みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『歩いても歩いても』という作品についてお話していこうと思います。
この作品は、もはや映画を見ているという感覚を越えた何かなんですよ。
是枝監督が2016年に似たようなキャストで『海よりもまだ深く』という映画を作っているんですが、これと比較すると本作の出来栄えはより明白です。
『海よりもまだ深く』は何だか登場人物の言葉がいちいち「セリフ」っぽい上に、樹木希林さんを「名言製造マシーン」みたいな扱い方をしていて、リアル感に乏しいのです。
そしてこの『歩いても歩いても』という作品は、家族を題材にした映画ではあるのですが、ポスター画像が想起させるような「優しい物語」ではありません。
むしろ家族であるが故に背負う苦しみや苦みをこれでもかというほどにドライなタッチの作劇で描く恐ろしい映画です。
特に、本作の樹木希林さんは本当に「恐ろしい」としか言いようがないキャラクターです。
今回はそんな家族映画というよりホラー映画とでも言うべきなのでは?な本作についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『歩いても歩いても』
あらすじ
15年前に亡くなった長男・順平の命日に集まった家族たち。
特に何をするわけでもなく、何気ない団欒を過ごすのだが、それぞれの胸中は複雑だった。
開業医として働いてきたが、引退し、それでも自分は「医者」なのだという自負を捨てきれない祖父の横山恭平。
息子の死を15年経っても昨日のことのように引きずっており、時折幻覚を見ている祖母のとし子。
そんな両親を見るために旦那と共に移り住み、いずれは二世帯住宅を建てることを検討している娘のちなみ。
そして父や亡き兄に激しいコンプレックスを抱き、美術品の修復の仕事をしているがうまくいかない良多。
良多は結婚しており、妻のゆかりと彼女の連れ子のあつしと共に帰省していた。
彼らは表面的には仲睦まじく話しているものの、それぞれに思うところがあり、どこかぎくしゃくしている。
そんな彼らのほんの2日間の物語にスポットを当てながら、家族というものの繋がりが生む残酷さとそこに差し込む希望にスポットを当てる。
スタッフ・キャスト
- 監督:是枝裕和
- 脚本:是枝裕和
- 編集:是枝裕和
- 撮影:山崎裕
- 照明:尾下栄治
- 録音:弦巻裕 大竹修二
- 音楽:ゴンチチ
アルフレッド・ヒッチコックも映画における編集というセクターの重要性を強調していましたが、編集は映画の印象を決めると言っても過言ではありません。
その点で、是枝裕和監督はデビュー以来ずっと自身で編集を担当することを続けていますし、最新作となったフランス映画の『真実』でももちろんご自身で編集を務めました。
そして撮影には、初期の彼の作品を支えてきたさん山崎裕が起用されています。
彼の撮る家族のショットは面白いですよね。特に食卓を囲んでの団欒のシーンでは、小津安二郎監督を思わせるような低い位置からの定点カメラでの撮影を使っています。
クローズアップショットを用いず、距離を置き、淡々と団欒の様子を映し出すことで「温かみ」を奪うことに成功しています。
特に終盤の「ブルーライトヨコハマ」が流れるシーンでは、距離を置いた定点ショットが不気味で、ヒリヒリとした焦燥感と寒気すら感じさせます。
劇伴音楽には『誰も知らない』でも音楽を担当したゴンチチさんが起用され、美しいメロディで作品に華を添えています。
- 横山良多:阿部寛
- 横山ゆかり(良多の妻):夏川結衣
- 片岡ちなみ(良多の姉):YOU
- 片岡信夫(ちなみの夫):高橋和也
- 横山あつし(ゆかりの連れ子):田中祥平
- 横山とし子(良多の母):樹木希林
- 横山恭平(良多の父):原田芳雄
是枝監督はこのキャスティングについてたまたまこうなっただけと仰っていますが、それにしても『結婚できない男』の阿部寛さんと夏川結衣さんの2人が起用されているのは面白いですよね。
そして是枝監督作品には欠かせない存在だった樹木希林さんも出演しています。
彼女は家族という繋がりが孕む狂気を1人で背負い、見事に表現して見せたようなそんな印象すら受けました。
