みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『トイストーリー』シリーズについてお話していこうと思います。
シリーズ第1作とほぼ同時期に生まれ、幼少の頃から大好きな作品で、家にあったDVD(というよりVHS)をそれこそすり切れるほどに見ていました。
そしてこれまた面白いのが、シリーズの久々の続編である『トイストーリー3』にてアンディは17歳になっていましたが、当ブログ管理人は彼とほとんど同世代でした。
つまり何が言いたいのかというと、私は『トイストーリー』と共に育ってきた人間だということです。
私にとってこのシリーズは1つの作品以上の意味を持っていて、自分自身の物語だと言っても過言ではないほどです。
そんなシリーズの最新作がいよいよ公開されようとしているということで、今回は『トイストーリー』シリーズがなぜこれほどまでに高評価されてきたのかを振り返ってみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『トイストーリー』シリーズが受けてきた評価
本作はこれまでまさにスーパーな評価を獲得してきました。
まず第1作である『トイストーリー』はピクサー初の長編アニメーション映画で、3000万ドルという製作費ながら、その10倍を超える全世界3.6億ドルの興行収入を記録しました。
また、北米大手批評家レビューサイトRotten Tomatoesでの評価も未だに100%を誇っています。
加えて本作が長編フルCG作品としては初だったということもあり、監督のジョン・ラセターはアカデミー特別業績賞を受賞しました。
他にもアカデミー賞の3部門にノミネートされ、アニメ映画としては当時異例の高評価を獲得しました。
- ・脚本賞(アンドリュー・スタントン)
- ・オリジナル主題歌賞(”You’ve Got a Friend in Me”)
- ・作曲賞(ランディ・ニューマン)
しかし、シリーズ第1作がとんでもない評価を獲得したにもかかわらず、それに匹敵する評価を獲得し世界に再び衝撃を与えたのが『トイストーリー2』でした。
前作の3倍となる9000万ドルの製作費をかけて製作された続編は、全世界で5億ドルに迫る興行収入を記録しました。
本作も前作同様、北米大手批評家レビューサイトRotten Tomatoesでの評価を未だに100%に保っています。
ピクサーの長編アニメ作品としては3作目となった本作は、ゴールデングローブ賞作品賞を受賞するなど非常に高く評価されました。
その他アニー賞や放送映画批評家協会賞でも賞を受賞し、前作と同等それ以上の評価を獲得したのです。
そして前作から10年以上の時を経て、公開されたのが『トイストーリー3』でした。
これまでの2作品があまりにも完璧だったがゆえに、続編について懐疑的な声もありましたし、シリーズ3作目は駄作だというジンクスも叫ばれたりしました。
しかし、そんな不協和音を意に介することもなく、公開された作品は世界中で絶賛されることとなりました。
まさに前作から10年以上の年月を経て公開する意義のある物語であり、シリーズを追いかけてきた人にとって涙なしでは見られない「哀歌(エレジー)」のような内容だったのです。
前作の2倍を超える2億ドルの予算をかけて製作された本作は、全世界で10億ドルを超えるヒットを記録しました。これは当時、アニメ映画の世界歴代興行収入で歴代1位の数字でした。
北米大手批評家レビューサイトRotten Tomatoesでの評価も300人近い批評家のレビューの投稿がありながらも98%という高い数値を維持しています。
アカデミー賞でも長編アニメーション賞・主題歌賞を受賞し、何と作品賞にまでノミネートされるという快挙を成し遂げました。
このように『トイストーリー』シリーズは3作品共に高い評価を獲得してきた作品であり、世界を常に新しい驚きを与えてきた作品なのです。
『トイストーリー』考察:このシリーズはなぜ高く評価されてきたのか?
