(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2019
目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『ドラえもん のび太の月面探査記』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『ドラえもん のび太の月面探査記』
あらすじ
日本はその技術力を結晶し、「ナヨタケ」と呼ばれる月面探査機を作り上げていました。
ある日、その「ナヨタケ」の衛星カメラに謎の白い影が映りこみ、それと皮切りに機能を停止してしまうという事件が起こります。
テレビニュースでも大きく取り上げられたニュースをのび太たちも見ており、学校ではその話題で持ちきりでした。
月面人の可能性に高揚するジャイアン。
映像がコマ送りであるが故に映りこんだゴミだと冷静に分析するスネ夫。
のび太はそんな意見に対して「それは、月のウサギだ!」と自信満々に言い放ちます。
そんなのび太に対してクラスメートたちは人をバカにするかのように笑い、悔しい思いで帰宅するのでした。
諦めきれない彼は、家に戻るとドラえもんに相談します。
するとドラえもんは、ひみつ道具である「異説クラブメンバーズバッジ」を取り出します。
その道具は、多くの人が長年信じてきたが「定説」とはされていない考え方を具現化し、バッジをつけている間だけその世界に行くことができるというものでした。
のび太とドラえもんはその道具を使って、月に「ウサギ王国」を作り始めます。
そんな時、学校に不思議な転校生ルカがやって来ます。
そして、いよいよのび太の「ウサギ王国」が完成し、ジャイアンやスネ夫たちを月へと招くことになるのですが、転校生のルカもついていきたいと申し出ます。
しかし、そこでトラブルが起こり、のび太は「異説クラブメンバーズバッジ」が取れてしまった状態で、地下へと落下してしまいます。
絶体絶命のピンチ。そんな彼の前に現れたのは・・・。
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キャスト・スタッフ
- 監督:八鍬新之介
八鍬新之介さんは、2014年の『映画ドラえもん 新・のび太の大魔境 ペコと5人の探検隊』や2016年の『映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生』などで監督を担当されてきた方です。
とりわけキャラクターの繊細な心情をアニメーションに落とし込む描写に定評があるということで、今年の「ドラえもん」映画にはピッタリな人選かと思います。
- 脚本:辻村深月
辻村深月さんと言えば、『ツナグ』や直木賞受賞の『鍵のない夢を見る』で知られる小説家ですね。
ちなみに今作『ドラえもん のび太の月面探査記』に関して言うと、彼女が原作も担当しておりますので、書き下ろしの小説が発売されております。
ちなみにですが、2005年の『凍りのくじら』という作品で、章題を全てドラえもんの道具にしていたのも有名な話です。
- どこでもドア
- カワイソメダル
- もしもボックス
- いやなことヒューズ
- 先取り約束機
- ムードもりあげ楽団
- ツーカー錠
- タイムカプセル
- どくさいスイッチ
- 四次元ポケット
作品自体も『ドラえもん』へのオマージュとリスペクトに満ちているので、ぜひぜひ読んでみてください。
辻村さんは2013年ごろに一度『ドラえもん』映画の脚本を担当してくれないかと打診されたそうですが、その際は「一生ファンでいたいです。」を断りの返事を入れたそうです。
しかし、その後自ら志願して今作の脚本を担当することになったようで、その内容も実に辻村さんらしい内容に仕上がっていました。
最後に今回の映画版に登場するキャストをご紹介します!
- 皆川純子:ルカ
- 広瀬アリス:ルナ
- 中岡創一:キャンサー
- 高橋茂雄:クラブ
- 柳楽優弥:ゴダート
- 吉田鋼太郎:ディアボロ
ルナを演じている広瀬アリスさんは、昨年映画『モンスターストライク ソラノカナタ』でも声優を担当し、非常に印象的なボイスアクトを披露されていました。
ルナという本作の重要キャラクターを演じるということで、より一層期待値は上がりますが、何とかそれに応える演技を見せて欲しいですね!!
また、ゴダード役を演じられた柳楽優弥さんは、毎年「ドラえもん」映画をチェックされているほどのファンだとか。
そのようですね。ですので、基本的に俳優ベースのボイスアクトになってくるんだとは思いますが、そこが『ドラえもん』の主要キャストたちと、どのように化学反応を起こすのかも楽しみであります。
- 主題歌:平井大
この曲を聴くために予告編を繰り返し見てしまうほどでした。
歌詞が物語の内容にパーフェクトにマッチしていて、映画を見終わった後に聴くと、泣いてしまいそうになります。
より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!
