みなさん、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。
ということでナガと申します。
今回はですね、映画「ノクターナルアニマルズ」について語っていきたいと思います。
公開から少し遅れてみたのですが、これは見ておいて良かったです。
ブランドとしてのトムフォードも好きですが、トムフォードの映画も大好きなんですよ。
『シングルマン』も映像についても、物語についても洗練されていて、初監督作品とはとても思えないレベルでした。
今回は謎多き「ノクターナルアニマルズ」について自分なりの解釈を書いていくつもりです。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
よかったら最後までお付き合いください。
目次
『ノクターナルアニマルズ』
あらすじ・概要
世界的ファッションデザイナーのトム・フォードが、2009年の「シングルマン」以来7年ぶりに手がけた映画監督第2作。
米作家オースティン・ライトが1993年に発表した小説「ミステリ原稿」を映画化したサスペンスドラマで、エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソンら豪華キャストが出演。
アートディーラーとして成功を収めているものの、夫との関係がうまくいかないスーザン。ある日、そんな彼女のもとに、元夫のエドワードから謎めいた小説の原稿が送られてくる。
原稿を読んだスーザンは、そこに書かれた不穏な物語に次第に不安を覚えていくが……。
エイミー・アダムスが主人公スーザンに扮し、元夫役をジェイク・ギレンホールが演じる。
(映画com.より引用)
予告編
『ノクターナルアニマルズ』解説・考察(ネタバレあり)
トムフォードが描く西部劇
(C)Universal Pictures 映画「ノクターナルアニマルズ」」予告編より引用
本作は、一見すると西部劇的な作品に分類されるような作品ではないですが、細かくその要素を拾い上げて論じていくと、極めて西部劇的であり、アメリカ映画特有の男性バディムービーの雛型に着想を得ているのではないかということが推察できます。
「明日に向って撃て!」のようなアメリカンニューシネマ時代の典型的西部劇における男性映画描写を想起させつつ、それらに同じく着想を得て作られたヴィムヴェンダースの「パリ、テキサス」やバリーレヴィンソンの「レインマン」にも通じる部分が多いと思います。
特に西部劇的な要素を作品に散りばめることで、ジャンルとして明確に西部劇に分類されえない作品を西部劇的に見せるという手法はヴィムヴェンダースが「パリ、テキサス」でやって見せた芸当です。
本作を詳しく見ていくと、西部劇的バディムービーの要素が散見されます。
エドワードの小説の中に登場するボビーというキャラクターは典型的な西部劇キャラクターの服装をしています。
テンガロンハットにシャツ、そしてブーツ。これらは目につきやすいモチーフです。
さらには、小説の世界を支配するテキサスの荒野の風景はまさに西部劇を想起させるものです。
また、トニーとレイの最後の対峙シーンも西部劇的決闘を彷彿させます。
他にも終盤にスーザンが口にしているのは、これまた西部劇の典型ともいえるバーボンでしょう。また、男は黙って女のもとから去るというラストのプロットや、劇中小説における復讐劇なんかは極めて西部劇的です。
このようにトムフォードは、作中に西部劇的要素を散りばめることで、極めて本作を現代的西部劇としてアップデートさせています。
この手法が本作を考察していくうえで、一つ重要な要素となっていくのではないかと思います。
「復讐」として読み解く「ノクターナルアニマルズ」
(C)Universal Pictures 映画「ノクターナルアニマルズ」」予告編より引用
まずは、映画「ノクターナルアニマルズ」を「復讐」という視点で読み解いていこうと思います。
本作を読み解いていくうえで、「強さ」「裕福さ」という2点は重要なキーワードになりうるでしょう。
エドワードが書いた劇中小説の中でキーワードになるのが「強さ」だと思います。スーザンがそして彼女の母親が問題視したのがエドワードの「弱さ」であり、それが2人の別れの原因にもなりました。
