目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、映画「ゴーンガール」についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『ゴーンガール』
あらすじ・概要
「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」の鬼才デビッド・フィンチャー監督が、ギリアン・フリンの全米ベストセラー小説を映画化。
「アルゴ」のベン・アフレックを主演に、ロザムンド・パイク、ニール・パトリック・ハリスらが共演。幸福な夫婦生活を送っていたニックとエイミー。
しかし、結婚5周年の記念日にエイミーが失踪し、自宅のキッチンから大量の血痕が発見される。警察はアリバイが不自然なニックに疑いをかけ捜査を進めるが、メディアが事件を取り上げたことで、ニックは全米から疑いの目を向けられることとなる。
音楽を、「ソーシャル・ネットワーク」「ドラゴン・タトゥーの女」でもタッグを組んだインダストリアルバンド「ナイン・インチ・ネイルズ」のトレント・レズナーと、同バンドのプロデューサーでもあるアティカス・ロスが共同で担当。
(映画com.より引用)
予告編
『ゴーンガール』感想・解説(ネタバレあり)
久しぶりの鑑賞で大きく変わった作品の評価
(C)2014 Twentieth Century Fox 映画「ゴーンガール」予告編より引用
この「ゴーンガール」という映画作品自体は何年か前に初めて見たのだが、あまりにもプロットが凡庸すぎると切り捨てて、自分の中では評価の低い映画作品と言う扱いになっていました。
しかし、ベンアフレックのベンアフレック(意味深)がモロに出演しているというお話を伺ったので、サイズ確認のためにと再鑑賞に至りました。
正直に言って、終盤のシャワーシーンで出てくるベンアフレックのベンアフレックだけ見れたら良いかなと思って、本編は飛ばしてしまおうかと考えたのですが、せっかくの機会だからと再鑑賞してみることにしました。
結果的にこの決断をした自分は正しかったと思います。これほどまでに洗練された映画作品を、プロットだけで凡庸な映画だと切り捨てた過去の自分を深く恥じました。
そもそも小説原作の映画なのですから、プロットは原作由来のものであるわけですよ。
それにもかかわらず、プロットがつまらないという理由だけで映画に低評価をつけてしまうのは、もはや映画を見ていないのと同義なんです。それなら小説を読めばいいわけですから。
映像にしても、編集にしても、ストーリー構成にしても、そして俳優陣の演技にしてもどれをとっても一流すぎるほどに一流すぎるこの映画の魅力を初見時の私は見抜けなかったのです。
やはり人は生きていく上で、様々なことを経験しますし、さまざまな学びを日々獲得していきます。映画も同じで、映画をたくさん見れば見るほどに、自分の中での映画の評価基準や映画の着眼点が変化していきます。
つまり2年前の自分にとって駄作だった作品が、今の自分にとっても同じように駄作とは限らないわけです。これが映画や本といったメディア面白い部分ですよね。
同じ作品であっても受け手の変化に伴って、その在り方が大きく変遷していくわけです。だからこそ1度は駄作だと認定した作品が、傑作に転じることもあれば、1度は傑作だと感じていた作品も改めて鑑賞しなおしてみると、それほどには思えないということが十分に起こりうるのです。というよりもそれが起こることがむしろ健全なのです。
皆さんもぜひ同じ作品を定期的に鑑賞しなおす習慣をつけてみてはいかがでしょうか?これも1つの立派な映画の楽しみ方だと思います。
ベンアフレックのベンアフレックが想像以上に大きかった
(C)2014 Twentieth Century Fox 映画「ゴーンガール」予告編より引用
先ほども述べましたが、そもそも私がこの映画「ゴーンガール」を再鑑賞するに至ったのは、ベンアフレックのベンアフレック(意味深)を確認するためでした。
事の発端は映画「ジャスティスリーグ」を見に行った時でした。
ベンアフレックはこの映画にバットマン役として出演しています。その中で、ベンアフレックのベンアフレックがバットマンスーツの上からでも分かるくらいベンアフレックしていたシーンがあったんです。
そしてそのシーンについてブログで語ってみると、Twitterでとある方に、映画「ゴーンガール」にはベンアフレックのベンアフレックがもろにベンアフレックしているという情報を教えていただきました。
初見時はそんなに注目していなかったので、気がつかなかったのですが、今回改めて見直してベンアフレックのベンアフレックをサイズ確認しようと決意しました。
ベンアフレックのベンアフレックが登場するのは、終盤のシャワーシーンです。
彼が全裸でバスルームに向かっていくのですが、そのシーンで徐々にカメラの焦点が彼の上半身から下半身へと移っていきます。そしてカットが入る直前に一瞬だけですが、ベンアフレックのベンアフレックが映し出されます。
感想を一言で言わせていただきますと、まじででけえ・・・って感じです。このサイズなら確かにバットマンスーツの上からでも分かるくらいもっこりするだろう・・・と勝手に納得いたしました。
興味のある方はぜひ映画「ゴーンガール」のシャワーシーンをコマ送りにして注視してみてください。
映像=イメージから読み解く映画論
(C)2014 Twentieth Century Fox 映画「ゴーンガール」予告編より引用
映画を見るときに何を重視するだろうか?
