みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『さよならくちびる』についてお話していこうと思います。
小松菜奈さんって実写版『坂道のアポロン』にも出演していたんですが、その時はあまり歌唱シーンが目立たなかったんですよね。
ただ今回は歌唱シーンを前面に押し出した作品になっていたましたし、歌唱力が高いことも伺えました。
日本が贈る傑作音楽映画だと思いました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
まだ見ていないという方はとりあえず劇場に足を運んでください!!
目次
『さよならくちびる』
あらすじ
インディーズ音楽の注目の星として話題を集めた「ハルレオ」は、それぞれの道へ進むことを決め、最後のライブツアーへと出発した。
作詞・作曲を担当し、音楽的な才能の片鱗を感じさせるハル。
破天荒で気分屋な性格ながら、独特の歌声でファンを魅了するレオ。
恋愛絡みでとあるバンドを解散に追い込んだ過去を負い目に感じているローディの青年シマ。
3人は共にツアーへと繰り出しますが、彼らの間には複雑な感情が入り乱れていました。
レオは、シマに好意を寄せていましたが、一方のシマはハルに好意を寄せていました。
そして、ハルは自身の恋愛対象が女性であることで苦労してきた過去を持つが、レオに対して好意を抱かずにはいられなかった。
そんな三角関係を孕み、不安定な一行は旅の中で、何度も衝突し、どんどんと険悪な空気が漂うようになる。
「ハルレオ」は旅路の果てに、どんな答えを出すのか?
彼らに待つ未来とは・・・?
スタッフ・キャスト
- 監督:塩田明彦
- 原案:塩田明彦
- 脚本:塩田明彦
- 撮影:四宮秀俊
- 照明:秋山恵二郎
- 編集:佐藤崇
- 音楽:きだしゅんすけ
- 主題歌プロデュース:秦基博
- 挿入歌:あいみょん
まず、監督・脚本・原案が全て塩田明彦さんクレジットとなっています。
塩田明彦監督は、『どろろ』のようなイマイチな作品がフィルモグラフィにあったりするんですが、オリジナル企画ですとオウム真理教を題材にした『カナリア』のような尖った作品を撮っています。
青春と変態性を正面から描き切り今でもカルト的な支持を獲得している『月光の囁き』という作品も塩田監督によるものです。
そして今回の『さよならくちびる』は彼が初めて撮る音楽映画ではあるんですが、本当に長らく構想を練り続けてきたのではないかというくらいに凄まじい完成度で仕上がっています。
撮影を担当したのは、昨年話題になっていた『きみの鳥はうたえる』や『ミスミソウ』などの作品にも参加していた四宮秀俊さんですね。
編集には、最近話題の『愛がなんだ』にも参加しており、『滝を見にいく』や『モヒカン故郷に帰る』などを手掛けた沖田修一監督からの支持も得ている佐藤崇さんが加わりました。
そして何と言っても本作は主題歌・挿入歌が最高です。
- 主題歌『さよならくちびる』:秦基博
- 挿入歌『たちまち嵐』『誰にだって訳がある』:あいみょん
3曲とも物語にすごくリンクしたメロディと歌詞になっていて、劇中で聞くと涙が止まらなくなってしまうような名曲揃いです。
- 小松菜奈:西野玲緒(レオ)
- 門脇麦:久澄春子(ハル)
- 成田凌:志摩一郎(シマ)
基本的に『さよならくちびる』という作品は、セリフが少なく非常に静かで淡々とした内容になっているので、その分役者の演技力に大きく依存しているように思います。
そんな中で小松菜奈さんと門脇麦さんの演技は、その「静寂」を苦にもしない自然でかつ繊細な演技でして、表情の作り方や雰囲気の出し方まで全てが完璧に見えました。
また、この2人はカメレオン俳優というよりはどちらかというと個性派で、自分の世界観をしっかりと持っているタイプの女優です。
だからこそ今作は、そんな個性の強い2人をダブル主演的に起用することで、ハルとレオのリアルな衝突を描きました。
またそこに絡んでくるシマという青年を演じた成田凌さんも素晴らしかったですね。
先月公開された『愛がなんだ』でも傑出した存在感を放っていましたが、今作でも音楽への、そしてハルへの熱い想いを内に秘めながらもそれを押し殺し凪いだような表情で生きる様を見事に演出しました。
『さよならくちびる』という作品は、実力のある若手俳優をしっかりと起用し、キャストの掛け合いで魅せようとしていました。
より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!
