みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『去年マリエンバートで』という作品についてお話していこうと思います。
Twitter経由で、読者の方に考察してみてくださいというご要望を頂いていたので、鑑賞してみたのですが、これがあまりにも難しいのです。
あらすじを教えてという程度であれば、10秒程度で説明できます。
Xという男が「あなたと去年マリエンバートで出会い、1年後に駆け落ちの約束をしたので、迎えに来ました。」とAという女性に告げるのですが、AにはMという夫(父親かもしれません)がおり、さらには約束のことを忘れています。
そこでXは1年前の出来事を詳細にAに伝え、何とか駆け落ちしてもらえるように説得するという内容です。
こうやって物語の概要を聞くと、「なんだ簡単な映画じゃん!」を感じることともいますが、実際に映画を見て見ると、その印象はすぐに崩壊すると思います。
何が恐ろしいって、徹底的にシーンとシーンが繋がらないので、自分が今物語のどの時間軸のどの場面を見ているのかが全く掴めず、混乱した状態で90分の本編が通り過ぎていくのです。
しかも『2001年宇宙の旅』の終盤の謎の部屋のシーンの時間軸のスキップの演出を思い出していただけると分かりやすいのですが、異なる時間軸へのシーンのジャンプが「境界線ゼロ」で行われるので、ただただ掴みどころがありません。
さっきまで白い服を着てダンスをしていたのに、1秒後には黒い服を着てダンスをしていたり、部屋の暖炉の上には冬の風景の絵画が飾られていたのに、シーンが切り替わると鏡になっていたりします。
本作を見ていて、作り手は観客に「理解」することは求めていないのかな?と思わせるほどですし、現に本作の脚本・原作を担当したアラン・ロブ=グリエは多くの人が本作について抱えている疑問を解消しようとするが、それは無駄なことだなんて言ったとか言っていないとか。
ただそんなことを言われながらも、考察好きとしては自分なりに答えを出してみたくなるのが本音です。
そこで今回は正解を書きますなんて大それたことは言えませんが、自分なりにこの『去年マリエンバートで』という難解な映画を読み解いてみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『去年マリエンバートで』考察(ネタバレあり)
1人の女性を巡る2人の男のラブゲーム
(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz
この映画について考えるにあたって一番悩んだのが、本作の時系列です。
1回目を見た時にあまりにも繋がらず混乱しまして、これを解消するためにはどうすれば良いかと考え、Aの服装に着目すれば整理できるのでは?という仮説を立てました。
そこで、エクセルに映画のどのあたりのシーンなのか、誰が登場するシーンなのか、どんな描写なのか、そしてその時のAの服装を縦に配列していき、後にフィルター機能で、Aの服装ごとに物語を分解してみました。
時間をかけて作業をした結果、分かったことが1つだけあります。
それは、本作はいわゆる縦軸的な時系列の分解と再構築をしているわけではないということです。
服装で時系列が分かるのであれば、服装とシーンを紐づけて配列し直すことで、元の時系列が見えてくるはずなのですが、そうはならないんですよ。
同じ服装であっても過去・現在・未来で分断されているように感じられることも多く、同じ服装だからと言っても地続きのシーンではないということです。
本作について脚本を担当したアラン・ロブ=グリエは、ダイヤグラムシート的な脚本になっており、複数の脚本をパッチワーク式につなぎ合わせた結果が本編の内容になっていると語っています。
しばしば指摘されるのが以下の4つの視点ですね。
- 現在軸
- 過去軸
- Xの回想世界
- Aの回想世界
つまりAの服装で時系列順に配列しようとしても、そこにはXの回想世界とAの回想世界があるわけで、当然できるはずもなかったということです。
ただ、その通りに読み解いていくというのも面白くないので、今回は当ブログ管理人お得意の「こじつけ」的な考察で読み解いていこうかな?と思っています。
後ほど詳しく触れるのですが、本作には劇中劇が冒頭と終盤にそれぞれ登場します。
