映画『ディアエヴァンハンセン』解説・考察:なぜ本作はミュージカルでなくてはならなかったのか?(ネタバレ)

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ディアエヴァンハンセン』についてお話していこうと思います。

ナガ
ブロードウェイミュージカルで話題になっていたこともあり、気になっていた作品です!

2015年に初演されると、大きな話題となり、座席が取れないほどの大人気になったようで、第71回トニー賞でも好成績を残しました。

9つの賞にノミネートされ、ベン・プラットが主演男優賞、レイチェル・ベイ・ジョーンズが主演女優賞しただけでなく、作品賞、最優秀作曲賞も獲得したのです。

その見所の1つは、もちろん音楽でして、ベンジ・パセクジャスティン・ポール作曲/作詞というゴールデンコンビが手がけたことでも注目されました。

この2人は『ラ・ラ・ランド』『グレイテストショーマン』の楽曲を手がけたコンビで、『City of Stars』『This is me』といった楽曲はアカデミー賞でも高く評価されています。

また、ブロードウェイ版と映画版で共にベン・プラットが主演を務めている点も注目です。

ブロードウェイでの上演時には、ベン・プラットは「Words Fail」の歌唱シーンで、ツバも鼻水もコントロールしないで感情をダイレクトに表現しながら歌っていたと語っていました。

この件についてはインタビューなどで「前の席に座ってる観客はポンチョが必要?」とジョークにされていたんだとか。

こうした魅力的なキャストとそして盤石の作曲家陣に支えられた『ディアエヴァンハンセン』ですが、監督に抜擢されたのはスティーブン・チョボウスキーですね。

彼は『ワンダー 君は太陽』の映画版を監督したことでも知られています。

ナガ
ぜひ、この冬一番のミュージカル映画を皆さんに映画館で体験してください。

ここからはもう少し作品を掘り下げて、解説や考察を書いていこうと思います。

作品のネタバレになるような内容を含みますので、ご注意ください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ディアエヴァンハンセン』考察:ミュージカルでしか保てなかった物語の強度(ネタバレ)

本作がミュージカルでなくてはならないわけ

『ディアエヴァンハンセン』という作品は別段ミュージカルである必要性を感じにくい物語りないし作風かもしれませんし、現にそう感じた方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、この作品はミュージカルでなければならなかったと個人的には断言できます。

そもそも『ディアエヴァンハンセン』の物語は歪さを孕んでおり、とりわけエヴァンのついた「嘘」に関する扱いについては賛否分かれるところでしょう。

エヴァンがマーフィー家の母親に詰められ、そうした状況で受けたプレッシャーから嘘をついてしまいます。

日本の配給が宣伝で「思いやりでついた嘘」と宣伝していますが、これはおそらく誤りで、エヴァンが嘘をついたのは「マーフィー家のとりわけコナーの母親の求める『コナーの友人である自分』を作る」ことでその場のプレッシャーから解放されようとしたというのがその実ではないでしょうか。

もちろん、彼がコナーとの友人関係を偽装したことはもちろん許されるものではありません。

そのため、「ミュージカル」でなかったとしたら、こうした「嘘」にまつわる作品の歪な部分が全面に出てしまい、そもそも物語り成立しえなかったのではないかと思います。

ナガ
では、なぜ『ディアエヴァンハンセン』は「ミュージカル」だったからこそ、物語として成立しえたのか。

それは「ミュージカル」が、真実と虚構という2つのレイヤーを生み出す特殊な演出だからです。

アメリカの哲学者・美学者として知られるケンダル・ウォルトン氏が、自身の論文『Fictionality and Imagination』の中で、ミュージカルについて興味深い指摘をしていました。

ミュージカルというジャンルにおいては、通常の台詞のパートと地続きで突然登場人物たちが歌い出すという独特の文法が存在しています。

もちろん『シェルブールの雨傘』のようにセリフが全部歌になっている特殊な作品もありますが、この文法は1940年代半ばに公開された『オクラホマ!』以来、確立され、今も残り続けていますよね。

ケンダル・ウォルトン氏は、こうしたミュージカル特有の文法について、「ミュージカルにおいて登場人物が歌を歌うとき、観客は登場人物が歌っていることを想像しなければならないが、彼らはストーリー上では歌っていないことになっている。」と語っています。