『さよならくちびる』感想・解説(ネタバレあり)
音楽は私以外の誰かを「主人公」にするのか?
お話したこともない 人が書き綴った歌
勝手に自分を重ね 強くなったふりしてさ
(PEDRO『うた』より引用)
人は音楽を聴くとき、無意識のうちにその歌詞に、メロディに、自分の生い立ちや経験、心情を重ね、その歌がまるで自分のために書かれているかのように錯覚する。
つまり人は「お話したこともない人が書き綴った歌」の主人公になろうとするのだ。
だからこそ「できるだけ多くの人を主人公にできる音楽」を作れる人は、必然的にヒットメーカーとして崇められることとなるだろう。
では、音楽とは一体誰のものなのだろうか?
もちろん著作権的な話で言えば、作詞・作曲した本人に「親権」があるわけだが、その一方で批評の世界には「作者の死」という言葉がある。
この概念においては、著作物・芸術というものは、世の中に発表された瞬間に作者の手からは離れ、作者自身とは切り離されて語られるべきであるとする考え方だ。
なるほど、この概念に基づいて考えるならば、音楽とは誰かの前で歌った瞬間に自分だけのものではなくなり、「親」から離れて独自に行動を始めるようなものなのかもしれない。
『さよならくちびる』において、ハルレオが、いやハルとレオが一体どんな人生を送って来たのかなんてことは、仄めかされる程度で明確には描かれないし、語られない。
それでも彼らが歌う楽曲には、不思議な親和性がある。
この映画を見ている我々も、彼女たちのことをほとんど分かりもしないのに、勝手に共感し、勝手に自分を重ねて、いつしかその楽曲の主人公が自分であるかのように錯覚する。
劇中に登場し、ハルレオの楽曲に「救われた」と語る少女だってそうだろう。
彼女もまた「お話したこともない人」でしかないハルの作り出した歌の主人公になったような気でいる人間の1人ではないか。
ハルレオの楽曲に『誰にだって訳がある』というものがある。
誰にだって訳があって
今を生きて
私にだって訳があって
こんな歌を歌う
(ハルレオ『誰にだって訳がある』より引用)
劇中でハルがこの楽曲について、こういう心情で綴りましたと説明しているシーンがある。
その思いに共感して、彼女たちの歌を聞きに来ているファンは「私」を自分自身のことなんだと思っているのかもしれない。
しかし、この楽曲を作ったのはハルであり、この物語は彼女のものだ。
音楽が生まれる瞬間はどこにあるか?
この映画はそんな音楽が生まれる瞬間についても言及しているように思える。
ハルが狭い車内で頭の中に詞を浮かばせている。
しかし、まだ誰もメロディをつけていない言葉は「音楽」ではない。
まだ誰も歌っていない詞は文字の羅列でしかない。
ハルが訪れた楽器店。そこには無数のアコースティックギターが並べられている。
だが、誰も奏でない楽器は音を持たない飾り物でしかない。
ハルが音を奏でた時、初めて楽器は「楽器」としての意味を思い出すのだ。
つまり、音楽がこの世に「生」を受けるのは、誰かがメロディを奏でた時であり、誰かが歌った時だ。
(C)2019「さよならくちびる」製作委員会
ハルレオの歌は、とりわけハルが楽曲を作り、そしてハルとレオが歌った瞬間に初めてこの世界に産声を上げる。
では、逆に音楽が死ぬ瞬間というのはどこにあるのだろうか?
