みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『イソップの思うツボ』についてお話していこうと思います。
と言いつつも、当ブログ管理人は実はあまり『カメラを止めるな』が好きではありませんでした。
この作品が当時、その構成が革新的だ!という点で非常に支持されていたような記憶がありますが、正直これまでにこの構成の作品がなかったわけでもないですし、三谷幸喜さんの『ラヂオの時間』にも非常に内容が似ていました。
こういう事情があり、やはりどうしてもノリきれなかったなぁ~という記憶が強く残っています。
ただ今回の『イソップの思うツボ』については監督が3人体制であり、上田監督も『カメラを止めるな』とは少し違ったアプローチで攻めるという旨の発言をしていたので、ひそかに楽しみにしておりました。
ということで早速、劇場で鑑賞してきました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『イソップの思うツボ』
あらすじ
亀田美羽は、4人家族で、部屋に置いてある亀だけが友達の内気な大学生だった。
彼女は、それまで大学の他の生徒たちともあまり関わりを持とうとはしなかったが、ある日、大学に赴任してきた講師に好意を寄せるようになる。
一方で、美羽のクラスメートでもある兎草早織は人気のタレント家族の一人娘で、容姿端麗で人気があった。
しかし、彼女も同じタイミングで赴任してきた講師の男性に好意を寄せ、猛アタックの末にデートの約束に漕ぎつけた。
その頃、戌井小柚は父親と共に復讐代行業を営んでおり、留学に行くための資金を貯めるべく、奔走していた。
ある日、2人のもとに、兎草早織の父親がやって来て、妻に浮気をしていたという男性に対して残酷な仕打ちをする。
彼は、戌井小柚とその父親に対して、もう1人、妻と浮気をしている人間がいるから捕えて来て欲しいと依頼する。
何と、その頃兎草早織の母親は、美羽たちの大学に赴任してきた講師と不倫関係にあったのだった。
3人の物語が少しずつリンクしていく中で、それぞれの秘めた秘密が明らかになり、物語は思わぬ方向へと転がっていく・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:浅沼直也&上田慎一郎&中泉裕矢
- 脚本:上田慎一郎
- 撮影:曽根剛
- 照明:曽根剛
- 美術:福島奈央花
- 編集:伊藤拓也
今回の『イソップの思うツボ』という作品は、何と浅沼直也&上田慎一郎&中泉裕矢による共同監督・脚本作品となっております。
企画そのものは構想2年~2年半だそうなので、『カメラを止めるな』が空前の大ヒットを記録するよりも前に始動していたプロジェクトということになりますね。
今作については、基本的に3人が意見を交換し、提案しながら一緒に作り上げていったそうです。
正直に申し上げると、いわゆる「船頭」が多い作品が上手くいくイメージがあまり湧かないのですが、そこに敢えて挑戦してきた姿勢は評価すべき点でしょう。
撮影・照明には、前作『カメラを止めるな』でも素晴らしい仕事ぶりを披露した曽根剛さんが引き続き起用されています。
その他にも上田監督の作品に携わってきた馴染みのスタッフたちが多く参加している様です。
- 亀田美羽:石川瑠華
- 兎草早織:井桁弘恵
- 戌井小柚:紅甘
- 戌井連太郎:斉藤陽一郎
- 田上:藤田健彦
- 八木圭佑:高橋雄祐
- 兎草信司:桐生コウジ
- 近藤:川瀬陽太
- 亀田美紗子:渡辺真起子
- 兎草裕子:佐伯日菜子
『猿楽町で会いましょう』『左様なら』などインディーズ作品に次々に出演が決まり、徐々に知名度も上がってきている石川瑠華さんが主人公の1人である亀田美羽役に起用されました。
他にも監督陣が、毛色の違うフレッシュな新人俳優を起用したと語る他の2人の主人公には井桁弘恵さんと紅甘さんがそれぞれ起用されました。
そこにベテランの渡辺真起子さんや佐伯日菜子さんらが加わることで、1つの作品として非常にバランスが良くなっていたと思います。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!!