おもちゃという役割を全うすることの尊さ
『トイストーリー』より引用
とりわけシリーズ第1作である『トイストーリー』にてこのテーマが主に扱われていたように思います。
まずこの作品の物語の中心にいたのは、間違いなくバズライトイヤーですよね。
彼は、自分自身がおもちゃであるということを認識していません。
バズライトイヤーのおもちゃという自己認識ではなく、自分はバズライトイヤーそのものであると考えており、その行動がウッディーたちに笑われてしまいます。
しかし、彼はテレビから流れてくる自分のCM映像を見てしまい、自分がただの玩具でしかなかったという事実を突きつけられます。
彼の中でそれまで信じていたものが崩れていき、自身をすっかり喪失してしまいました。
それでも彼は自分がバズライトイヤーなのだと証明するべく、階段の手すりから窓に向かって飛ぼうとするのですが、あえなく落下してしまいます。
この瞬間に、彼の中で何かがぽっきりと折れてしまい、これまでの威勢の良さが嘘のように失われ、抜け殻のようになってしまったのです。
しかし、映画『トイストーリー』の終盤に彼はウッディと共にアンディと仲間たちを追いかけるべく、背中に結びつけられたロケットを点火させます。
そして彼は空高く舞い上がるのですが、バズはこの時、こんなセリフを言うんですよ。
「かっこつけて落ちてるだけさ」
(映画『トイストーリー』より引用)
人は誰にだって、理想の自分と現実の自分があって、そのギャップに苦しんでいます。
それ故に、自分に与えられた役割が、自分の理想とは程遠いことを嘆き、その役割を投げ捨ててしまうことこそが「自分らしさ」を勝ち取る手段なのだと勘違いしてしまうことがあります。
しかし、『トイストーリー』という作品はこのバズの姿を通して、そんな私たちに今自分が与えられている役割を全うすることにも意義と尊さがあるのだということを教えてくれます。
バズは自分が望んだように優雅に空を飛ぶことはできませんでした。
しかし、彼はこうして望んだ形ではありませんが「空を飛ぶこと」ができています。
まさにバズがおもちゃとしての自分を受け入れ、与えられた自分を全うしたからこそ出てきたのが「かっこつけて落ちてるだけさ」という言葉だったのだと思います。
そして物語の最後にはアンディが彼を受け入れ、他のおもちゃたちと一緒に遊ぶ姿が映し出されました。
「役割を全うすることの尊さ」という主題はこのシリーズに通底するものです。
近年ディズニー映画は自分に与えられた役割や立場を捨てることが、「ありのまま」で生きることに繋がるのだというメッセージ性を打ち出した作品を多く世に送り出しています。
『アナと雪の女王』以降、その傾向が顕著になりましたが『シュガーラッシュ オンライン』や実写版『ダンボ』はそのテーマがむしろ裏目に出てしまった作品だと思っています。
とりわけ『シュガーラッシュ オンライン』で顕著でしたが、実に「与えられた役割を全うすること」を軽視して描いているように感じられるんですね。
何といいますか、今の自分の役割や立ち位置を捨てなければ「自分らしさ」は得られないんだという一種の強迫観念めいたものを感じさせられました。
実写版『ダンボ』もオリジナル版のようなダンボがサーカスという与えられた役割の中で人間にリベンジするという展開が素晴らしかったのに、それをものの見事に改変してしまっていました。
こういった近年「ありのまま」という言葉に並々ならぬ執着を見せるディズニーが『トイストーリー』というシリーズの続編を作ることに恐怖しか感じないのは当然でしょう。
なぜなら、先ほども申し上げたように『トイストーリー』シリーズとは「与えられた役割を全うすることの尊さ」を描き続けてきた作品だからです。
一体続編はどんな作品になるのか・・・期待よりも不安が先行してしまいます。
おもちゃの役割と宿命
『トイストーリー2』より引用
さて、シリーズ第2作である『トイストーリー2』で主題として扱われたのが「おもちゃとしての役割と宿命」だったように思います。
前作はとりわけ「おもちゃ讃歌」的な色合いの強い映画になっていて、おもちゃとしての役割を全うすることは素晴らしいことなのだという純粋でストレートなメッセージに満ちていました。
一方で、『トイストーリー2』はそんなおもちゃが役割を全うし続けている限り、いつか直面せざるを得ない宿命にフォーカスします。
とりわけ今作でウッディに突きつけられたのは、おもちゃとしての役割を放棄するか、それとも全うするのかという問いかけでした。
前者を選べば、ウッディは綺麗な状態で博物館に展示され、反永続的に子供たちに鑑賞され、親しまれる存在になることができます。
しかし、そうなってしまえばもはや「おもちゃ」ではないですよね。
一方で、後者を選べば再びおもちゃとしてアンディに愛される存在となるわけですが、彼は確かに成長していきますし、いずれは捨てられてしまう宿命を課されます。
そんな究極の二択を突きつけられたウッディは、それでも「おもちゃ」として生き、そして例えいつか終わりが来るとしても今はアンディに愛される道を選びます。
誰だって、自分がいつか必要とされるのではないかという不安を抱えて生きています。
それはおもちゃという有形で不変の存在であっても同様です。
しかし、今自分を必要としてくれている人がいて、今自分に任せられた役割があるのであれば、そこから逃げるのではなく全うするべきなんじゃないか?という優しいメッセージが『トイストーリー2』には込められています。
前作では役割を全うすることの素晴らしさをただただポジティブに描きましたが、続編ではそれに付きまとう負の側面にも言及し、それでも「おもちゃ」であることを全うしようとするウッディたちの姿を生き生きと描いたのです。
誰かの下で役割を終えること
(C)2008 WALT DISNEY PICTURES/PIXAR ANIMATION STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED.