そのタイトルをよく見てみると、『ROSMER』と書いてあるのですが、これはおそらくイプセンの『ロスメルスホルム』をベースにしているんだと思います。
この作品は、ロスメルという牧師で名家の生まれの男性が、前半に「保守的」な校長クロルと「進歩的」なレベッカの政治的な対立に巻き込まれる様を、後半にロスメルとレベッカの恋愛を巡るいざこざを描きます。
面白いのは、ロスメルという1人の男性を巡って2人の男女が対立関係を構築し、お互いが自分の陣営に彼を引き寄せようとするという物語構造です。
本作『去年マリエンバートで』が劇中劇のベースにした『ロスメルスホルム』という作品の影響を受けているのだとすると、Aを巡ってXとMという2人の男性が争うという構造は間違いなく踏襲されています。
劇中で「ニム」というゲームが登場しました。このゲームは基本的にMが持ち掛けたものであり、Xはこのゲームで何度も彼に挑みますが、結局1度も勝利することができませんでした。
私は、そもそも『去年マリエンバートで』という作品そのものがゲームのようなものなんじゃないかと思ったんですよ。
つまりはAという女性を愛してしまった2人の男性が、彼女の心を我が物にするべくまさにラブゲームを繰り広げているという様相を呈しているのではないかと仮説を立ててみた次第です。
劇中にこんなセリフが登場しました。
「もはやこの物語は終わった。もうじき物語は凍結を終える。大理石の過去の中、この彫像や庭園のように、それから無人のホテルも。」
(『去年マリエンバートで』より引用)
今作は基本的にX視点を中心にしている物語になっているのですが、上記のセリフもナレーションでXの言葉としてインサートされていたのものです。
凍結を終えさせたい「物語」というのは、Xの視点から見れば、MとAが共に過ごしている「物語」のことに思えます。つまり彼はMの物語に囚われているAを解放し、自分の世界へと引き込もうとしているのではないかと考えられるわけです。
他にもいくつか興味深いシーンがあるのですが、当ブログ管理人が1番印象に残っているのは、Aが部屋の化粧机の引き出しを開けた際に大量に同じAの写真が出てくるというシーンです。
これを見ると、もしかしてこの物語の主人公であるXはMに「ニム」で勝負を挑むが如く、何度も何度もAを奪い去るべく勝負を挑んだのではないかという疑問が浮かび上がってくるんですよね。
今作には一応、Mの視点で描かれるパートも存在していて、彼は常にXとAを監視していたり、Aがあの屋敷のどこにいるのかを探していたりします。
一方で、Xは彼女をここから連れ出すために何年も何か月も、このホテルの中を歩き続けたのだと語っていました。
そう考えると、本作は去年と今年という時間軸だけでなく、もっと多くの時間軸を含んでいて、あの引き出しの中にあった写真の数だけ世界線が生まれているという見解に辿り着けなくもないわけです。
冒頭のナレーションは「まるで床が砂か砂利か敷石であるかのようにその上を私は歩いてきた。廊下を歩きこの建物の広間や回廊を抜け、バロック風の巨大で不気味なこのホテルの廊下は果てしなく続く。」といった文言を繰り返し淡々と述べていくのですが、これはXが何度も何度もあのホテルにAを連れ出すべくやって来たことを示唆する「繰り返し」なのもかもしれません。
また、とりわけ本作においてはMが庭園にやって来るシーンが極端に少ないというのも1つ特徴的だと思っています。
つまりMはAをあの建物の中に閉じ込めておきたいのであり、その点で外の世界へと連れ出そうとしているXとは決定的に対立することとなります。
こういうXとMによるAを巡るゲームが何度も何度も繰り返された結果、この世界線では、XがAの心を掴み、外へと連れ出すことに成功しました。
というよりもMが敗北を認めたという方が正しいでしょうか。
Mは本作のラストで、『ROSMER』の演劇を見ており、その間に外の世界へと旅立っていこうとしたAを引き止めに来ることはありませんでした。
Mは「ニム」というゲームでXに挑戦するにあたって、「このゲームは絶対に私が勝つ」と言っていました。
それに対してXは「絶対にあなたが勝つなら、それはゲームではない。」と言っているんですよ。
それを受けて、Mは「もしかしたら負けるかもしれない。しかし私が絶対に勝つ。」と返答しています。