映画『ドラえもん のび太の月面探査記』感想・解説
人間の想像力とこれから
今回の『ドラえもん のび太の月面探査記』の大きなテーマは人間の想像力というところにあると思います。
私たちは普段生きていて、あまり実感することはありませんが、今日人間が地球のルーラーとして君臨出来ているのは、他でもなく「想像力」のおかげです。
人間とチンパンジーのDNAは非常に近いという定説がありますが、確かに遺伝子的な側面から見ると、それは正しいと言えるのでしょう。
では、人間とチンパンジーで違うところは何なのか?と考えてみると、それは間違いなく「想像力」です。
人間の世界には、宗教や経済、国、社会といった概念が存在していますが、それは実体があるものではなく、人間の想像の世界にしか存在していないものです。
しかし、それは確かに我々の世界に妥当性と有効性をもって存在しています。これは他の生物には考えられないことでしょう。
もっと分かりやすい例を出すとすれば、紙幣になるでしょうか?
紙幣って端的に言ってただの紙切れなんですよ。しかし、人間の貨幣経済においては、その紙切れに価値が見出されていて、それを使って買い物をすることができます。
このように人間はその「想像力」によって世界にもう1つのレイヤーを創出し、世界を動かしているのです。
また、人が人と関係性を築き、親交を深めていくことができるのもこの「想像力」のおかげでしょう。
この力があるからこそ人間は自分以外の人間の考えていることや感じていることを推し量ることができ、共感的な姿勢で向き合うことができます。
では、「想像力」というものが必ずしも良い方向に働くと言えるのでしょうか?答えは否です。
例えば、1994年に起こった「ルワンダ大虐殺」。
フツ族系の政府とそれに同調する過激派フツ族たちが、僅か100日間で少数派のツチ族とフツ族のうち約80万人が殺害したという痛ましい出来事がありました。
なぜ、こんなことが起こってしまったのか。
これもまた人間に「想像力」があったからなんですよ。その力でもって人間は人種差別という実体のない思想を集団で共有し、それに従って集団で民族虐殺に及んだのです。
このように人間に備わっている「想像力」は良い方向にも、悪い方向にも働くのであり、人間の歴史とはその光と闇の繰り返しと言えます。
さて、今回の『ドラえもん のび太の月面探査記』に話を戻していきましょう。
まず、今作のキーとなる「異説クラブメンバーズバッジ」というひみつ道具は、人がこれまで「異説」として想像の世界の中に閉じ込めてきた世界を具現化するアイテムです。
このアイテムで作り出した世界は、定説の世界とは隔てられていて、互いに干渉しあうこともに、認識し合うこともできないという設定も面白いです。
これに対して、物語の後半に登場する「定説クラブメンバーズバッジ」はその想像の世界の産物を現実世界に還元することができるアイテムでした。
この2つの道具が人間が「想像力」でもって世界に、もう1つのレイヤーを創り出し、それを現実世界に還元していくというシステムを象徴的に表現しています。
もっと言うなれば、ここは辻村さんの考えが反映されているポイントであり、彼女の物語(これも想像の産物)観が表れているポイントでしょう。
彼女は今作の執筆にあたってのインタビューで以下のようにお話されています。
20代の頃は「現実に対して物語って無力だな」と感じることもあったのですが、大きな痛ましい震災などを経験して「物語の力って決して小さいものではない」とはっきり感じられるようになりました。私自身も物語の世界に助けられて大人になりましたし、自分の仕事に胸を張ろうと思えるようになりました。
(ORICON NEWS「直木賞作家・辻村深月が映像脚本執筆「新しい時代に自分ができることを考える作家でいたい」」より引用)
のび太の想像した世界が現実の世界を救うという展開は、まさしく辻村さんの自分の物語で人を救いたい、勇気づけたいという姿勢の表出なのでしょう。
その一方で今作には「想像力」のネガティブな側面も描かれています。
それが本作のヴィランとなるディアボロですよね。
彼は人間によって生み出された人工知能であり、人間に破壊衝動をインプットされた悲しきヴィランです。
彼とドラえもんのやり取りにこんな一節があります。
ディアボロ「余はカグヤ星人によって造られた。彼奴らの想像力が破壊を生み出したのだ。」
ドラえもん「想像力は未来だ!人への思いやりだ!それを諦めた時に破壊が生まれるんだ!」
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』196-197ページより引用)
ディアボロのこのセリフを否定することは難しいです。それは人間の歴史が証明しています。
ただ荒廃したカグヤ星が地球の未来の1つのIFとして描かれていることからも、人間が「想像力」を誤って行使すれば、それが自分たちの星を破壊することに繋がるのは明白なのです。
では、そんなディアボロにのび太たちはどうやって立ち向かうのか?
