(C)2019 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『シャザム』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『シャザム』
あらすじ
ビリー・バットソンは幼少期に遊園地で母親とはぐれてしまい、そのまま孤児になってしまった。
彼は成長してからもずっと母親のことを想い続けており、警察の捜査情報などにアクセスしては「バットソン」姓の女性を探していた。
養子として里親に貰われることもしばしばでしたが、母親を探して家出を繰り返していたため、貰われて、離縁されてを繰り返していたのだった。
そして新たに養子に迎えてくれた家で彼は5人の養子たちと共に暮らすこととなる。
そのうちの1人がフレディ・フリーマンという青年で、大のヒーロー好きだった。
しかし、彼はヒーローオタクすぎることと、学校でも少し変わった言動を繰り返していることから嫌われていた。
ある日、彼が年上の青年たちに暴行を受けているところを目撃したビリーは、咄嗟に助けに入る。
反撃されそうになり、その場から逃げ出したビリーは地下鉄に乗り込む。すると突然地下鉄が彼を異空間へと連れて行ってしまう。
そこには「シャザム」を名乗る老人魔術師がおり、心が純粋な勇者の到来を待っていたのだと言う。
老人の杖を握り、そして「シャザム」と彼の名を叫ぶと、突然落雷し、彼はスーパーパワーを身に着けていた。
時は遡り、ビリーが「シャザム」の力を得る前に、ドクターシヴァナという男が「シャザム」の前に現れ、彼が封印していた「7つの大罪」と呼ばれる悪魔を世界に解き放ってしまった。
ビリーは「ヒーロー」として世界を救うことができるのか?
スタッフ・キャスト
- 監督:デビッド・F・サンドバーグ
- 脚本:ヘンリー・ゲイデン
- 撮影:マキシム・アレクサンドル
- 美術:ジェニファー・スペンス
- 衣装:リア・バトラー
- 編集:ミシェル・オーラー
まず、監督を務めたのが映画『ライトオフ』のデビッド・F・サンドバーグでした。
このホラー映画は劇場で鑑賞したんですが、ブラックライトの使い方が斬新で非常に驚かされましたし、純粋に恐怖を感じたホラー映画でした。
今回の『シャザム』を見ていても、そういったホラー映画的なドッキリギミックが効いているシーンが散見されて、監督の味が出ているように思えましたね。
脚本を担当したのが、ヘンリー・ゲイデンですね。
彼が脚本を著したのが『EARTH TO ECHO アース・トゥ・エコー』という作品なんですが、これが意外と面白いのでおすすめです。
この映画は全編一人称視点で撮影されているのですが、物語も『スタンドバイミー』のようなジュブナイル感があって、非常に楽しめます。
少年映画のタッチと映画を鑑賞する側の存在を意識した物語構造は、この作品と共通しているように思えます。
撮影を担当したマキシム・アレクサンドルは、『ルイの9番目の人生』やアナベルシリーズでも撮影監督を務めていて、不気味でホラータッチの映像を撮るのに長けた人物だと思います。
『ルイの9番目の人生』は劇場で鑑賞しましたが、割と何でもないようなシーンなのに、見る側が不安に感じるようなアングルや画作りが徹底されていて、面白かったです。
- ザカリー・リーバイ:シャザム
- アッシャー・エンジェル:ビリー・バットソン
- マーク・ストロング:ドクター・シヴァナ
- ジャック・ディラン・グレイザー:フレディ・フリーマン
『マイティソー』シリーズのファンドラル役でも知られるザカリー・リーバイが主演を務めています。
「シャザム」という見た目は立派な大人でありながら、その内面に未熟な子供の精神を秘めたキャラクターを全力で演じていたのが、良かったですね。
また、ヴィランであるドクター・シヴァナをマーク・ストロングが演じています。
やはり最近だと『キングスマン』シリーズのマーリンが印象的だったので、今回悪役側に回っているのは複雑な気分ではありましたが、流石の演技だったと思います。
他にも若手俳優であるアッシャー・エンジェルやジャック・ディラン・グレイザーらも出演しています。
とりわけジャック・ディラン・グレイザーは『IT それが見えたら終わり』などにも出演しており、注目が高まっています。
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『シャザム』感想・解説・考察(ネタバレあり)