『イソップの思うツボ』感想・解説(ネタバレあり)
前作の悪い部分だけが残った作品
上田監督は前作の『カメラを止めるな』で一躍時の人となり、日本映画界で注目される存在となりました。
そんな作品の直後に公開される作品ということもあり、やはり世間の目は厳しくなるでしょうし、必然的にハードルが上がります。
その現状とどう向き合うかというのが、今作の1つの課題だったと思いますし、とりわけ10月に公開される新作単独監督作品『スペシャルアクターズ』にはかなりの重圧がのしかかって来るでしょう。
その1つの前哨戦とも言えたのが、今作『イソップの思うツボ』だったわけですが、結論から言うと、期待外れといわざるを得ない内容だったと思います。
まず、映画において大切なのは、作品内現実に以下にリアリティをもたらせるかという点です。
私たちの普段生きている世界と比べて非現実的であるかどうかは気にする必要はないと思いますが、作品内でのリアリティを確立できていないと観客は映画の世界観に入り込むことができません。
その点で、前作の『カメラを止めるな』は非常に巧く切り抜けていました。
インディーズゾンビ映画の撮影現場という具体的なロケーションを設定したことで、突拍子もない世界観にも観客が入り込める余地をきちんと設けていました。
一方の今作『イソップの思うツボ』はそのあたりの設定が全体的にふわふわとしていて、掴みどころがないんですよね。
結局のところ今どんな場所でどんな出来事が起こっていて、どの人物がどんな考えを持って行動しているのかをあやふやにしすぎていて、作品内のリアリティを確立できていません。
この手のどんでん返しもので傑出しているのは、『コンフィデンスマンJP』シリーズであったり、内田けんじ監督の作品なんかが挙げられます。
これらの作品は、かなり現実離れした設定や展開を持ち込んでいたりしますが、作品内の設定そのものはリアリスティックに作りこんであるので、観客が置いていかれるようなことはありません。
その辺りの『カメラを止めるな』ではギリギリ保たれていたリアルとフィクションのバランス感覚が、今作では欠如しているように思えました。
あとは、「インディーズ映画っぽさ」が今作では悪い方向に働いてしまっている印象を受けました。
前作の『カメラを止めるな』は、インディーズ映画を撮影する現場だからこその雰囲気やプロットの勢い、製作陣の熱量でもって、逆にいわゆる「インディーズ映画っぽさ」を武器に変えていきました。
『カメラを止めるな』はあくまでもインディーズ映画だからこそ許されるクオリティだと感じる点が多々ありましたが、観客は熱量と勢いを感じさせるこの作品に不思議と「応援したくなるような」感覚を覚えたのだと思います。
それはある種のインディーズ映画特有の「不完全さ」が良い味を出し、絶妙に観客の「母性本能」をくすぐったとでも言えましょう。
ただ、今回の『イソップの思うツボ』という作品は基本的に支離滅裂で、キャラクターの行動原理すらもイマイチ確立できていないような有様で、プロットに勢いや熱を感じることもありません。
そのため、前作では許されていた「インディーズ映画っぽさ」が露骨に顔を出してしまい、単なるチープな映画になってしまっていたのが悔やまれる部分です。
前作で上田監督はその「チープさ」を逆に映画の売りにするようなアプローチを取っていたので、今回もその辺りの配慮はするだろうと踏んでいたのですが、幾分期待外れに終わってしまいました。
あとは、やはり脚本の構成の部分ですよね。
『カメラを止めるな』は冒頭に、ゾンビ映画のパートをノーカットで淡々と流します。
しかし、前作ではその冒頭のパートにもきちんと意味がありましたし、その退屈さを補って余りあるをひっくり返すギミックも緻密に練られていたので、何とかカバーできていました。
いわゆる「ネタバラシ」パートに趣向を凝らしたことで、前振りの部分を何とか意味のある見せ、2回目を見ると面白いという付加価値を付与することにも成功していました。
一方の『イソップの思うツボ』は、とにかくネタバラシパートに無駄が多いうえに、大半の事実は比較的冒頭で察しがついてしまうため、全編にわたって非常に退屈なのです。
タネと仕掛けが分かっているマジックのタネ明かしを延々とされる苦痛な気持ちを想像してみてください・・・。
特に酷かったのが、終盤の倉庫で流れたVTRですが、その直前に観客に提示したであろう情報を、バラエティチックな編集で再度提示しなおすという最悪の演出でした。