つまり、彼は「登場人物が歌っている想像の世界」と「登場人物が歌っていない想像の世界」という二重構造の存在を指摘しているのです。

『ディアエヴァンハンセン』においては、こうした「ミュージカル」の持つ二重構造を巧みに利用しながら物語を展開していきます。

まず印象的なのは、マーフィー家の前でエヴァンが「For Forever」を歌唱するシーンですが、この時、彼は木から落ちて誰も助けに来てくれなかったビジョンの中に本来はいなかったコナーを投影しています。

つまり、「コナーの親友だったエヴァン」と「コナーと何の関係もなかったエヴァン」という2人のエヴァンが切り離され、同時に存在するという歪な状況を「ミュージカル」の文法によって正当化しているのです。

さらにこうしたアプローチが顕著になるのが、エヴァンが友人のジャレッドと共にコナーとのメールのやり取りを偽装する「Sincerely, Me」のシーンですよね。

このシーンでは、イメージの中のコナーがエヴァンとジャレッドの意志によって動かされ、IFの世界のもう1人のコナーを誕生させました。

エヴァンがついた「嘘」により、存在しなかった人間関係が作り出され、本来なら生まれるはずのなかった物語が生まれていく。しかし、その一方で「嘘」の干渉を受けない「真実」の世界線も残存している。

こうした「嘘」と「真実」の乖離と同居という特殊な作品構造を描く上で、二重構造をジャンルそのものが内包している「ミュージカル」は欠かせないものだったのです。

 

「嘘」が「真実」を凌駕し、押しつぶしていく

物語が進むにつれ、『ディアエヴァンハンセン』の世界は「嘘」に支配されていきます。

コナーについての「真実」は空白のまま、そこにエヴァンの「嘘」が上塗りされることによって、それがあたかも真実のように機能し始めるのです。

また、この作品の構造をより一層複雑にしているのは、エヴァンとコナーのIF性だと思います。

(C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.

というのも、物語を追うごとに、エヴァンとコナーという2人のキャラクターがそれぞれにお互いにとってのIFであるかのように見え始めるのです。

つまり、エヴァンはコナーになっていたかもしれないし、逆にコナーはエヴァンになっていたのかもしれないという関係性が構築され始めるわけですよ。

ナガ
その端緒になっているのは、「If I Could Tell Her」を歌唱するシーンでしょうか。

この時、エヴァンはコナーの妹であるゾーイに対して、「兄との思い出」を語るという体で歌い始めるわけですが、その途中で自分とコナーの境界が曖昧になっていきます。

つまり、コナーのゾーイに対する思いを代弁しているはずが、いつの間にか自分の彼女に対する思いを語ってしまっているという、これまた二重構造が生まれているのです。

エヴァンは当初、自分が嘘をついているという認識とそれに伴う罪悪感を持っており、自分の「嘘」によって作り出された世界線と、本来自分がいるべき世界線は別物であると理解していたと思います。

しかし、「If I Could Tell Her」における「He」と「I」のリンクないし融合に伴って、徐々に「嘘」と「真実」のバランスが崩れていくのです。

ナガ
それが明確に形になるのは、やはり中盤の「You Will Be Found」のシーンでしょう。

エヴァンが歌う「You Will Be Found」における「You」は、彼にとっては「I=エヴァン自身」であり「He=コナー」でもあったのだと思います。

「コナー」が「自分」を見つけてくれたように、「自分」が「コナー」を見つけてあげられたら良かったんだという心情が吐露された一曲ですが、ここでも「He」と「I」という2人の人間が「You」という1つの言葉に統合される現象が起きていました。

さらに、彼が歌唱している様子がインターネット上にアップされてしまったことに伴い、「コナー」とマーフィー家という小さな世界にだけ生じていた二重構造が全世界に波及してしまいます。

(C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.

ナガ
スマホのカメラと映画のカメラという二重構造を視覚的に作り出していたのも面白かったね!

「ミュージカル」映画のカメラは「歌っている登場人物」と「歌っていない登場人物」のどちらか一方しか映像に収められません。

それと同様で、エヴァンが作り出した「嘘」が「真実」を凌駕していき、人々は「真実」ではなく、「嘘」の方に惹かれ、そっちを信じたのです。

これによりエヴァンは支持され、一躍人気者になるわけですが、「嘘」と「真実」のバランスの崩壊が第2幕の物語に暗い影を落とす結果となりました。



二重構造の破壊とエヴァンハンセンの奪還

第2幕に入ると、エヴァンとコナーの同化は加速していきました。

というのも、いきなりエヴァンとゾーイがカップルになるという展開が訪れ、彼は幸せの絶頂を迎えるのです。

(C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.

