みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『凪待ち』についてお話していこうと思います。
佐藤泰志さんの函館三部作とかが好きな人は絶対に好きなタイプの作品だと思いますよ。
石巻の港町に残る震災の爪痕と、漂う閉塞感の中で人生にもがく1人の男の物語である本作のテイストは『海炭市叙景』に近い印象です。
脚本を担当した加藤正人さんがノベライズを書き下ろしていて、こちらと比較しながら見ることで、映画を担当した白石監督の視点も見えてくるんじゃないかと思っています。
さて、本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『凪待ち』
あらすじ
務めていた印刷会社を退職し、木野本郁男は競輪に明け暮れる日々を過ごしていた。
彼は昆野亜弓という美容師の女性と同棲しており、肉体関係はあったが、恋人関係ではなかった。
彼女には元夫との間にできた高校生の娘、美波がいたが、不登校の引きこもりで他人にはあまり懐かない。
しかし、ゲームをきっかけにして美波は郁男に懐くようになり、それが2人が同棲するきっかけともなった。
郁男は自身の退職金や貯金を全て競輪で溶かし、さらには亜弓がへそくりとして貯金していたお金にも手をつけていた。
そんなある日、彼女の父である勝美が余命僅かだということで、美波と共に故郷の石巻へと戻ることになる。
郁男はギャンブルから足を洗うことを条件として彼女の実家へと移り住むこととなった。
勝美との関係は上手くいかなかったが、仕事や支えてくれる人にも恵まれ、競輪場のない石巻の土地柄も相まって郁男は穏やかな生活を取り戻す。
しかし、美波は、自身の交友関係が原因で亜弓と衝突して家を飛び出してしまう。
亜弓は夜になっても帰って来ない美波を心配してパニックに陥り、郁男を激しく責める。
そして、大雨の日だったが、彼女を車から降ろしてひとりで捜すよう突き放す。
その後、美波が見つかった頃、亜弓がの近くで遺体となって発見された・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:白石和彌
- 脚本:加藤正人
- 撮影:福本淳
- 照明:市川徳充
- 編集:加藤ひとみ
- 音楽:安川午朗
あくまで個人的な評価と価値観からの意見なんですが、今回の『凪待ち』は傑作が約束されていると言っても過言ではありません。
当ブログ管理人調べだと白石和彌さんは傑作と微妙な作品を交互に世に送り出す監督なんです(笑)
- 『日本で一番悪い奴ら』
- 『牝猫たち』
- 『彼女がその名を知らない鳥たち』
- 『サニー32』
- 『孤狼の血』
- 『止められるか、俺たちを』
- 『麻雀放浪記2020』
『止められるか、俺たちを』は傑作とまではいかないですが、悪くない映画ではありました。
ただ上記のように傑作ばかりを世に送り出しているというわけではなく、間で何とも言えない微妙な映画を作っている監督でもあります。
そして丁度今年の4月に公開された『麻雀放浪記2020』が何ともイマイチな出来でした。
『彼女がその名を知らない鳥たち』をあれほどの出来に仕上げた白石監督ですから、今作も間違いなく最高の映画にしてくれることでしょう。
そして脚本を担当したのが加藤正人さんですね。
東京と福島を行き来する生活を送る女性を描いた『彼女の人生は間違いじゃない』、東京と新潟を行き来する生活を送るバス運転手を描いた『ミッドナイト・バス』など「都会と田舎の行き来もの」を多く手掛けてきた脚本家です。
今回の『凪待ち』もまた川崎と石巻という2つの土地を繋ぐ映画です。
震災への言及もありながら、静かにそして丁寧に描かれた物語は、彼のこれまでの積み重ねがあってこそのものでしょう。
撮影・照明には『火花』や『ナラタージュ』で知られる福本淳さん、市川徳充さんが参加しています。
音楽・編集には、これまでにも白石監督作品に携わってきた加藤ひとみさんと安川午朗さんが参加していますね。
- 香取慎吾:木野本郁男
- 恒松祐里:昆野美波
- 西田尚美:昆野亜弓
- 吉澤健:昆野勝美
- 音尾琢真:村上竜次
- リリー・フランキー:小野寺修司
主演の香取慎吾さんは、これまでどちらかというとコメディ俳優的な色合いが強かったのですが、今回は一転してギャンブルに明け暮れるダメ男の役を演じます。
ただこの真逆のキャラクターを持っている彼だからこそ今回の役が映えるんですよね・・・。
今回の郁男役は、香取慎吾さんのような明るくて陽気なキャラクターの俳優ができる一度きりの大技だと思っています。
ということもあり、当ブログ管理人は非常に香取さんの演技を拝見するのを楽しみにしております。
脇を固めるキャスト陣も恒松祐里さん、西田尚美さん、吉澤健さんなどネームバリューや話題性によるキャスティングではないことを明確に感じさせてくれる実力派揃いの顔ぶれです。
そして何と言ってもリリー・フランキーさんがキャスティングされているんですが、これが面白いです。
『凶悪』や『SCOOP』を見ていた人間からすると、今作の彼はひたすらに怪しいというより、悪人臭しかしないんですよ(笑)
こういうキャスティングも狙ってやっているのか、それともこの役を演じられるのはリリーフランキーさんしかいないとなったのか?