とりわけ今作の説明過多ってバラエティやスペシャルドラマ番組のホスピタリティなんですよね・・・。
既に分かっている情報を何度も繰り返し提示するのは、テレビ番組であれば分かりやすいですし、見逃した方のためにもなるので良いとは思います。
しかし、映画というメディアでこれをやってしまうと、完全に悪手です。
『イソップの思うツボ』は90分弱という比較的短い尺の映画ではあるのですが、それにしても無駄な部分が多すぎます。
脚本をブラッシュアップすれば、60分程度で十分に描き切れた内容だったのではないかとすら思います。
『カメラを止めるな』から方向転換を図るという監督の意図があったようではありますが、良かった部分だけを置いてきてしまったような残念な仕上がりだったように感じています。
映画そのものに対するメタ的な構造
上田監督は前作『カメラを止めるな』でも映画というものをメタ的に描こうとする視点を持っていたように思います。
とりわけ前作では、映画を見ている自分という存在が有する「カメラ」を強調するかのような物語を描いていました。
そして今作『イソップの思うツボ』では、その「自分」という表現をある種、スクリーン内に内包するような形で、構造を構築していました。
つまり以下の3つの立場の視点がこの作品の中で交錯していたということになります。
- 作り手(物語の書き手=イソップ)
- 演じ手
- 観客
そして今作『イソップの思うツボ』という作品が志向したのは、いわゆる「演じ手」に属する人たちの反乱です。
ここに今作のタイトルの意味も込められているのだと思います。
そもそもイソップというのは、かつて数多くの物語や寓話を作り出した作り手であり書き手です。
そのため、彼の書いた物語の中に生きる登場人物たちはイソップの書いた筋書き通りにプロットを全うするしかないのです。
しばしば映画などにおける登場人物が作り手の作為によって動かされている感じが見え透いているという類の批判が見られます。
これも物語や寓話には必ず「イソップ」の存在があるからであり、ある種の避けられない宿命です。
しかし、本作において亀田美羽たち家族は、そんな自分たちを突き動かすプロットを否定するんですよね。
つまり物語のキャラクターが物語そのものを否定するという構造を可視化していたわけです。
また、もう1つ面白かったのが、観客が作り手に対して圧力をかけることができるという描写を盛り込んでいたことです。
今作『イソップの思うツボ』という作品においては、仮面をつけた貴族たちが作り手である借金取りの男にしきりに「人を殺すさまを見せろ!」と要求し、結果的に作り手は観客の要望に応えざるを得なくなります。
そうなると、やはり犠牲になるのは物語の中のキャラクター達ですよね。
物語内存在のキャラクターたちが蜂起し、自分たちを固定し幽閉する物語の枠組みそのものを壊すというメタ的な手法で、本作は映画とキャラクター、そして観客のコンテクストを描いたのです。
ビターな家族映画としての視点
(C)埼玉県/SKIPシティ彩の国ビジュアルプラザ
前作『カメラを止めるな』はクリエイター讃歌のようなタッチの作品でした。
『イソップの思うツボ』という作品は、そこから大きく主題の方向性を変えてきています。
とりわけ、今回のメインテーマとなっていたのは言うまでもなく「家族」です。
亀田美羽は高速道路での自動車玉突き事故に際して、裏金を積んだ兎草早織の方が自身の母親よりも治療を優先されたしまったことで、彼女の命を失っています。
それが原因で、父と兄が自暴自棄になり、自身も精神的にトラウマを抱え、以前の平穏な家族生活は完全に失われてしまいました。
だからこそ美羽は借金取りに望みを聞かれた際に、「壊したい」と答えたのでしょう。
彼女は、自分と同じ目に兎草早織とその家族を陥れてやりたかったのです。
しかし、復讐というものはどこかほろ苦いもので、達成したとしても決して後味の良いものではありません。
また、復讐を果たしたからといって母が戻って来るわけでも、家族が修復されるわけでもありません。
美羽の復讐によって完全に信頼関係が破綻した、兎草早織とその家族はラストシーンでお互いに拒絶し合いながらも、必死で受け入れ合おうとします。
それを見ながら、美羽自身も心を動かされ、亡き母のことを受け入れ、家族と共に前に進もうと決意することができました。
イソップの作り出した寓話には、決まって「教訓」のようなものが存在していました。
