(C)2019映画「轢き逃げ」製作委員会
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『轢き逃げ 最高の最悪な日』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『轢き逃げ 最高の最悪な日』
あらすじ
その日、宗方秀一は自身の勤める会社の社長の娘である早苗との結婚式の打ち合わせの予定が入っていた、
しかし、親友で司会を務めてくれる予定の森田輝が待ち合わせの時間に遅れてしまい、秀一は打ち合わせの時刻に間に合わなくなり焦っていた。
さらに、その日道が大渋滞しており、このままだと1時間近く待ち合わせの時間に遅刻してしまいそうな勢いだった。
秀一は「こんなことでポイントを失いたくない」と告げ、輝がよく知っていた裏道を使って目的地を目指すことにした。
裏道は見通しの悪い細道だったが、焦っていた秀一は、かなりのスピードで運転をしていた。
すると急カーブを曲がった先の「スマイル」という喫茶店の前で、突然目の前に現れた女の子を撥ねてしまった。
「人生終わった・・・。」と焦りを隠せない秀一と助手席の輝。
すると、輝は周囲に目撃者がいないことを確認すると、このまま現場を立ち去ることを提案し、秀一もその提案をのんだ。
しかし、その日から地獄が始まった。
女性を轢いた時の光景がフラッシュバックし、常に周囲の人間から疑いの目を投げかけられているような気がして、汗が止まらない。
そして結婚式の前日、2人の家のポストに目がコラージュされた脅迫状めいた手紙が投かんされた・・・。
一方で、被害者の女性の両親である時山光央と千鶴子は悲しみに暮れ、気がおかしくなりそうだった。
さらに、ベテラン刑事の柳公三郎と新米刑事の前田俊は監視カメラの映像を調査しながら、犯人の存在へと迫って来ていた。
スタッフ・キャスト
- 監督:水谷豊
- 脚本:水谷豊
- 撮影:会田正裕
- 照明:松村泰裕
- 録音:舛森強
- 美術:近藤成之
- 音楽:佐藤準
- テーマソング:手嶌葵
今作『轢き逃げ 最高の最悪な日』では、『相棒』シリーズでおなじみの水谷豊さんが自ら監督・脚本を務めています。
ただこれが監督デビュー作というわけではなくて、2017年に公開された『TAP THE LAST SHOW』という作品で監督デビューしているんですね。
映画としてはもう一つな出来ですが、タップダンスのシーンは非常に見応えがあり、水谷豊さんはこのタップダンスが撮りたいがためにメガホンをとったんだろうとも思わされました(笑)
今回の『轢き逃げ 最高の最悪な日』も正直、水谷豊さんまた『相棒』やりたかったんだろうなぁ~っていう感じのプロットではありました。
警察でも何でもない一般人の水谷さん演じる光央が、独自に推理を進めて事件の真相に近づいていくというトンデモプロットは衝撃でした。
ただ正直脚本は少し映画的にダラダラとしていて。お世辞にも巧いとは言えない仕上がりだったので、次回作では脚本は脚本マンに任せたほうが良いのではないかと思います。
そしてこれまた面白いのが、撮影、照明、録音、美術等のスタッフ陣が『相棒シリーズ』出身のクリエイターで、ここまでくるともはや実質的には『相棒』なんですよね・・・。
またテーマソングには、手嶌葵さんが抜擢されていて、曲名は『こころをこめて』でした。
罪と罰と、後悔と嫉妬、絶望の先に待つ物語の壮絶な結末の後に、この曲が流れると、その全てが優しく包み込まれて洗い流されていくような気持になります。
心がすっきりと浄化されていくような不思議なメロディと歌詞、そして歌声だと思います。
- 水谷豊:時山光央
- 中山麻聖:宗方秀一
- 石田法嗣:森田輝
- 小林涼子:白河早苗
- 毎熊克哉:前田俊
- 岸部一徳:柳公三郎
- 檀ふみ:時山千鶴子
今回事故を起こしてしまう秀一と輝をそれぞれ中山麻聖さんと石田法嗣さんが演じていました。
この2人は当ブログ管理人としては、これまで何度がどこかで見たことがある顔ではあるなと思う程度で、今回の映画を見ていてもお世辞にも演技が巧いほうには分類されないと思います。
事故を起こして、逃げている間の常に何かに見られていて、何かに怯えているような感覚に近いものを可視化するというタスクは非常に難しいんですが、ここが不十分ではあったと思います。
とにかく重厚すぎるテーマや作風的に、それなりの演技力を持った俳優が必要になるのですが、この映画はそれが出来ていません。
その点で、岸部一徳さんのような落ち着いていて、どすの効いた雰囲気を漂わせることができる男性がバランサー的に機能することで、全体で調和のとれた映画に変わっていたようには思います。
より詳しい映画情報を知りたい方は『轢き逃げ 最高の最悪な日』公式サイトへどうぞ!!