ただ「Only Us」のシーンは第1幕の「If I Could Tell Her」のシーンとの対比になっています。

「If I Could Tell Her」では、ゾーイに愛を伝えたがっているという「コナー」を自らの経験から創造しましたが、そうした「コナー」の存在を飛び越えて「I love you.」を伝えるのです。

面白いことにこのシーンでは、ゾーイが「コナーの話は抜きにして」といった前置きをしており、歌詞の内容も「Only Us」ということで、ゾーイとエヴァンの2人きりを指しており、そこにコナーの存在はありません。

さらに印象的なのが、マーフィー家がコナーの家の経済的な困窮を知って、コナーの溜めに用意していた進学費用を使ってくれないかと提案するシーンでしょう。

エヴァンとエヴァンの作り出した「コナー」の存在が重なり、マーフィー家の両親は彼のことを自分の息子のように思い始め、「家族ではない」というハイディのセリフに狼狽するほどにそれを信じ切っているのです。

エヴァンがついた「噓」の世界に生まれた「コナー」が、エヴァンに受肉し、歪な二重構造を飲み込んだ存在が、マーフィー家の「息子」として受け入れられようとしているという何とも強烈な展開ですよね。

ナガ
しかし、第2幕では、この二重構造の歪な解消と、2人の同化現象が物語を思わぬ展開に導いていきます。

エヴァンは母親と上手くいっておらず、そうした状況を「ディアエヴァンハンセン」から始める手紙に綴っていました。これが「真実」です。

一方の「嘘」の世界ではその手紙が「コナーの遺書」に転じており、マーフィー家の母シンシアがエヴァンを信じたきっかけも、この手紙でした。

そして第2幕の中で、クラウドファンディングに金額の伸びに焦ったアラナが、この「コナーの遺書」をSNSにアップしてしまうという事件が起きます。

ここで、エヴァンと「コナー」が融合してしまったことによる問題が顕在化しました。

エヴァン自身の問題であったはずの母親との軋轢が、マーフィー家の問題に転嫁されてしまい、ネガティブな印象で世界中に広まってしまうのです。

自分がついた「嘘」が作り出した世界、「嘘」によって得たマーフィー家の家族の愛、それらが自分のついた「嘘」によって音を立てて壊れ始めます。

その崩壊を止める術は1つしか残されていません。

自らが作り出した「噓」の世界線そのものを壊し、「真実」の世界へと引き戻すことです。

しかし、それは「コナー」によって変わることができた、ガールフレンドや友人を手に入れることができた、家族の愛を享受することができた「エヴァンハンセン」を手放すことを意味しています。

「噓」をつく前の、あるいはつく前より悲惨な「真実」の世界に、エヴァンハンセンに直面しなければならないのです。

彼は「エヴァンハンセン」を手放し、エヴァンハンセンに戻ることを決断します。

それでも、彼は「噓」の自分ではなく、本当の自分として前に進むことを、日の当たる場所を目指すことを誓うのでした。

 

ミュージカルと劇中歌の融合

ここからエヴァンによるコナーの真実を探る旅が始まるわけですが、これは映画版で追加された展開です。

ナガ
そして、この展開を追加したことが、実はすごく大きな意義を持っているんですよね。

基本的に今回の『ディアエヴァンハンセン』において登場人物が歌っているシーンは「虚構」の扱いになっています。

例えば冒頭の「Waving Through A Window」のシーンでは、車の運転をしているハイディが助手席に座って歌っているエヴァンに普通に話しかけていましたよね。

他にも、「You Will Be Found」のシーンは観客には「歌」にしか見えませんが、劇中では「スピーチ」という扱いになっています。

つまり、私たちには歌っているように見えるけれども、実際に彼らは歌っているわけではないという「ミュージカル=嘘」の図式が確立されているのです。

ただ、この映画の中で唯一、劇中世界に実体を持つ真実の「歌」が存在しています。

それがクライマックスで流れるコナーが歌う「A Little Closer」です。

この一連のシークエンスは、「A Little Closer」が挿入歌として流れ始め、そこからコナーの歌う劇中歌へと接続されていくという形で演出されていました。

つまり、劇中には存在しなかった「嘘」の音楽が「真実」の音楽に繋がっていくという図式が描かれているのです。

この演出は、『ディアエヴァンハンセン』を総括するにふさわしいものだと思いました。

なぜなら、この作品全体が「嘘」から「真実」へ繋ぐという構造になっていたからです。

エヴァンは「For Forever」の中でこんな一節を歌っていましたね。

All we see is sky for forever
(ぼくらに見えるのは永遠に続く空だけ)
We let the world pass by for forever
(世界が過ぎ去って行くのを永遠に眺めているんだ)