親なき孤児の物語として
今作『シャザム』についてお話していく上で避けては通れないのが、メインキャラクターたちが「孤児」であるというポイントでしょう。
アメリカという国は、しばしば国そのものが、イギリス(ないしヨーロッパ)を父と見立て、そこから自ら離れた「孤児」的国家であるという見方がとりわけ文学の世界では、為されてきました。
それ故にアメリカには「孤児文学」とも呼ばれる孤児を主人公に据えた作品が比較的多く作られているのです。
アメリカで「history」という言葉がしばしばネガティブなニュアンスで用いられるという話もありますが、これはアメリカはヨーロッパから切り離されたフロンティアであり、文化的な背景や歴史的な背景が浅かったことに起因するとも言われています。
こういう文化、歴史的な背景がありつつ、「トム・ソーヤーの冒険」や「小公子」、「あしながおじさん」のような孤児文学が作られてきたということになることが分かります。
それ故に、アメリカの作るフィクションの中でキャラクターに「孤児」という設定が付与されることには重要な意味があると考えられるわけですね。
現代アメリカにおいて、孤児はやはりまだまだ多くて、こういう子供たちは養子として育てられたり、里親の下で育てられるようになっていて、とりわけこれに関連した制度がきちんと整備されています。
また面白いのが、アメリカは19世紀半ばごろから子供の無垢さや純粋さを重要視するようになり、それらの重要性を啓蒙するために文学を活用するようになったと言われています。
そしてそういった児童文学の主人公にしばしば「孤児」が据えられました。
こういった経緯があったことで、とりわけ「孤児=純粋で無垢」といったイメージが涵養されていった可能性は十分に指摘できます。
冒頭にビリーがやって来た一家で最年長の姉が大学との電話面接で自分が「孤児である」ことをアピールに使っているような節がありましたよね。
このシーンもアメリカにおける「孤児」に対するイメージが見て取れるシーンなのかな?とも思いました。その結果として彼女は大学に合格しましたしね。
さらに言うと、あの家にいた孤児6人って本当に様々な人種から構成されていましたよね。また、足に障がいを抱えているフレディのような少年もいました。
その点で今作『シャザム』におけるシャザムファミリーの存在って、もはやアメリカそのものを体現しているかのようだと思いました。
アメリカは先ほども書いたように「孤児国家」であったという歴史的背景を持ち、それでいて多様な人種を抱え、家族の枠を超えて子供を育てるというシステムが根付いている国だからです。
一方で、ドクター・シヴァナの家族って確かに血は繋がっていますが、家族らしい交流もなく、彼は人並みの「親子愛」を受けずに育ってしまいました。
その点で、ビリーとドクター・シヴァナはすごく似たようなキャラクターとして描かれています。
同じように親からの愛を受けずに育ってきた人物であり、実の親からは実質的には見捨てられてしまった存在同士でお互いに共感できる部分もあることは劇中で仄めかされていましたよね。
しかし、ビリーはどんなに迷惑をかけても、叱ってくれ、自分と向き合おうとしてくれる「家族」に出会えた一方で、ドクター・シヴァナは実の父から最後はただ恐れられ、「金でも会社でもくれてやる」という言葉を投げかけられるほどに関係が冷め切っていました。
だからこそ今作『シャザム』は、アメリカの「孤児文学」のコンテクストを踏襲しつつ、アメリカがこれから志向していく「家族の在り方」を描こうとしたように思えます。
血のつながりだけが重要なのではなく、大切なのは愛を注ぎ合うことができる関係であり、そこにこそ「家族」の形があるのだというメッセージを打ち出しているのです。
そしてそんな多様性の敵として白人のいじめっ子やヴィランであるドクター・シヴァナが登場するのも興味深いですが、ビリーたちは彼らの命を奪ったりはしませんでしたよね。
あくまでも「人助け」が重要なのであり、ビリーはドクター・シヴァナが転落していく際も命を救いましたし、彼を闇の力から解放して救い出そうとしていました。
フレディ・フリーマンも遊園地で自分をいじめていた少年2人が危機に陥った際には命を救いましたよね。
つまるところ、この映画が言いたいのは、「家族愛」でもあり、そしてキリスト教的な「隣人愛」でもあります。