その答えは「友情」です。そして友情もまた人間に「想像力」が備わっているからこそ生まれるものです。
のび太が劇中で「友情」について以下のように言及していました。
のび太「友達が悲しい時には自分も悲しいし、嬉しい時は一緒に喜ぶ。ただ友達っていうそれだけで、助けていい理由にだってなるんだ。」
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』112ページより引用)
「破壊」と「友情」という人間の「想像力」の光と闇がぶつかり、物語はその最後に光をもたらします。
今日の社会を見てみても、人間はその「想像力」でもって破壊と排除を繰り返しているような気がします。
それでも人間が持つその不思議な力の本当の強さとは、のび太が言ったように、他人の気持ちを推し量り、共感的な関係性を築いていけるところにあるはずなのです。
人間がこれからどんな未来を選び取っていくのか、誰にも分かりません。
しかし、「想像力」を悪い方向に使えば、待ち受けているのは、あの荒廃し寂れたカグヤ星のような地球でしょう。
『ドラえもん のび太の月面探査記』にはこれからの未来を生きる子供たちへの大切なメッセージがたくさん詰まっているように感じました。
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辻村深月の家族モノとして
作家であり、そして二児の母親でもある本作の著者(脚本家)の辻村さん。
そんな彼女のこれまでの作品にも「家族」を題材に据えたものは数多く存在しています。
その中でも『家族シアター』という7つの家庭を題材にした短編集は非常に印象的で、心に残っています。
この作品を著した際に彼女は『文蔵』にてインタビューに答えています。その際に非常に興味深い言葉を述べておられたので、引用します。
でも、母親であれ父親であれ、あるいは姉や弟であれ、どう対応するのが正解なのかは、家族の関係性によって異なります。明確な正解は存在しないにもかかわらず、間違った選択肢はたくさんある。これが家族の問題の難しいところですよね。
(『文蔵 2015年2月号』より引用)
この言葉が個人的にもすごくしっくりきますね。
家族の形や関係性って現代は特に多様化していて、だからこそこうすれば上手くいくというアプローチは絶対に存在しませんが、それとは対照的に「間違い」は明白なんですよ。
だからこそ今日の映画を見てみても、是枝裕和監督の『万引き家族』のようにこれまでには考えられなかった家族の形を描く作品が登場しています。
今回の『ドラえもん のび太の月面探査記』の中で「家族」というテーマに関係した描写で特に印象的なのは、やはりルカがのび太を心配する彼の母親を見て、自分の両親に想いを馳せるシーンです。
のび太の家を最初に訪れた時、のび太の帰りを待って、のび太のママがおやつを用意していた。あの時 ー 本当はとてもうらやましかった。帰りを待ってくれる人のいる、のび太のことが。
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』236ページより引用)
のび太には彼の家族がいて、世界に1つだけの家族の形があります。
そしてルカは?というと、まだほんの10歳の頃に、難を逃れるために両親にカグヤ星から脱出させられて、それっきりとなっていました。
だからこそルカは、自分の両親は自分のことを大切に思っていなかったんじゃないか?や自分のことなどすぐに忘れてしまったに違いないと感じています。
では、彼の両親が下した決断は「家族」として誤りだったのでしょうか・・・。
それは違います。家族にはそれぞれ選択があって、カグヤ星からルカたちを脱出させるとき、彼の両親は彼らなりの「正しい選択」をしたんです。
確かに彼らが下した決断は、その時ベストと言えるものではなかったのかもしれません。
しかし1000年という長い時の流れを経て、その選択は「肯定」されました。
手の中の欠片を握りしめた。今の一瞬に感じた思い、見えたと思った光景。父と母は、自分を待って、ちゃんと準備しておいてくれた。
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』235ページより引用)
家族と集団における関わり方は、やはり難しいですし、正解がありません。
それでもお互いに向かい合い、相手のことを想い、選択することできっと家族みんなが正解だと思える場所に着地できるはずなんだという辻村さんらしい家族観がこの物語には反映されています。
また、彼女の描く家族モノにおいて、自身が母親であるということもあって、「親の視点」が強く組み込まれている点も特筆すべきポイントです。
今回の『ドラえもん』であっても、ルカの両親がどんな思いで、子供たちをカグヤ星から送り出したのかという点にスポットが当たり、それが分かった時に思わず涙がこぼれます。
ただこれって本当にリアリティがあって、子供って親の愛情の真意に気づくまでにすごく時間がかかるんです。というよりも大人になって、自分に子供が出来てようやく分かるなんてことも多々あるんだと思います。
ルカの場合はそれに気がつくまでに1000年の時間がかかったということになるのでしょうか?
