みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、本日公開となりました映画「火花」について語っていきたいと思います。
完成度としては正直ドラマ版の方が高かったですが、この映画版はやはり菅田将暉さんを初めとするキャスト陣の魅力が素晴らしかったです。
そんな今回の映画版の魅力については、しっかりと語っていきたいと思います。
ネタバレを含む内容になりますので、未見の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
「火花」
あらすじ・概要
お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹による第153回芥川賞受賞作で、ドラマ化もされた同名小説を、板尾創路のメガホン、菅田将暉と桐谷健太の主演により映画化。
まったく芽が出ない芸人・徳永は営業先の熱海の花火大会で先輩芸人・神谷と出会う。
「あほんだら」というコンビで常識のワクからはみ出た漫才を披露した神谷の姿に魅了された徳永は、神谷に弟子入りを志願。
「俺の伝記を作ってほしい」という条件で神谷はそれを受け入れる。
人間味にあふれ、天才的な奇想の持ち主でもある神谷に惹かれる徳永。神谷もそんな徳永に心を開き、2人は毎日のように飲みに出かけては芸の議論を交わし、仕事はほぼないものの充実した日々を送るようになる。
しかし、そんな2人の間にいつからかわずかな意識の違いが生まれるようになり……。
徳永役を菅田将暉、神谷役を桐谷健太がそれぞれ演じるほか、2人を見守る神谷の同棲相手・真樹役を木村文乃が演じる。
(映画com.より引用)
予告編
「火花」感想・解説(ネタバレあり)
監督板尾創路について
さて、最近何かと話題の芸人板尾創路。
彼は、グラビアアイドルとラブホテルに足を運んでも、3時間ぶっ通しで映画を見るような大の映画好きなんですよね(笑)
そんな渦中のグラビアアイドル豊田瀬里奈も何と本作「火花」に出演していたそうですね。自分は見つけられなかったです。
しかし、セクシーアイドルとラブホに行っても、〇ックスより映画を撮るような映画愛に溢れた方が撮る映画ですから、これはもう期待しないわけにはいかないということで、公開日に早速見てきた次第です。
ただ、板尾創路はかつて18歳未満の少女との淫行で芸能界追放寸前まで追い込まれたような人ですから、今回の不倫騒動で完全に芸能界から干されてしまう可能性もありますね。
板尾創路というともちろんお笑い芸人であり、俳優としても多くの映画作品に出演してきた方です。
現在、コンビでの活動はほとんどないですが、ほんこんさんと130Rというコンビを組んでいます。
本作「火花」はピースの又吉が著した芸人を題材にした小説です。
しかしそんな又吉以上に板尾創路は漫才を知り尽しており、芸歴も長く数々の芸人たちの栄枯盛衰をその目で見てきた事と思います。そんな板尾創路だからこそ描ける「火花」に果敢にも挑戦したのがこの映画版だったと思います。
まさに芸人板尾創路だからこそ撮れた何かが確かにそこにはありました。
原作との違いに見る板尾創路の焦点
「火花」という作品は原作と映画でいくつか異なっている部分があります。
それを読み解いていくことで、芸人又吉直樹が著した小説「火花」を板尾創路がいかにして映画「火花」へとコンバートしていったのか?という点について今回は考えていこうと思います。
神谷に関する描写がかなり減らされている
(C)2017「火花」製作委員会 映画「火花」予告編より引用
原作と映画版を比べてみて、まず初めに感じたのは神谷のキャラクター性が映画版よりも原作の方が濃く描かれているという風に感じました。
まずカットされていたのは珈琲専門店でのシーンですね。
映画版では、公園で打楽器を叩く音に合わせて神谷たちが踊っていると雨が降り出して、そのまま夜2人が「美舟」で呑んでいるシーンまで飛ばされました。
原作では、この間に2人が珈琲専門店で語らうシーンがあります。
このシーンでの2人の会話、とりわけ神谷のセリフは本作の彼のキャラクター性を表現する上で今回にもなっている部分に触れていたので、カットされたのは意外でしたね。
「大人に怒られなあかん、って確かにどこかで聞いたことあんねん。でもな、聞いたことあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろうな?これは、あくまでも否定されることが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけどな」