19世紀半ばごろの「孤児文学による啓蒙」という文脈と、トランプ大統領が誕生し、移民排斥へと傾倒する現代アメリカにおける『シャザム』の「孤児ヒーロー映画」としての文脈は、シミュラリティを有しているようにも思えますね。
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本作に隠されたDC映画の小ネタたち
今回の映画『シャザム』には、DC映画の小ネタがたくさん含まれていましたね。
『バットマンVSスーパーマン』
シャザム(ビリー・バットソン)とドクター・シヴァナの最終決戦の際に、子供が部屋で遊んでいたシーンがありましたね。
その際に子供がバットマンとスーパーマンのおもちゃで遊んでいましたよね。
また、バットマンの飛び道具であるバットラングも登場し、物語のキーアイテムになっていました。
『スーパーマン』
フレディ・フリーマンの部屋には、リチャード・ドナー版の『スーパーマン』に登場する有名な新聞見出しである「Caped Wonder Stuns The City」がコレクションされていました。
他にもスーパーマンに放たれた銃弾をコレクションしていたり、よく見ると彼の部屋には『マンオブスティール』の時の事件が表紙のTIME誌が飾られていたりします。
フレディ・フリーマンは徹底的にスーパーマンオタクで、シャザムに対してもたびたびスーパーマンに基づいて、指示を出したりしていました。
また、最後のポストクレジットのシーンで、実際にスーパーマンがあの教室に来てしまうというのも興味深いものがありました。
『ウォッチメン』
序盤にビリーがソーシャルワーカーに保護されて、次の里親の斡旋をされていたシーンがありましたよね。
その時に、『ウォッチメン』でコメディアンが身に着けていた「ピースマーク」ロゴのアイテムが部屋に置かれていました。
『ウォッチメン』に登場するのは、この「ピースマーク」バッジに血の文様が入り、「平和と戦争の対立」を表現するものです。
ただこのシーンではあくまでも「ピースマーク」が映っているにとどまっています
『アクアマン』
ポスとクレジットのシーンで、シャザムがアクアマンのロゴ入りのTシャツを着用しているシーンがありましたね。
また、シャザムが水槽の中の金魚に話しかけて、アクアマンの特徴である海の生き物と話せる能力があるかどうかを実験していたのもコミカルでした。
第四の壁とメタ的に使われたDCモチーフ
みなさんは映画を見るときに、しばしば「第四の壁」という考え方が登場するのをご存知ですか?
「第四の壁」とは元々、演劇などにおいて、観客と舞台の間に存在する「見えない壁」のことを表していました。言い換えると、現実とフィクションの間に介在する見えない壁であり、この概念が生まれたのは19世紀頃ではないかとも言われています。
当初は演劇における概念でしたが、今やその「見えない壁」は映画とそれを見ている観客の間にも存在しているとされています。
とりわけこの壁を意識した、ないし壊そうとする作品というのは、劇中のキャラクターが観客に向かって話しかけたり、そうでなくても、観客がいることや自らが映画の世界の中に生きていることに基づいた行動をしたり、セリフを言ったりするようになっています。
とりわけ最近の映画で、しかもヒーロー映画となると『デッドプール』がこの壁を壊そうとする演出を使っていました。
デッドプールがしきりに観客に話しかける素振りを見せるなど、「第四の壁」を強く意識させ、さらに壊そうとする演出が多用されていました。
私は今回の『シャザム』を見ながら、この映画の世界観というのはDCEUの中に組み込まれているのか、それともDCEUを映画としてその中に内包するものなのか?という点について考えていたんです。
つまりこの映画がDCEUと同じ世界線にあるのかどうか?という点が非常に気になっていたんです。
まあそれに関して、答えを出そうとするなれば、フレディ・フリーマンの部屋に飾られているグッズたちを見れば一目瞭然ですよね。
『マンオブスティール』の時の事件が表紙になったTIME誌が置かれていたり、『ジャスティスリーグ』でスーパーマンが蘇った時の新聞記事が貼られていたりします。
また、作品の終盤でアクアマンのTシャツなどが登場し、彼が既にグッズが発売されるほどの人気になっていることから考えても、間違いなくDCEUの世界観の中に内包されていますし、時系列的には『アクアマン』よりも後でしょうか?
