています。
『我々がある人間を憎む場合、我々はただ彼の姿を借りて、我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。自分自身の中にないものなんか、我々を興奮させはしないものだ。』
例えば、自分が相手に対して優越感を感じ、相手を見下すような態度を取っている時、それは自分の中にその劣等感に対するコンプレックスが少なからず備わっているからなんですよ。
写真家の牛腸茂雄は、幼少の頃に胸椎カリエスという病気を患い、その後遺症で背中が曲がってしまいました。
彼は、被写体の人間がカメラの方に向き合っている正対の写真ばかりが収められた『SELF AND OTHER』という写真集を発表しました。
一体この写真たちが何を意図していたのかというと、牛腸は被写体が自分を見つめる視線の中に「自己」を見出し、それを写真に収めようとしたんです。
彼は背中が曲がっているという他人とは違う特徴的な外見を持っていました。
それ故に他人が自分に向ける「視線」というものに人一倍敏感でした。
他の人に向けられているものとは明らかに違う「視線」が自分には注がれていると常に感じ取っていたのです。
彼はその「視線」にこそ人と人との関係性が現れるのではないかという考え、そしてそれを写真に撮ろうとしたわけです。
少し話がそれましたが、『愛がなんだ』という作品における登場人物たちは、誰しもが他人を求めています。
それが何のためなのかというと、自分という存在の輪郭を確かにするためなんですよ。
この人が私に近づくのも、マモちゃんとのあいだに私を介在させようとするのも、結局、自分というものの輪郭を自覚したいからなんじゃないか。
(角田光代『愛がなんだ』より引用)
マモちゃんは、確かに誰かを愛したいという感情を心の底に秘めていました。
しかし、それを表に出すことができず、テルコが自分に向けてくれるまなざしの中に、自分のために尽くしてくれる一連の行動の中に、確かに自分自身を見ていたはずなんです。
それは物語の後半に、彼が序盤のテルコさながらに、すみれにアプローチをかける様子からも見て取れます。
一方で、すみれもまたテルコという人間を表面的には自分とは正反対の人間であるととらえながらも、その奥底に「愛を欲している自分自身」を見ているんです。
『愛がなんだ』という作品が描き出す、人間模様が何とも興味深いのはこういうロジックなんだと私は考えています。
人は、他人を見下しながら自分を卑下し、他人に無関心を装いながら眺望しているといった具合に何とも複雑で、厄介な生き物なんですね。
人は「愛」のサンプルに自分の感情を当てはめたがる
(C)2019「愛がなんだ」製作委員会
本作の著者である角田 光代さんが以前に『対岸の彼女』という自身作品について書評を書いていたことがあるんですが、その中で非常に興味深いことを書いていました。
同世代の女性であるならば、仕事をしていて、結婚していないと朗らかに答える女は、したいのにできないのではなく、結婚のほかに興味があるのだと、即座に理解するはずだと私はどこかで思っていたのである。しかし彼女は、「したくないからしていないのです」という私の答えもさらに理解できなかったようで、「何か問題のある家庭に育ったのですか、結婚したくなくなるような」と、重ねて訊いた。なんでこんなおかしな人と話をしなくちゃならないんだろう、と泣きたくなったが、よくよく考えてみれば、このインタビュアーはどこかおかしいのではなく、ただ、「区分け」をしたかったんだろうと思い至った。
(角田 光代「なぜ女は女を区分けしたがるのか」より引用)
これすごく深い言葉だと思うんですよ。
ここで語られているお話は、女性が結婚をする・しないではなく、結婚できる・できないという「区分け」をして、未婚女性を既婚女性よりも劣った存在であると位置づけるようなことですよね。
なぜ人は、こういう「区分け」をするのかというと、それは「安心感」を欲しているからなんだと思います。
「結婚しない」という選択をすることそのものが考えられない先のインタビューアーは、まさしく角田さんを「結婚できない女性」というカテゴリに分類することで、安心感を得たかったんです。