とにかく圧倒的な存在感があり、恐ろしいとすら思わせてくれます。
また父の恭平役には、亡き原田芳雄さんが起用されており、こちらも頑固おやじでありながら、弱さを抱える繊細な役どころを見事に演じておられます。
『歩いても歩いても』解説・考察(ネタバレあり)
家族であることが生む苦みと痛み
(C)2008「歩いても 歩いても」製作委員会
家族であることで私たちはたくさんの喜びと幸せを得ていると思います。
しかし、それが突如として裏返り、苦しみと不幸へと変化していく可能性も秘めているのです。
横山家は、父の病院の後を継ぐはずだった長男を水難事故で亡くしています。
きっと恭平とよし子は彼の存在に救われていたと思いますし、期待も大きかったことでしょう。
ただ、彼が死んだことで、彼がいたことで得ていた大きな幸福感や期待、喜びが、突然反転し、同等の質量の幸福、悲しみ、絶望へとコンバートされていくのです。
きっと私たちは「誰か」の死に15年も執着することは、その「誰か」が他人である限りはまずありえません。
ただ、それが家族であれば、いつまでも苦しいのです。家族であるからこんなにも苦しく、忘れられないのです。
是枝監督は、終盤に恐ろしいカットを挿入しています。
浅瀬で船が座礁しており、その付近で船に乗っていた人の家族?と思われる人たちが心配そうに見つめています。
しかし、水難事故で自分の息子を兄を亡くしている恭平と良多は特にそれを気に留める様子もありません。
もっと言うなれば、海水浴場に来ている人たちは、座礁した船を気に留めるでもなく、海水浴を楽しんだり、釣りに没頭したりしています。
私たちはテレビで、誰かが亡くなったというニュースを見ても、数分後にはもう意識の上から消えていたりするものです。
きっと私たちにとって他人の死というものは、その程度の重みしかないんですよ。
しかし、それが「家族」に関わることとなった瞬間に、途端に重みを増し、強烈な苦みと痛みを持って現前し、何年も何十年も心を蝕み続けるのです。
本作『歩いても歩いても』においてそういった狂気を一身に背負っているのが母のよし子です。
彼女は自分の息子が命を賭して救った男性を15年もたった今も、命日の日に自宅に呼び、静かな復讐をしています。
というよりも、彼に自分たち「家族」が感じている苦みや痛みを味わわせようとしているのです。
また、本作で最も印象的なシーンの1つは「ブルーライトヨコハマ」が流れるひりつくような家族の団欒のシーンでしょう。
これは、かつて浮気をした恭平に対するよし子による当てつけであり、静かなる復讐です。
私たちは他人の浮気や不倫の話なんて、どこまでも他人事でどうでも良いのであり、それが芸能人の話になると、ゴシップとして楽しみ消費します。
しかし、それが自分の「家族」に降りかかると、どうしようもなく痛みを伴うのであり、家族であるが故に苦しいのです。
本作では、よし子とゆかりの連れ子であるあつしを対比的に描いているように思えます。
あつしは、父親の死を覚えておらず、悲しいとすら思っていません。さらに猫の死に悲しむクラスメイトを嘲笑したことで問題にもなっていました。
一方のよし子は息子の死を15年もたった今も引きずっており、部屋に入ってきた蝶を自分の息子だと言い張る狂気を見せつけます。
ただ、本作の終盤にあつしが亡き父に対しての思いを語り、将来の夢を報告するシーンがあります。
死んで、姿が見えなくなっても、繋がりを感じ続け、15年経った今もその人のことを思い続けるなんて、「家族」でないとあり得ない話なんですよ。
もはやそれは、傍から見れば恐ろしさすら感じる狂気ですよ。
世の中にある多くの作品は、愛や幸せによって家族の繋がりというものを描きます。
きっとその方が美しいし、見た人が家族に対してストレートに希望を持てるからだと思います。
それでも是枝監督は、人が家族であるが故に背負うことになる狂気と苦しみ、痛みを徹底的に描きました。
しかし、それらも切っても切り離せない「家族」というモチーフの1つの側面なのだということを忘れてはなりません。
愛が大きいからこそ、幸福を感じているからこそ、強く繋がっているからこそ、その裏返しの負の感情も大きいのであり、苦しいのです。