ただ面白いのが、この『シャザム』という作品は、ヒーローを内包した世界観の物語であるにも関わらず、それと同時にヒーローがフィクションとしてのみ存在している世界かのように描いているのです。
それは、フレディ・フリーマンがスーパーマンのグッズを集めているところやおもちゃ屋に大量のDCヒーローグッズが売られていたり、終盤にバットマンやスーパーマンのおもちゃで遊んでいる子供がいる点に指摘できます。
では、なぜ『シャザム』はヒーローたちをこのような扱い方で登場させたのかというと、ある種のメタ的な構造のためだと思うんです。
つまりこの映画におけるビリー・バットソンやフレディ・フリーマンの世界って、実は置かれている状況ってヒーローがフィクションとして存在する我々の世界と同じなんです。
あくまでもヒーローなんて存在は遠い世界のもので、自分の生きている現実とは何ら関わりがないということです。
だからこそ遠い世界の存在としてヒーローに憧れることができるのみというわけですね。
そして『シャザム』という映画はビリー・バットソンやフレディ・フリーマンの世界とスーパーヒーローの世界の間にある、「メタ的な第四の壁」を破壊していきます。
ビリー・バットソンが「シャザム」というヒーローになり、スーパーヒーローが彼らの日常へと変わっていくプロセスでもそんな「第四の壁」の破壊が表現されています。
それでいてさらに面白いのが、あの劇中のバットラングの使われ方です。
もちろんあのシーンは、後々の展開から考えると、ドクターシヴァナが体内から「七つの大罪」をすべて放出してしまうと、普通の人間になってしまうという弱点をほのめかすものでした。
しかし、実はその直前にドクターシヴァナがシャザムに対して「我々に人間の世界の武器は通用しない」という発言をしているんです。
それを踏まえて考えると、あのバットラングの攻撃がドクターシヴァナに傷をつけることができたのは、もしかすると彼らの日常を超越したヒーローの武器だったからという見方もありなんじゃないか?と思うんです。
バットマンに扮しているブルース・ウェイン自体は人間なので、少し誇大解釈にはなってしまうと思うんですが、そう考えてみると、あのシーンって違った感動がありませんか?
そうです。ビリー・バットソンが空想の世界のように遠い存在に思っていたバットマンが自分の今いる世界と地続きの世界に確かに存在していて、このバットラングは紛れもなく彼が使っていたものだということを実感したシーンであると捉えることができます。
つまり、ここで完全に作中でメタ的に構築された「第四の壁」が崩壊します。
そして何とも面白いのが、終盤のシャザムとドクターシヴァナの決戦の場面での2つの演出です。
- バットマンとスーパーマンのおもちゃで少年が部屋遊んでいる様子が、その窓の向こうで行われている2人の戦いにリンクしている。
- シャザムには、ドクターシヴァナのラスボス風のセリフが聞こえていない。
この演出はまさしくビリー・バットソンが、それまで自分たちが遠いものに感じてきたスーパーマンの世界に足を踏み入れた。つまり「第四の壁」を超えたことを表現している演出になります。
1つ目の演出は、見たまんまで、窓の手前にいる子供たちがいわば我々とリンクしていて、窓が「第四の壁」(ないしスクリーン)の役割を果たし、そしてその向こう側でビリー・バットソンが戦っているという構図を視覚的に表現しています。
そして2つ目の演出は、どんなに遠くにいたとしても、映画を見ている我々は音声を聞くことができるという特性を逆手に取っています。
映画を見ている我々に、登場人物のセリフが聞こえないなんてことは、まずあり得ません。
しかし、映画の中では実際にあれだけ距離が離れていて、そんな状況でドクターシヴァナのセリフが届くのは難しいでしょう。
故にこの演出はビリー・バットソンがフィクションや非現実を外から眺める存在ではなく、「第四の壁」を超えてその内側に入り、非現実の中に生きる存在になったことを仄めかしているのです。
そしてポスとクレジットのシーンでは、シャザムファミリーの下にスーパーマンが現れます。
こう整理してみると、実に『シャザム』という映画は精巧に作られているように思えます。
これまでのDCヒーローたちをある種のメタ的な用い方をしていて、DCヒーローと今作の主人公との間に「第四の壁」を作り出し、それを超越することでヒーローになっていくという構造を作っているわけです。
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7人目のヒーローはあなた?
