みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですねNetflix映画『KATE ケイト』についてお話していこうと思います。
鑑賞後にこんなツイートをしたんですが、監督の趣味なのか何なのかは定かではないですが、「とんでもニッポン」の連続に衝撃を受けましたね。
『KATE』は「ぶっ飛んでて間違ってるJAPAN」と「ぶっ飛んでるけど正しい日本」と「シンプルに間違ってるジャポン」と「ほどほどに合ってるニッポン」が同居した変な映画!
要約すると好き👌 pic.twitter.com/J5bmw2IIFz
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) September 11, 2021
さて、本作の撮影のロケーションを調べておりますと、ロサンゼルス、東京、大阪、バンコク(タイ)の4つの都市で主に撮影されたということでした。
物語的には、東京以外の場所が登場することはほとんどないはずなんですが、映画をじっくりと見ていると、明らかに東京で撮影したのではないであろうシーンも散見されました。
大通りや渋谷などの象徴的なロケーションは日本ロケなんだと思いますが、少し路地裏に入ると、外国人の目から見た「いわゆるJAPAN」な風景に切り替わります。
海外の人から見ると、違和感がないのかもしれませんが、日本人が見ると、明らかに「これバンコクで撮ったんやな…。」な異国情緒漂う風景なんですよ。
『千と千尋の神隠し』の冒頭の千尋が異世界に迷い込むくらいのノリで、日本の東京から、「いわゆるJAPAN」な風景に切り替わっていく、このギャップも1つ日本人だからこそ楽しめるポイントなんじゃないかなと思います。
こうした日本描写も楽しめる一方で、物語としてはマフィアやギャング映画ではなく、きちんと「ヤクザ映画」になっており、日本を舞台にする意義を感じました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
Netflix映画『KATE ケイト』感想・解説(ネタバレあり)
いわゆるJAPAN&とんでもニッポン
記事の冒頭にも書きましたが、本作はいきなり日本人なら聞きなじみしかないあの音楽で幕を開けます。
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そして、主人公が木嶋を暗殺しようとビルの屋上から狙いを定めているシーンでは、ビルに『東京喰種』の映像が投影されていましたね。
他にも物語の中盤には、日本のロックバンドBAND-MAIDが登場するなど、「かわいい」文化をも取り入れていました。
監督ないし製作陣の趣味もあるのかもしれませんが、映画に「日本っぽさ」をもたらそうとする際に、真っ先に出てくるのが「寿司」や「着物」ではなく、こうしたある種の「とんでもニッポン」描写であるところに妙な安心感を覚えました。
一方で、物語が中盤に差し掛かるにつれて、外国人から見た日本のステレオタイプ「いわゆるJAPAN」が顔を覗かせます。
この映画は、日本が「大規模なアクションへの撮影に非協力的である」というバックグラウンドを踏まえてみると、何となく裏事情が見えることでしょう。
まず、大阪や渋谷といったロケーションを強調するために、大通りのシーンやアクションがない移動シーンなどでは東京で撮影した映像を用いています。
ただ、日本は「大規模なアクションへの撮影に非協力的」ですので、そこで派手なアクションをしたり、カーチェイスをしたりといったことができません。
そのため、基本的にアクションシーンはビルであったり、路地裏で展開することになるのですが、その多くは海外ロケとなっていました。
(映画『KATE』予告編より引用)
路地裏のシーンなんかは、日本でも許可が下りるんじゃないかなとは思いますが、おそらく日本で区画を封鎖して撮影すると予算がかさむので、それならバンコクで撮った方が安いということなんでしょうね。
ただ、バンコクの路地裏で撮影するとなると、異国の風景を無理やり日本風にしないといけなくなるので、ここで日本のナチュラルさが失われてしまいます。
こうして外国人のイメージで脚色された、ネオンまみれで、今時見かけない屋台や露店が立ち並に、変な日本語の看板が並んだ独特の日本の風景が作り上げられました。
そして、こうした「いわゆるJAPAN」はヤクザが食事をしている邸宅のシーンで、そのボルテージが最高潮に達します。
太鼓!着物!踊り!和食!畳!障子!芸者!
というか、このシーンは障子があまりにも白すぎて怖かったですね。
(映画『KATE』予告編より引用)
障子の白とヤクザの黒色で映像全体をモノトーンに仕上げ、その上で血の赤色を強調したいという狙いは見えましたが、あまりにも異様な光景だったように思います。
映画『KATE ケイト』の面白さは、海外の人から見た「いわゆるJAPAN」が日本人の感覚だと「いつの時代だよ!」って感じなのに対し、海外の人が「これは日本なの?」と首を傾げそうなぶっ飛んだ描写が意外と日本人の肌感覚的にはリアルだったりするところではないでしょうか。
着物や太鼓、謎の屋台、露骨な日本語の看板。
でも
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みたいな「なんじゃそりゃ!」と思われそうな描写が意外とリアルだったりするわけです。
この「いわゆるJAPAN」と「とんでもニッポン」が同居した作品を、日本に生きる私たちが見ることに面白さが生まれるのではないかと私は思っています。
時にツッコミを入れながら、時に「あ~それあるある!」と共感しながら、楽しんでみてください。
テーマや物語は『ブラックウィドウ』を思わせる?