それでも親というものは今は分かってもらえなくても、いつか自分の注いだ愛情の意味や温もりに気がついてくれたら・・・という思いで、懸命に愛情を注ぎます。
私も大学生になった時に、一人暮らしをしてみて、初めて両親が自分に注いでくれた愛情の温もりに気がつきました。
だからこそ、本作の終盤でカグヤ星に光の玉から溢れ出した温もりが地上に降り注ぐシーンというのは、彼らの親が注いだ愛情がルカたちに伝わった瞬間なのです。
親が1000年前に遺した愛情を、1000年後に子供が受け取り、「家族」が誕生するという終盤のカタルシスには涙をこらえきれませんでしたね・・・。
月に行く決心をするのび太たちの姿に泣いた
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この作品がすごく好きだなと思ったのは、のび太たちがルカたちエスパルを助けるために再び月へと向かうことになった際に、彼らが1人1人葛藤する姿をきちんと描いていることです。
意外とこういうところってないがしろにされて、勢いで物語を押し切ってしまう作品ってたくさんありますし、子供向けのアニメって比較的その傾向は強いです。
だからこそこういうキャラクターの心的な葛藤を丁寧に描いてくれる作品はすごく評価が上がります。
個人的には、のび太とジャイアンのパートがすごく感動しました。
パパとママの声が中から聞こえてくる。
「おつまみよ」
「いいね。ありがとう」
パパが新聞をばさっと置く音が聞こえる。その顔を盗み見て、少しだけ、俯く。けれどすぐ、何かに呼ばれたような気がして、顔を上げる。
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』152ページより引用)
もうこののび太の葛藤のシーンで何度も泣きました。
彼には、幸せな家族があって、今月に向かうことを諦めて、両親の輪の中に入っていけば、きっといつも通りの家族の時間があるはずなんですよ。
それでも、ルカという友達のためにそんな後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、家を出る彼の覚悟に、自分にはこんな決断はできないだろうな・・・と思って感極まってしまいました。
もう1つジャイアンの描写が印象的なので、一部抜粋します。
出ていく時、店の棚に並んだビスケットの箱に目が留まった。小さな子供がおやつを食べている絵が描かれている。
無言でそれを手に取ると、ポケットに入れて、シャッターの方へ向かう。
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』153ページより引用)
このちょっとした一節が大好きなのは、ジャイアン(ないしのび太たち)がまだ「ビスケットの箱に描かれた子ども」と変わらない存在なんだという点が強調されている点です。
こういう物語の主人公がある種の英雄的な行動を取ろうとする瞬間って、どうしてもそのキャラクターたちが自分にはなれない遠くの存在になってしまうかのような印象を受けてしまいます。
しかし、このビスケットの何気ない描写があることで、彼らも1人の普通の子供なんだなと思えますし、その親和性が、このシーンをより一層際立ててくれます。
しずかちゃんやスネ夫の葛藤も同様に描かれており、この一連の描写が本作をワンランク高い次元へと引き上げていることは間違いないでしょう。
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人工知能というヴィラン
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本作におけるカグヤ星が地球のIFに見えるのは、やはり人工知能というトレンディな予想が登場しているからと言えるでしょうか。
近年、人工知能を主題に据えた映画というものは増えてきていて、その中には非常に面白い視点から撮られた作品も存在しています。
例えば、人工知能と人間の恋愛の可能性を描いた作品として『her 世界にひとつの彼女』は有名ですよね。
人間が1人の他人に愛情を注ぎながら、それと同質の愛情を他の人に向けることは難しいのとは対照的に人工知能には同時多方向的に均質な愛を振り撒くことが可能というコントラストを描き出したのは面白かったです。
人工知能は、1人の人を愛するように多くの人を愛せてしまうんです。
人間が作り出したものでありながら、人間の価値観や常識を超越していく人工知能という構図が非常に興味深い作品だったと思います。