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もう1つ個人的に気になっていたのが、『シャザム』における7人目のヒーローの存在です。
今作の設定で、シャザムという魔術師のセリフから明かされたものを読み取っていっても、「七王国」「七人の王」という言葉が登場していました。
もっと言うなれば、彼がいたあの空間には、玉座が7つありましたよね?
それにも関わらず、シャザムファミリーは6人しかいません。
原作には、これに関する設定等があるのかもしれません。ただ映画版しか私は見ていないので、そこは無視して、あくまでも映画版の解釈として話を進めさせていただきます。
では、当然気になってくるのが、あの1つ空席になるであろう7つ目の玉座に座るのは、誰なんだ?という疑問ですよね。
これに関して、私は「この映画を見ているあなた」こそが7人目のシャザムなんだという解釈をしています。
それを踏まえて、もう一度作品を整理していきましょう。
まず、ビリー・バットソンがフレディ・フリーマンたちの家にやって来るのは、映画の冒頭でしたよね。
この事実って裏返してみると、彼らが共有した時間と、私たちが映画を見ながら彼らと共にいる時間がリンクしているということでもあります。
もっと言うなれば、映画の中でフレディ・フリーマンたち家族がビリーに対して抱いている思いも、我々は彼らと同じだけ共有できるんです。
そして終盤の戦闘シーンに際してですが、6人が杖を握って、「ビリー!」ではなく「シャザム!」と叫ぶシーンがありましたよね?
あの時、映画を見ている自分も杖を掴んで、一緒に「シャザム!」と口に出したい気分ではありませんでしたか?
当ブログ管理人も心の中では「シャザム!!」と叫んでいましたし、応援上映のような場や、自宅で見ている時であれば、絶対に口に出して叫んでいると思います。
あのシーンがそう観客に思わせるように働きかけているのだとすれば、映画の製作陣は映画を見ている「あなた」のために7つ目の空席を設けているのかもしれません。
ラストシーンで、彼らが玉座の間を訪れて、ここを秘密の隠れ家にしようと話しているシーンがありますよね。
もちろん「隠れ家」にするのであれば、その事実を知っていいのはシャザムファミリーだけですよね。
しかし、我々はその秘密を共有されていることになります。これってつまり自分もファミリーの一員ということではないですか?
今作『シャザム』の物語って本当に普通の少年が突然力を与えられて、そこから徐々にヒーローの力や責任、使命を学びながら成長していくというシンプルなヒーロービギンズです。
そしてそれと共に作中に「第四の壁」を内包させ、ビリーたちがそれを破壊してヒーローになっていくという構造を作り出したのは斬新でした。
ただ、さらにこの映画は作品と我々の間にある第四の壁を破壊して、映画を見ている君たちもシャザムファミリーの一員だよ!と言ってくれているような気がするんです。
近年『スターウォーズ 最後のジェダイ』にしても、『ミスターガラス』にしてもこれまでの「選ばれた者」だけがヒーローになれるという物語からの脱却が志向されています。
そんな中で『シャザム』という作品は第四の壁を破壊する演出を使うことで、「誰だってヒーローになれるんだ!」という言葉をスクリーンを超えて、我々の世界にも還元して見せたのです。
『ミスターガラス』を見て、「私たちもヒーローになれるんだ・・・。」なんて可能性に胸を膨らませた方もいらっしゃることでしょう。
しかし、『シャザム』はもっと先を言っていて、この映画を見た「あなた」は既にスーパーヒーローなんだ!と言わんばかりなのです。
応援上映や発声上映の機会があれば、ぜひぜひ参加して「シャザム!!」と叫びたいところですね!!
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『シャザム』についてお話してきました。
とりわけいつも以上に当ブログ管理人の妄想要素が強めの記事にはなってしまいましたが、こういう見方もありなのでは?くらいに受け取ってもらえると嬉しいです。
DCEUの中で当ブログ管理人が一番好きなのは、『バットマンVSスーパーマン』のアルティメットエディションになるとは思いますが、それに次いで『アクアマン』と同等ぐらいに好きな作品になりました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
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