そういう意味でも、本作のラストはこれまで何度も繰り返され続け、そして何度もMに軍配が上がってきたゲームに、ようやくXが勝利することができた世界線を描いたと言えるのかもしれません。
Mを「信頼できる語り手」と仮定するならば
ここで、これまで書いてきた考察を一旦リセットして別の視点で書いていきたいと思います。
本作を読み解いていくにあたって、XとAとMの3人の視点の中でどの人物が一番信用できるのかという点を考えてみましょう。
まず、Xについてですが、確かに彼は去年の出来事について詳細に語っていますので、信用に値するのではないかということが十分に言えると思います。
しかし、彼の視点に信用性がないのは、作中で薄っすらと仄めかされる彼のAに対するレイプ疑惑と、その正当化の描写があることから明らかです。
(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz
先ほども話題に挙げた本作の劇中劇の元ネタである『ロスメルスホルム』には近親相姦ないしレイプを思わせる描写があるのですが、それを引き継いでいると考えるのはそれほど不自然なことではないでしょう。
『去年マリエンバートで』の劇中では、Xが寝室で羽毛の部屋着を着ているAに言い寄り、彼女をレイプしてしまったことを想起させるシーンがありますが、その直後にXがそれを「合意のはずだ!」と脳内で否定しようとします。
すると、面白いことに、彼のイメージの中では部屋の中に入って来る自分を笑顔で抱きしめようとしてくるAのイメージが何度も繰り返されるのです。
そしてこの時に注目してほしいのが、暖炉の上にある鏡なんです。
それまでのシーンで部屋の暖炉の上が鏡になっていたのは、Xの回想の中でAがベッドの端に座ってまどろんでいたシーン、Aが引き出しを開けて大量の自分の写真を見つけるシーンと彼女がその写真を床に並べているシーンでしょうか。
それ以外のシーンでは、全て暖炉の上には冬の行軍の風景の絵画が飾られていました。
ちなみにXがAに言い寄ろうと、部屋に入って来るシーンでは暖炉がフレームアウトしており、鏡になっているのか絵画になっているのかは判別できませんでした。
ただ、本作において1番Xが記憶を自分の都合の良いようにこじつけたシーンで部屋の暖炉の上が鏡になっていたということは、暖炉の上が鏡になっているシーンはXの主観であり、信用に値しないと考えられます。
逆にMが部屋に入って来るシーン、例えば彼女がベッドでまどろんでいるところに、彼が戻ってきて、その日の午後のことを問い詰めるシーンでは、暖炉の上は冬の行軍の風景画になっていました。
もっと言うと、このシーンは彼が「違う!記憶がない。思い出せない!」と語っている場面なので、彼の回想からは切り離されていることが明白です。
ただ肝心のAについては自分がこれだと思う過去のイメージを持っていても、それをAの影響で上書きされている節があるので、信用できるとは言い難いのが事実です。
そう考えると、本作において最も信用に足る語り手はMということに消去法で決まってきます。
では、Mの視点が絡んでいるシーンの情報をピックアップしていきましょう。
まずは冒頭のMとAが友人と会話をしているシーンですね。
「去年だったかな。フランクは彼女に父の知人と思わせた。彼女を監督すると称した。夜、寝室に入り込み彼女も不審を抱いた。偶然を装い、口実をもうけて、古い絵の解説をすると・・・」
(『去年マリエンバートで』より引用)
というのも、このシーンでAは話を聞きながら笑っていますし、友人の2人も笑っているんですが、Mだけが無表情なんですよ。
さらに言うと、後のシーンで彼はAに対して去年はフランクはここに来ていないと告げています。
Mが「信頼できる語り手」なのだとすると、フランクはここに来ておらず、それでいて、先ほどの友人の「去年の話」は真実ということになります。
つまりフランクではない何者かが「夜、寝室に入り込み・・・」という行動を実際に起こしているのが、事実ということになるわけで、それがXの行動と一致してくるわけですね。
また、Xが「私たちに誰かが近づき、この彫刻の名前を説明した。それはギリシャ神話に出てくる神か英雄だった。あるいは寓話か何かの登場人物だった。あなたは話を聞かず、上の空だった。虚ろなまなざしだった。」と冒頭にAに語りかけています。
この「誰か」が後のシーンで、Mであることも明かされました。
