みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ハウスジャックビルト』についてお話して行こうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ハウスジャックビルト』作品情報
(C)2018 ZENTROPA ENTERTAINMENTS31,ZENTROPA SWEDEN,SLOT MACHINE,ZENTROPA FRANCE,ZENTROPA KOLN
- 監督:ラース・フォン・トリアー
- 撮影:マヌエル・アルベルト・クラロ
- 美術:シモーネ・グラウ
- 衣装:マノン・ラスムッセン
- 編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
- ジャック:マット・ディロン
- ヴァージ:ブルーノ・ガンツ
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」の鬼才ラース・フォン・トリアーが、理性と狂気をあわせ持つシリアルキラーの内なる葛藤と欲望を過激描写の連続で描いたサイコスリラー。
1970年代、ワシントン州。建築家を夢見るハンサムな独身の技師ジャックは、ある出来事をきっかけに、アートを創作するかのように殺人を繰り返すように。
そんな彼が「ジャックの家」を建てるまでの12年間の軌跡を、5つのエピソードを通して描き出す。
殺人鬼ジャックを「クラッシュ」のマット・ディロン、第1の被害者を「キル・ビル」のユマ・サーマン、謎の男バージを「ベルリン・天使の詩」のブルーノ・ガンツがそれぞれ演じる。
カンヌ国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門で上映された際はあまりの過激さに賛否両論を巻き起こし、アメリカでは修正版のみ正式上映が許可されるなど物議を醸した。日本では無修正完全ノーカット版をR18+指定で上映。
(映画comより引用)
ラース・フォン・トリアー監督の作品は本当にどれもインパクトが強いですね。
とにかくこだわりが強い監督でして、『ニンフォマニアック』ではボディダブルの手法を駆使して、ガチのSEXシーンを撮影して大きな話題になりました。
またパンフレットの中で自身の最高傑作とも語っている『ドッグウィル』では、部屋の床に書かれた線で表現された、壁すら存在しないセットの中で撮影を敢行しました。
ちなみに当ブログ管理人が一番大好きなのは『メランコリア』という作品で、トリアーはずっと酔っぱらっているようなテンションで撮影したと言います。
抽象的で、観念的な映像が支配する作品の終盤は、もう何を見せられてるんだ・・・って感じなんですが、不思議とその世界観に惹かれました。
また、今作の撮影や編集スタッフも基本的にはトリアー作品に長らく携わってきている面々です。
そして主演がマット・ディロンであり、もう1人ブルーノ・ガンツもメインキャラクターとして出演していました。
マット・ディロンも脚本を読んだ当初は、自分が見たことないタイプの役に戸惑ったと言いますが、トリアーの助けもありつつ、見事に役を熱演しました。
そしてブルーノ・ガンツはついこの間訃報が飛び込んできましたよね。
『ベルリン、天使の詩』で見せたあの切ない表情が脳裏に焼きついて離れないのですが、今作でも偶然か必然か、彼が演じていたのはヴァージというある種の地獄の旅先案内人でした。
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『ハウスジャックビルト』解説・考察
描写の数々に込められたアンチポリコレの精神
ジョルジュ・バタイユが『文学と悪』という書籍を著しましたが、その中でサドについて言及した箇所がありました。
彼によると、サドの著した作品は「排泄物に与えられている程度の使用価値」しか持たされていないというのです。
我々が映画や文学について検証する際に、何を重視するかというと、それは「有益性」なんだと思います。
その観点で考えると、サドの著した作品は無価値なものかもしれません。
しかし、バタイユは彼の作品について「淫猥の限りを尽くして、電撃的な、息も詰まらんばかりの価値を人間存在に賦与しようとした」と評しています。
「有益性」などという言葉では定義することのできない確かな価値が彼の文学には存在していたのだというのです。
近年業界最大手であるディズニーを筆頭に映画界はポリティカルコレクトネスの考え方を映画に反映されています。
アメリカ映画は基本的にキリスト教的な価値観に裏打ちされており、そして近年ポリコレの影響で不自然なほどに女性や黒人、マイノリティと呼ばれる人たちが活躍する作品が製作され続けているように見受けられます。
つまりこういった配慮がなされた映画は、近年の社会における思想のメインストリームを推し進めていく上で「有益」と判断されたからこそ、受け入れられ、高く評価されているのです。
その様を見ていると、ポリコレが配慮という枠組みを超えて、神格化され、盲目的に推し進められているようにすら感じられます。
バタイユが「反キリスト教徒の心得」という批評の中で、キリスト教を信仰する人について以下のように語っていました。