これはもちろん人によって異なるし、異なってしかるべきだ。
以前の私のようにプロットに焦点を当てる人もいれば、映画技術的な部分に焦点を当てる人もいる。同じ映画を見ても焦点を当てるポイントは人によって大きく異なるのだ。
では、私は普段映画を見るときにどこを見ているのかと言うと、専ら映像である。
映画を見てるんだから、映像を見るのは当たり前じゃないか?と思われる方がいるかもしれないが、それは違う。
これは物語と映画のどちらを先んじるかと言う話に置き換える事ができる。
物語が予め存在していて、それに合わせて映像が存在している。これが一般的な映画のタイプだ。
もう一つ、映像が存在していて、その連続性が後天的に物語を生み出しているというタイプがある。これは極めてまれなタイプの映画である。
そもそも近年は脚本と言うものを明確に作り上げたうえで、撮影に臨む。そのため後者のようなタイプの映画はほとんど絶滅したと言っても過言ではないだろう。
しかし、近年の映画作品においてもそのような物語ありきの映画という作為性を感じさせない、映像先行型の映画作品を提供できる映画監督が存在している。
つまり映画を見る際には、物語ありきで映像を見るか、映像ありきで物語を読み解くかという2種類の見方が出来るのである。
ただ後者の見方に耐えうる作品は残念ながら少ない。ただ、この後者の見方に耐えうる作品を作り出せる映画監督はどうしても個人的には評価が高くなる傾向にある。というのも映画と言うのはあくまでも映像メディアなのである。
ビジュアルノベルが作りたいのであれば、映画である必要はない。
つまり映画を見ていて、必ずしも映像を見ているとは限らないのである。映像は意識的に働きかけなければ見ることができない。
では、もっと掘り下げていこう。映像とは一体何なのだろうか?
映像メディアと活字メディアの特性を比べていけば、映像の正体を解き明かす事ができる。
活字メディアでは、一般的にそこに書いてある情報以上のことは想像することができないのである。と
いうのも活字メディアが描くのは、映画のスクリーンの中央部に映し出される情報が主体になるからだ。
だからこそあくまでもそこに描かれている事象のみをイメージとして作り出すことが可能になる。ただそれ以上は踏み込めない。
つまり意識的に目を向けている”watch”の情報は獲得できるが、無意識的に視界に入ってくるような”see”の情報を活字メディアから手に入れることはほとんど不可能に近い。
一方で映像メディアは活字メディアにおける”watch”の情報はすでにイメージ化されている。だからこそそこに想像力を働かせるプロセスは排除されてしまう。一方で、小説では不可視だった”see”の情報を獲得することができる。
つまり映像とはイメージなのである。活字メディアではイメージの領域というのは多少なりとも限定的な側面があるが、映像においては”see”の情報が付与されることで、受け手に無限のイメージを創出させることができる。
映像=イメージの連続性こそがある種の映画本来の姿であり、本来の魅力ということもできるだろう。
そしてそれは多様な手法で実現させることができる。登場人物の表情や視線であったり動線、配置、舞台設定、光度どんな要素であってもそこに映し出されている全てのものは映像というイメージに寄与するものとなる。
登場人物の表情で見せる映画と言えば、ヒッチコックの「サイコ」は圧巻だ。
登場人物の視線で見せる映画と言えば、ブレッソンの「スリ」は素晴らしい。
登場人物の動線・配置に注目するのであれば、成瀬己喜男の「乱れる」なんかはぜひ見て欲しい。
舞台設定に注目するのであれば、サタジットレイの「大樹のうた」もこの上ない。
では、映画「ゴーンガール」はどんな映画なのかと言うと、もはや映画時代がイメージそのものであると言っても過言ではない作品である。
この映画は我々が普段から持っているイメージの存在を戦慄に印象付ける作品に他ならないからだ。
この映画を見ているとき、我々はニックに肩入れするのか、それともエイミーに肩入れするのかという2つの立場に常に揺れることになる。デヴィッドフィンチャーが切り取る映像にそれだけインパクトがあるからだ。
デヴィッドフィンチャーが提示する映像=イメージは絶えず我々に、イメージの創出と改変を要求してくる。
そしてその姿は映画の中でテレビから流れる映像情報に踊らされるアメリカ国民に重なる。この「ゴーンガール」という作品は、映画の中でテレビから流れる映像に右往左往するアメリカ国民と、この映画において描き出されている映像に右往左往する我々がリンクするというある種のメタ構造にもなっているのだ。
この映画を見ているとき、我々は劇中の野次馬の1人と化している。
(C)2014 Twentieth Century Fox 映画「ゴーンガール」予告編より引用