それは彼のイメージの世界の産物であり、「嘘」でしかありませんでしたが、物語の果てにそんな「果樹園からの眺望」は「現実」のものとなりました。

(C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.

「ミュージカル=虚構」と「現実」の融合が果たされたとみることもできるでしょう。

彼は確かに「嘘」によって多くの人を傷つけてしまいました。

しかし、その「嘘」によって、顧みられることなく、葬り去られようとしていた「真実」かどうかは分からないが大切な何かをこの世界に繋ぎとめたのです。

「嘘」はダメですが、それによって得られたものは否定することはできません。

だからこそ、「嘘」によって取り戻されたマーフィー家の絆は紛れもない「真実」であり、その一方で、「噓」によって破綻したエヴァンとゾーイの関係が戻ることはないのも「真実」です。

それでも、エヴァンは「嘘」をついた自分自身を受け入れています。

物語のラストに、エヴァンは冒頭と同じように自分宛ての手紙を書いていました。

でも、窓から外の世界を眺めていた頃の彼とは違います。

「エヴァンハンセン」という自らが作り出した「嘘」の自分の功罪を受け入れて、他でもないエヴァンハンセンという「真実」の自分として生きていく。

「嘘」をついた自分をも自分の「真実」として受け入れて、その上で前を向くことが彼にとっての物語のゴールだったんですね。



本作の印象的な楽曲を読み解く

ナガ
ここからは個人的に気になった楽曲の解説です!

Waving Through A Window

本作の冒頭に流れる楽曲で、内気な主人公のエヴァン・ハンセンが「窓」から手を振るだけで向こう側に行くことができないという心情を吐露するようなものになっています。

この楽曲は、ミュージカルを構成する1曲であるという事実を超えて、大きな話題になりましたが、その背景にはとある哲学的な思考実験があると言われているのです。

ナガ
注目したいのはここの歌詞ですね!

When you’re falling in a forest and there’s nobody around
(きみが森で倒れて周りに誰もいなかったとき)
Do you ever really crash, or even make a sound
(きみは本当に「倒れた」のか、「音を立てた」のか)

「音は人が知覚したときのみ音なのか?」という哲学的なテーマは有名で、長年議論され、哲学的な見地からだけでなく、物理的な視点からも考察が為されてきました。

そして、今回の『ディアエヴァンハンセン』では、主人公のエヴァン・ハンセンの社交不安障害からくる孤独をこれに準えているのが分かりますよね。

彼は木から落ちて怪我をしていたのに、そんなことにも周囲の人は誰も気がついてくれません。

自分がいなくなったとしても、この世界には何の影響もないのかもしれない。そんな彼の孤独がこの楽曲の歌詞には詰まっています。

また、楽曲のタイトルでもある「窓から手を振る」という描写には、映画の中でも描かれた物理的な描写以外にも、心理的な意味合いも込められていると思いました。

(C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.

この楽曲のシーンで彼が鏡を見つめるシーンがありますが、これも言わば「窓」なんですよね。

「なりたい自分」が鏡の向こう側、つまり「窓」の向こう側で手をこまねいているけれども、そんな憧れの自分は今の自分とは隔絶されていて、交わることがないという絶望感を表現しているようにも聞こえます。

映画のシーンとしては、彼が自室の窓から手を振っている描写と共に使われた楽曲ではあるのですが、それ以上に心理的、哲学的に「深い」意味合いが込められているからこそ、この楽曲は高く評価されたのだと思いました。

 

For Forever

主人公のエヴァンがコナーと果樹園に行った思い出について語るシーンで使われた楽曲ですが、この楽曲は「Waving Through A Window」とある点でリンクしています。

ナガ
ここの歌詞に要注目です!

