みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『哀愁しんでれら』についてお話していこうと思います。
というのも、この記事の後半に本作のスピンオフ小説である『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』の感想を書いてあるのですが、こちらの小説を映画に先駆けて読んでしまったのです。
それが何でダメなの?と思われるかもしれませんが、両方鑑賞された方がいればお分かりいただけると思います。
なぜなら本編『哀愁しんでれら』とスピンオフ『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』はキャラクター名が違うだけのほとんど同じ話なんですよね。
違っていたのは、主人公の実家の家業が「酒屋か自転車屋か?」くらいにもので、それ以外の展開はほとんど同じだったように思います。
そう思うと、あの小説が書かれた意図がイマイチ分からないんですよね。
だって、映画を見た人であれば、キャラクター名が違うだけのほとんど同じ話なんて読んだところで微妙な感想になりますし、逆に本編を見る前に読むとネタバレになるので、これも難しいです。
結果的に、誰に勧めたら良いのか分からないスピンオフ作品?ノベライズ?になっていて、せっかく『暗黒女子』の秋吉先生が書き下ろしたのに、勿体ないなぁという印象を受けました。
さて、今作『哀愁しんでれら』ですが、そもそもの企画の発端は「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM 2016」でグランプリを獲得した脚本です。
このイベントは『嘘を愛する女』や『ルームロンダリング』などの既に公開された映画を輩出した近年注目されています。
何となくアカデミー賞作品賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』感が強いので、かなり影響は受けているのではないかな?と推察されます。
さて、今回はそんな『哀愁しんでれら』について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『哀愁しんでれら』
あらすじ
市役所の福祉課に勤める小春は、虐待を受けている子どもを助けたいという使命感で懸命に働いていたが、空回りを繰り返していた。
忙しいながらも、家族と共に平凡な毎日を送っていましたが、ある日の夜、祖父が病に倒れ、自宅の自転車屋は家事になり、恋人の浮気現場を目撃するという不幸が立て続けに起こる。
人生を諦めかけた彼女が踏切を通りかかると、そこには酔いつぶれ、線路にごろんと寝転がっている男性が1人。
咄嗟に彼を助けた小春は、彼からお礼がしたいと言われ、名刺を渡される。
連絡することを躊躇っていたが、友人に促され、彼女は「開業医・大悟」に電話をかけ、デートに行くこととなるのだった。
彼は、8歳の娘を男手ひとつで育てており、金銭的にも余裕のある王子様のような存在だった。
幼少の頃からシンデレラの物語に憧れていた小春は大悟に惹かれていき、交際をすっ飛ばして、彼のプロポーズを受け入れる。
彼の娘のヒカリとも良好な関係を築き、3人の家族としての生活は順風満帆に見えたが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:渡部亮平
- 脚本:渡部亮平
- 撮影:吉田明義
- 照明:浦田寛幸
- 編集:岩間徳裕
- 音楽:フジモトヨシタカ
『かしこい狗は、吠えずに笑う』の監督・脚本、実写版『三月のライオン』の脚本などで知られる渡部亮平さんが今作を手掛けました。
正直、脚本は今回の『哀愁しんでれら』に関しても、かなり面白いですし、演出面もなかなか見どころが多かった印象です。
その他のスタッフ陣は、新進気鋭の面々が揃っており、他の邦画大作とは一線を画する独特な作品になっていたと思います。
ただ、全体的には「サイケ感と溢れんばかりのインサートと毒っ気を抜いた中島哲也監督作品」みたいな感じだったので、もう少し演出面で個性が欲しいかなという印象はありました。
- 福浦小春:土屋太鳳
- 泉澤大悟:田中圭
- 泉澤ヒカリ:COCO
- 福浦千夏:山田杏奈
主人公の小春を演じたのは、『今際の国のアリス』で話題沸騰中の土屋太鳳さんですね。
