みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『失くした体』についてお話していこうと思います。
第72回カンヌ国際映画祭批評家週間でグランプリを受賞し、その後の第43回アヌシー国際アニメーション映画祭でもクリスタル賞と観客賞を受賞した話題作です。
フランスで生まれた80分ほどのアニメーション映画が世界を魅了し、満を持してNetflixにて公開される運びとなりました。
繊細なタッチの画に大胆なアニメーションが見事なまでに融合しており、美しくもあり、それでいてリアリスティックな描写の数々を実現しています。
日本ではアニメーションは近年、映像もそうですが「物語」にフォーカスされる機会が増えていて、純粋にアニメーションだけで勝負する作品はかなり減ってきた印象を受けます。
その点で『失くした体』は、物語はごくシンプルなものでありながら、切断された手がの視点から見た小さな大冒険をダイナミックに表現することに注力しており、純粋に映像を楽しめます。
Netflixで配信中ですので、ぜひ多くの人に見ていただきたい1本です。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『失くした体』
あらすじ
ある日、パリのとある医療研究施設でナウフェルという少年の手が切断される。
しかし、切断された日の夜にその手は突然動き出して、施設から脱走してしまうのだった。
動き出した手は少しずつナウフェルのもとへと近づいていき、次第に記憶を取り戻していく。
彼はかつて裕福な家庭に生まれついていたが、交通事故が原因で両親を失ってしまっていたのだ。
自分が原因で両親を殺してしまったと罪の意識に苛まれる彼は、ピザの配達人をしながら貧しい暮らしを強いられることとなる。
宇宙飛行士やピアニストになるという夢を失い、絶望した毎日を過ごしていた彼は、ある日の配達でガブリエルという女性に出会い好意を寄せるようになる。
何とか恋を成就させたいと願った彼は、彼女の叔父の下で大工見習として働くようになるのだが・・・。
スタッフ
- 監督:ジェレミー・クラパン
- 製作:マルク・デュ・ポンタビス
- 原作:ギョーム・ローラン
- 脚本:ジェレミー・クラパン ギョーム・ローラン
- 音楽:ダン・レビ
原作となったのはギョーム・ローランの『Happy Hand』という小説のようです。
彼は映画『アメリ』の脚本を担当したことでも知られています。
そして、監督にはこれまでにも多くの短編アニメーションを製作し、注目を集めてきたジェレミー・クラパンがクレジットされています。
脚本は、監督と原作者の共同となっており、小品ながら素晴らしい作品に仕上がっていたと思います。
『失くした体』解説・考察(ネタバレあり)
冷たさが伝わって来るアニメーション
『失くした体』という作品を見ていて、そのアニメーションから感じたのは、「冷たさ」だったと思います。
本作のアニメーションは繊細で非常に美しいのですが、どこか無機質的で淡白な印象を持与えます。
だからこそ人間の描写も非常に細かく描きこまれているにもかかわらず、温度を感じないんですね。
それは、まさに主人公のナウフェルが置かれている状況を表しているのだと思います。
彼は、両親と裕福な家庭で幸せな暮らしを送っていましたが、突如として交通事故でそれを失ってしまいました。
そのため、本作において現在軸の彼が家族と過ごした頃をナラタージュする際の映像は常にモノクロであり、色と温度を失った世界になっています。
そして現在軸の世界では、彼は寂れたシェアハウスで貧しい生活を強いられており、ピザ屋のバイトでは叱責されてばかりで、天気も雨ばかりと徹底的に虐げられた暮らしをしています。
彼が失ったのは、まさに人から愛されるという温もりであり、それが失われた彼の世界は無機質で冷たいものなのです。
そんな時に彼はガブリエルの住むアパートにピザの配達で訪れます。
このシーンで特に印象的だったのは、彼が「事故をして配達が遅れてしまった。」と弁明し、それに対して彼女が「(ピザの)状態は?」と聞いた際の返答です。
ナウフェルは自分の状態ではなく、真っ先にピザの状態を答えました。
しかし、ガブリエルが案じていたのは、事故を起こした彼自身の身体の安否だったのです。
このシーンで少しだけ彼の表情が和らぎ、冷たかった彼の表情に生気が戻る一瞬の描写が見事としか言いようがありません。
外は雨が降っており、配達しに来たピザはすっかり冷えてしまっているのですが、彼の声を聴いていると少しだけ無機質な彼の生活に「温度」が戻ってきたような印象を与えるのです。
面白いのは、その後彼がガブリエルを街で探す際に、彼女が身に着けていたヘッドフォンの色です。
(映画『失くした体』より引用)
アニメーション全体は色味を抑えた落ち着いた構成になっていますが、明らかに彼女のヘッドフォンだけはビビッドな色になっており、それが彼の世界が失った「温度」がそこにあることを象徴している様でもあります。
世界の片隅で、貧しく生きる少年でしたが、彼女といる時だけは少しだけ「温度」を感じていられるのです。
印象的なのは、2人が木でできたかまくらで過ごすシーンだと思いました。
寒い冬の夜のシーンなのに、ナウフェルはガブリエルと話している間は温かい気持ちに包まれており、だからこそアニメーションそのものにも少し温かみが感じられます。
かまくらの中で食べるピザも、冒頭のぐちゃぐちゃの冷えたピザとは対照的で、温かいものになっているわけですが、ガブリエルはナウフェルを拒絶してしまいまうのです。