おもちゃには子供たちの遊び道具としての役割があります。
しかし、子供たちは確かに成長していき、いずれおもちゃから卒業していきます。
アンディも確かに成長していき、そして大学に通うために家から出ていくことになりました。
そんな展開を描いたのが『トイストーリー3』でした。
この作品が描いた主題は「おもちゃの役割の不変性」なんだと思います。
これまでウッディやバズライトイヤーたちは、自分たちが「アンディのおもちゃ」であるというところに自分たちの役割を見出していました。
しかし、彼が成長してしまえば、もはやおもちゃで遊ぶ機会もなくなってしまい、彼らはお役御免状態です。
本作のラストシーンではそんなアンディからボニーへとおもちゃたちが手渡されました。
確かにウッディたちは「アンディのおもちゃ」としての役割を終えました。しかし、「おもちゃ」としての役割はゴミとして捨てられない限りはこれからも変わることはありません。
役割というものは、誰かに従属するものではありません。おもちゃとしての役割もまた「誰か」に縛られるものではないのです。
これまで頑なに「アンディのおもちゃ」としての自分にこだわり続けた彼らが『トイストーリー3』の最後の最後に普遍化され、子供たちを楽しませるための存在へと昇華していきます。
誰かの下で役割を終えたとしても、きっとその役割を欲してくれている人や場所が他にあるはずです。
持ち主が変わったとしてもその役割は決して変わりません。
前作で描かれたおもちゃたちの宿命とそして不安へのアンサーとして本作は完璧すぎました。
ユーザーを描くことの重要性
(C)2008 WALT DISNEY PICTURES/PIXAR ANIMATION STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED.
『トイストーリー』がこれほどまでに評価される理由の1つとして常にユーザーという存在を軽視しないことが挙げられると思います。
というのもおもちゃって、あくまでもそれを使って遊んでくれる人がいて、初めて存在意義を獲得できるわけですよ。
つまりおもちゃで遊ぶユーザーを軽視してしまうと、本作の存在意義そのものが揺るぎかねないのです。
そこを軽視してしまったがために作品としてのボロを出したのがまさしく『シュガーラッシュオンライン』だったような気がしています。
『シュガーラッシュオンライン』は主人公のヴァネロペが自分のゲームから脱出して、他のゲームに居場所を見出すという結末を描いたわけですが、そこにユーザーの意志が全く介在していないんですよ。
つまり、ヴァネロペの物語にフォーカスしすぎたがあまり、彼女を使ってシュガーラッシュというゲームで遊ぶことを楽しみにしている子供たちの顔が全く見えていないのです。
『トイストーリー』シリーズはその点で、すごく丁寧に作られていますし、おもちゃの物語でありながら、ユーザーの物語であるという側面を常に意識しています。
この作品はおもちゃたちの冒険活劇ではあるのですが、『トイストーリー』でも『トイストーリー2』でもラストに描かれるのは、アンディとウッディたちが遊ぶシーンです。
物語や主題性をおもちゃたちの中で片づけてしまうのではなく、きちんとユーザーの存在を内包させたうえで完結させているのです。
とりわけ印象的なのは、やはり『トイストーリー3』でしょう。
確かにボニーの家へと自分たちが持っていかれるように仕向けたのはウッディでしたが、おもちゃたちの最終的な処遇を決めたのは他でもないユーザーのアンディです。
『トイストーリー』の世界では確かにおもちゃたちに意志があります。
しかし、そんな設定の物語であっても、最終的に彼らの命運を握っているのはユーザーなのです。
『トイストーリー3』のラストシーンが素晴らしいのは、ウッディたちが自分たちの新しい居場所を見つけたというカタルシスだけではありません。
おもちゃを通じて、懐かしくも幸せな表情のアンディと、そして新しいおもちゃをもらって嬉しそうにしているボニーの表情が鮮明に映し出されているからです。
つまりこの作品が描こうとしたのは、おもちゃにとって幸せな結末というよりもむしろおもちゃのユーザーにとって最も幸せな結末だったんじゃないかと思っています。
おもちゃを手放すアンディとおもちゃを受け取るボニー。
その両者がおもちゃという存在を介して笑顔になっているその姿こそが『トイストーリー』という作品のアンサーにこの上なくふさわしかったのだと私は確信しています。
だからこそ次作の予告編はどうしても不安が募ってしまうんですよね。
まあ満を持して送り出す自信作であるわけですから、過去作を無碍にするような失敗はしないと思いますが、やはり『トイストーリー4』を見るのは怖いです。
悪役の描き方の巧さ
(C)2008 WALT DISNEY PICTURES/PIXAR ANIMATION STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED.