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『轢き逃げ 最高の最悪な日』感想・解説
群像劇の文法を逸脱した構成
小説や映画、演劇のジャンルの1つとして群像劇と呼ばれるものがありますよね。
大きく分けると、群像劇には2つの種類があるように思います。
- 世界観や舞台を共有しつつも、その中で複数の登場人物の個別の物語が同時進行的に描かれる。
- 世界観や舞台を共有しつつ、その中で複数の登場人物の個別の物語が展開され、それが全体を繋げることで大きな1つの物語へと変わる。
この2つの中で今作『轢き逃げ 最高の最悪な日』が当てはまるとしたら・・・実はこの作品は2つ両方に当てはまっているようにも思えますよね。
個別の物語が確かに同時進行的に描かれていたんですが、その一方で全体としては事件の真相が明らかになっていくという1つの道筋を辿ってもいました。
また群像劇の表現の特徴として以下の2つが挙げられます。
- 集合:複数の登場人物の物語が1度ないし複数回リンク(交錯)すること
- 結合:複数の登場人物の物語を語る際に「視点」となる人物をスイッチさせること
ちなみに今作『轢き逃げ 最高の最悪な日』も確かにこの2つ両方が盛り込まれていました。
ということで、ここまでこの作品が如何に群像劇としての基本を踏まえた内容になっているのかという点について説明してきました。
ただ、私はそれにも関わらず、この作品は、群像劇として極めて特殊、というよりももはや群像劇とは呼び難い作品なのではないかと思うんです。
群像劇というのは、言わば1つの額縁に異なるキャラクターがプリントされたパズルを完成させていくようなアプローチなんですよ。
それ故に世界観や舞台が共有されていたり、さらには1つの作品の中で語るという都合上、テーマが共有されていたり、辿る物語の骨格が似ていたりします。
つまり群像劇は1つの映画(=1つの額縁)の中で物語を描く意味を必ず含ませなければなりません。
そうしなければ、複数の視点から語られる短編が乱立しているだけのカオス状態になり、その映像の集合体を「群像劇」として留めおくことはできなくなるでしょう。
そして話を『轢き逃げ 最高の最悪な日』という作品に戻していくわけですが、この映画を以下のような不満を感じる方はすごく多いと思うんです。
- 登場人物の物語が分散していて話が散らばっている。
- 全体として1つの大きなテーマが見えない。
- 結構序盤で轢き逃げ関係なくなってる。
- 物語の着地点が分かりにくい。
こういった不満が確実に挙がってくるのがこの映画です(笑)
上記のような感想を感じてしまう人が多いということになると、もはや群像劇としては破綻していますよね。
確かにこの章の序盤でも『轢き逃げ 最高の最悪な日』という作品が群像劇の条件を満たしていることを指摘しましたが、その一方で群像劇としては完全に破綻してしまっているという側面も持ち合わせています。
では、この映画は「群像劇の出来損ない」の失敗作なのでしょうか?と言われると、それも違うと私は思います。
むしろ水谷豊さんを初めとするスタッフ陣は、既存の群像劇の文法を無視した映画を作ろうという実験的なアプローチをしていたのではないかと考えています。
まず、この映画を群像劇として成立しづらい状況にさせているのは、それぞれの登場人物の物語の抱えるテーマ性の不一致です。
- 宗方秀一:自分の罪と向き合いながら生きていく。嫉妬に狂った友人を赦す。
- 森田輝:嫉妬に狂い、友人を貶め自らが「主人公」になる。
- 白河早苗:愛する人を赦し、共にその「罪」を背負い、生きる覚悟をする。
- 時山光央:前を向いて生きるためにとにかく娘の死の真相が知りたい。
- 時山千鶴子:気丈にふるまいながら、夫を支え、きちんと娘の死を受け入れる。
