(C)カバネリ製作委員会
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』
あらすじ
本作はテレビシリーズ『甲鉄城のカバネリ』の後日談となっております。
チェックしたい方はAmazonプライムビデオにて全話配信中なので、そちらをチェックするもしくは、時間のない方は総集編をご覧になると良いかと思います。
ただ今回の『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』は、必ずしもテレビシリーズを把握しておく必要はない内容になっているので、初見の方でも特に障害なく鑑賞することができるでしょう。
美馬との決戦を終えた生駒たちは、甲鉄城に乗り、故郷の街を目指していた。
しかし、そこには突破しなければならない難所「海門」が存在していました。
「海門」はカバネたちの手に落ちており、そこでは連合軍が奪還を目指して一進一退の攻防を繰り広げていた。
生駒と無名たちは、連合軍と共にカバネと戦い、海門の奪還を目指すこととなるが、カバネリである2人は差別的な扱いを受ける。
さらに時を同じくして、2人は頭痛に苛まれるようになり、イライラとして気性が荒くなってしまう。
「海門」での戦いは続き、その最中で生駒はカバネたちが何者かに統制されて動いていることに気がつく。
「海門」に隠された秘密とは何なのか?かつてそこで起こった悲劇の歴史とは?
スタッフ・キャスト
- 監督:荒木哲郎
- 構成:大河内一楼
- 脚本:荒木哲郎
- 総作画監督:江原康之
- 美術監督:吉原俊一郎
- 色彩設計:橋本賢
- 撮影監督:山田和弘
- 編集:肥田文
監督・脚本を担当したのは『ギルティクラウン』や『進撃の巨人』でもお馴染みの荒木哲郎さんですね。
荒木哲郎さんは制作進行出身でありながら、演出や絵コンテも数多く担当されてきた方で『ギルティクラウン』以降は監督を務めることも多くなりました。
テレビシリーズについては、物語展開の方向が『進撃の巨人』と酷似しているなどという声があったり、序盤の盛り上がりに比べて後半の尻すぼみが激しいという意見もありました。
ただ何と言ってもこれほどまでに作画のレベルの高い作品をまとめ上げただけでも素晴らしい功績ですし、評価されるに値すると言えるでしょう。
そして今作の圧倒的なアクション作画を支えているのが江原康之さんでしょうね。
アニメ『進撃の巨人』シリーズでもアクション作画監督を務めていましたが、やはり彼の描くアクションシーンは見ていて視覚的な快感が凄いです。
何といってもそのアクションシーンの妙は1つの動きから次の動きへと移行するまでの「タメ」のモーションにあると思っています。
今回の『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』でも、無名の戦闘シーンで顕著ですが、1つの攻撃を繰り出すまでの「タメ」のモーションがきちんと割り振られているために、一撃一撃に重みがあるんですよ。
それでいて、アニメーションとしての滑らかさも死んでいないので、非常に視覚的な快感を増幅させる映像に仕上がっているように思いました。
他にも『甲鉄城のカバネリ』の赤と青の美しい映像を支えてきた橋本賢さんや鉄と油の臭いがする独特の世界観を生み出してきた吉原俊一郎さんも参加しています。
- 畠中祐:生駒
- 千本木彩花:無名
- 内田真礼:菖蒲
- 増田俊樹:来栖
千本木彩花さんは『甲鉄城のカバネリ』のテレビシリーズが放送された当時は、無名の声優で、大抜擢という印象でしたが、今や人気声優の1人になりましたね。
幼さが表層にありつつも根底に芯の通った強さがきちんと備わっている特徴的な声が今作の無名にはぴったりな声質だと思います。
畠中祐さんも『甲鉄城のカバネリ』で大抜擢という印象でしたが、かなり活躍の機会を増やしていますよね。
生駒の情けなく弱い部分もしっかりと残しつつ、シリーズ後半には少しずつ1人前の人間へと成長していく様を声色の変化でも表現していました。
非常に演技の幅が広い声優だと思いますね。
より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!