本作のより詳しい情報は映画公式サイトへどうぞ!!
『凪待ち』感想・解説(ネタバレあり)
人はきっとすぐには変われない
(C)2018「凪待ち」FILM PARTNERS
映画や小説において「変化」というものを避けて通ることはできません。
とりわけ今作『凪待ち』もギャンブル依存症に陥り、人生のどん底にいる男が必死に変わろうともがく姿を描いています。
ただ依存症に陥っている人の多くが、そういう自分を心のどこかで嫌悪していて、変わらないといけないことも分かっているんです。
それでも止めることができずにずるずるとギャンブルの負の連鎖へと身を落としていきます。
そういう人たちの心理って、周囲の人から見たら全く理解できないものなんですよね。
しかし、物事はそう単純ではなくて、彼らにはどんなに変わりたいと思っても、変わることができないというジレンマがあります。
『凪待ち』という作品はその心理をすごく丁寧に描いている作品だと思います。
個人的に好きなのが、亜弓の描き方です。
彼女は美波のことを大切にしてくれている郁男を大切な存在だと認知していて、そして同時に変わって欲しいとも願っています。
ただ彼女は、郁男に対して無理やり変わらせようとしているというよりは、むしろ彼が自分で変わってくれることを信じていて、少しずつギャンブルから遠ざかってくれるだろうと期待しているんですね。
へそくりとして貯めているお金が減っていることも、それを盗んでいるのが郁男であることも分かっていて、それでも尚彼女は信じているんです。
すぐには変われないと分かっていながらも、1つの変化のきっかけとして彼を石巻に連れていき、仕事も紹介します。
そこで郁男は、ギャンブルの欲望と戦い、時に町内のノミ屋で競輪に再び手をつけてしまいながらも、自分を嫌悪してという葛藤を続けています。
亜弓はそれもきちんと知った上で彼を責めないんです。
私は、「変われないけれども変わろうと足掻く郁男」を受け入れる亜弓という女性の愛の深さに感動しました。
彼女は決して、「私がついていてあげなければ」という類のある種の逆依存的な考え方で彼を支えているのではありません。
彼を深く愛していて、だからこそ「変わろうとしているけれども簡単には変われない苦しみ」をも受け入れているのです。
そんな彼女を失っても尚、郁男はギャンブルから足を洗えずにいます。
そしてろくでもない自分を嫌悪しては、その不安を払しょくするためにギャンブルに傾倒するというループを繰り返します。
それでも亡き亜弓の愛のために、自分を慕ってくれる美波のために、自分の息子だとまで言ってくれた勝美のために彼は必死に人生にしがみつこうと足掻きます。
足掻いて、足掻いて、足掻いて。
荒れた海のような激しい人生の中で「凪」を待つかのように、彼は必死に足掻いています。
ノベライズ版の文章の最後の行には「まだ、海は荒れていた。」とあります。
きっと、郁男はまだ完全に変われたわけではないと思います。
何かのきっかけで再び競輪やギャンブルに傾倒してしまいそうな危うさをどこかに宿しています。
それでも、彼が「変わろうとすること」を続けられるのであれば、きっとその人生には希望の光が差し込むはずです。
荒れた海がいつか「凪」を迎えるように。
『凪待ち』は「変化」というものにすごく真摯に向き合った作品だと思いますし、安直に「人は変われる」という様を描かなかったことに好感が持てます。
この作品はフィクションとして、必死に変わろうと足掻き続けた者に微かな希望を提示したに過ぎません。
その優しい希望が垣間見えるラストシーンに思わず涙がこぼれます。
辿り着けない場所としてのパナマのサンブラス諸島
『凪待ち』という作品に私が一番似ていると感じたのは、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』です。
この作品は妻子を捨てて失踪したトラヴィスという男の再生の物語を描いているのですが、作中に「パリ」という土地が出てきます。
これはフランスの首都パリのことではなくて、テキサス州のパリのことなんですが、作中で登場するのはあくまでも「地名」だけなんです。
©1984 REVERSE ANGEL LIBRARY GMBH, ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH 映画『パリ、テキサス』より引用
「パリ」という場所は、かつてトラヴィスの両親が愛し合った場所であり、彼はそこに土地を買い、「パリ」で暮らすことで自分は幸せを手に入れることができると信じてやまないのです。
