みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『世界の涯ての鼓動』についてお話していこうと思います。
2017年に海外では上映スタートしていた作品のなのですが、なぜか日本ではなかなか上映されず、結局2年越しに公開される運びとなりました。
個人的に今作の邦題がすごく気に入っていて、ヴィム・ヴェンダースが1991年に製作した『夢の涯てまでも』という作品を想起させてくれるんです。
この作品は世間的な評判はイマイチな作品なのですが、ヴェンダース映画史を見ていく上で欠かせない作品ですし、彼の1つの集大成ともいえる作品です。
そんな作品を想起させる「涯て」というキーワードを邦題に選んでくれたことにまずはすごく感謝しています。
ちなみに当ブログの名前である「ナガの映画の果てまで」というのは、この『夢の涯てまでも』と後発のヴェンダースのDVD-BOXのタイトル「旅路の果てまで」を意識してつけたものだったりします。
そんなヴェンダースの最新作が満を持して公開ということで早速見てきました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『世界の涯ての鼓動』
あらすじ
生物数学者であるダニーは深海に潜り地球上の生命の起源を解明する調査を間近に控えていた。
一方のMI6のエージェントであるジェームズは水道技師を装いソマリアのテロ組織に侵入することを画策していた。
2人は仕事の直前、偶然にも休暇でフランス・ノルマンディーの海辺にある小さなホテルを訪れた。
そこで出会い、話し、そして身体を重ねるうちに2人は深い恋に落ちていく。
しかし、2人はそれぞれの仕事に戻らなければならず、MI6のエージェントであるジェームズは自分の素性を明かすことができない。
それでもいつかどこかで再会できることを予見しながら2人はそれぞれの人生へと戻っていく。
ダニーは深海に潜るミッションの前に何とかしてジェームズと連絡を取りたいと考えるが、彼は電話に応答しない。
自分は飽きられてしまったのだと、孤独を感じるダニー。
その頃ジェームズはソマリアでテロ組織に捕らえられており、監禁状態にあったのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:ヴィム・ヴェンダース
- 原作:J・M・レッドガード
- 脚本:エリン・ディグナム
- 撮影:ブノワ・デビエ
- 編集:トニ・フロッシュハマー
- 音楽:フェルナンド・ベラスケス
私もこんなブログを書いている人間なので、年間に多くの映画を見て、そして「すばらしい!」「傑作だ!」という言葉を乱用しているような気はするんです。
ただヴェンダースの映画を見てしまうと、たちまち他の映画がかすんで見えてしまい、自分が本当に心から愛しているのは彼の映画なんだと気がつかされてしまいます。
私にとっては、そういう不思議な引力をもった映画監督でして、今回の『世界の涯ての鼓動』も海外では酷評されていたんですが、実際に見てみると、「ザッツ・ヴェンダース」な映画なんですよ(笑)
この映画は間違いなく彼にしか撮れないし、おそらく彼以外の映画監督が撮ると、作品が空中分解します。
そんなギリギリの絶妙なバランスの上に成立している映画だと思いますし、彼の信じる「イメージ観」ありきで作られている映画なので、一般受けは間違いなく悪いです。
脚本には『幸福の黄色いハンカチ』をハリウッドリメイクしたトンデモ映画である『イエローハンカチーフ』の脚本を担当したエリン・ディグナムです。
今作『世界の涯ての鼓動』は正直ヴェンダースが監督を務めているからこそギリギリ映画としての耐久度があったとはいえ、脚本はかなり完成度が低かったと思います。
他にも近年のヴェンダース作品ではお馴染みのブノワ・デビエが撮影に参加しました。
また編集にもヴェンダース流を知るトニ・フロッシュハマーが加わり、充実の陣容となっています。
- ジェームズ・マカボイ:ジェームズ・モア
- アリシア・ヴィキャンデル:ダニー・フリンダーズ
『X-MEN』シリーズや『スプリット』などで話題となり、人気俳優の仲間入りを果たしたジェームズ・マカボイが本作の主人公の1人を演じています。
もう1人の主人公を演じるのは、2015年公開の『リリーのすべて』にてアカデミー賞助演女優賞を受賞したアリシア・ヴィキャンデルです。
今作中には、そんな2人が情熱的に恋に落ちていくシーンもありますので、要チェックです(笑)
より詳しい情報を知りたいという方は、公式サイトへどうぞ!!