僕が知っている限り、神谷さんの漫才は誰もが知っている言葉を用いて、想像もつかないような破壊を実践するものだから、この話は神谷さんの根幹を示すものなのかもしれない。
(文春文庫「火花」又吉直樹:39ページより引用)
ここは個人的にも特に重要だと感じた一節でした。
神谷と言う芸人の根幹に触れた一節ですからね。彼がやっているのは、漫才と言う形式と言語を利用し、それを破壊するような芸なんですよね。映画でも登場した口パクで漫才をするというシーンもまさにここに繋がっています。
彼は一から新しい何かを作り出そうとしているというよりも、既存の形式に則りつつ、それを破壊して新しい何かに変換するということに自分の芸人としての道を見出しているわけです。だからこそ保守的な漫才審査員には受け入れられず、一向に売れる気配がないわけです。
次に触れたいのはベージュのコーデュロイパンツのくだりですね。
映画版でもセリフ一言で登場してはいたんですが、原作であのエピソードが果たしていた役割は継承できていないような気がしました。
映画版では徳永がベージュのコーデュロイパンツがダサいという話をしていると神谷はボソッと自分が持っていることをカミングアウトしました。
一方で、原作ではコーデュロイパンツの話をしていた時は、神谷は何も言わないんですが、真樹の家に到着してから掛けてあったベージュのコーデュロイパンツをさりげなく隠しているんですよね。
で、徳永は神谷がトイレに立った時にそれに気がつくわけです。すると神谷はそれを持っていることをすごく否定するんですよね。
このシーンって個人的にはすごく大切だと思っていて、映画版にもあった後の髪を染めて服を真似してきた神谷に徳永が「それ模倣じゃないんですか?」と詰め寄るシーンに繋がってくるんです。
神谷さんにとっては、笑いにおける独自の発想や表現方法だけが肝心なのだ。髪型や服装の個性などには全く関心がないのである。定食屋で友人が美味しそうな飯を食っていたから、同じものを注文したことと何ら変わりないことなのだ。友人と同じ定食を食べながら、誰も思いつかないようなネタを考えるのが神谷さんの生き方なのだ。
(文春文庫「火花」又吉直樹:137ページより引用)
つまり神谷にとって他人が履いていたコーデュロイパンツが良いと思ったから、自分も同じものを買っただけなんですよね。
彼は漫才に対する革新性、独自性、個性にしか興味がないわけで、自分の服装であるとか、髪型であるとか、食べ物であるとかそういったものには一切の興味がないんですよね。
これこそが神谷の漫才ないしお笑いに対する姿勢なんです。
お笑いにしか興味がないからこそ、それ以外のことは無頓着になりますし、気がつけば借金で首が回らなくなっているわけです。
原作を読んでいると、ここまで深く掘り下げられるのですが、映画版だけだと単に神谷が実は模倣してる中途半端な人間みたいな描かれ方をしているようにも取れて、少し不完全燃焼でした。
もう一つ触れておきたいのが、公園での赤ちゃんを前にした蝿川柳の下りですね。
正直ここをカットした理由が一番わからないですね。
ここを削ると、神谷のキャラクター性がかなり失われてしまうように思いました。神谷が受け手を意識していないということを端的に表すエピソードですし、映像向きのシーンだったとは思うのですが、後の神谷が豊胸手術をしてきたくだりでそのあたりの表現をしようとしたんですかね?
神谷さんは、「いないいないばあ」を理解していないのかもしれない。どんなに押しつけがましい発明家や芸術家も、自分の作品の受け手が赤ん坊であった時、それでも作品を一切変えない人間はどれくらいいるのだろう。
(文春文庫「火花」又吉直樹:92ページより引用)
公園で出会った赤ちゃんが泣いていて、それを見た神谷と徳永が泣きやませようと芸を披露するんですね。
神谷は蝿川柳と言う赤ちゃんには到底理解できないであろうネタを繰り出しました。一方の徳永は「いないいないばあ」を繰り出したわけです。
このシーンは説明を加えずとも、何とか世間の需要に応えて売れようとする徳永ととにかく自分の芸を貫こうとする神谷の方向性の違いが端的に表現されています。
神谷は商業主義を捨てて、純粋に笑いだけを追求しているんですね。そして徳永はそんな才能も勇気もないために、何とか受け手を意識した芸を披露することで、売れようと必死にもがいています。
今回は3つの点を中心にして映画版で神谷さんのキャラクター性が大きく損なわれている点について触れてみました。
山下の印象がかなり強まっている
(C)2017「火花」製作委員会 映画「火花」予告編より引用