しかし、彼は「パリ」に購入した土地の写真を持っていますが、映画の中でそこに辿り着くことができません。
つまりこの作品において「パリ」という土地は、辿り着けないことに意味があるんです。
トラヴィスは別れた妻子と再会し、その関係を取り戻すきっかけをつかむのですが再び、彼らの下から去ってしまいます。
それはなぜかと言うと、彼が「パリ」に辿り着けていないからです。
ここで「パリ」という場所は単なる地名を超えて、彼の辿り着くべき真の幸せを象徴する心象風景へと昇華します。
そこに辿り着くことができた時、彼は再び家族との生活を選ぶことができるのでしょう。
この作品にはパナマのサンブラス諸島という土地が登場します。
ここは劇中で亜弓が行きたいと切望していた場所でもあります。
郁男が彼女と共に写真展に出かけた際に「いつか、ここに連れていってやる。」と宣言しました。
このコンテクストからも『凪待ち』という作品におけるパナマのサンブラス諸島という土地はまさしく『パリ、テキサス』におけるパリに重なります。
亜弓はパナマのサンブラス諸島という場所にたどり着くために、その写真が収められたアルバムに貯金をしています。
『パリ、テキサス』同様、その土地が郁男と亜弓がたどり着きたいと願う「幸せ」の象徴であるとするならば、それは彼らが共に過ごす未来のための貯金でもあります。
しかし、彼はその貯金に手をつけ、競輪へと溶かしていきます。
このメタファー表象が意味しているのは、郁男がギャンブルに傾倒しているために、彼らは「幸せ」になかなか辿り着くことができないという事実でもあります。
ただ、それを知っていても尚、その場所に貯金を続ける亜弓も不思議ですよね。
「『一生懸命貯めてんだけどなかなか増えないの』って母さんが言うから『貯めたら増えるに決まってるじゃない』って言ったの。そしたらね『それがなかなか増えないの。不思議だね』って笑うの。変だよね。わけ分かんないよ。」
(『凪待ち』pp.185-186)
私はもうこの一節を読んでいて涙が止まらなくなりました。
亜弓は郁男に依存しているわけでもダメ男だから面倒を見ているわけでもありません。
心の底から愛しているし、それでいて信じているんです。
必死で変わろうとしている、すぐには変われなくとも足掻き続けている彼を見て、この人とならいつかパナマのサンブラス諸島が表象する「幸せ」にたどり着けると信じています。
しかし、郁男はその思いになかなか応えることができず、結果的に亜弓は命を落としてしまいます。
さらに彼は、自暴自棄になってそのアルバムに貯金されていたお金を全額、競輪に溶かしてしまうのです。
ここで2人がパナマのサンブラス諸島が表象する「幸せ」に辿り着くことは不可能になってしまいました。
ただ、そこにはまだ勝美と美波という存在が残されています。
闇金から借金をし、ボロボロになってしまう郁男でしたが、亜弓がいなくとも彼のことを家族だと言ってくれる2人の存在が彼をどん底から救い出します。
そして本作のラストシーンは何とも印象的です。
勝美と美波、そして郁男の3人は石巻の海に繰り出し、そこで「天使の梯子」と呼ばれる美しい風景を目撃します。
その風景は南国のパナマのサンブラス諸島とは色合いが大きく異なるものですし、似ても似つかないものなのでしょう。
だからこそ郁男は、そんな風景に亜弓の不在への喪失感と、彼女の望む場所へと連れて行ってあげられなかった不甲斐なさで胸が詰まり、涙が止まらなくなるのです。
きっと3人が目撃している風景はパナマのサンブラス諸島が表象していた「幸せ」のイメージとは異なります。
しかし、その風景には確かに「幸せ」が宿っています。
望んでいた場所にはたどり着くことができなかったけれど、望んだ形ではなかったけれども、そのラストシーンに確かに息づく「幸せ」のカタチにただただ感動が止まりませんでした。
『パリ、テキサス』が志向した、家族と再び別れ、いつかたどり着けると信じて「パリ」目指すというラストも完璧だったと思います。
一方で『凪待ち』が志向した、望んだカタチではないけれども、確かに希望が顔を覗かせているというラストもすごく救いがあって個人的には大好きでした。
ポスト震災の物語として
(C)2018「凪待ち」FILM PARTNERS
2011年に東日本大震災があり、たくさんの尊い命を奪ってしまいましたが、この大災害は確かに物語にも大きな影響を与えています。
当然その直後から散見されるようになったのは、「震災」を物語の中心に据えた物語ですね。
というのも震災が発生してからしばらくは、東日本大震災とは未曽有の大災害であり、特別な出来事であったからです。