こうして、ひとは、アブラハムの神あるいは断末魔のキリストを愛していると思いながら、人間の実存を理想への従属関係のうちに位置づけることしかしていない。つまり、かれは、人間の価値を認めることを断念して、きみをあきらめに満ちた隷属関係へと宿命づける原理の価値を、ひたすらに強調することしかしていないのである。
(『バタイユの世界』445ページより引用)
ポリコレというある種の配慮的な事象がいつの間にか大きな存在になり、やがて神格化され、映画はもはやその神の足下に隷属する奴隷のような存在になってしまったのかもしれません。
そんな近年の理性的であろうとすることで、そして善を志向することで価値を生み出そうとする映画たちに対してトリアーはこの『ハウスジャックビルト』という作品で痛烈な皮肉を投げかけているように見えるのです。
作中で「倫理が芸術を殺す。」というセリフが登場しましたが、この作品で彼が語ろうとしているのは、まさにそのことです。
家族映画や、恋愛映画といったジャンルを作品に反映させながらも、その在り方を問いかけるかのような不謹慎描写で彩り、近年の行き過ぎたフェミニズムの在り方にも対抗するような描写にもなっています。
しかし、この映画が面白いのはそれをストレートに訴えかけようとするのではなくて、皮肉的に、時に逆説的に訴えかけようとしてくる点です。
今作のジャック・ザ・リッパーをモデルにしたであろう主人公のジャックはひたすらに今日のポリコレの風潮に真っ向から対立するような行動を取り続けるのですが、最終的に彼が迎える結末は「地獄落ち」です。
つまり散々近年のポリコレの風潮を蔑ろにするような行動を取り続けた彼は、地獄の底へと転落していき、もはや戻ってくることができなくなってしまいます。
そしてエンドロールでは「ジャックよ。二度と戻ってくるな。」という歌詞の楽曲がポップに、そしてアイロニックに歌い上げられるわけです。
これは、近年の映画がポリコレの下に均質化されていく風潮において、それに対応することができなければ居場所を失い転落していくだけであるという様を暗に仄めかしているようでもあります。
俺のような「有益」でない存在は消えなければならないのかもしれないが、「有益」な映画ばかりが蔓延し、いつかは映画という芸術が死んでしまうのではないかという警鐘をトリアーは自嘲的に表現したのです。
ポリコレが作り出す理性的で、善なる映画はこの映画で言うところの「光」なのかもしれません。
そしてそこには「光」の闇が確かに存在すると、ジャックは示唆していました。
一方で、ジャックが落ちていく最後の最後で見た地獄の底の風景は「闇」に満ちていながらも、そこには確かに光がありました。
トリアーは、本作のラストシーンで、この一見悪意の塊にしか見えない『ハウスジャックビルト』という作品の「闇」の中には確かに光があるのだと訴えかけています。
ジャックが家を建てられない理由
ラース・フォン・トリアーはパンフレットの中で、登場人物のやることなすことが全て自分の考えであるかのように解釈されることを快くは思わないと述べていました。
主演を務めたマット・ディロンもその点には賛同していて、この映画でジャックという主人公が完全にトリアー自身に重なるという風には見ていないようです。
ただ、1つ言及されているのは、トリアー自身がジャックという登場人物の思考や行動について完全に理解しているという点ですね。
まず、潔癖や脅迫障害、完璧主義なジャックの側面は、まさしくトリアー自身の抱えているものを反映させた形でしょう。
彼自身も映画に関しては、異常なほどのこだわりを見せ、時にスタッフやキャストに不快感を与えるまでの完璧主義を貫こうとします。
もっと具体的なところで言うならば、ジャックがナチスの処刑方法を模倣しようとした瞬間に「地獄落ち」になるという展開は、トリアー自身の経験が多分に反映されています。
彼は2011年に『メランコリア』をカンヌ映画祭に出品した際に「ヒトラーのことが理解できるし、少し共感もしている。もちろんユダヤ人には同情しているが、イスラエルはいらつく存在なので、同情しすぎてはいない」という内容の発言をしました。
これがきっかけとなって、彼は同映画祭から長らく追放される処分を受けました。
トリアー自身の人格が少なからず、主人公のジャックに反映されているとするならば、彼が家を建てることができなかった理由は明白ですよね。
それは常に強迫観念に駆られ、そして完璧主義を追い求めるがゆえに、自分の中に漠然と存在している「完璧な家」というものを実現できなかったからです。
形にしようとするとそれはいたって平凡な家になったり、どこかで見たことがある家の模倣になったりしてしまいます。
エッシャー『物見の塔』
だからこそ彼は人間を殺し、そしてそれを自分の意のままに操り「撮影」するという行為を繰り返します。
そして物語の果てに、彼は自らが殺めてきた死体でもって1つの家を作り上げます。
それこそ、あの死体で作り上げられた家こそがトリアーにとっての『ハウスジャックビルト』という作品なのかもしれません。
理想を形にできたというわけではなく、自身が映画監督としてのキャリアの中で積み上げてきた材料を構成して、1つの「家」に仕上げたのでしょうか。
この映画は2016年のトランプ当選にインスパイアされている?