『トイストーリー』シリーズの素晴らしい点としてヴィランの描き方は挙げられると思います。
最近のディズニー映画ってすごくヴィランの処理の仕方が雑なんですよ。
とりわけ今年に入ってから公開された『ダンボ』と『メリーポピンズ リターンズ』の2作品は特に酷かったですね。
とりわけ『メリーポピンズ リターンズ』のヴィランの処遇が個人的には気に入らなかったのですが、「メリーポピンズ」ってそもそも「想像力を失った大人」に救いの手を差し伸べる物語なんですよ。
それはオリジナル版の頃から変わっていません。
そして『メリーポピンズ リターンズ』のヴィランは、まさしくそんな「想像力を失った男」だったわけですが、映画のラストでは彼に救いを示すでもなく、打ちのめすだけ打ちのめします。
一方の『トイストーリー』はシリーズ3作品を通じて、そのどれもがヴィランの扱い方として完璧なものだったように思います。
まず、1作目のヴィランは「おもちゃを大切にしない子供」でした。
人間から見るとそうでもないですが、おもちゃの視点で見ると、非常に巨大で恐怖感を煽るヴィランとして成立しています。
そして『トイストーリー』は、そんなヴィランとの決着を、作品を見ている子供たちへの「おもちゃを大切に扱おう」というメッセージを内包させつつ描いています。
個人的にすごく巧いと思ったのが、『トイストーリー2』です。
この作品のヴィランに当たるのは、プロスペクターという老人のおもちゃです。
彼は売れ残りの商品であり、人間に「遊ばれた」ことがありません。
例え博物館に展示されるのだとしても、少しでも人から必要とされ、親しまれたいという思いがあるのかもしれません。
だからこそそんなプロスペクターとの決着は、彼が空港で子供のリュックに押し込まれて、家へと持って帰られようとしているというシチュエーションで描かれます。
単純に勧善懲悪してしまうのでなく、君も「子供たちと一度遊んでみて!」と救いを差し伸べるようなヴィランの打倒の仕方は非常に巧いです。
また、『トイストーリー3』のロッツォとの決着のつけ方も巧いですよね。
こちらも単なる勧善懲悪ではなくて、作品のテーマに絡めてオチをつけています。
先ほども書いたようにはシリーズ3作目のテーマは「誰かの下で役割を終えたとしても、きっとその役割を欲してくれている人や場所が他にあるはず」というものです。
ロッツォは過去に自分の持ち主に忘れられてしまい、それが故に自分には存在理由などもはやないと考えているように見受けられます。
それがきっかけてヴィランとして君臨することとなった彼ですが、ラストではそんな彼にも必要としてくれる人が描かれました。
このようにシンプルに敵を倒す、悪を打倒するという勧善懲悪ではなくて、むしろ悪役にも救いを提示したり、悪役の打倒において子供への教訓を込めるような「優しさ」を秘めているのが『トイストーリー』シリーズなのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『トイストーリー』シリーズの素晴らしさについて私の思うところをお話させていただきました。
そしていよいよ7月12日からはシリーズ最新作『トイストーリー4』が公開です!
約10年ぶりに作られる続編は一体どんな物語にになっているのか、今はただ待つのみですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
どうしても吐き出さずにはいられないのでコチラに失礼します。やっぱり「アンディ・・・。」ってなってしまいますね。シリーズ最終作としては受け入れるのが難しい作品ですし、ファインディング・ドリーによく似たやり過ぎ感もありましたし(車の操作に関わるのは個人的には完全にアウトです)、ギャビーギャビーについては読んで「なるほど」と思いましたが一番見せたい部分以外は最近のディズニーって意外とスキが多いような気がするんですよね。まあ大体のモヤモヤについては私より文才に長けた方々が上手く言語化してくれているのでそちらを拝読して少し落ち着きました。
個人的にちょっと期待外れだった部分としては、せっかくフォーキーでオモチャの誕生を描いたんだからオモチャの死についても描いてほしかったんですよね。1では爆死がありましたし3では粉砕や焼却による死が襲い掛かってきましたが、この世界で描かれるオモチャにとっての死はどれも悲惨なものばかりでした。正直なところ、今作のラストは“想像を超える”ものではありませんでしたし、これでウッディの物語は最後と言われても(テーマとしてはともかく物語としては)あまりハッピーエンドには思えないんです。どうせやるならウッディを通して“オモチャにとっての幸せな最期”まで描いて欲しかったなあって思いが残りましたし、それこそが想像を超える何かなんじゃないかと期待したんですけどね。4の登場によって私にとってのウッディの物語は未完になってしまったんです。単純に私が円環構造を持った話が好きなだけということもあるのですが、1~3までの流れは見方によってはその構造を取っているようにも思えるんです。なのでナガさんが書かれた4の必要性については物凄く参考になったんですが、それでも一方で「果たして本当に必要だったんだろうか?」と思う自分がいることも事実で・・・これはもう一回きちんと観てみないと駄目ですね。しかしこんなに心が重いリピート鑑賞は初めてかも知れない。