(映画『KATE』予告編より引用)
映画『KATE ケイト』のメインテーマの1つは男性社会からの女性の解放であり、とりわけその描き方は先日公開されたマーベルの『ブラックウィドウ』に似ているという印象を受けました。
主人公のケイトは「強い女性」ではあるのですが、彼女はウッディ・ハレルソン演じるボスに半ば洗脳されており、彼のもとで駒として働かされているにすぎません。
彼女は自ら主体性をもって行動していると錯覚していますが、結局彼女は男性社会の中で、男性に都合の良いように使われ、使い捨てられる存在でしかないのです。
そんなケイトが任務の中で出会うのは、彼女が任務中にその父を殺害してしまった少女アニでした。
彼女はケイトの幼少期に非常に似ており、男性のヤクザ社会の中に生まれ、その中で周りの都合に振り回され、最後には使い捨てられる存在です。
それ故に、アニがケイトに人質に取られると、彼女の兄である蓮二はあっさりと妹である彼女を殺害するように命令しました。
こうして、ケイトの戦いにアニも加担することとなり、2人のゴールは組のボスである木嶋の殺害であるとともに、アニをヤクザ社会から解放することにもリンクしていくのです。
2人の女性と男性社会との戦いといった色を物語が帯びていく中で、全ての糸を引いていたのは、ウッディ・ハレルソン演じるヴァリックであることが明かされます。
ケイトもアニもヴァリックの掌の上で踊らされていたにすぎず、全てが仕組まれていたかのようにアニはケイトへの憎悪を煽られ、殺し屋の道へと引き込まれていくのです。
このように、ケイトが自分という存在がヴァリックの掌握する男性社会における1つの駒でしかないと自覚し、その上で彼女が大切に思っていたアニが同じ道へと引き込まれるという展開が描かれることで、彼女にとっての「けじめ」が浮かび上がってきます。
『ブラックウィドウ』におきてもナターシャが自分自身が過去に犯した罪や目を背けてきたことに対して行動を起こすという展開が描かれましたが映画『KATE ケイト』の物語もまさしくここに着地していきました。
ケイトは、自分自身が犯したアニの父を殺したという罪と向き合い、その「けじめ」としてアニを自分と同じ運命から解放するという選択をするのです。
女性の差別、搾取、抑圧は世代を超えて繰り返され、再生産し続けてきました。
だからこそ、そうした負の連鎖を止めなければならない、次の世代に繋いではいけない、私を最後にしなければならない。
そうした覚悟でケイトは全てを背負い、ヴァリックと対峙し、「けじめ」をつけるわけです。
アニはケイトのことを「かっこいい」「クールだ!」と言いました。そして「女版ターミネーターのようだ!」とも評しました。
しかし、彼女はそんな人間ではなかった。そんな女性ではなかった。
それでも、これからを生きるアニにはそうあって欲しい。そう願いながら、最後の命の輝きを燃やし尽くし、ヴァリックを打倒するのです。
『ブラックウィドウ』は主人公のナターシャが、過去と向き合い、戦い、囚われた女性たちを解放し、その旗手として君臨するまでの物語を描きました。
今回の『KATE ケイト』は大筋は似ているのですが、ラストはケイトが全ての負の連鎖を背負って「死」をもって「けじめ」をつけるという何とも「ヤクザ映画」らしい幕切れを選びましたね。
ただ、これは悲しい結末ではないはずです。
劇中で國村隼さんが演じる木嶋がこんなことを言っていました。
「死は始まりだ。」と。
この映画のラストシーン。死にゆくケイトと彼女に寄り添うアニ。
その背後にはネオンの招き猫が煌々と夜の闇に輝いています。
日本を舞台にした作品らしい演出ですが、ここには彼女の「死」とそれによってもたらされる「始まり」に幸あれというささやかな願いを感じ取ることができました。
日本を舞台にした「ヤクザ映画」の流れを汲んだ、女性の主体性を描く物語としてかなり巧く作ったと言えるのではないでしょうか。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回はNetflix映画『KATE ケイト』についてお話してきました。
こういう作品を見ると、日本はもう少し映画の撮影に協力的になって、ロケや撮影の敷居を下げても良いのになぁ…とは思います。
大阪フィルムコミッションが『マンハント』のときにかなり頑張ってくれていたのは個人的には記憶に新しいです。
こうした海外作品で日本の街並みがフィーチャーされる機会が増えれば、「寿司」「着物」「太鼓」みたいなステレオタイプ的な描写も絶滅していくんじゃないでしょうか。
せっかく東京を舞台にした作品なのに、アクションが繰り広げられるシーンの大半が路地裏で、しかも路地裏に入った瞬間に「日本風のバンコク」に切り替わるのは、少し寂しいものがあります。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。