少女漫画の実写に多く出演していた頃は、それほど演技が上手いイメージは無かったのですが、こういう作品に出ると、本当に抜群ですよね。
何と言うか空気感を自在に操ってしまうんです。急にギアが変わって、寒々しい雰囲気を出して、観客をゾワッとさせるような瞬間が何度もあり、本当に魅せられました。
また、小春の夫となる大悟を田中圭さんが演じました。
何と言うか、こういう表面的には良い男なのに、裏は「ダメ男」「ヤバ男」みたいなタイプの役どころが本当に似合いますよね(笑)
そして主人公の妹役として、我らが山田杏奈さんが出演していました。
制服姿最高でした。ありがとうございました。お世話になります。
『哀愁しんでれら』感想・考察(ネタバレあり)
憧れた他人も、嘲笑した他人も、明日の私
(C)2021「哀愁しんでれら」製作委員会
今作『哀愁しんでれら』の演出面の巧さは、何と言っても「映し出すもの」や「他人」の使い方だと思います。
何を言っているかわからないと思いますが、今作の演出や作劇を見ていると、何となく『2001年宇宙の旅』の終盤における小部屋で、主人公が未来の自分を見て、次の瞬間には現在の自分が未来の自分の立場になっているという演出を思い出しました。
『2001年宇宙の旅』より引用
つまり、自分が憧れを抱いていたり、逆に嘲笑したりしていた他人が、いつしか自分自身だったことに気がつくという構図を作品の中で繰り返しているのです。
例えば、小春の視点で見ていくと、このようなベクトルが見えてきます。
- テレビニュースで流れる校長先生に包丁を突きつけたモンスターペアレンツを嘲笑→ラストの展開
- 線路で横たわっている大悟を助ける→線路に横たわっているところを大悟に助けられる
- 幼少期に母親に見捨てられた→ヒカリを見捨てて、大悟の家を去ろうとする
- 虐待疑惑のある母親に向かって「母親失格」だと吐き捨てる→自分が大悟から「母親失格」だと言われる
物語的な部分で言うと、こういった点が挙げられますね。
一方で、映像的な面でもこうしたベクトルが見えてきます。
- 当初は大悟のコレクションの世界観を気味悪がっていた→終盤はそのコレクションの中に自分も取り込まれていく
- 「Family」という名前のスケッチブックを眺めて怪訝な表情をしている→自らが「Family」のスケッチブックに描かれる立場になる
このように小春というキャラクターは、自分が「あんな人間にはなるまい」と思っていた人物に、次第に自分自身が成り代わっているのです。
また、詳しくは伏せますが、大悟についても小春と似たような物語を辿っています。
例えば、最初に学校を訪れた時に、彼は他の生徒のモンスターペアレンツを嘲笑していましたが、クライマックスのシーンでは彼自身がモンスターペアレンツと呼ぶにふさわしい人間になってしまっていました。
このように『哀愁しんでれら』という作品は、徹底的に他人や事物を未来の自分を映し出すツールとして使い、次第に主人公が「向こう側」へと突き進んでしまう構図を視覚的に表現していましたね。
個人的に一番巧いなと感じたのは、小春が大悟と喧嘩をして一瞬だけ実家に戻るシーンです。
ガラスの引き戸から顔を覗かせると、当時はあんなに不満を抱えていた祖父と父、そして妹との暮らしが無性に懐かしく、そしてもう戻ることはできないものとして現前するんですよ。
この時、小春は冒頭の彼女であれば羨んだであろう「向こう側」にいるのに、いざその「向こう側」が自分の居場所になってしまうと、「こちら側」とは切り離されてしまいます。
そんな残酷さを浮き彫りにしたシーンですし、本作を象徴するワンシーンと言っても過言ではありません。
最終的に小春は、冒頭のテレビニュースで取り上げられ、彼女が軽蔑していた校長先生に包丁を突き付けた人間と同等、いやそれ以上のことをしてしまいました。
憧れていたシンデレラ。そんなシンデレラストーリーが自分の物語になる。
しかし、軽蔑していた自分の母親と、全く同じ行動を取ってしまう自分がいる。
憧れていた他人も、嘲笑していた他人も、軽蔑していた他人も。彼らは自分自身を映し出す「鏡」のような存在であることを忘れてはなりません。
どんどんと向こう側へ向こう側へと進んでいき主人公が行きつくところまで辿り着いてしまうという非常に奥行き感のあるプロットと演出はお見事だったと思います。
衣服の色に注目すると面白い?