この作品を見ていて、主人公のジャックがアメリカの大統領であるドナルド・トランプを想起させる点は多々あったように思います。
ビジュアル的なもので言うと、特に顕著なのが、第3の出来事でジャックが家族を「狩り」に見立てて殺害していくシーンで、彼が被っていた赤いキャップですよね。
また、赤色は同時にナチスやソビエト連邦(共産主義)を想起させる色であるということも含意されているように思われました。
こういうビジュアル的な小ネタも含みつつ、ジャックの内面にも多大な影響を与えていることが見て取れます。
トランプの女性嫌悪的な思想は半ば無意識的にジャックに投影されていて、彼は気がつかないうちに女性ばかりを殺しの対象にしています。
他にも第2の出来事で女性に「年金が2倍」という妄言を吐いて取り入ったように、誇大な表現で民衆を扇動して、実体のないもので支持を集めようとする傾向も酷似しています。
かつてカンヌ国際映画祭のカンファレンスでナチ擁護とも取れる発言をし、物議を醸したトリアーですが、今作ではドナルド・トランプ大統領に対して批判的な姿勢を感じました。
音楽や絵画の小ネタたち
そもそも今作のタイトルである「The House That Jack Built 」はイギリスの有名な童謡なんです。
ジャックが地獄で見たあの楽園の風景というのは、もしかするとこの歌に着想を得たものなのかもしれません。
また、今作には様々な音楽や絵画が登場していて、何とも闇鍋映画のような体裁になっていました。
まずは、デヴィッドボウイの「Fame」という楽曲が作品の中でしきりに登場しましたよね。
Fame makes a man take things over
Fame lets him loose, hard to swallow
Fame puts you there where things are hollow (fame)
(名声が男に見栄を張らせる
名声が男を堕落させ 疑い深くさせる
名声がお前を虚無に満ちた場所に導く(名声))
デヴィッドボウイ「Fame」より
デヴィッドボウイというと薬物中毒になり、精神が自己分裂していったことでも知られ、その点がジャックにも通じる部分があるとは思います。
パンフレットの中ではボウイが猟奇殺人をテーマにしたアルバム「アウトサイド」を発表したことにも言及していましたね。
「名声がお前を堕落させる」という歌詞は先ほど言及したトランプ批判にも通底する部分があると思いますし、何よりこの曲を使っているのは歌詞が映像にリンクしているからでもあります。
Got to get a rain check on pain (fame)
デヴィッドボウイ「Fame」より
「rain check」というのは、雨天順延券という意味の単語で、全体の意味を取ると「痛みを先送りする券を手に入れる」となるでしょう。
ここでパンフレットの中で滝本誠氏も指摘しているように、「雨」と「痛み」という言葉が登場しており、血という痛みのモチーフを雨が洗い流すという第2の出来事にこの上なくマッチしています。
他にも音楽面で言うと、グレン・グールドがピアノを演奏する場面がしきりにインサートされていました。
彼も変人で完璧主義な天才でしたから、ジャックにリンクする者として登場していたのでしょう。
そして1つ今作を象徴する絵画となったのが『ダンテの小舟』でしたね。
これはダンテの「神曲 第8篇」にある物語を題材にした絵画と言われています。
状況としましては、地獄の池を小舟で渡ろうとするダンテとウェルギリウスの下に死者の亡霊が迫ってきているというものです。
この作品は、「詩人ウェルギリウスの超然とした様子とダンテの幸福を案じる不安を、恐れや懸念、不安定な心理状態をはっきりと対比させている」とも評されており、劇中のヴァージとジャックにも重なります。
またダンテの「神曲」では地獄の構造を以下のように語っています。
- 第一圏:辺獄(洗礼を受けなかった者たち)