しかし、時が経つにつれて、あの出来事は少しずつ私たちの日常に溶け込み、次第に「特別な」ものではなくなっていきました。
もちろん被災された方々にとってはいつまでも忘れられないものであることは間違いありません。
ただ、日本社会全体の認識として私たちは今、東日本大震災が「日常」として存在する「今」を生きています。
『凪待ち』という作品は、その点で震災から9年が経過した今、1つ描くべき震災の在り方を提示してくれていたように思います。
本作の「震災」の描き方に対するスタンスは一貫していて、作中に震災を想起させる設定や風景を登場させつつも、物語の本筋にそれが密接に関わりを持たないというものです。
確かに石巻という震災に関連のある土地が登場しますし、震災によって変わってしまった海辺の風景や、美波が原子力発電所の事故に絡めていじめを受けていたことなどは作中で描写されています。
しかし、それらは物語に直接的な影響を及ぼしているとは言い難いです。というよりも本筋には何ら影響を与えていません。
ただ震災から8年が経過した今、目に見えて町が揺れているわけではありませんが、未だに東日本の町には確かに傷跡が残っており、そこでは「見えない振動」が続いているように見えました。
そこで暮らしている人々は震災が日常となった今を確かに生きているのですが、震災前の「凪」の状態には戻ることはできていません。
ノベライズの最後の一行に綴られた「まだ、海は荒れていた。」という一節はポスト震災の今を生きる人々の現状を物語っているようです。
だからこそ『凪待ち』というタイトルには、郁男の心情的な側面と共に、「見えない振動」の中で生きる人々のコンテクストが込められているように感じました。
2011年以前の世界に戻ることはできません。
それでもきっといつか「凪」は訪れるはずだと、この作品はそう思わせてくれます。
2016年に『君の名は』が大ヒットを記録しましたが、その際に新海誠監督が以下のようにコメントをされていました。
町は、いつまでも町のままではない。いつかは無くなってしまう。劇中で瀧が入社面接で言った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という台詞の通りです。そういう感覚の中で僕たちは生きるようになった。そこで描く物語は、今回のように決して諦めずに走っていき、最後に生を獲得する物語にしなければいけない気がしたんです。やっぱり2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきたような気がします。
人がいつか死ぬように、町だっていつか消えてしまうかもしれません。
世界は地震が起きる起きないに関わらず、絶えず姿を変えていきます。
それでも私たちは、そんな世界の中で、町の中で生きていかなければなりません。
ギャンブル依存症であり、そして最愛の人を失うというどん底にいても尚、「荒れた海」の中で懸命に足掻き、生きようとする郁男の姿は、震災から8年が経過した世界を生きる我々にとっても指針に思えます。
震災映画としての文脈から紐解いても、今作のラストは非常に印象深いものでした。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『凪待ち』という作品についてお話してきました。
『万引き家族』のノベライズ版と映画版を比較していた時にも思ったんですが、脚本をどう映像化するのかという観点で見た時に様々な発見があります。
とりわけ映画監督がその脚本のどの部分を映像に託し、明文化しないのかという点が個人的にはすごく興味深かったです。
活字メディアであれば、登場人物の心情を基本的には文字に起こして、読み手に伝えようとします。
しかし、映像メディアの場合は、セリフやナレーションで伝えてしまうのではなく、映像で見る者に感じ取らせることが重要であり、それができるのが一流の映画監督ということになります。
『万引き家族』は監督・脚本(ノベライズ版)共に是枝裕和さんが担当しています。
彼は、2つのメディアの特性を理解した上で語り口を明確に使い分けていました。
『凪待ち』は監督が白石和彌さん、脚本(ノベライズ版)が加藤正人さんの担当になっています。
それ故に、今作はいつも以上に白石監督らしさや、彼の映画に対する視点をじっくりと味わえる作品なのではないかと思っています。
ぜひぜひ映画を鑑賞するとともに、ノベライズ版を手に取って比較しながら作品を深く味わってみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。