『世界の涯ての鼓動』感想・解説(ネタバレあり)
本当に見せたいものは映像では見せない
ヴィム・ヴェンダース作品を見ていて、いつも驚かされるのは彼は本当に見せたいものは映像では見せないということだ。
彼にとっての映像とはあくまでも「事物の記録」でしかない。
それはリュミエール兄弟がシネマトグラフで日常の何気ない風景を撮り、それを「映画」として上映していた頃の考え方に近い。
その「事物の記録」の中で確かに物語が生まれ、それが映画になる。
彼は元々画家だったのだが、自身のイメージを表現するためのツールとしては限界を感じてしまった。
ある日、彼は画の題材を探そうと、線路の見える無人の風景を撮影していた。
そんな時、1人の男がカメラのフレームから走りこんできて、線路を飛び越えて走り去っていった。
それを見た彼はこれこそが「物語」の誕生の瞬間であると悟ったのだ。無人の風景の映像の連続の中に確かに時間が生まれ、「イメージ」が生まれた。
その男はなぜ線路を飛び越えていったのか。どんな生い立ちや背景を持っているのか。どこから来て、どこへ向かうのか。
1人の男がカメラの前を偶然走り抜けていっただけの映像が見る者に実に多くの「イメージ」をもたらしてしまうという表現の豊かさにヴェンダースは恋をしてしまったわけだ。
なぜジェームズとダニーは惹かれ合ったのか?
「イメージ」という観点で作品を捉えた時に、今回の『世界の涯ての鼓動』という作品にはいくつか重要なシーンがある。
まずは冒頭のジェームズ・モアが美術館でフリードリヒの『海辺の修道士』を見ているシーンだ。
この絵画はしばしばフリードリヒ自身が修道士に投影されていると解釈され、そこには計り知れないほどの孤独が秘められていると解釈される。
1人の小さな修道士が深い孤独の内にありながら、天から差す光にイエスキリストからの救済を求めているという風にも見えるんじゃないかと思う。
この絵画をジェームズ・モアはじっと眺めているのだが、この時彼はまさしく自分自身をこの修道士に投影していたのであり、そして静かに「死のイメージ」を見ていたのではないだろうか。
最初にも書いたが、ヴェンダースは「本当に見せたいものは映像では見せない」のだと思う。
だからこそこのシーンでも本当に見せたいのは、ジェームズ・モアという男が絵画を見ているという事実ではない。
彼がフリードリヒの絵画の中に描かれた修道士の姿に自分を重ね、漠然とした「死のイメージ」を抱いている。
そのイメージこそがヴェンダースが我々に真に見せようとしているものなのである。
このシーンがあるからこそ、『世界の涯ての鼓動』という作品において後のいくつかのシーンが意味を有し、作品の中で有機的に機能する構造になっている。
対照的に、ノルマンディーのホテルで出会ったダニーは深海の暗闇の中にまだ見ぬ生命のカタチを見つけるための研究をしていた。
ノルマンディーのホテルでダニーと会話していたシーンもそうだったが、ジェームズ・モアという男は常に「死」が自分に迫ってくることを予見し、それと向き合いながら生きている。
だからこそ生命の存在を信じ、深海という死の世界から懸命に生命の小さな光を探し求めているダニーに自分が求めている何かを見る。
つまりジェームズ・モアには「死」のイメージがつきまとっており、彼にとってダニーとは「生」そのものなのだ。
対照的に「生」のイメージを追い求めるダニーにとってジェームズ・モアという男性は「死」そのものでもある。
ジェームズ・モアがノルマンディー上陸作戦の跡を眺めながら自身の過去の戦争時代を回顧しながら「死」のイメージを見つめているシーンがあった。
この時、その横にいたダニーは突然下着姿になり、海へと飛び込んでいき、泳ぎ始める。
ノルマンディーという戦場の跡で美しく生命力にあふれたダニーの姿に彼はくぎ付けになる。
この時、彼にとってダニーという存在が「生」のイメージに強く結びついたことは疑いようもない。
一方で、彼女は彼との会話の中で「潜水艦に亀裂が入ったら・・・。」という海底での「死」を想起させるエピソードを聞かされる。
そんな対照的な2人だからこそノルマンディーのホテルで少し会話しただけにも関わらず、強烈に惹かれ合う。
ギリシャ神話においてアンドロギュノスという存在が登場する。
これは両性具有者とも呼ばれ、プラトンの「饗宴」の中では、ゼウスによってアンドロギュノスが分割されたためにこの世界には「男女」の区別が存在するのだと綴られている。