そしてMを「信頼できる語り手」と仮定するならば、本作で最も謎めいた2つのシーンが「真実」ということになるんです。
- 庭で逢瀬をしていたXとAの下にMが現れ、隠れようとしたXが落下するシーン
- Mが羽毛の部屋着を着たAを銃殺してしまうシーン
しかし、この『去年マリエンバートで』の中で最も「死」を連想させる2つのシーンによりにもよってMが絡んでいるというのも奇妙な話ですよね。
ここから少しぶっ飛んだ解釈を書いてみようかな?と思っています。
まず、本作の世界観ってすごく「死」の臭いを強く感じさせるものになっていますよね。
例えば、冒頭の人々が集まっているロビーを映し出すシーンでは、登場人物が静止したり、話し始めたりと奇妙な演出を施されています。
また、Aが庭から窓の外を見た際には、人々が絵画の中のワンシーンのように静止していました。
つまり、人々が生きている様であり死んでいる様でもあるという生と死の境界線上のような世界として、今作のマリエンバートホテルは描かれているのです。
そして先ほどの挙げた1つ目のシーンでXは石の手すりの崩壊により落下し、命を落としている可能性があります。
さらに言うと、Mは自ら銃を用いてAを射殺している可能性があります。(Xと逢瀬を重ね、心ここにあらずとなった彼女に激高した?)
この2つが真なのだとすると、1年前の時点でXとAは命を落としているという事実が成立してしまいます。
しかし、Aは自らがXに対して浮気をしたことで、Mとの関係が終わってしまったことを悔やんでいたのかもしれませんし、だからこそXを忘れ、彼に許してもらい、「生」の世界に引き戻してもらえる可能性を模索していたのではないでしょうか。
それがAがMに対して「最後の猶予」として与えた時間なのかもしれません。
ただAはXのことを思い出してしまい、結果的に心を1年前と同様に再びXに奪われてしまいます。
それを肌で感じ取ったMは、「助けて欲しい」と懇願するAに、「君に心はもうここに無い。君の部屋は空っぽだ。」と告げ、彼女を連れ戻せないことを告げました。
(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz
結果的に、XはAに連れられて、生と死の境界であるマリエンバートホテルから、「死」の方へと引き寄せられていき、残されたMは「1人ぼっち」になってしまいます。
この仮説が導き出す結末に似ているのが、実は先ほどまでも挙げてきた劇中劇の『ロスメルスホルム』なんです。
このイプセンの作品では、ラストで恋愛関係に悩んだレベッカとロスメルが橋から身を投げて自殺するという結末を用意しています。
つまり愛し合う男女が、死して真実の愛で結ばれた関係になるということですね。
冒頭と終盤に『ROSMER』の演劇を見ていたのは、Mだけであり、この作品の結末を見届けたのも他でもないMです。
そう思うと、『ロスメルスホルム』を劇中劇の元ネタとして採用した本作『去年マリエンバートで』が似たような結末を辿るというのも不思議ではありません。
また「信頼できる語り手」と仮定したMが劇中劇を眺めているという構造が、本作の作品構造をメタ的に表現しているともとれるわけです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『去年マリエンバートで』について少し「こじつけ」満載で自分なりの考察を書いてみました。
まあどんな映画にも正解なんてものはないのですが、ある程度妥当性のある解釈はできるわけです。
しかし、この『去年マリエンバートで』については正直劇中のゲーム「ニム」のように、どんな手段を使っても結局勝つことができないという仕様になっていて、カオスの迷宮から抜け出すことができません。
ですので、あまり万人におすすめできるタイプの映画ではないのですが、自分なりに難解な作品を噛み砕いてみたいという意志がある方は挑戦してみても面白いと思います。
私も映画を自分なりに考察するのが好きなので、これまでにも多くの難解と言われる映画を見てきたつもりですが、その中でも上位に来る難解具合でした。
私の考察については、こんな見方もアリかな?くらいに思っていただけると幸いです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
なるほどーー。本日映画館でみたのですが、なかなかな考察だとおもいました!