山下というのは徳永の相方なんですが、このキャラクター随分と原作ではキャラクターが薄いんですよね。
ただ、映画版ではそのキャラクター性が随分と拡張されて、印象的なキャラクターに生まれ変わっています。
まず冒頭のシーンでは夜空へと昇っていく2つの花火に合わせて、徳永と山下がコンビを結成する時にしたであろう会話がナレーションされています。もちろんこれは原作には存在しないパートです。
このシーンは終盤の花火のシーンに間違いなく呼応する形で取り入れられたものでしょう。スパークスと言うコンビは地表から打ち上げられて、そしてひと時の花火として花開いて、そして散っていったわけです。
また予告編で印象的だった「お前に神谷さんの何がわかんねん!」と徳永が山下を怒鳴りつけるシーンは実は映画オリジナルなんですよね。あれも原作には無いです。
売れることで自分の生活を安定させたいという願望が強い山下と、笑いの個性や革新性ばかりを追求する神谷に影響を受ける相方の徳永との対比が印象的になった素晴らしいシーンだったと思います。
他にも定食屋のテレビに映るアニマルじゃんけんというコンビが出演している番組のチャンネルを変えて、強面の男と喧嘩になる一幕もありました。
このように全体的に原作よりも映画では、山下というキャラクターがしっかりと肉付けされて、より魅力的で印象的になっています。
原作を読んでいても、あの漫才シーンってそもそも山下と言うキャラクターにあまり思い入れが生まれないので、そんなに感動しないんですよね。
ただ映画版では、山下が魅力的なキャラクターにコンバートされたがゆえに、それに伴ってあのラスト漫才のシーンのエモさが一層際立ちましたね。
漫才シーンへの力の入り具合
(C)2017「火花」製作委員会 映画「火花」予告編より引用
原作でもスパークスやあほんだらが漫才をしていた、オーディション、イベントに出ていたというくだりは書かれているんですが、書かれているだけでどんな内容の漫才をしたのか?といった部分にはあまり触れられていないんですよね。
唯一漫才にフォーカスが当たるのが、スパークスのラスト漫才ですね。
あれだけは原作も映画も同じでした。
ただやっぱりあれだけ漫才のシーンを多く取り入れたのは、芸人板尾創路らしいなあと思う次第ですよね。
2人で初めて訪れた居酒屋の子供
(C)2017「火花」製作委員会 映画「火花」予告編より引用
これも原作には無くて、映画版で追加されていた要素でしたね。
2人で初めて訪れた居酒屋で、そこのスタッフをしていた女性が妊娠していましたよね。神谷はその女性のお腹を触らせてもらっていいか?などと尋ねる一幕がありました。
そして、映画の終盤に再び2人がその居酒屋を訪れた際にその子供が小学校高学年ぐらいの年齢になって母親に勉強に関する質問をしていたわけです。
この要素を追加した点について、私は絶賛したいんです。
小説「火花」は2人に起きた各出来事がある種の伝記のようにぶつ切りで描かれています。映画版ももちろんそれを踏襲しています。
ただ、これは小説というメディアでは問題ないんですが、映画と言うメディアでやるとあまり映えない形式なんですよね。1つの物語としてのリンクがすごく薄まってしまって、散らかった印象を受けるのです。
ただこれを解消したのが、あの居酒屋の娘さんの要素なんですよ。
目まぐるしく過ぎていった神谷と徳永の10年間という時間を、あの成長した娘さんを見ることによって我々観客も追体験できる仕組みになっているのです。
ぶつ切りのエピソードたちがどんどんと積み重ねられていって、2人の過ごした年月がどれくらいのものだったのか?という点が次第に曖昧になっていくんですが、あのワンシーンを見るだけで、それがいかに長い年月だったかが分かります。
我々は、劇中で神谷と徳永が感じているものと同じ感情をまさに味わう事ができるというわけです。
スパークスが映画版ではより売れていない?
(C)2017「火花」製作委員会 映画「火花」予告編より引用
原作では、実はスパークスって一時的にはあるんですが、結構売れているんですよね。
2人とも一時期は漫才だけで生計をたてられていましたし、徳永は家賃11万5千円のマンションに住んでいた時期もあったようです。しかも相方の山下も恵比寿で彼女と同居を初めて、結婚を視野に入れるまでになっていたんです。
一方の映画版では、スパークスの二人はずっと風呂無しのアパートで生活していたということになっていますよね。映画版の方が2人の悲哀がより際立って、山下が解散を持ちかけるのも頷きやすい構成になっています。
これもスパークスのラスト漫才のエモさに華を添えた変更ポイントでしたかね。
板尾創路の焦点はどこにあったのか?