我々はクラシック音楽として何百年も前の偉人が作った音楽を聴いている。
そう考えると、音楽とはその楽曲を聞いてくれる人がいる限り生き続けるものであると考えることもできるだろう。
しかし、逆にこうとも考えられる。
ベートーヴェンにとっての『運命』も、モーツァルトにとっての『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』も、彼らが死んだときに、彼らが音楽を奏でることを止めた時に既に絶命していると。
音楽は確かに作者が死んでも「作品」としては消えないし、それを奏でる人がいるのであれば「作品」として死ぬことはない。
ただ「作品」として奏で継がれ、歌われ継がれたその音楽は、もはやその音楽を生み出した者の「物語」や「叫び」とは切り離されてしまうのではないか。
主人公を失った音楽は、きっとその楽曲を聞いた名前も知らない誰かを「主人公」として生きながらえるだろうし、「作品」としては消えない。
ハルレオの歌だって少ないながらその楽曲を大切に思ってくれる人たちの中では生き続けるのかもしれない。
しかし、『さよならくちびる』も『誰にだって訳がある』も『たちまち嵐』も、全て彼女たちの「物語」であり、「叫び」なのだ。
つまり「物語」としての、「叫び」としてのハルレオの音楽は、彼女たちが解散してしまった瞬間に、歌うことを手放してしまった瞬間に確かに息を引き取るのだろう。
そう思うと、この作品で描かれた「愛」というものもまた音楽に似ているものなのかもしれない。
レオはシマに対して好意を抱いている。しかしシマはハルに対して好意を抱いている。
それを知っているからこそ彼女は自分の「愛」が報われないことを知っていて、その「愛」に折り合いをつけようとして顔の良い良く知りもしない男に身体を赦し、そしてその「愛」をハルに〈代行〉して欲しいと願う。
つまりハルにシマと付き合って欲しいと、恋人関係になってほしいと願うのである。
一方でハルは、レオに対して「愛」を抱いているのだが、レズビアンであるがために苦しい人生を歩んできたであろう彼女はレオに自分を重ねる。
レオに自分を重ねてシマと恋愛関係になることはできない自分を憂うのである。
彼らは自分が持っている「愛」と向き合うことを恐れている。
ハルは同性愛で苦しんだ過去があるために、レオへの「愛」と向き合えない。
レオはその片思いの「愛」が成就することはないと分かっているから向き合えない。
シマは自分の「愛」がバンドを破壊してしまうと危惧されるから向き合えない。
彼女たちは自らの中で生まれた「愛」の主人公に自分がなることを恐れているのだ。
しかし、その感情は「私は彼を愛していた。」と一筆残しておけば、事実の上では残り続けるのかもしれないが、本質的には自分が愛することを放棄した瞬間に消えてしまう。
ハルとレオは自分たちの音楽からも、そして愛からも逃げようとした。
向き合うことを放棄してしまえるならば、きっとその方がずっと楽だろう。
では、この『さよならくちびる』という作品を通じて、彼女たちにもたらされた変化とは何だったのだろう?
彼女たちは最後のライブツアーで自分たちの音楽を愛してくれている人たちの存在に改めて気づき、そして自分たちが解散しても、その「音楽」が彼らの中で生き続けられるだろうと感じただろう。
しかし、彼女たちは「愛」を通じてとある事実を突きつけられたはずだ。
さよならくちびる
私は今はじめて ここにある痛みが愛だと知ったよ
(ハルレオ『さよならくちびる』より引用)
彼女たちは自分自身の「愛している」という事実を手放そうとした時に、自分の中に痛みとしての「愛」が残り続けていることに気がついてしまった。
そして同時に彼女たちは音楽に思いを馳せた。
そうして気がついたはずだ。
「作品」としては彼女たちの音楽は消えない。
しかし、自分たちが手放してしまった瞬間に「物語」や「叫び」としての音楽は、自分たちの内に「痛み」として残り続けるのだと。
人は自分の「愛」を誰かに〈代行〉してもらうことはできない。
同時に人は誰かの「愛」を〈代行〉することもできない。
人は自分の人生を誰かに生きてもらうことはできない。
同時に人は誰かの人生を生きることはできない。
そしてアーティストは自分の音楽の「主人公」を誰かに押しつけることはできない。
同時に人は誰かの音楽の「主人公」になることはできないのだ。
ハルレオは自分たちの音楽を、自分たちが歌い、奏でていかなければならないのだという事実に気がつかされる。
彼女たちは自分たちが命を吹き込んだ音楽の「延命治療」を死ぬまで続けていく覚悟をするのだ。
『さよならくちびる』という作品は、音楽映画だが、音楽に関わる人間の物語であると同時に、音楽とは何なのかを考えさせるメタ映画的でもある。
そしてこの作品は、「ハルレオが解散しない」という事実でもって「音楽とは何か?」という問いに1つの答えを出そうとしたのではないだろうか?