映画、小説、漫画、その他さまざまなメディアで「愛」という主題が描かれ、そしてサンプル化されてきました。
つまりこの世の中には、無数に「愛」のサンプルが存在しています。
それが故に、人はいつだって自分の恋愛をそういった世界にあふれている「愛」のサンプルに当てはめることで、自分が今まさに感じている感情が愛なのだと「区分け」しようとしているんですよ。
逆に言うと、そういったサンプルに当てはまらない、当てはめることができない関係性を築いている他人を、それは「愛ではない」と同じく「区分け」し、安心感を得ているんです。
本作『愛がなんだ』におけるテルコと葉子の関係ってまさにそうなんですよ。
テルコは葉子のナカハラくんを半ば「生殺し」的な扱いをしていたり、彼女が男性運転手として扱っていたりすることに嫌悪感を示していて、それらの一連の行動を指して「失礼」だの「図々しいだの」と評しています。
ただ、テルコは葉子の異性との関わり方を否定し、そこに「愛」はないのだと「区分け」することで、自分のマモちゃんへの一連の行動や感情を「愛」であると定義し、安心したかったのだと思います。
一方で、葉子もまた自分以外の人間の異性との関わり方を否定的に「区分け」することで、自分がそんな「愛」に溺れる人間ではないと確認し、安心感を得ているんよ。
彼女は自分の母親と父親の関係性を「旅館の女将と客」であると評し、嫌悪感を示していますし、またテルコのマモちゃんに対する行動にも呆れているような印象を受けました。
物語の中盤に登場した山中吉乃というテルコの友人もそうですよね。
テルコがひたすらにマモちゃんに尽くし続ける様子を聞いて、それを見下したように「都合の良い女」になっているだけであると評し、世間の男が女より偉いと思い込む原因を作っているとまで言い放ちました。
角田さんは先ほどのインタビューの後半に、こういった女性の「区分け」をしたがる傾向について以下のように結論づけています。
ひょっとしたら区分け好きの女性がしたいのは、優劣をつけることではなくて自分を肯定することなのではないか。一昔前に比べたら、女性の立ち位置は本当に千差万別である。結婚という形態をとらないまま子を産む人もいるし、三十代で三度の離婚経験を持つ人だっている。それほど多様化した女性の生きかたを見ていると、自分のやっていることは本当に正しいのか、つまらない間違いを犯していないかと、どんどん不安になる。不安から逃れるために区分けをし、自分をランクで理解しようとする。女が女を区分けするのはそういうわけではないのか。
(角田 光代「なぜ女は女を区分けしたがるのか」より引用)
この書評を彼女が書いたのが、2004年ですから2003年に『愛がなんだ』を出版したことを考えても、当時の彼女の思想に直結している部分は少なからずあるでしょう。
そしてこの物語は、テルコが自分だけの愛の在り方を見出すところに着地していきます。
この世の中にどれほど「愛」のサンプルがあったとしても、自分が今まさに経験しているのは、きっとこの世界で初めての感情で、あなたが相手と築くのはいっだってこの世界で初めての関係性です。
いくらラブストーリーが「これが愛だ」と叫んだところで、そんなサンプルを自分に当てはめて、自分の感情に答えを出そうとする必要は決してありません。
そうして、私とマモちゃんの関係は言葉にならない。私はただ、マモちゃんの平穏を祈りながら、しかしずっとそばにはりついていたいのだ。賢く忠実な犬みたいに。そうして私は犬にもなり得ないのだから、だったらどこにもサンプルのない関係を私が作っていくしかない。
(角田光代『愛がなんだ』より引用)
自分の感情を「愛」のサンプルに当てはめて、他人を見下し、安心感を得ようとする姿勢に、この作品は警鐘を鳴らしているのです。
とは言っても2019年の世の中は、まだまだ不寛容さは残りつつも2003年の世界と比べて圧倒的に愛の多様性が認められつつあります。
だからこそ『愛がなんだ』という作品を2019年の今、映画として公開するのは、何というかようやく時代が作品に追いついたという感触もあるのやもしれません。
自分の感情に自信が持てないときは「愛がなんだ!」と嘯いてしまえば良いのです。
ラストシーンの象に込められた意味とは?