本作『哀愁しんでれら』を見ていく中で、個人的に面白いなと思ったのは、キャラクターの着ている衣類の色なんです。
まず思い出していただきたいのは、3人が婚姻届けを出しに行った日、つまり幸せの絶頂にいた日の服装ですね。
(C)2021「哀愁しんでれら」製作委員会
この3色は言わずも知れた「色の3原色」と呼ばれるカラーであり、それ故に混じり気がないんですよね。
つまり、このシーンでは「カラフル=幸せ」という視覚的な印象を何となく観客に与える一方で、彼ら3人がそれぞれに「独特な」人間であり、この時はまだ到底分かり合えてなどいないということをこの服のカラーで示そうとしているのだと思いました。
その後のシーンで面白いのは、ヒカリが友達の葬儀に行くときに、黒いローファーを履くのを頑なに拒む場面でしょうか。
この時、ヒカリはいつも通りの「赤」色のシューズを履いて出席し、参列者の顰蹙を買っていました。
(C)2021「哀愁しんでれら」製作委員会
なぜ彼女が、この時黒色の靴を履かなかったのかと言うと、それはまだ彼女と小春が完全に分かり合えてなどいないということを視覚的に示すためなのではないでしょうか。
そんな彼らが同じ色の服を着るのは、アトリエで「家族の肖像画」を描くあの時ですね。
あの時、描いている側の大悟も、そして描かれる側の小春とヒカリも全員が白色の服を着ており、初めて「家族」が1つになりました。
その後、彼らが家族として結束していくきっかけとなるのが、ヒカリが同級生を突き落としたという噂で「いじめ」に遭うことです。
そして、当然のように、クライマックスの場面では予防接種という事情もあるとはいえ、彼らは白い服を着ています。
(C)2021「哀愁しんでれら」製作委員会
このように、それぞれが混じり気の無い「原色」であった3人が、「白」へと統一されていき、視覚的な意味でも「家族」になっていくという演出は非常に面白かったです。
本作のメッセージ性や結末がもたらしたものの意味については、後のそこに描かれたのは、後の「家族になることの邪悪さを描く」の章に書いてあります。(本編とスピンオフが同じ内容だったので、そういうイレギュラーな構成になっています。)
『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』
ここからは、映画『哀愁しんでれら』に先駆けて発売された、スピンオフのノベライズ版である『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』についてお話していきます。
このスピンオフは映画『哀愁しんでれら』に着想を得て、書かれたということなので、推測の域は出ませんが、プロットは本編と似ているのではないかな?と推察されます。
シンデレラに憧れる女性が、子持ちの開業医の男性と結婚して…しかし、望んでいたような幸せは待っていなくて…。
というテイストの物語なので、この点では映画『哀愁しんでれら』の設定や展開については踏襲しているようです。
そんなノベライズ版ですが、なんと執筆を担当したのは女子高校生の本音と建て前を巡るえげつない小説『暗黒女子』を著した秋吉梨香子さんなんですよ。
この手の邪悪な人間の裏側を描くような作品を書くと、ピカイチと言っても過言ではない作家さんですし、それだけに非常に楽しみにしていました。
途中までは、人間の表と裏の両面から、新しく家族になった、開業医の孝太と妻の咲良、そして孝太と前妻の娘であるカオリの物語を描いていました。
しかし、クライマックスで彼らがようやく「家族」になれたと思ったら、事態が急変し、そこからはもう怒涛の展開という他なかったですね。
登場人物が「狂人」揃いなので、何となくそこは引っかかりましたが、ラストのラストがとち狂っているので、まあここまで突き抜けてくれたら満足かな…と。
ここからは、そんな『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
作品を未読の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
あらすじ
咲良は幼少の頃から『シンデレラ』に憧れており、苦労の多い人生を送っていたがいつか裕福な男性に見初められて、報われる日を夢見ていた。
しかし、現実は学生時代から付き合っていた売れないバンドマンの男と付き合っているだけであり、順風満帆な人生を送っている友人に嫉妬する日々であった。
ある日、祖父が意識不明の重体になったため、病院の連れていこうと試みた際に運転していた咲良の父が飲酒運転で事故を起こしてしまう。
それを庇おうとした彼女も罪に問われ、意気消沈していたが、その帰り道に彼女は路上で嘔吐している男性を介抱する。
その男性こそが孝太であり、彼女は開業医として働く傍らで、前妻との間に生まれた娘であるカオリを育てている一児の父親でもあった。
孝太は、介抱のお礼がしたいと咲良を呼び出し、買い物に行ったり、食事に行ったりし、やがて娘のカオリにも合わせ、交際がスタートする。
カオリの強い要望もあり、付き合い始めたばかりの2人は一気に「入籍」し、彼女のシンデレラストーリーは完成したかに思えた。