きっと私たちは少しだけ前を歩いていたいんだ
これは私自身もすごく感じていることなのですが、私たちは家族に対して自分の両親よりも、兄弟よりも少しだけ自分は前を歩いているんだって思いたいんですよ。
それは家族に心配をかけたくないという思いも当然ありますが、むしろプライドや自尊心の類であって、家族の中で一目置かれたい、立派だと認められたいという思いを少なからず持っています。
そういう感情を今作『歩いても歩いても』の中で背負っているのが、阿部寛さんが演じる良多です。
彼は、開業医として慕われていた父とそして両親からの信頼が厚く死んでも尚愛され続けている兄に強いコンプレックスを持っています。
だからこそ、そんな父や兄の存在から距離を取りたくて、実家に帰ることから距離を置いていました。
そして実家に帰ってくると、父の前で必死に見栄を張り、医者という仕事を蔑んでみたり、電話をしきりにチェックして仕事の忙しさをアピールしてみたり、家族を何とか養えているという虚言を吐いたりしているわけです。
これは、両親を安心させたいなどという綺麗な感情から生まれた行動や発言ではなく、自分が立派な人間なんだということを「家族」に認めてもらいたいが故の言動です。
息子というものはどうしたって自分は父親よりも「少しだけ前を歩いている」と思い込みたい生き物で、だからこそ父親が偉大であればあるほど苦しいのです。
しかし、面白いのは父親という生き物は全く同じ感情を息子に対して抱いているんですよ。
父親もまた、自分は息子よりも少しだけ前を歩いていると、まだ追いつかれていない追い抜かれていない思い込みたいのです。
彼は開業医を引退しても尚、地域の人たちから「医者」として慕われている自分を諦められないのであり、使いもしない診療室と薬品を未だに大切にしています。
そんな恭平に対して、是枝監督は実に残酷なシーンを突きつけます。
それは、彼の隣人が突然体調不良になり、助けを求めてくるというシチュエーションです。
きっと彼は今も尚、心は「医者」なのですが、もはや引退してしまった身であり、彼にできることは救急車を呼ぶように促すことでしかないわけですよ。
そんな隣人に何もできないことを詫びる弱々しい父の姿を見て、良多は何を思ったのでしょうか。
それでも救急車がやって来ると「医者」として振舞い威厳を見せつけようとするも、救急隊員に全く相手にもされない父を見て彼は何を思ったのでしょうか。
きっと彼は、なぜ自分は父に対してこんなにも対抗意識を燃やし、コンプレックスを持ち続けてきたのだろうと虚しくなったのではないでしょう。
自分がずっとその威厳ある背中だけを見てきた父だって弱さを抱えていたのであり、それを見て良多は自分の姿を父に重ねたはずです。
本作の冒頭と終盤には、恭平が海へと向かうシーンが採用されています。
冒頭のシーンでは、恭平は1人で歩いていき、海へと続く歩道橋を渡ることなく、何だか海というものが歩いても歩いても辿り着き得ない場所のように見えてきます。
しかし、良多と共に海へと向かう終盤のシーンでは、自分が息子の少しだけ前を歩きながら、歩道橋を渡り、海へと向かいます。
越えられない両親との比較、優秀な兄弟・姉妹との比較など、家族であるが故に生じる残酷さは計り知れないもので、想像以上に自分の心を蝕み、苦しめます。
だからこそ自分は他の家族よりも「少しだけ前を歩いている」と思いたいのであり、そういう劣等感とプライドが私たちを前へと歩かせます。
そうして届きもしない理想を追いかけて歩いていき、ふと後ろを振り返ってみた時に、私たちは自分が随分を長い道のりを歩いてきたことに気がつくはずです。
きっとその道のりこそ真に尊いものなのであり、その時になって初めて私たちはここまで歩かせてくれた「家族」という存在の大きさに気がつくのでしょう。
人生は少しだけ間に合わないもの
(C)2008「歩いても 歩いても」製作委員会
本作の中で1つ印象的なセリフなのが、「いっつもこうなんだ。ちょっと間に合わないんだ。」というものです。
これは「人生」というものの残酷さを見事に表現した言葉と言えるでしょう。
私たちは「なんであの時に気がつけなかったんだ。」ということを人生で何度も経験しますし、きっと大切なことには大概通り過ぎてから気がつくものです。