- 前田俊:警察として自分たち向かい合っていく事件の「やり切れなさ」に直面する。
1つの「轢き逃げ」事件を巡る物語であることは間違いないのですが、こうして整理してみると、幾分それぞれの物語が抱えているテーマ性はバラバラであることに気がつきますよね。
「罪と向き合うこと」を主題に据えた物語もあれば、「罪を赦す」ことを主題に据えた物語もあり、一方でミステリ的な物語やサイコキラーの物語までもが1つの映画の中に同居していて、とてもこれが1つの額縁に収められたきれいなパズルだなんて思えません。
ここまで描いているテーマ性が分散しすぎていると、もはや1つの映画として認識することが難しくなって、それが結果的に「脚本が散らかっている」という評価に集約されてしまうのだと思います。
しかし、私はこの『轢き逃げ 最高の最悪な日』という作品はむしろ意欲的な実験作なんだと思っています。
それだけで1つの映画が作れてしまいそうな物語とテーマを作品の中に纏めて同居させることで、群像劇の枠には収まり切らないけれどもオムニバス形式とまではいかない絶妙なバランスを実現しようとしたということです。
この映画はそれぞれの登場人物の物語をパズルのピースに見立てて、作品を完成させていくというような手法は取っていません。
あくまでも独立した登場人物の物語ありきで、それが「轢き逃げ」事件という1つの特異点で交錯しているという構造になっているという方が適切でしょう。
それを明らかにしているポイントとして、それぞれの登場人物にとって「轢き逃げ」という言葉が持つ重みや意味合いが全くもって異なっているということが挙げられます。
秀一にとって「轢き逃げ」は自らの起こした罪であり、自分の順風満帆な人生を終わらせるものでもあり、これから一生向き合い続けなければならない十字架でもあります。
対照的に、輝にとって「轢き逃げ」とは「いたずら」レベルの認識であり、嫉妬した友人への当然の仕打ちであると思ってすらいます。
時山夫妻からすれば、自分たちの大切な1人娘の命を奪った許しがたい事件であり、一生忘れることができないものでしょう。
その一方で、ベテラン刑事の柳公三郎にとっては自分がこれまで多く取り扱ってきた事件の1つに過ぎません。ただ新人刑事の前田俊にとっては、「やりきれない」大きな事件でもありました。
このように本作の登場人物の「轢き逃げ」に対する認識に温度差がかなりありまして、それ故に視点が切り替わると、途端に「轢き逃げ」関係ないんじゃない?みたいなエピソードが展開されたり、突然『相棒』が始まったりするわけです(笑)
もちろん群像劇には、いろいろな種類があります。
例えば1つのモチーフありきで異なる時系列や人物を繋いでいく『パルプフィクション』や『スモーク』のようなタッチの群像劇はあります。
その一方で一見あまり関係のない人たちの物語を大テーマで包括し、1つの群像劇的に見せてしまう『マグノリア』のようなタッチの作品もありました。
『アメリカングラフィティ』のように人物間の関係性が近く、1つの物語として見せやすいシチュエーションでなくとも、様々な形で「群像劇」というジャンルは成立してきました。
今作『轢き逃げ 最高の最悪な日』は、その点で物語を共有したり、連結させたりすることもなく、個々の人物の物語が半ば独立して存在しているような状態で、「轢き逃げ」という特異点に交わり方は違えど、たまたま交わった人物たちにフォーカスしました。
それ故に、テーマ性はバラバラで、大きな物語の流れで見ると空中分解しそうな様相を呈しています。
この映画は「どこまでが群像劇と呼べる代物なのか?」「どこまでが1つの映画と呼べるものなのか?」という「映画」という枠組みの限界値に挑戦しようとした作品なんだと思っています。
このあまりにも歪な意欲作をみなさんはどう受け取ったでしょうか?