さて、多くの人が気になるのが本作のラストシーンの「テルコが象の飼育員になる」という突然の展開だと思います。
この動画の中でも触れていますが、監督の今泉力哉さんは、このラストシーンについて「群盲、象を評す」を可視化したものだと語っています。
この「群盲、像を評す」寓話は「多くの盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言っても、その全体を理解することはできない」という、ある種の教訓のような意味になっています。
つまり、ここで言うところの「象」がまさしく本作においては「愛」のことなのだと思います。
「愛」というものを知った気になって、自分の見解から意見を言ったとしても、それが本質を突くことはないと読み換えられるでしょうか。
もっと噛み砕くと「愛に正解はない」ということです。
テルコは当初から「田中守の恋人」になることに固執している節がありました。
動物園で、マモちゃんが「33歳になったら仕事を辞めて、象の飼育員になりたい。」と言った時に、彼女がイメージしたのは、そんな彼と結婚して一緒に生活をする自分の姿でしたよね。
つまり、テルコはこの世界に数多ある恋愛のサンプルに自分とマモちゃんの関係を当てはめることで、自らの幸せを想像しているわけです。ここでは「恋人になること」そして「結婚すること」でしょうか。
しかし、テルコは物語を経て、その考えが大きく変化します。
そして、クライマックスでのインサートされたモノローグで彼女はこう言っています。
「なぜだろう。私は未だに田中守ではない。」
当初「田中守の恋人」になることを切望していたテルコがの考えが徐々に変化していき、そしてラストでは「田中守」そのものになることを望んでいるのです。
この言葉は今泉監督が土壇場で映画に採用したセリフらしいのですが、テルコが「恋」や「愛」ではない、自分のマモちゃんへの思いの落としどころを見つけたことを表していると言えますね。
つまり原作の言葉を借りると、愛の「どこにもないサンプル」を違った形で可視化したのが、今泉監督の撮ったテルコが象の飼育員になる映像なのでしょう。
テルコの当初の思いは、象の飼育員として働くマモちゃんを支える恋人ないし妻になりたいというものでした。
しかし、彼女が選んだのは、彼がなりたかった象の飼育員に自らがなることでマモちゃんとの繋がりを保つことだったのです。
このテルコの感情が「恋」なのか「愛」なのか。そんなことはどうでもいいのだと思います。
世の中に無数に存在する「愛」のサンプル。
そのどれにも自分の感情や行動が「区分け」できないかもしれません。
それでも、自分を肯定する力強さを示したのが『愛がなんだ』という作品なのであり、その象徴があのラストシーンなのです。
やっぱりナカハラくんに感情移入してしまう
(C)2019「愛がなんだ」製作委員会
『愛がなんだ』の中で、とりわけ多くの人の共感を集めるのは、おそらくナカハラくんでしょう。
ただ多くの人が表象的に共感的に見てしまう割に、実は彼の本当の想いに共感的になっていないのではないかとも思うんです。
「ナカハラくん、直接会って話を聞いてもよくわかんないままだけど、じゃあ本当に、ナカハラくんは葉子を好きでいるのをやめるわけ?」
言いながら、へんな言いまわしだ、と思った。好きでいるのをやめるなんて。
(角田光代『愛がなんだ』より引用)
「好きでいるのをやめる=好きでいるのを諦める」ではないんだということを把握しておかないと、テルコのように「よくわかんないまま」彼に自分の失恋の経験を投影して共感しているという状態になってしまうんだと思います。
これ小説だと、ナカハラくんの真意をテルコが推察する形で叙述されているんですが、映画ではその辺りのバイアスが取れて純粋に映像といて見るので、余計に純度が高いです。
ただ、小説のその後のこの一節は極めて言い当て妙だと思います。
帰る家を見失いいっしょに彷徨っていると思ったもう一匹は、自ら場所をさだめてそこに去ってしまった。
(角田光代『愛がなんだ』より引用)
「好きでいることを諦める」というのは、あくまでもネガティブな感情が先行していて、どちらかと言うと受け身的な選択なんですよ。
ただ、上記で引用した一節から考えても、ナカハラくんがとった行動というのは、そうではないんです。
「好きでいることをやめる」というのは、どちらかというと、ポジティブで前向きで、主体的な決断なんですよ。
ただどう考えて後者のほうが辛い決断です。
なぜなら「好きでいることを諦める」という状態は、自分が相手と交際できる状態になることが万が一にもあり得ないという確信に至るからこそ、状況に迫られてする選択でしかないからです。
ナカハラくんは、そうではありません。
彼は、相手がまだ自分に振り向いてくれる可能性も残っていて、自分を集まりや家に招いてくれる状態にありながら、自分の意思でその状況から離れる決断をしているんです。
そんな彼の「幸せになりたいっすね。」という心からのつぶやきに、言いも知れぬ涙が止まらなくなってしまうのでした。
彼は自分が幸せになるために、自らの意思で帰る場所を見定めたんですね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『愛がなんだ』という作品についてお話してきました。
自分とは全然違う人物像が描かれていると思いながら読み進めると、どこかのタイミングで急に親近感を覚え始めたり、共感を覚えたりするという本当に不思議な引力がある作品だと思います。
この作品は、本当に一人でも多くの方に鑑賞してほしいですし、一人でも多くの方にこの「笑えて笑えない恋愛の切実さ」を感じてほしいと思っています。
当ブログ管理人のように過去の恋愛の古傷を抉られる人も続出やもしれません。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
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