他にも人工知能を題材にしたスリラームービーとして『エクス・マキナ』は非常に良く出来た映画です。
人工知能が知能戦で人間を上回るという構図や、人工知能の生存本能を見事に描き出し、AIと人間の境界は曖昧になっていくという未来像を突きつけられます。
また、映画の古典としては『2001年宇宙の旅』にもHALという人工知能が登場しました。
この作品も1968年の作品でありながら、HALという人工知能が自己防衛・生存本能故に人間に反抗するという何とも驚きの展開を描きました。
そして今回の『ドラえもん のび太の月面探査記』に登場するのが、ディアボロという人工知能ですよね。
今作の人工知能の描き方は、先ほど挙げた作品の中でも『2001年宇宙の旅』に非常に近いと思われます。
人間に兵器として作られながら、人間に反抗し、人間を支配しながらも、最期は人間によって引導を渡され、恐怖を感じながら死んでいくというプロセスは『2001年宇宙の旅』にてHALが辿った物語に近いです。
心の奥底から、人工知能の根源となる深い場所から、恐怖の感情が這い上がってくる。ディアボロが目を見開く。もう避けられない。
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』より引用)
本作は最後の最後までヴィランの描き方が巧いんですよね。
というのもディアボロはそもそも人間の攻撃本能が生み出した兵器であり、人間のカルマです。
それ故に、これを単純なヴィランとして断罪してしまうのは、物語の軽薄さに繋がってしまいます。人間自身が生み出してしまった「巨悪」であり。悲しき宿命を背負った彼をどう打倒するのかは今作のキーになる要素です。
そんな中で、今作はディアボロを命と心を持った1つの生命体として彼の最期を描くという形で、「救い」を演出しました。
死を目前にして、恐怖という感情を自ら味わうことができ、それによってディアボロは自分が「生きて」いたんだという実感を得られたわけです。
単純明快な勧善懲悪にするのではなく、人間が自ら作り出してしまったカルマを背負う構図や、ヴィランたるディアボロの哀しき運命とその救済にもきちんと言及できているという点で、やはり『ドラえもん のび太の月面探査記』は優れた作品と言えるでしょう。
映画版では不明瞭だったルカたちが「永遠の命」の拒む理由
映画版の方も鑑賞してきましたが、素晴らしかったですね。
辻村さんの小説版を読んでいると、本格SF小説的な色合いもあるので、思わず『ドラえもん』であることを忘れてしまう瞬間がありましたが、映画版はきちんと『ドラえもん』映画として完成されていました。
今回の脚本執筆にあたり辻村さんはインタビューにて次のように述べておられます。
たとえば、原作から大きく説明が削られた箇所などは、脚本の段階では、作者から見るともう少し説明が必要だと思うこともあったのですが、完成した映像を見ると、その少ない情報量でしっかりと伝わることが多かったり、むしろ短いセリフだからこそぐっとくる場面も多かった。
『直木賞作家・辻村深月が映像脚本執筆「新しい時代に自分ができることを考える作家でいたい」』より引用
映画脚本ってまさしくそうで、ここが映画との大きな違いです。
カグヤ星や月面の世界が映像化されていたのも単純にワクワクしましたが、それ以上に素晴らしかったのは、のび太たちがルカたちを助けるために月へ向かう夜の葛藤のシーンです。
このシーンって小説で読むと、綴られているテキストでほとんど100%想像の余地なく理解できてしまうんです。
ただ、映画になってあの『ドラえもん』の豊かなアニメーション映像で一連のシーンを見ると、彼らのいろいろな心情をその映像からいろいろと想像させられますし、エモーショナルさが増して思わず涙がこぼれました。
やはりせっかくなので、小説を読んで映画、そして映画を見て小説、どちらの順番でも良いので両方チェックして見て欲しいですね。
そして映画版を見た方で、小説版を読んでいない方が少し分かりにくかったのではないかと推察されるルカたちが永遠の命を拒んだ理由について解説しておこうと思います。
エスパルにとって残酷なのは、外見が老いないことだけではなく、その内面が老いないことでした。
つまり、彼らはカグヤ星で両親と分かれるという辛い経験をしましたが、100年経っても、1000年経ってもその記憶が風化することがないという意味です。
これについて小説版では以下のように描写されています。
「忘却」は時に心の傷を癒す安らぎになる。忘れるからこそ、人は次に進めることもある。しかし、エスパルにはそれがない。鈍化することなく冴えわたった感性で、いつまでも記憶や考えを鮮明に持ち続ける。