私が生み出した音楽は、私以外の誰にも「主人公」にはなれない。
この映画は、「主人公」になることから逃げ続けた者たちが、自分たちの音楽の「主人公」として生きることを覚悟するまでの物語だ。
対比する演出の巧さ
この映画はハルとレオという全く対照的な2人の掛け合いを基調とした音楽映画となっている。
そして彼女たちは抱えている生きづらさを言葉ではなく、音楽で語ろうとする。
その姿勢を表現するために、この映画は極めて少ないセリフの下に成り立っており、演出も「静」を志向している。
確かに言葉では何も語ろうとしない映画だが、塩田明彦監督は何気ない映像の節々に「言葉」を残している。
食事のシーン
- 「いただきます。」と告げることなくカレーを大胆に食べ始めたレオ
- 「いただきます。」と告げ上品にカレー食べ進めるハル
シマと最初に出会った日
- シマがつけてくれたライターの火で煙草に火をつけなかったレオ
- シマがつけてくれたライターの火で煙草に火をつけたハル
ライブシーンに移動中の車内
- スマホゲームの安っぽい効果音を社内に響かせるレオ
- 無音の世界で詩を生み出そうと苦心しているハル
ライブまでの空き時間
- シマを追いかけるようにジャズレコード店に足を運んだレオ
- 1人でアコースティックギターの店に足を運んだハル
細かな対比は挙げていくとキリがないが、『さよならくちびる』という作品は、映像の中で2人の些細な違いを積み重ね、その合計値として「2人が対照的な人物である」という事実を導き出そうとしていた。
それ故に、作品を見ている我々も、次第に2人の違いに気がつかされていくし、無意識のうちに2人の人物像の輪郭を掴むことができるわけだ。
また面白いのが、この映画は冒頭と終盤で、2つのシーンを対比関係で描いている点だ。
①カレー
- 冒頭ではハルとレオの2人が、ハルの部屋で横に並んで手作りカレーを食べている。
- 終盤にはハルとレオ、そしてシマを交えた3人で寂れた喫茶店でカレーを食べている。
②C→Gのメロディ
- ハルがレオにギターを教えているシーンで2人はC→Gとコードが続くメロディをアコースティックギターで奏でた。
- 最後のライブ会場でセッティング中のハルはシマのエレキギターで一人、C→Gのメロディを奏でた。
ハルとレオの関係は確かに表面的には変わってしまったように見える。
しかし、この2つの演出が示しているのは、表層的に変わってしまったものがあれど、ハルとレオの根底にはずっと変わらないものが残っているという事実だと思う。
カレーを食べている場所がハルの家から寂れた喫茶店に変わっても、「カレーを食べる」という行為は変わっていない。
また、アコースティックギターからエレキギターに代わっても、奏でるメロディがC→Gと展開してくこともまた変わっていない。
だからこそ少し唐突に思える本作のラストにも合点がいく。
映画を見ている我々にとって2人の関係性は変わってしまったように見えるけれど、きっと彼らの中では変わらない何かがあるんだと、そう思わせてくれる。
(C)2019「さよならくちびる」製作委員会
どんなに2人の関係が険悪になれど、2人が吸っている煙草の銘柄はアメスピなのだ。
音楽映画だからこそ「音楽で」伝える
この『さよならくちびる』という作品は、音楽映画として本当に素晴らしいんです。
その理由の最たるものが、登場人物の感情や過去を「音楽でのみ」表現しているところですよね。
今作の劇中で、ハルの過去について断片的な情報は提示されますが、映像で明確に描写したり、セリフで明言されることはありません。
しかし、「さよならくちびる」という楽曲を聴けば、彼女の抱いている思いも、過去も何となく理解することができるんです。
おそらく彼女が実家に帰った時に、母が見せてきた写真に写っていた友人は、昔彼女が好意を寄せていた女性なのでしょう。
そしてこの曲は、そんな彼女との切ない思い出を歌ったものなんだと思います。
明確には描かれないのに、この曲が、そして歌っている時の彼女の表情が全てを物語っています。
音楽映画として、こういう音楽の力に託した演出を施すのは素敵ですよね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回はですね映画『さよならくちびる』についてお話してきました。
冒頭にも書きましたが、現時点では当ブログ管理人の2019年ナンバー1映画です。
というよりも、ここまで本気の映画をサラッと作ってしまう塩田明彦監督の力量に脱帽ですよ・・・。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
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この映画素晴らしかったです!
素晴らしい感想だったので思わずコメント
僕は、最後2人が解散して、不可逆、死の間際の歌の美しさってところで終わって欲しかったな って思ってましたが
なるほど、こういう解釈、こういう受け取りかたもあるのかと非常に勉強になりました。
受け取りかたの正解はないと思いますし、こうやって真逆の考えを読むのは非常に勉強になりました!
ヨーマンさんコメントありがとうございます。
逆の解釈ももちろんあると思います!
自分とは違う意見を見ることで、より作品への解釈が深まることもありますよね。