本作『イソップの思うツボ』という作品に教訓があるとすれば、それは「暴力では変えられない、救えない何かがある」ということなのかもしれません。
母親を事実上殺された美羽の気持ちを推し量ることは私には難しいです。
しかし、彼女が望んだのは、暴力で彼らの命を奪ってしまうことではありませんでした。
あくまでも、自分たち家族が味わった苦しみを、彼らにも味わって欲しいという願いだったわけです。
ただ、それを借金取りやモニターの前に座る仮面をかぶった不特定多数の人間が騒ぎ立て、「殺せ!殺せ!」と扇動的な発言を繰り返しているのです。
近年の日本の在り様を見ていても、同じような風潮が見られますよね。
事件が起きると、被害者や遺族の感情や思いはそっちのけで、マスコミが先行し、勝手な物語を作り上げて報道しては、不特定多数の顔の見えない群衆は騒ぎ立てて、場外乱闘を繰り広げます。
そういう構造がいつしか本質を見えなくしていってしまうわけですよ。
でも、一番大切なのは、あくまでも被害者であり、その家族です。
そして罪を犯した側には、当然罰があり、そして赦しがあります。
どうしたって、美羽のもとに母親が戻って来ることはありません。
しかし、暴力では絶対にそのぽっかりと空いた穴を埋めることはできないのだと彼女は知っています。
少しずつ時間をかけて、受け入れ、家族と共に前に進む。
スクラップアンドビルトで共に支え合いながら、関係を結びなおしていく家族の姿にビターエンドながらも希望を見たラストでした。
ポスト童話への言及
今作『イソップの思うツボ』はタイトルにイソップという言葉が入っていることからも分かる通りで、イソップ童話に着想を得ている部分があります。
3人の女性主人公がそれぞれ亀、ウサギ、犬に準えてあり、イソップ童話の『うさぎとかめ』や『犬と肉』の物語を下地に据えてあるのです。
前者はうさぎとかめが山の上まで競争をすることになり、うさぎはカメに負けるはずが無いと高を括ってしまったことで、かめに敗北することになるという物語です。
後者は肉を加えた犬が水面に映る自分の像が加えている肉を見て、羨ましくなり自分の口にくわえていた肉を思わず放してしまい、水の中に落としてしまうという物語を描いています。
とりわけ本作における美羽と早織の駆け引きは『うさぎとかめ』に準えてありますよね。
早織はクラスの中で友人のいない美羽をどこかで下に見ている節がありますが、最終的には彼女に出し抜かれます。
また、小柚の物語は少し作品の中では浮いている感がありますが、『犬と肉』に通じる部分があります。
彼女は復讐代行業者である父親と共に働いているのですが、早織の父の復讐を手引きしている時に、お金を得て他人の不幸や苦痛を楽しんでいるような印象があります。
ただ、作品の中でお金に目が眩み、他人の復讐を売り物にして、感情を弄んでいる近藤という人物が登場します。
そんな近藤という男が、ある種の写し鏡のように早織の目には映っていたのではないかと思います。
そしてここが面白いんですが、『イソップの思うツボ』という作品は、そんなイソップ童話のその後を描くんですよ。
美羽と早織の物語は、前者が後者を出し抜いて終わりとはならず、うさぎに当たる早織にも救いが示されます。
また、小柚の物語は、他人の復讐に手を染める近藤を否定し、美羽たち家族を助けようとします。
その結果として彼女は自分が留学に行くための資金を得ることができました。
このように『うさぎとかめ』のその先の物語を描いてみたり、はたまた『犬と肉』の逆説を結末として用意したりするなど、イソップ童話を巧くアレンジしつつ作品に落とし込んであります。
この点も先ほど書いた、物語という枠組みから登場人物を解放するというアプローチに通じるものを感じますね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『イソップの思うツボ』についてお話してきました。
上田監督自身も『カメラを止めるな』と比較されると・・・みたいな濁し方だったので、今回はあくまでも実験的な作品だったのかな?とは思っています。
ただ次回作の『スペシャルアクターズ』はオリジナル監督・脚本作品ということになるので、彼の試金石ということに当然なってくると思います。
あまりにも『カメラを止めるな』の良さが無くなっていたので、心配や不安はありますが、とりあえずは次回作を待とうと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。