And I suddenly feel the branch give way
(それから突然 枝が折れるのを感じるんだ)
I’m on the ground
(僕は地面に落下して)
My arm goes numb
(腕の感覚を失う)
I look around
(あたりを見渡すと)
And I see him come to get me
(彼が駆け寄ってくるのが見えるんだ)
He’s come to get me
(彼がぼくのところに駆け寄ってくる)
And everything’s okay
(そしたら何も問題ないんだ)

ここの歌詞って、「Waving Through A Window」における「木が倒れたときに周りに人がいなかったら、それは本当に「音を立てた」と言えるのか」という問いに対する彼なりのアンサーなんですよね。

もちろんエヴァンは、コナーの家族の支えになると思って果樹園の思い出を語るわけですが、そこには彼自身の願望も投影されています。

木から落ちて「音を立てた」とき、その「音」を聞きつけて自分のところに来てくれる存在がいることを彼は望んでいるのです。

こうした楽曲間の歌詞のリンクがしっかりしているのも『ディアエヴァンハンセン』の素晴らしさを構成する要素の1つなのかなと思いました。

 

Requiem

楽曲は、エヴァンとコナーのメールのやり取りが公開され、それを受けての家族の反応を表現したものなのですが、これまたグッとくる1曲です。

ゾーイ、シンシア、ラリーの3人がそれぞれの持っていた兄に対してのイメージと、エヴァンとコナーのメールのやり取りにおける優しい兄とのギャップを感じ、複雑な心情になる様が実に丁寧に表現されています。

After all you’ve put me through, don’t say it wasn’t true
(私は耐えてきたの,それが真実じゃないなんて言わないで)
That you were not the monster that I knew,
(あなたが私の知っていたようなモンスターではないなんて言わないで)
‘Cuz I cannot play the grieving girl and lie
(悲嘆にくれる少女を演じ、嘘をつくことなんてできないから)
Saying that I miss you and that my world has gone dark
(「あなたがいなくて寂しい。私の世界は闇に包まれてしまった。」なんて言えばいいの。)

この一連の歌詞には、ゾーイの兄に対する複雑な心境が歌われています。

これまで兄が死んで涙も出なかったけれど、周囲の人は彼女を「兄が死んだ可哀そうな妹」として扱い、そうした視線を向けてきました。

エヴァンの話を聞くまで、兄の横暴に苦しんできたゾーイはそれが不快だったのです。

しかし、エヴァンの話やメールの中で明かされる兄コナーの一面に戸惑いを隠せなくなった彼女は、そんな話を聞いてしまったら「兄が死んで寂しい少女」を演じなければならなくなってしまうと戸惑っています。

エヴァンが告げたような真実を知ってしまうと、もう兄の死に涙を流さなかった自分ではいられないのだという感情が吐露されているのです。

また、楽曲の中何度かに「I will sing no requiem」という歌詞がありますが、この言葉の意味が歌の中で変化していくのが非常に面白いポイントです。

直訳すると「レクイエムは歌わないよ」なのですが、当初は自分たちが見知っている兄コナーのイメージに対しての言葉であり、「悪人が死んでも誰もレクイエムを歌わない」という一連のフレーズの中で語られていたものでした。

しかし、歌の終盤にかけてはむしろ「そんなコナーの一面を知ってしまったら、レクイエムを歌わないなんてできないよ。」というある種の「反語」のように聞こえるのです。

歌詞として表に出てくる言葉と心情のギャップを見事に表現した1曲だと思いました。

 

If I Could Tell Her

ナガ
この曲は、言わば「私の友達の友達が~」論法の内容ですよね。

ゾーイが私のことを兄はどう思っていたのかと尋ねた際に、咄嗟にエヴァンは自分のゾーイに対する思いを「兄の思い」にすり替えて歌にします。

この曲の面白いところは、1人称の使い方だと思いました。

まず、楽曲の出だしは「He said」や「He knew」といった3人称の語りで進行します。

つまり「彼は言っていた~」「彼は知っていた~」「彼はこう思っていた~」という伝聞調の内容になっているわけです。

しかし、サビや楽曲の後半になると、この1人称のほとんどが「I=私」に変化します。

そして、And how do you say I love you, I love you, I love you, I love youというフレーズで完全にエヴァンの愛の告白になってしまっているんですよね。

コナーの妹への思いを創作するために、自分のゾーイへの思いを参照し始めたのに、いつの間にか「自分の歌」になってしまうという変化を楽しめる1曲だと思いました。

 