神がアンドロギュノスを切断して手足が2本ずつ、世紀が1つずつの存在に分割したために、男は女、女は男を自分の半神を求めるが如く、探し続けるとされたわけだ。
生と死は本来合一のものと言える。だからこそそれぞれが自分とは正反対のイメージを有しているジェームズ・モアとダニーは自分の半身を見つけたかのように求め合う。
イメージの中にお互いを見る
休暇を終えた2人はお互いに自分の人生へと戻っていく。
グリーンランドでの海底探査に備えて研究を続けているが、彼女は新たな生命を見つけるための任務を前に「死」のイメージに憑りつかれ、孤独を感じるようになる。
彼と近くにいた時は、彼の纏う「死」のイメージに不思議な引力を感じていた彼女だが、1人になるとただ漠然とした「死」へのイメージだけが自分の下に残り不安に押しつぶされそうになってしまうのだ。
だからこそ彼女は電話を何度も何度もかけ続け、彼との再会を画策する。
それはこの時、彼女はまだジェームズ・モアという男の中に「死」のイメージを見ることはできても、「死」のイメージの中に彼を見出すことができていないからだ。
ソマリアでテロリストたちに囚われてしまったジェームズ・モアもそうだ。
彼は監禁され、死の恐怖の中で必死に彼女の姿を思い浮かべ、「生」のイメージにすがろうとする。
暗闇の中でわずかに差し込む光の中に必死にダニーの姿を見ようとしているのだ。
このことはヴェンダースがジェームズ・モアの囚われている地下牢の頭上に開いた丸い穴と、ダニーが覗き込んでいる船窓をリンクさせて描いたことからも明らかである。
そしてここでもう1つ作品の中で非常に重要なシーンが登場する。
ジェームズ・モアがテロリストたちによって地上へと連れ出され、そして海を前にして実質上の死刑宣告を受けるシーンだ。
(C)2017 BACKUP STUDIO NEUE ROAD MOVIES MORENA FILMS SUBMERGENCE AIE
この時の彼の置かれている境遇や風景が冒頭に登場したフリードリヒの『海辺の修道士』に重ねられていることはもはや言うまでもない。
彼は冒頭に絵画を見ている時に漠然と浮かべていたイメージの中に、自分自身が今まさに立っているという状況なのだ。
そして必死にダニーの姿をイメージしようとするのだが、彼にはどうしてもできない。
どれだけ信じても信じても見えない彼女のイメージ。そんな孤独に絶望し、彼は海の中で1人気が狂いそうになっているのである。
彼は何とか命を奪われずに済み、そして海辺に倒れこむ。
この時、彼の身体が倒れるとともにカメラも地面に横たわり、そして映像の中の世界が横倒しになるのだ。
ヴェンダースがこのシーンで何を意識したのかというと、それは海を見つめる視線だ。
私たちはこのシーンで海を見つめるジェームズ・モアの視界を共有する。
この時、ヴェンダースが『世界の涯ての鼓動』という作品における、とあるシーンを想起させようとしていることに気がついて欲しい。
それは間違いなく、2人がノルマンディーのホテルで最初にランチをしていた時にしていた会話のシーンである。
ダニーはジェームズに目を瞑って海底の世界をイメージすることを要求していた。
(C)2017 BACKUP STUDIO NEUE ROAD MOVIES MORENA FILMS SUBMERGENCE AIE
しかし、彼はその言葉にいまいちピンと来ておらず、会話の途中に目を開いたりしていた。
つまり、このシーンで彼が呆然と眼を見開き、海を見つめていることを観客に印象付けたかったのは、「目を瞑ること」こそがイメージに到達するためのトリガーだという点をヴェンダースが既に提示していたからである。
ヴェンダースと言葉
物語は終盤へと向かって行く。
ダニーは海底探査の任務の中で、彼のことを思い、強く「死」を連想させるハデスの詩を作る。
一方のジェームズはジョン・ダンの詩を大切に自分の中で噛み締めている。
彼らは極限状態の中で1つの救いを「言葉」に求めているのだ。
それは、冒頭で挙げたヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』という作品にリンクしてくる。
この作品でヴェンダースは夢の中で美しいイメージを無限に見続けることができる装置を登場させ、盲人に映像を見せようとした。
するとその装置を使った人間は美しいイメージに魅せられ、その世界の虜になってしまい、中毒症状に陥り自分を失い始める。
そんな物語の最後にヴェンダースは「言葉」でその者たちを救済しようとした。