(C)2017「火花」製作委員会 映画「火花」予告編より引用
私は映画と小説を比べてみて、又吉直樹と板尾創路では焦点を当てている人物が違うのではないか?という風に感じました。
やはり又吉直樹はまだまだ芸歴は板尾創路には及びません。
そしてやはり又吉直樹はこの「火花」という作品を書くときに、芸人としてよりも小説家、芸術家として書いているように思うんです。
だからこそ彼がフォーカスしたのは、神谷という芸人でありながらにして、芸術家気質だった人物なのです。
それに憧れる芸人を主人公に据えたことからも、又吉直樹はすごく神谷というキャラクターに思い入れが深いのだと思います。
一方で、板尾創路は又吉直樹よりも芸歴が15年近く長いですし、俳優家業はしているもののやはり芸人としてのアイデンティティが強い人物だと思います。
彼は夢を追いかけた芸人たち、そして夢破れて芸人を諦めた人たちを長い芸歴の中でたくさん見てきたことと思います。
だからこそそんな夢破れた芸人たちへの彼なりの感謝と敬意がこの映画に込められているのではないかと感じられました。
これが板尾創路が神谷のキャラクター性を削いででも、山下という主人公徳永の相方にフォーカスした最大の要因なのではないかと考えています。
作家、芸術家的視点から考えるならば、神谷という人物は確かに魅力的ですし、あの姿勢は間違いなく素晴らしいものだと個人的にも思います。
ただ、受け手ありき、受容するものがあって初めて成立するお笑いという芸能において神谷という人物はどうしても言い訳がましいだけの男に映りかねないのです。
受け手や商業主義からひたすら逃げ続けるのは、芸人として長らく第一線に立ち続けてきた板尾創路の目にはある種の「甘え」のように見えているのかもしれません。
そう考えると、やっぱり本気で芸人として売れようと努力し、もがいたのはスパークスの2人だったのではないでしょうか?だからこそ板尾創路は、2人のラスト漫才のシーンを作品の中心に据えて、それを見据えた上でのシーンの加筆修正を行ったかのように感じました。
芸人板尾創路だからこそ、漫才のシーンにすべてを託したのでしょう。
もちろん菅田将暉という傑出した役者の演技無くして語ることのできないシーンではありますが、あの漫才シーンが映画版でこれほどまでに輝きを増したのは、板尾創路が小説版とは違うところに焦点を当てたからではないでしょうか?
この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。
(文春文庫「火花」又吉直樹:155ページより引用)
このセリフはもちろん映画版でもあったんですが、原作では、このセリフの後にまだ20ページほど本編が続くんですね。一方で、映画版では本当の最後の最後にこのセリフを持ってきていました。
それは板尾創路がこの言葉を伝えたいんだと言わんばかりの改変だったと思います。
映画「火花」は芸人板尾創路だからこそ撮れた映画だったのでしょう。
主題歌「浅草キッド」について
映画「火花」の主題歌になった「浅草キッド」という歌はもともとビートたけしが作詞作曲した名曲なんですね。
今回は菅田将暉と桐谷健太のカバーバージョンになっています。
この歌は、ビートたけしがフランス座というお笑い界でも名門中の名門に入り、そこで深見千三郎に弟子入りした時に出会ったハーキーとの思い出を歌った曲なんですね。
たけしとハーキーは一時期コンビを組んでいましたが、ハーキーは神経性の病気に倒れてしまったと言います。そ
んな病床に伏していたハーキーが「もう夢は捨てた」とたけしに言ったがために、この曲の歌詞には「夢は捨てたと言わないで」という一節があります。
芸人として夢を見て敗れていったものの悲哀が感じられるこの歌は、板尾創路が思い描いた映画版「火花」にはぴったりの一曲だったと言えるでしょう。
神谷と徳永の関係がとある芸人に似ている・・・?
本作の神谷と徳永の関係を見て、真っ先に思い出したのが千鳥の大悟と南海キャンディーズの山里の関係です。
千鳥が関西にいたころから、大悟は山里の面倒を見ていたと聞きます。山里がオーディションに受かった際には、大悟は消費者金融に駆け込んで、「回らない寿司」をご馳走したそうです。
今は売れっ子になりましたから、どうなっているか分かりませんが、大悟は相当な額の借金を背負っていたようです。今も背負っているのかもしれません。
ただこの2人は売れたからこそこうやって「美談」としてスポットが当たっているんですよね。芸人の世界にはこういう話っておそらくたくさんあるのだと思います。
そしてその多くはスポットが当たることもなく、「火花」で描かれた神谷の末路のような残酷な帰結を迎えているのだと思います。
芸人の世界というのは、残酷な世界だと改めて感じさせられました。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『火花』についてお話してきました。
映画を見たときは、まだ原作を読んでいなかったので、映画への評価が固まり切っていませんでした。その後に原作を購入して読んでみて、大きく評価が変わりました。
やはり芸人板尾創路だからこそ撮れた映画だったのでしょうし、グラビアアイドルとラブホに3時間いても〇ックスにかまけることなく映画を見続けられる真の映画好き板尾創路だからこそ作れた映画なのだと思います。
私も、そういうシチュエーションになっても鋼の意志で映画を見続けられるような、そんな強い心を持った映画ファンになりたいと思わされました。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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