しかし、結婚してからというもの、咲良と孝太、そしてカオリは自らの願望や欲求が故にすれ違っていき…。
キャラクター
咲良
本作の主人公。シンデレラへの憧れが幼少の頃より強い。
子どもの頃に母親に見捨てられた経験をトラウマとして抱えており、児童福祉関連の仕事に携わっている。
気遣いができ、面倒見の良い性格だが、「尽くしたい」願望が強く、「尽くしている」自分に酔っている節もある。
孝太と結婚してからは、カオリに何とか気に入られようと奮闘するが、カオリの裏の顔に困惑し、さらには孝太の本性にも面食らう。
それでも2人と分かり合って、本当の家族になりたいと考え、自らの行動や考え方を改めていく。
孝太
咲良と結婚し、夫となる。1人娘のカオリを大切にしている。
前妻は浮気をして、家を出て行ってしまい、そのことに複雑な感情を抱いている。
温和で人当たりの良い性格とは裏腹に、自宅では自作の粘土人形に暴力を振るうなど狂気的な一面も抱えている。
また、学校ではいわゆる「モンスターペアレント」的な振る舞いをしており、カオリの一挙一動を妄信的に信用するため、学校にも煙たがられていた。
そんな娘を思う気持ちの強さが、咲良との温度差を生み、結婚生活を冷え込ませていくのだが…。
カオリ
孝太と彼の前妻との間に生まれた1人娘。
孝太が咲良を連れて来た時は、心から嬉しそうな表情を見せ、早くお母さんになって欲しいと促す。
しかし、それは建前で、彼女は母親ができて、自分のために尽くしてくれればそれでいいと考えているドライな人間だった。
彼女は学校では、その嘘つきな言動や被害者的な振る舞いから嫌われており、その被害者的な振る舞いから父の孝太は娘が「いじめ」を受けていると勘違いをする。
ある日、友人の1人に嘘をついたことを追及され、焦った彼女はとんでもない事件を起こしてしまう…。
『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』感想・考察(ネタバレあり)
押しつけること、尽くすこと
『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』の主人公である咲良は一見すると、面倒見がよく、いわゆる「尽くすタイプ」の女性と言えます。
しかし、クライマックスの狂気的な展開に至るまでにも、彼女はその内面のヤバさをたびたび露呈させていました。
彼女は、親友である恵美に子どもが生まれたことを聞き、出産祝いとしてハイブランドの涎掛けをプレゼントしていました。
しかし、恵美はそんなプレゼントにどこか怪訝な表情を浮かべています。
その理由は、咲良が購入したハイブランドの涎掛けにはスパンコールがあしらわれており、子どもが誤って食べてしまう可能性があるからでした。
加えて、レース地でオシャレなアイテムなのですが、赤ちゃんの敏感な肌には適さないだろうと恵美は考えていました。
そのため、恵美は「せっかくのもらい物で悪いけど、返品してきてくれないか。」と咲良に頼み込む始末です。
この一件に既に、咲良というキャラクターのパーソナリティがしっかりと反映されているのが分かりますよね。
彼女は、「ハイブランドのアイテムを親友にプレゼントしたという自分」に酔っているだけで、本当に相手のことを考えてなどいないのです。
加えて、彼女は学生時代から付き合っている売れないバンドマンの男と交際関係にあるのですが、恵美から「止めておきなよ」と釘を刺されても、自分からは別れようとはしません。
これも、まさしく彼女が「彼に尽くしている自分」に酔っているからであり、相手を顧みずとにかく「尽くす」という行為が自分自身を幸せにしてくれると信じているが故です。
そして、そんな咲良の行動や思考のバックグラウンドにあるのが、幼少期に彼女を見捨てて家を出て行ってしまった母親の存在ですね。
彼女の母親は、泣きつく咲良を見捨てて、家を後にしました。その時のトラウマが彼女の心に大きな傷となって残っており、だからこそ、彼女は誰かに尽くすという行為を通じて、あの時繋ぎ止められなかった「母親」を自分の元に繋ぎ止めようとしているのかもしれません。
仕事で虐待が疑われる児童の家を訪れた時の強引な振る舞い、飲酒運転で事故を起こしてしまった父を勝手に庇おうとし、カオリに気にいるために手作りの巾着をプレゼントする始末。
徹底的に自分本位で、どこまでも「オナニー」的な滅私奉公に酔っている、一見まともそうなのですが、実は最初から狂気じみたキャラクターなんです。
ただ、彼女と結婚する夫もこれまた似た者同士みたいなところがあります。
彼の場合は、自分の娘の視点でしか物事を考えていません。つまり学校で何か起きれば、必ず娘の肩を持ち、客観的な視点で物事を考えるということをしないのです。
彼も自分に酔っている節が物語の中で散見されました。
まずは、学校にカオリの件で呼び出された帰り道に手を繋ごうとして、彼女に激しく拒絶されていましたね。
でも、彼はその時に自分のやっていることが異常だと気がつかないんですよ。なぜなら、自分がすることは絶対的に正しいと、そう思っているからです。
孝太が初めて、咲良をデートに誘い、買い物に行った時も「こんな高価なものは貰えない」と恐縮しているにも関わらず、問答無用で高級品を買い与えました。