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『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』感想・解説(ネタバレあり)
弱さと正義の英雄譚を描いたテレビシリーズ
『甲鉄城のカバネリ』という作品がそもそもテレビシリーズを通じて描いてきたのは、「弱さ」を向き合うことの強さだったように思います。
シリーズの序盤では、カバネリという人間とカバネの狭間に位置する生駒のような存在を受け入れるかどうかに葛藤する人間の「弱さ」にフォーカスしました。
人間ではなくなってしまい、カバネリとなったことで人間たちから見捨てられた生駒。
それでも第2話では、彼が自分を見捨てた人間を救うために命を捧げようとする姿が描かれました。
なぜ、彼がそんな行動をとれたのかというと、彼は「見捨てられた側」の存在、つまり弱者であるが故に、同じような状況に置かれた弱者の気持ちに真に寄り添うことができるからなんだと思います。
これってまさしくMCU(マーベルシネマティックユニバース)のキャプテンアメリカ(スティーブ・ロジャース)と同じ英雄像だと思います。
スティーヴは敗残者だった。ずっと虐げられてきたし、優越感を持った人とは折が合わなかった。スティーヴこそ、弱さの意味を知る、根っからの善人だった。
(『アベンジャーズ ヒーローズジャーニー』28ページより引用)
『甲鉄城のカバネリ』という作品において生駒という少年が主人公足りうるのは、英雄足りうるのは、彼自身が「見捨てられる側」の存在であり、「虐げられる側」の存在だからです。
だからこそカバネリの人間を超越した力を持ちながらも、常に「虐げられる側」つまり「弱者」に寄りそった行動をとることができるんです。
一方で、そんなカバネリの存在を受け入れられない人間たちは、自分たちが「弱い存在」なのであるということを認めたくないのだと思います。
だからこそカバネリという存在を虐げることで、自分たちの優位性を保ち、自分たちが「弱者」ではないのだと信じたいんです。
加えてカバネリという潜在的な恐怖を、自分たちの力になる可能性があると分かっていても受け入れられない「弱さ」ももちろんあるでしょう。
そして『甲鉄城のカバネリ』序盤4話は、甲鉄城の人間たちが自分たちの「弱さ」を、そしてカバネリである生駒と無名の存在を受け入れることでカバネとの戦いを優位に進められるようになるところまでを描きました。
5話以降、榎久が登場すると少し物語が転調していき、この世界において「弱者」は生き残れないし、必要ないという考えが見え隠れするようになります。
第6話では岩に押しつぶされながら「私は弱くないんだ。」と自分に言い聞かせる無名の姿が印象的でした。
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そんな無名に生駒は、「お前、どう見ても弱いだろ。」と告げました。
この言葉は、強いものだけしか生き残れない、必要とされないという価値観に裏打ちされて生きてきた彼女にとって救いになったに違いありません。
「やっぱり俺たちは弱いよ、無名。でも、だからって足掻いちゃダメってことにはならないだろ。」
(『甲鉄城のカバネリ』第6話より引用)
この言葉に生駒という少年の弱さと向き合える強さが凝縮されています。
弱くても、生きようとして必死に足掻き続けることにこそ人間の真の強さがあるのだと点がシリーズ前半の総括として打ち出されています。
そしてシリーズ後半に入ると無名が「兄様」と慕う男の美馬が登場しますよね。
彼はひたすらに「強さ」にお執している人物で、「弱い」他者を容赦なく切り捨ててのし上がっていきます。
それ故に彼が理想として掲げるのは、強者生存の世界観であり、それこそが真の平等なのだと語っています。
彼は弱者を切り捨てる決断ができることこそ「強者」なのだと自負しており、それ故に他者を切り捨てる決断には何の躊躇もありません。
ただ、そんな美馬にも確かに迷いや弱さが垣間見えているんですよね。
第11話で自ら群集の恐怖心理を利用して父親を殺害しておきながら、父親の死体を踏みにじっている男を思わず射殺してしまうシーンがありました。
これも間違いなく彼の「弱さ」であり「迷い」です。
彼が強さを求めるのは、かつてのギリシア彫刻にも通じるところがあるでしょうか。
ギリシャ彫刻においては、理想主義が追及されました。
ギリシャ彫刻のモチーフの多くは神々であったり、その姿になぞらえて作られた理想的な人間の像です。
ギリシャ神話の世界観なんかを考えてみていただけると分かりやすいのですが、古代ギリシャでは神と人間はある種の共存する存在として捉えられていました。
だからこそ弱くて、もろい人間の姿に、それとは対照的な神々の姿を重ねた彫刻をつくることで理想的な人間を形作ろうとしました。
人間は自分たちに神々の肉体的・精神的な強さを宿すことで「弱さ」から解き放たれようとしていたんですね。
そして『甲鉄城のカバネリ』における美馬というキャラクターは、まさしくそんな弱さを持っている人で、それでいて自分の理想を自らに投影し、強くあろうとし続けている人でもあります。
だからこそテレビシリーズの最終決戦は弱さを受け入れ、弱い人間にも手を差し伸べようとする「強さ」を持ち合わせた生駒と、弱さを切り捨て、強い人間だけが生き残ることができると考える美馬の戦いである必要がありました。
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そしてこの戦いに生駒が勝利したことで『甲鉄城のカバネリ』の主題も完成しました。
最終回で無名が美馬に「私たちは弱くても生きるよ。」と告げましたが、まさしくこの一言こそが今作のメインテーマです。
このように今作は弱さを肯定し、そして弱さに寄り添い、受け入れることができることこそが真の「強さ」だと我々に伝えようとしていましたね。
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決戦を終えた割に話は進んでいない「海門決戦」
さて、ここから今回の『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』に話を移していこうと思います。