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視線の存在を意識させる演出と構造
(C)2019映画「轢き逃げ」製作委員会
まず、今作『轢き逃げ 最高の最悪な日』は、物語性やテーマに斬新さがあるようなタイプの作品ではありません。
さらには、重厚なヒューマンドラマであったり、深く心を抉るような問いかけを投げかける映画というわけでもなくて、あくまでも「ワンアイディア映画」に分類されるような作品です。
この映画が優れていたのは、視線の使い方なんですよね。
まず冒頭の「轢き逃げ」の事件の現場でも輝が「誰にも見られていなかった」ということを確認する一幕がありましたが、その後2人は常にだれかに監視されているような感覚に苛まれ、精神的に追い詰められていきます。
そして動物の眼をコラージュした脅迫状のような手紙が2人の下に届けられますが、これも2人を見つめる視線の存在を明らかにするものです。
秀一が早苗と食事に行く場面では、これまで自分への愛情を示すものであった視線が、自分を追い詰めるようなものに感じられ、事故の時に自分が撥ねた女性の視線とリンクする一幕もありました。
この映画が面白いのは、人間が「視線を解釈する生き物」だということを演出として反映させたところなんだと思います。
写真家の牛腸茂雄は、幼少の頃に胸椎カリエスという病気を患い、その後遺症で背中が曲がってしまい他人とは違う特異な外見をしていました。
そんな彼は、被写体の人間がカメラの方に向き合っている正対の写真ばかりが収められた『SELF AND OTHER』という写真集を発表しました。
一体この写真たちが何を意図していたのかというと、牛腸は被写体が自分を見つめる視線の中に「自己」を見出し、それを写真に収めようとしたんです。
彼は背中が曲がっているという他人とは違う特徴的な外見を持っていました。
それ故に他人が自分に向ける「視線」というものに人一倍敏感だったんですね。
他の人に向けられているものとは明らかに違う「視線」が自分には注がれていると常に感じ取っていたのです。
そしてその「視線」を解釈することで、「自己」のイメージをつかみ取ろうとしたわけです。
しかし、その「視線」の解釈には、牛腸自身の、自分が他人とは違う外見を持っているという自負が多分に影響を与えるであろうことは想像に容易いですよね。
つまり、人間は自分がこういう人間であるということをある程度把握した上で、そういう風に自分は見られているはずだと他人の「視線」を解釈するわけです。
そう考えていくと、秀一に注がれる「視線」の存在と、彼の解釈の変遷は面白いですよね。
彼は自分が「轢き逃げ」を犯したことで、周囲から注がれる「視線」が全て自分を疑っているかのように思え始めました。
そして逮捕後には、愛する人が自分に注いでくれる視線すらも「人間失格」である自分を蔑むようなものに思え、苦痛に感じるようになりました。
その一方で、彼は輝を含めた周囲の人たちが自分に対して眺望と嫉妬の視線を向けていたことを自覚していましたし・・・というよりも自分がそういう存在だと自負していたために他人からの視線を「嫉妬」なのだと解釈していたとも言えるでしょうか。
それでも、彼は自分の親友である輝が自分に投げかけている「視線」だけは親愛の情からくるものだと信じたかったんでしょうね。
そしてこの『轢き逃げ 最高の最悪な日』は、物語が秀一の目線で語られ始め、鑑賞している我々は秀一の解釈ありきで輝の「視線」を解釈することになるため、完全にこの映画の罠にはめられるんですよ。
しばしば他人が自分に注ぐ「視線」は自分を映す鏡であるというようなことが言われますが、それって自分が自分の存在ありき、他者との関係性ありきで「視線」を恣意的に解釈しているからそうなるというだけなのかもしれません。
だからこそ今作における最大のトリックというかどんでん返しになる「視線」の解釈の反転というギミックが成立するわけですね。
このワンアイディアをどうしても活かしたくて、この映画を撮ったんだと思いますが、あえて「轢き逃げ」という題材をチョイスした意味は個人的にはイマイチ分からなかったですかね。
「見られていなければセーフ(無罪)」という状況を作り出したかったんだとは思いますが、幾分、輝が事故を仕組んだといっても偶発的な要素が多すぎて何とも説得力に欠けますし・・・。
アイディアは素晴らしかったと思うので、水谷豊さん脚本映画はもう少し見てみたいとは思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回はですね映画『轢き逃げ 最高の最悪な日』についてお話してきました。
個人的には、もう少し出来たんじゃないかという余地は残る作品だったんですが、製作陣の実験的で、意欲的な姿勢は高く評価したいと思います。
日本映画であっても、海外の映画であってもこの手のワンアイディア映画ってたくさんあるんですが、それをきちんと作品の中に落とし込めるかどうかでかなり映画としての出来に差が出る印象です。
例えば、昨年日本でも公開された『クワイエットプレイス』という作品は、音を立てると回物が飛来して殺されるというワンアイディアだけで展開した映画ではあるんですが、それがきちんと作品のテーマにも寄与しています。
他にも最近の作品では『search サーチ』のような全編パソコン画面というアイディアでインパクトを残した映画がありましたが、これも演出やアイデアの展開の仕方が優れていて、見応えがありました。
こういった作品と比べると。確かにアイデアそのものはすごく面白いのですが、映画『轢き逃げ 最高の最悪な日』はそのアイデアを映画の中に落とし込むという段階で上手くいっていない印象を受けます。
昨年日本でも『カメラを止めるな』のようなワンアイディア映画の成功例がありました。
今後日本映画で、アイデア先行の映画を作るにしても、アイデアに依存しすぎて映画としてガタガタになってしまうということがないようにして欲しいものです。
大切なのはアイデアに映画が従属するのではなく、映画が描きたいことを表現するためにそのアイデアが必要であるという関係性だと思っています。
その点で映画『轢き逃げ 最高の最悪な日』には、もっと出来たんじゃないか・・・という印象は受けますよね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。