良多は相撲取りの名前は思い出せなかったですし、母の息子の車に乗るという夢も叶えてあげられず、結局2人が存命の間に一家の大黒柱になることはできなかったのかもしれません。
人生というものは、いつだってほんの少し間に合わないという残酷さを確かに秘めているのでしょう。
しかし、私たちは「間に合わなかったもの」には気がついて後悔するのですが、「間に合ったもの」には意外と気がつかないものなんですよね。
この『歩いても歩いても』という作品は、良多という男の家族とのかかわりを通じて、「間に合わなかったもの」よりもむしろ「間にあったもの」を客観的に見せてくれているような気がします。
彼は、両親が生きている間に少しだけ壁を乗り越え、距離を縮めることができたわけですよ。
父が秘めた弱さを知り、彼は父に対して抱いていたコンプレックスから解放されたと言えるでしょう。
また、兄に対して以上に執着している母親が自分に対しても同じように抱いてくれていた愛にも気がついたことでしょう。
それらはきっと遅くなかったはずですし、確かに「間に合った」んですよ。
3年後に亡くなった両親のお墓参りに、良多は自分の家族と共に訪れます。
きっとあの「2日間」がなければ、彼が両親のお墓参りに訪れることはなかったのでしょうし、そう思うと、彼は気がついていないけれども「間に合っていた」こともたくさんあったんだと痛感させられます。
ただこれは自分の人生の中ではなかなか気がつけないことであり、映画を通じて良多の人生を客観的に見ているからこそ、気がつけたことです。
「失って初めて気がついた」という言葉は多くの物語で何度も何度も使われてきました。
しかし、是枝監督は本作の中で「失う前に気がつけたこと」を描こうとしました。
私たちは、自分の人生の中で「失う前に気がつけたこと」にはなかなか気がつけないものです。
だからこそ、映画にする価値があるのですし、他人の人生を客観的に見ることができる映画だからこそ描けた主題なのではないでしょうか。
是枝監督が本作に込めた希望
是枝監督は本作『歩いても歩いても』に家族というものの残酷さを閉じ込めたわけですが、もちろんそこには希望のメッセージをも確かに込めてられています。
本作の希望とは、「家族」に対して苦みや痛みを感じていた良多がそれでも「家族」になる道を選んだところにあるのだと私は思っています。
冒頭で、良多は一家の大黒柱に離れておらず、失業中で、しかも連れ子の息子には「パパ」すら呼ばれていませんでした。
そして実家に帰ることを嫌悪しており、「家族」という枠組みに対して否定的な姿勢を持っているようですらありました。
それ故に、妻との間に自分の子どもをもうけるという選択についても消極的で、決断することができていませんでした。
そんな彼が、最後には、母が望んでいた「家族」の象徴とも言える大きな車を購入しており、妻との間に娘をもうけており、さらには両親のお墓参りにやって来ているのです。
「家族」という枠組みがあるからこそ抱える残酷さ、痛み、狂気。
それらを一番知っているのは、きっと良多のはずです。
それでも、彼は「家族」になることを選びます。
言葉にすることはできませんが、この光景そのものがきっと是枝監督が伝えたかった本作のアンサーなのだと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『歩いても歩いても』についてお話してきました。
やはり何度見ても自分にとっては是枝監督の最高傑作は今作です。
ひりつくような家族の団欒。家族であることが生む狂気。それでもなお家族を選ぼうとする希望。
常に映画の中で「家族」というものについての問いを投げかけてきた監督の作品の中でも、ひと際切れ味が鋭く、映画としても完成度が高い作品だと思います。
彼の作品は淡々としていて、セリフでメッセージや主題を説明してしまうことはありませんし、それらは何気ない映像の中に宿されています。
だからこそ1つ1つの映像に注目してみて欲しいと思いますし、映像が持っている空気感や温度も楽しんでみて欲しいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。