Thе Anonymous Ones

「匿名の人たち」と直訳できるこの楽曲は、現代を生きる孤独な人たちの思いを代弁する楽曲ですね。

Thе anonymous ones never lеt you see the hate they carry
(匿名の人たちは自分の持っている嫌悪を決して表には出さない)
All those anonymous ones never name the quiet pain they bury
(匿名の人たちはみな抱えている痛みを決して口には出さない)
Keep on keeping secrets that they think they have to hide
(隠さなければならないと思っている秘密を持ち続けるんだ)

ちなみにこの楽曲はブロードウェイでのミュージカルのときにはなかった楽曲で、今回の映画用に書き下ろされました。

「匿名の人」というのは、精神的な病を抱えている人たちもことを指していて、彼らはその痛みを表に出すことができず、1人きりで抱え込んでいるのです。

なぜ、表に出さないのか。それは表に出せば「心の病を抱えている人」という色眼鏡で見られてしまうからだと思います。

そのため、劇中で「Thе Anonymous Ones」を歌うアラナも精神疾患を抱えていても、それを表に出さず、圧倒的な成績と積極的な奉仕活動といったイメージで取り繕い、何とかしてそんな自分を表に出さないように努めてきたのです。

でも、「匿名でいる」のはつらいことであり、誰かに見つけて欲しい、誰かに手を差し伸べて欲しい、痛みをさらけ出せるつながりが欲しいという叫びが楽曲の終盤にかけて歌われています。

秘密を抱えて「日陰」の方に行くのではなく、秘密をさらけ出して日の当たる場所で一緒に生きようという力強いエンパワーソングだと思いました。

 

You Will Be Found

まさしく「アンセム」と呼ぶにふさわしいメロディラインと歌詞だと思いますが、個人的には『グレイテストショーマン』の「This is it」と『ピッチパーフェクト2』の「Flashlight」を足して2で割ったような感じがして、お気に入りとまではいきませんでした。

とは言え、冒頭の「Waving Through A Window」に散りばめられたエッセンスを丁寧に回収していく歌詞が素晴らしいですよね。

Even when the dark comes crashing through
(たとえ、闇が心を貫いても)
When you need a friend to carry you
(君を運んでくれる友達が必要なとき)
And when you’re broken on the ground
(そして、君が傷つき地面に倒れているとき)
You will be found
(君は見つけられるだろう)

So let the sun come streaming in
(だから、日の当たる場所に行こう)
‘Cause you’ll reach up and you’ll rise again
(なぜなら君は手を伸ばし、再び立ち上がるのだから)
Lift your head and look around
(頭を上げてまわりを見渡してごらん)
You will be found
(君は見つけられるだろう)

「let the sun come streaming in=日の当たる場所に行こう」といったフレーズは、「Waving Through A Window」で彼が「日陰に…」と言っていたところから引用されています。

これまた面白いのが、「Youという2人称主語が誰のことなのか」が楽曲の中で変化するところではないでしょうか。

当初はエヴァンがコナーに手を差し伸べられた自分自身を対象化して「You」として歌っているんですが、歌の後半になると自分が救うことのできなかったコナーが「You」に転じていきます。

誰にも見つけてもらえなかった自分が誰かに「見つけてもらえる」なんてことがあれば、どれほど嬉しいだろうか…という彼の切なる願いから生まれた楽曲が、転じてコナーへのレクイエムになるのです。

本作のタイトルは『ディアエヴァンハンセン』であり、この物語は彼が自分を勇気づけるために自分宛てに書いた1通の手紙から始まりました。

だからこそ、この「You Will Be Found」というエヴァンが自分自身を救うために歌った歌が、多くの人の心を動かしていくという構造に感動するのだと思います。

 

Words Fail

本作の終盤にコナーがエヴァンに宛てた遺書(実際はコナーがセラピーの一環で自分宛てに書いた手紙)がSNSで拡散されてしまい、マーフィー家が心無い誹謗中傷の対象になってしまいます。

この時に、マーフィー一家に真実を打ち明ける楽曲として、この「Words Fail」が歌われるのですが、これがまたグッときました。

「Words Fail」の歌詞も多くの点で「Waving Through A Window」や他の楽曲の内容を受けたものになっており、だからこそ辛くなるんですよね。