こうして彼の世界は再び「温度」を喪失していまい、その後自らの腕を断裁してしまうという憂き目にあうわけですね。
季節は冬になり、ますます映像は寒々しくなっていきますが、物語の最後には、再びナウフェルは生きる決意を強く持つことができるようになります。
ラストシーンで印象的なのは、彼が吐く「白い息」です。
外が寒いからこそ、吐く息は白くなるわけですが、息が白くなるのは彼の身体の中にまだ確かに「温度」があるからでもあります。
そしてモノクロだった彼の過去の世界のイメージは幼少期の彼が太陽に向かって走り出す光景で幕切れます。
これは冷たい彼が再び誰かの温もりに触れる温かな日々へと向かって行く希望を示す光景でもあると言えるでしょう。
何かが劇的に変わるわけでもなく、ナウフェルが明確に救われたわけでもありません。
しかし、きっと彼は自分なりの「幸せ」を取り戻すことができると、そう確信させてくれました。
それだけでなく、彼は最後に残した録音で、思いを寄せていたガブリエルにも「温もり」を与えていますよね。
誰かに愛されたいと願い、他人や過去の思い出に温もりを求めるばかりだった彼が、彼女に与えることができたことを意味する本作のラストは、まさに彼の成長を表現しています。
本年度ナンバー1のラストカットだったと個人的には感じております。
「手」というモチーフが表すもの
本作『失くした体』の原作のタイトルは『Happy Hand』であり、直訳すると「幸せな手」ということになります。
そう考えると、やはり主人公の切断されてしまった右手というのは、彼の幸せの象徴だったのだと思います。
彼の幸せな過去の回想では、ピアノやチェロを演奏したり、父とハエを捕まえようとしたり地球儀を回したりと、常に手を使ったシーンばかりが蘇ります。
こういった描写は、彼の幸せな思い出たちの多くが彼の手に残っているということを表現しているとも言えますね。
しかし、そんな右手が切断されてしまい、無機質な病院の一室に袋詰めにされて保管されてしまいます。
病院という施設は「死」を強く連想させるとも言えますが、本作においては彼の温かな思い出たちが右手と共に失われてしまったことを表現している様でもありました。
そこから突如として、右手は動き出し、ナウフェルのもとを目指すようになります。
なぜ動き出したのかはもちろん説明されませんが、推察するにナウフェルが自らの命を絶とうとしているのを察知したからなのではないでしょうか。
絶望のどん底に追い詰められ、ガブリエルへの思いも実らず、右手を失い、どうしようもなくなった彼の行きつく先は「死」なのだと私は思いました。
しかし、失われた右手が動き出し、冒険の果てに彼の下へと辿り着くと、眠っている彼に幼少期の頃の音が録音されたカセット再生機を彼の枕元へと置いて去っていきます。(明確に描かれていませんが、後の右手がガブリエルにカセットを聞くように仕向けたことから推察できる。)
失われた右手が彼に伝えたかったことというのは、君の中には確かに家族と過ごした温かな時間が生きているということだったのでしょう。
そもそも彼の右手が断裂してしまったシーンというのは、断裁機についたハエを捕まえようとしたことに起因しています。
ハエという生き物は「死」を強く連想させるモチーフであり、彼が家族との思い出を回想する際には常にハエが飛び回っていましたよね。
これは彼が幸せな家族の思い出をすべて「死」によって、悲しいものに塗り替えられてしまったということを表していると思います。
しかし、彼は確かに愛されていたのであり、家族と過ごした大切な時間が消えてなくなってしまうことはありません。
ずっと一緒にいることはできませんでしたが、彼には余りあるほどの愛情が両親から注がれていたのであり、それらはきっと冷たく無機質な世界の中で、彼を温めてくれます。
彼の幸せな思い出を象徴するモチーフであった「手」はラストシーンで役目を終えたように消えてしまいます。
手というのは、「祈り」のモチーフでもあります。
(『祈りの手』アルブレヒト・デューラー』)
アルブレヒト・デューラーは、自分が画家として大成するまでの資金を支えるために炭鉱で働き、ボロボロになり自分の夢を諦めざるを得なくなったハンスという友人の「祈りの手」を描きました。
きっと本作で描かれたあの右手は主人公のナウフェルの幸福を祈り、行動を起こしたはずです。
それを祈っているのは、彼の家族であり、そして何より彼自身でもあります。
冷たい世界の中で、誰かのために祈り、誰かのために手を差し伸べ、そして誰かの手を握る。
そこから確かに温度が生まれ、きっとその輪が広がることで、世界はより良いものになっていくはずです。
私たちは、そのための手を確かに持っているはずなのに、そうするための心を失っている様でもあります。
本作『失くした体』は、私たちが忘れかけている手から伝わり共有される「温もり」の尊さを教えてくれるようでもありました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『失くした体』についてお話してきました。
些細な描写の1つ1つの書き込みが素晴らしく、また特に手の冒険のパートは映像のダイナミズムに圧倒されました。
斬新で、大胆さに溢れた映像の数々と、そしてあまり目立たない控えめな物語のバランスが絶妙で、これぞアニメーション作品と言える1作だったと思います。
今年のアニメ作品を語る上では避けて通れない必見の1本と言えるでしょう。
ぜひぜひNetflixにてご覧ください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。