彼らは自分自身の物語を「言葉」で読むことによって、自我を取り戻し、夢の世界から救済されるのである。
ヴェンダースは90年代初頭に自身の1つの集大成として送り出した作品の中で「言葉」こそが「世界」であり、それでいて「愛」であるというアンサーを提示して見せた。
しかしテロリストたちによる残酷な事件が世界中で起き始めてからというものの世界は大きく変化した。
とりわけイスラム教過激派をテロ行為に走らせるのは「ジハード」という概念であり、それはコーランに「言葉」として記されたものだ。
つまり今我々が住んでいる世界というのは、「言葉」によって争いが起こり、人が死んでいく世界なのかもしれない。
アッラーとはイスラム教圏における唯一神の呼称だが、これはキリスト教圏における神ヤハウェと同じものを指しているとも言われ、その差異を作り出しているのは紛れもなく「言葉」なのだ。
我々は本来であれば、同じ神をイメージしているはずなのだが、なぜか経典や呼称と言った「言葉」の違いによって信仰を隔て、そして争っているのだ。
こうした状況を見て、ヴェンダースが今の世界を救うのは「言葉」ではないと考えていても不思議ではない。
というよりも今回の映画の中でテロという題材を扱ったのは、紛れもなく「言葉」が世界や愛を脅かしている現状を浮き彫りにするためだったはずだ。
そして、映画はいよいよラストへと突入する。
ダニーは海底探査のトラブルの最中、自分の書いた詩にすがるような素振りを見せるが、結局潜水艇の電力は復旧し、生還への切符を手にする。
そして小窓の外に見える、超深海層の生命の神秘の中に確かにジェームズのイメージを見つめている。
一方のジェームズはマングローブで再び海辺に佇み、冒頭の『海辺の修道士』のようなシチュエーションに置かれている。
彼が要請した救援部隊による空爆攻撃が始まり、それと共に彼は海へと飛び込む。
爆撃の衝撃で絶命の危機にさらされながら、彼は目を閉じる。
するとそこには、ダニーのイメージが鮮明に浮かんでいるのだ。
こうして2人は確かに再会を果たした。
死と生のイメージが合一し、世界の涯てと涯ての物語がリンクする。
(C)2017 BACKUP STUDIO NEUE ROAD MOVIES MORENA FILMS SUBMERGENCE AIE
彼は2人の物語に「言葉」ではなく、イメージで救いをもたらしたのである。
今私たちの世界は、「言葉」というものに支配され、そして「言葉」によって脅かされている。
「言葉」という可視のものに縛られ、目を瞑り想像することを忘れている。
何びとも
自立した孤島ではない
皆が大陸の一片であり
全体の一部をなす。
何びとの死であれ
私の一部も死ぬ。
私は人類の一員なのだから。
ゆえに問うなかれ。
誰がために鐘はなるのかと。
あなたのために鳴る。
私たちは目を瞑り、そして想像しなければならない。
あなたの「生」と世界の涯ての「死」は確かにつながっている。
ヴィム・ヴェンダースは20世紀末に自身が世に送り出した『夢の涯てまでも』という作品を、21世紀の世界や社会を見て『世界の涯ての鼓動』という形でアップデートして見せた。
彼は映像を我々に見せながら、その映像に重要な意味を持たせてはいない。
彼は言葉を我々に聞かせながら、その言葉に重要な意味を持たせてはいない。
ただその向こうに豊かに広がる美しいイメージを観客に共有して欲しいと願っているのだ。
『世界の涯ての鼓動』という作品は、映像とイメージの論理を追求してきたヴィム・ヴェンダースという男の1つの到達点なのではないかと私は思う。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回はヴィム・ヴェンダース監督の『世界の涯ての鼓動』という作品についてお話してきました。
正直細かい所について語りだすとキリがないので、作品の大枠部分についての話にとどめました。
今作を見て、やっぱり自分は彼の映画がつくづく大好きなんだなと再確認されました。
こんなに映像の力を本気で信じている監督は他にいないんじゃないかと思うほどに、彼の撮る映像は他の映画たちとは一線を画するものがあります。
もう年齢的にはキャリアの佳境に入ろうかという彼ですが、昨年の『アランフエスの麗しき日々』と言い、次々に実験的な作品を世に送り出す野心が燃え続けていることに感心します。
これからも素晴らしい作品を楽しみにしております。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。