‘Cause I’ve learned to slam on the brake
(力いっぱいブレーキを踏みつけることを覚えたから)
Before I even turn the key
(エンジンをかける前に)
Before I make the mistake
(過ちを犯してしまう前に)
Before I lead with the worst of me
(醜い自分が表に出てしまう前に)
I never let them see the worst of me
(こんな醜い自分を隠さなければ)

‘Cause what if everyone saw?
(だってもし誰かに見つかったら)
What if everyone knew?
(もし誰かに知られたら)
Would they like what they saw?
(みんなはぼくを好きになってくれるだろうか)
Or would they hate it too?
(それとも(ぼくと同様に)嫌いになるだろうか)

Will I just keep on running away from what’s true?
(真実から逃げ続けるしかないのか)
All I ever do is run
(ぼくはこれまで逃げることしかしてこなかった)
So how do I step in
(だけど、どうすれば一歩踏み出せるの?)
Step into the sun?
(太陽の光の当たる場所に)
Step into the sun
(太陽の光の当たる場所に)

ここまで歌詞の一部分を引用してきましたが、「ブレーキ」「太陽」といったフレーズは「Waving Through A Window」につながっています。

とりわけ、最後の「Step into the sun?」というフレーズは、「Step out, step out of the sun」というフレーズにつながっているのが分かります。

また、この楽曲は言わばミュージカルの第2幕における「You Will Be Found」の役割を果たしており、それ故に「見つけられる」という言葉がポジティブからネガティブに変調しているのが見て取れるのです。

「You Will Be Found」の時には、あなたはきっと誰かに見つけてもらえるはずだというポジティブな意味合いで「見つけてもらえる」という表現が用いられていました。

しかし、「Words Fail」では、誰かに自分の影の部分を「見つけられる」ことに対する恐れや不安が吐露されており、まさしくその意味合いが反転しているのです。

楽曲単体としてだけでなく、作品の中に扱われた他の楽曲との連動性の中で、その深みが増していく1曲であり、それ故に印象的でした。

 

A Little Closer

そして、「Thе Anonymous Ones」以外にもう1曲、映画のためにブロードウェイ版から追加されたのが、この「A Little Closer」という曲ですね。

ナガ
この曲は、劇中の演出で完全に涙腺をやられました!

「A Little Closer」は「少しだけ近づいて」と直訳できるかと思いますが、いろいろな視点からその意味を推察できる内容になっています。

例えば、主人公のエヴァンは真実を明かした後に、本当のコナーの姿を知ろうと、知り合いを辿って調査を開始しました。

この過程はエヴァンがこれまで親友であると嘘をついていたコナーの本当の姿に「少しでも近づこう」とする行為です。

また、彼が起こしたこの行動がきっかけでコナーが病院のミーティングで歌っている映像が発掘され、マーフィー家の家族も少しだけ本当のコナーに「近づく」ことができました。

そして、もう1つエヴァンにとって遠くに感じられたのは、母親の存在であり、彼女からの愛だったのかもしれません。

しかし、母の思いに触れ、自分には縁遠いものだと思っていた母親からの愛が自分が思っていたよりも「近くに」あったことに気がつくのです。

「Waving Through A Window」で、エヴァンは窓のこちら側で、自らが欲しいものに触れることもできない心情を歌っていました。

しかし、「A Little Closer」ではそんな彼が、届かなかったものや、手を触れられなかったものに少しだけ近づくことができたという小さな前進が描かれています。

何かが劇的に変わるなんてことはなくて、結局私たちは1歩1歩踏み出して、少しずつ自分が望むものに手を伸ばし、近づいていかなければならない。

エヴァンの反省と決意が垣間見える『ディアエヴァンハンセン』におけるアンサーソングだったと思います。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ディアエヴァンハンセン』についてお話してきました。

ナガ
「ミュージカル」でなければ成立しえない物語だったよね!

かなり歪な物語ですので、賛否分かれると思いますが、そもそもこの特殊な二重構造に裏打ちされた物語は、ミュージカルというジャンルあってのものです。

ミュージカルの持つ「虚構」と「現実」が乖離しながらも同居する不思議な構造を物語に還元し、そして映画オリジナルの演出でその2つの世界に橋を架けました。

こうしたブロードウェイ版からのアレンジも素晴らしかったですし、原作に依存せずに誠実に作られた映画版だったと感じさせてくれます。

ぜひ、映画を見て、素晴らしい楽曲を何度も聞いて、そしてまた映画を見て…と繰り返し本作を楽しんでいただけたらと思います。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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