そして画面に映し出される映像に我々は絶えずイメージを描き続ける。
そして映像は絶えず我々の作り出したイメージを裏切り、新たなイメージの創出を要求してくる。そんな作業を繰り返していると、ラストに衝撃が待ち構えている。
映画「ゴーンガール」のラストで、初めて映画の中の野次馬たちと、映画を見ている我々とを明確に対比的に描くのだ。映画の中の野次馬たちが思い描くのは、ニックとエイミーは奇跡的に再会でき、さらには子供まで授かった幸せな夫婦のイメージなのである。
一方で、デヴィッドフィンチャーが提示する映像を見た我々が思い描くのは、恐怖と子供という名の人質によぅてエイミーがニックを支配する仮面夫婦というイメージなのだ。
この映画はある意味で、映画というメディアの映像メディアの恐ろしさを映し出しているようにすら感じられる。
映像というものは、活字メディアが与える以上に強いイメージを見た者に与える事ができる。
映像が白のイメージを与えれば、世論は白に傾くし、逆に黒のイメージを与えれば、黒に傾く。映画も映像もイメージ志向のメディアであるがゆえに、一歩間違えればプロパガンダ的になることすらあり得る。または間違ったイメージを作り上げることも可能なのである。
映画ないし映像メディアの最大のストロングポイントをポジティブな側面から捉えるのではなく、ネガティブな側面から捉えたことこそ本作が孕む真の恐怖なのではないだろうか?
イメージで読み解く2つの重要シーン
本作の中でも特に注目しておきたいシーンを2つ取り上げることとする。
1つ目は、エイミーがデジーの家で、ニックが出演しているトーク番組を見ているシーンである。このシーンは先日私がツイッターで投稿した映画「パリ、テキサス」の再会シーンに匹敵する素晴らしい「イメージ」のシーンである。
このシーンはエイミーが失踪してから初めて2人の視線が交わるシーンであるということが重要だ。
(C)2014 Twentieth Century Fox 映画「ゴーンガール」予告編より引用
まず、2人は同時に向かい合っているわけではない。ニックの映像は昨日の夜に撮影したものだ。さらにエイミーはモニター越しでニックを見ているわけだから2人は距離的に離れている。
つまり、このエイミーとニックの再会シーンは、時間的・空間的隔絶を孕んだ実に奇妙な再会シーンであることが分かる。
さらに注目したいのは、カメラが何を映し出しているかである。このシーンでは、エイミーとニックは絶対に同時にはスクリーンに映し出されないのである。
エイミーのカットとニックのカットを完全に分けて、撮影している。つまり映像を見てみると、エイミーの視線の先にニックは存在しないし、ニックの視線の先にもエイミーは存在しない。
これらの撮影の手法や時間的・空間的隔絶が何を意味するのかというと、2人はあくまでもお互いの「イメージ」を見ているに過ぎないということである。お互いがお互いの虚像を見つめ合っているというあまりにも奇妙すぎる再会シーンなのだ。
しかし、2人がこれまでどんな経緯を辿ってきたかを考えていくと、虚空を見つめる2人の視線が何をイメージしているのかが少しずつ具現化されていく。
まさに映画という映像メディアの特性を生かしたシーンであると言える。
そしてもう1つがこの映画のファーストカットとラストカットである。
(C)2014 Twentieth Century Fox 映画「ゴーンガール」予告編より引用
ベッドで横たわるニックの上で寝ているエイミー。ニックがエイミーの頭をなでると、エイミーは目を覚まして、ニックの方を見つめる。
このシーンは微妙な差異を孕んでいるもののほとんど同じ映像である。ただ、見ている我々は冒頭の時と終盤の時では全く異なるイメージを抱く。本編を通して描かれた2人の物語が、あのシーンのイメージを大きく変容させるのである。
また、エイミーが目覚めた時のニックのリアクションの微妙な差異に注目すると余計に興味深い。
冒頭のシーンではエイミーが目覚めてもニックは彼女の頭を撫で続けているが、終盤のシーンでは、エイミーが目覚めた時にニックは少し驚いたかのように、彼女の頭から手を放す。
この2つのシーンの映像だけで映画「ゴーンガール」を語る事ができると言っても過言ではないのである。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『ゴーンガール』についてお話してきました。
同じ映画を期間を開けて見返してみると、思わぬ収穫を得ることがあります。
映画「ゴーンガール」は非常に映像というメディアの特性を活かしたデヴィッドフィンチャーの珠玉の名作と言って差し支えないと思います。
みなさんも、一度見た作品を見返してみてはいかがでしょうか?
今回も読んでくださった方ありがとうございました。