- 第二圏:淫乱(肉欲に溺れた者たち)
- 第三圏:飽食(大食の罪を犯した者たち)
- 第四圏:貪欲
- 第五圏:怒りと怠惰
- 第六圏:異端者
- 第七圏:暴力者
- 第八圏:悪意者(他人を欺いた者)
- 第九圏:裏切者(最も重い罪、裏切を行った者たち)
ちなみに最後の最後で地獄の底に落ちていくジャックがいたのが、第九圏になるわけですが、ヴァージが「2層上」と指定していたように、本来であればジャックが堕ちるのは第七圏の暴力者の地獄だったわけですね。
あとは個人的に興味深かったのがゴーギャンのタヒチ時代の絵画がインサートされていたことですね。
画家のゴーギャンがタヒチで暮らしていたことは有名な話ですが、文明社会から逃れた彼が「楽園」と呼んだタヒチは自分の欲望をかなえられるある種の偽りの楽園だったんです。
寺田 悠馬氏が2013年に書いた「憧れと差別の狭間で ~ポール・ゴーギャンが描く偽りの楽園」という記事が非常に参考になるので引用させていただきます。
ゴーギャンにとって、タヒチとは異国であり、そして美しい女性だったのではないだろうか。そしてその女性は、憧れの対象であると同時に、植民地の「野蛮人」として、差別と征服の対象だったのではないか。そう思わされるゴーギャンの手記が、現存する。
画家のタヒチ滞在記『ノアノア』は書籍として出版されているが、その生原稿を調べると、ゴーギャンは余白にこう走り書きしている。
「目が穏やかな女をたくさん見た。私は、彼女たちが一言も発することなく、抵抗することもなく、乱暴に犯されるのを望んだ。それは強姦することへ切望とも言えるだろう」
まさに彼の指摘している通りで、ゴーギャンがタヒチに求めたのは自分の欲望を実現することに他ならなかったのでしょう。
そういう意味でもゴーギャンという画家の持っていた女性の征服願望や抑えきれない欲望の発露という特性はジャックにも通じる部分があると思いました。
細かいモチーフを挙げていくと、まだまだ語りたいことは尽きないのですが、後ほど追記もしていけたらと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ハウスジャックビルト』についてお話してきました。
ただラース・フォン・トリアー監督の復活を印象付ける作品だと思いましたし、単純に映画としても傑作だと思います。
手持ちカメラでの撮影や、登場人物が会話している最中でアングルも構図も変わらないのにカットを入れて映像にテンポを生み出していく手法も健在でした。
またやはり彼自身の人生を投影した映画でもあり、トランプに対する警鐘や、映画に持ち込まれるポリコレへの不信感を示しているという意味でもすごく挑発的な映画でした。
と諸手を振っておすすめはしづらい映画ではありますが、良かったらチェックしてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
トランプの2人の息子はハンティング愛好家として知られているので、恐らくあれは狙ってやったことでしょうね。それにしても悪趣味(笑)
ポリコレ自体を批判する気はないのですが、最近ディズニーが畳みかけてることもあって多分ポリコレ疲れをしていたんでしょうね。この映画を観てちょっとだけ頭がスッキリしたように感じました。また、平日のレイトで観たんですが意外と客が入っていて、若い人や女性も結構来ているのを見て少し嬉しくなりましたね。
フタさんコメントありがとうございます。
>トランプの2人の息子はハンティング愛好家として知られているので、恐らくあれは狙ってやったことでしょうね。
確かにそこも反映されてますよね!かなり悪趣味な演出ではありますが・・・。
ポリコレ自体が悪いというより、映画というジャンルにそれを過剰に持ち込んだがために、物語やテーマ性が均質化されていっている現状が怖いですよね。
フタさんが挙げておられるディズニー映画に顕著ですが。