まず、これが劇場版クオリティとも言うべきなのか、アクションシーンの作画は本当に圧倒的だと思います。
冒頭にも書いたように、江原康之さんらしい「タメ」の効いた重厚感とスピード感が両立したアクションシーンはテレビシリーズから引き続き優れていると思いますが、それ以上にアクションの魅せ方が進化していますね。
テレビシリーズも確かに作画は優れていたんですが、やはり予算や製作期間もかなり限られてくる中で、カット割りを増やしてごまかしごまかし映像として成立させている印象も強かったです。
具体的に言うと、無名のアクションシーンでは、無名の動きにずっと照準を合わせ続けると作画のカロリーが高いので、撃たれるカバネリに視点を移すことで作画の負担を減らしていたような部分が見受けられました。
その一方で、劇場版は冒頭の無名のカバネとの戦闘シーンでもそうでしたが、あくまでも無名をシーンの中心に置いた上でそこから視点をずらすことなくアクションシーンを展開していきます。
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そのためテレビシリーズのような「撃たれるカバネリ」単体のカット割りはほとんどなく、無名の動きが連続的な動きで表現されるため非常にダイナミックに見えるんですよね。
他のアクションシーンでも基本的に「攻撃を受ける側」ではなく、「攻撃をする側」にフォーカスしたものが多くて、ここはテレビシリーズとは少し趣向が異なるように思いますし、予算と時間が掛けられる劇場版だからこそ出来たことでもあると思いました。
ただそういった映像的な進化と比べても物語そのものの展開が全くテレビシリーズから膨らまされていないというのが何とも勿体ない部分ではあると思います。
まず連合軍と合流してからの、人間によるカバネリ差別の問題って、これはテレビシリーズ序盤で描かれた主題ですからね。
わざわざ蒸し返して、それを劇場版で大々的に尺を割く必要はなかったと思いますし、同じ展開を見せられているだけに感じて、冗長でした。
また、『甲鉄城のカバネリ』シリーズが今後更なる続編を作るのかどうかは分かりませんが、今回の『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』に関して言うのであれば、長寿アニメシリーズの劇場版感が強いです。
つまり『NARUTO』シリーズや『ワンピース』シリーズの劇場版のように、物語の本筋には直接大きな関わりはないけれども、単体で見てもある程度面白いという「番外編的劇場版」の作り方だと思いました。
そのため、今後『甲鉄城のカバネリ』シリーズが続編を作っていったとしても、正直今作を見なくても話は繋がると思いますし、それくらいにこの映画そのものでは話が進んでなさすぎます。
先日公開された『PSYCHO-PASS』シリーズの新3部作劇場版なんかはプロット面でも主題性でも、世界観を様々な方向から掘り下げる挑戦的な内容になっていましたし、それと比べると明らかに本作は今一つな仕上がりです。
1クールの深夜アニメの劇場版としてのプロットの組み方ではなかったと思いますね。
まず、今回の作品の肝は、テレビシリーズ最終回の「私たちは弱くても生きるよ。」という無名の言葉の再確認でしかないんですよ。
今回のヴィラン的立ち位置にいる景之は、いわば生駒と同じ「虐げられる側」の存在でした。
それ故に彼も「弱さ」を知るものではあるのですが、彼はその力を「弱き」を救うためではなく、『強き」を打倒するために使おうとするのです。
そんな彼とそして彼の計画に利用される娘に手を差し伸べる強さを見せるのが、生駒たちでした。
それ故に致命傷を負い落下していく景之をキャッチし、 何とか死なせまいとする一幕や幼い頃の回想シーンで明日は一緒に遊ぶ約束をすると決意する無名のシーンが描かれていたりします。
無名が景之の娘に手を差し伸べようと思えたのも、彼女が「弱さ」を自覚し、「弱き」に手を差し伸べる「強さ」を身に着けたからなんでしょうね。
『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』の敵はあくまでも虐げられ、人々から排除された存在であり、そういうヴィランをただ打倒するのではなく、手を差し伸べて救おうとするところにテレビシリーズから続く本作の主題性が息づいています。
また、生駒と無名の物語や菖蒲と来栖の関係性を見ていてもそうですが、今作は「私たちは弱くても生きるよ。」をあくまでも体現する映画です。
だからこそ、誰かを守るために命を捧げるのではなく、誰かを守るために生き続けることの重要性も強調されています。
ただ、これらのテーマやプロットの骨格は正直テレビシリーズの踏襲というか繰り返しでしかないので、やはりもう一捻り欲しかった、もう1歩踏み込んでほしかったというのが本音でしょう。
また、設定面でもとりわけカバネや景之たち「敵」に特に目新しいギミックや設定がなかったのも今作が今一つだと感じてしまった要因かもしれません。
総括すると、映像面ではテレビシリーズから格段にクオリティが上がっていて、素晴らしいものになっていた一方でプロットや設定、テーマ面で『甲鉄城のカバネリ』を深く掘り下げるようなアプローチに乏しく「番外編」感が強かったという講評となります。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回はですね映画『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』についてお話してきました。
個人的には、テレビシリーズ後半の人間の内輪もめ感があまり好きではなかったので、純粋に人間VSカバネの構造で展開されていたシリーズ前半の雰囲気を思い出させてくれる内容になっていたのは嬉しかったですね。
ただ如何せん映像面の傑出した出来を除いては、特に見どころという見どころがないですし、ストーリーもほとんど進まないので、もう少し踏み込んだ何かを見せて欲しかったというのが本音です。
本作の終盤でカバネにも憎しみがあるのか?という話題が挙がっていましたが、この点も続編を作るのであれば掘り下げられるべきですよね。
嫌いではないですが・・・。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。