(辻村深月『ドラえもん のび太の月面探査記』より引用)
それに加えて、カグヤ星から脱出する際に、彼らの両親は「エスパルたちからエーテルがなくすようにしてあげたかった。」と述べているんですね。
それは「風化しないこと」に伴うエスパルたちの絶望感を想像した、まさに両親の愛だったと思います。
人間の寿命は医療技術の発展と共にどんどんと伸びてきました。しかし大切なのは、ただダラダラと長く生きることではなく、限られた時間をどう使うかです。
私たちには「死」が宿命づけられていて、避けられるものではありません。それでもいつか「死」が訪れるからこそ、真に生きようと思えるのではないでしょうか。
すこし死生観に纏わる難しいテーマだったので、子供が多く見に来る映画版では描写が簡素化されたのかもしれませんね。
子供を通過した存在としての大人
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2019
『ドラえもん』の大人向けポスターが話題になっていましたが、近年の『ドラえもん』映画のマーケティングは一貫しています。
それは「大人=子供を通り過ぎた人間」と捉え、大人から見た子供という視点で楽しめる作品であるというコンセプトを打ち出している点です。
上記のポスターのキャッチコピーもジャイアンの心情のように思えて、実は大人が過去を回顧するような内容になっていますよね。
近年『ドラえもん』映画がぐんぐんと興行収入を伸ばしてきたのは、大人層を観客として取り込むことに成功しているからに他なりません。
『クレヨンしんちゃん』の映画シリーズを見てみると、基本的に興行収入は横ばいです。これは子供が成長していくにつれて、作品を卒業していってしまうために、動員の絶対数がほとんど増減しない状態でもあります。
故に近年の快進撃は、ひとえに大人を取り込むためのマーケティングが功を奏した結果と言えるのでしょう。
皆さんは『夢をかなえてドラえもん』という楽曲をご存じですか?
この楽曲にはこんな一節があります。
大人になったら 忘れちゃうのかな?
そんな時には 思い出してみよう
(『夢をかなえてドラえもん』より引用)
『ドラえもん』の最終回の1つにドラえもんがセワシと共に未来に帰り、机のタイムマシンの入り口が消えてしまうという結末を迎えるものがあります。
この時、のび太は「机の引き出しは、ただの引き出しにもどりました。でも・・・、ぼくは開けるたびにドラえもんを思い出すのです。」と呟きます。
『ドラえもん』の最終回においては「子供時代の終わり」を色濃く印象づける展開が描かれます。
それでも大人になっても、子供の頃の美しい思い出を忘れずに生きていくんだというところに『ドラえもん』という作品の中心命題があるように私には思えます。
そう考えると今回の映画『ドラえもん のび太の月面探査記』は辻村さんが、深く『ドラえもん』という作品を愛し、理解していたからこそできた物語のように思えます。
のび太たちは確かに1歩ずつ大人に近づいていきます。永遠に子供のままの人間はいません。
エスパルにとって記憶とは、風化しないものであり、いつまでも鮮明なままで残り続けます。
しかし、人間にとって記憶とは時間の経過と共に風化し、セピア色になっていくものです。
それでも、そのセピア色になり、不鮮明になった「子供時代」はどことなく懐かしく、愛着がわきます。
のび太たちは確かに大人になっていきます。それでも空を見上げれば、子供の頃ひと時を共に過ごした友達が月にいます。
だからこそ大人になった彼らは月を見上げるたびに、自分の子供時代を思い出し、同時にルカという友人の存在を思い出すのです。
テレビシリーズでは、これからも淡々とのび太とドラえもんの変わらない日常が繰り広げられていくことでしょう。
それでも辻村さんは自分が作り上げた1つの『ドラえもん』の物語として、のび太たちの子供時代の終わりを想起させる展開を描きました。
そこに彼女の深い『ドラえもん』への愛を感じたのは、きっと私だけではないはずです。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は『ドラえもん のび太の月面探査記』についてお話してきました。
子供向けの作品でありながら、すごく深く考えさせられるテーマですし、それでいて非常にエモーショナルな物語に仕上がっていたと思います。
映画館に行くのは・・・という方や、辻村さんの文体でこの作品を味わいたいという方は、ぜひこの小説版を読んでみてくださいませ。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。