彼も結局、人間の根っこの分が咲良と全く同じ気質なんですよね。
しかし、彼ら2人は似た者同士ではありましたが、物語の終盤に至るまでは、まだ良かったんです。
なぜなら、2人の「家族」としての目線や温度感のすり合わせが上手く行ってなかったからですよ。
孝太は咲良の「尽くしたい」精神からくる行動に疑問を持っていましたし、逆に咲良も孝太の娘に対する妄信的な行動に懐疑的な目を向けていました。
だからこそ、この時点ではお互いがお互いの抑止力のようにもなっていて、暴走直前で何とか踏みとどまっていたのです。
しかし、それが音を立てて崩壊する瞬間が訪れます。
今作における最大の不幸は、2人とそして娘のカオリが本当の「家族」になってしまったことなのです。
家族になることの邪悪さを描く
さて、ここからは『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』という作品の核の部分に切り込んでいこうと思います。
この作品は、物語を通じて、自己本位的だった咲良、孝太そして娘のカオリが自分の行動を悔い、本当の家族として結びついていくプロセスを描いていました。
ここまでは、過去のトラウマが伏線になっていたり、冒頭の2人の出会いのシチュエーションが違った形で再現されたりと、平凡ながらも美しい物語に仕上がっていたのです。
学校で起きた女子児童の飛び降り事件。これにカオリが関わっているという噂が広まり、彼女は学校で激しいいじめを受けるようになりました。
これを受けて、本当の家族になった咲良とそして孝太は家族として文字通り「一枚岩」になって立ち向かいます。
同じものを見て、同じ喜びを共有して、同じものを食べて、同じように笑って…。
そんなある種の理想の家族像のようなものが存在していると思いますが、この『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』という作品は徹底的にそうした理想のダークサイドを描いています。
それまで、孝太のカオリに対する妄信的な行動に懐疑的な目を向けていた咲良は鳴りを潜め、家族となった彼女は彼に加担して、学校で教員やほかの児童たちにまで罵倒するような言葉遣いをするようになりました。
孝太も当初は、彼女の自己本位的な行動にイライラしていましたが、終盤になるとそんな彼女に「頼もしい」という印象すら抱くようになっています。
つまり、2人がその人間の根幹の部分に孕んでいた「自己本位性」のようなものを、「家族」というコミュニティを媒介して、さらにカオリをトリガーとして爆発してしまうわけです。
自分の家族は悪くない。自分の娘に罪はない。
もはや2人は客観的に物事を捉えることができなくなっており、自分たち「家族」だけが正しいのだという狂気の境地へと到達しています。
そして、彼らは自分の大切な家族の平穏を守るために、とんでもない行動を起こしてしまいました。
それが、娘の通う学校の校医としても勤務していた孝太が、学校で実施する予防接種の折に注射に毒物を混入させて、児童や教員の命を奪うという蛮行です。
自分たちが為すことは正しい。自分たちが虐げられるなんて間違っている。間違っているのは世界や社会であって、自分たちじゃない。
そういうあまりにも強烈すぎる自己本位性が社会を震撼させる事件を引き起こしてしまうと言うのが、『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』の結末です。
今作は、自己本位的で、他人に自分の考えを押しつけるタイプの人間が「家族」になり、その共同体を守らなければというある種の防衛本能に目覚めることによって暴走していくというプロセスをじっくりと描き切りました。
家族は助け合うもの。守り合うもの。大切にしあうもの。一緒に生きていくもの。幸せを分かち合うもの。
そういう響きの良い言葉をひっくり返した時に見えてくるのは、ある意味で本作が描いた狂気なのかもしれません。
きっと2人が「家族」にならなければ、こんな事件は起きなかったのだと思います。
しかし、不幸にも「似た者同士」の2人が「家族」になり、共鳴してしまうことで凄惨な事件が引き起こされてしまいました。
そこに描かれたのは、まさしく「家族になることから生じる邪悪さ」なのかもしれません。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『哀愁しんでれら もう一人のシンデレラ』についてお話してきました。
ラストの飛躍ばかりに目が行きがちですが、物語の序盤から登場人物の危険な香りを何気ない日常の描写の中で巧妙に積み重ねてあります。
だからこそ、2人が本当の意味で「家族」になれた後でに起きる終盤の展開にも、すごく説得力があるのです。
本作は、自分本位で生きること、そして自分の願望や理想を過度に他人や社会に押しつけることの恐ろしさを「家族」を媒介にして描き切ってくれました。
分量もそれほど長くなくて、本を読みなれている人であれば、1時間くらいあれば読み終わるんじゃないかな?と思いますので、良かったら『哀愁しんでれら』本編とセットで読んでみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。