劇中小説でのトニーというキャラクターは彼の人格の映す鏡のように弱いです。レイたちの一行にトラブルを吹っ掛けられても、基本的にローラ任せですし、さらには自分の妻と娘を助ける最後のチャンスに際しても、恐怖から足を動かせず、見殺しにしてしまいます。
そんなトニーはレイたちへの復讐劇に際して、徐々にその人間性を変化させていきます。レイたちがボビーの小屋から逃げていくシーンに際しても、銃を撃つことができず他人任せだった彼は、最後の最後で自らの決断でレイを射殺しました。
この小説は、スーザン自身も過去の彼の小説とは違い力強い作品であると評していましたが、その作中でもエドワードの映し鏡のような貧弱な主人公が、「強さ」を獲得する物語が描かれました。
この「強さ」を突き付けることに、「弱い」自分を捨てたスーザンへの復讐心が込められているのかもしれません。
また劇中小説のモチーフはそのまま2人の過去を想起させます。それはエドワードが自身の小説では、常に自分のことを語ろうとするという特性からも明らかです。
レイたち一行が妻と娘を奪っていき、レイプした後に殺害してしまうという展開は、ハットンがスーザンを奪っていき、さらにはエドワードとの子を中絶したという過去に着想を得ているように感じます。
(C)Universal Pictures 映画「ノクターナルアニマルズ」」予告編より引用
また、劇中で妻の命を絶ち、さらには妻を奪ったレイたちにも手を下したトニーという登場人物の行動は、この上なく酷い仕打ちで別れを告げられたエドワードの強い復讐心の象徴ともいえるでしょう。
スーザンのオフィスに”REVENGE”というアート作品が飾られていましたが、これが本作の描くものの何たるかを端的に表現していたように感じられます。
他にも冒頭のアート作品も本作の「復讐劇」的な側面を彩っています。冒頭のアート作品はいわば資本主義的ブルジョワジーの成れの果てです。裕福な生活と飽食にまみれて、贅肉をつけ、醜い姿となった人間が裸で台の上に横たわっています。
作品を思い返してみると、実は裸で横たわる人間のモチーフは他にも登場します。劇中小説におけるローラとインディアは裸の状態で、荒野に置かれているにしてはいささか違和感のある赤いチェアーの上に横たわっていました。
またスーザンが愛娘に電話した際には、娘は恋人とベットの上で裸で横たわっていました。
つまり、自分の妻とその娘を荒涼とした砂漠には不釣り合いなブルジョワ的チェアーの上に裸で横たわらせるという行為は、冒頭のアート描写を伴って、エドワードの妻に対する皮肉、反骨心の表象とも考えられるわけです。
「愛」として読み解く「ノクターナルアニマルズ」
(C)Universal Pictures 映画「ノクターナルアニマルズ」」予告編より引用
次に、映画「ノクターナルアニマルズ」を「愛」という視点で読み解いていこうと思います。
個人的には、こちらの見方を有力視しています。
この視点で読み解いていく際に、重要なのが本稿の序盤で述べた西部劇の視点でしょう。
本作では、スーザンの生きる裕福で、ブルジョワな生活とエドワードの映し鏡であるトニーが劇中小説の中で生きる荒れ果てた荒野が対比的に描かれています。
極めて現代的なアメリカとして描かれるスーザンの世界と、開拓時代の西部劇的に描かれるトニー(エドワード)の世界のコントラストが鮮烈な印象で、終盤にトニーの世界がスーザンの世界を侵食していくという点にトニーの「愛」の表象を見て取れるのです。
2人の世界が対比的だったシーンはいくつかありますが、荒野のモーテルの寂れたバスルームでシャワーを浴びるトニー(エドワード)と閑静で清潔なバスルームでゆったりと浴槽につかるスーザンが対比的に描かれていたシーンは印象的でした。
他にも安宿の貧相なベッドで横たわるトニーと、高級ベッドの上で静かに横たわるスーザンも対比的です。
(C)Universal Pictures 映画「ノクターナルアニマルズ」」予告編より引用
しかし、作品の終盤ではトニーの世界がスーザンの世界を侵食していきます。それがラストシーンです。エドワードの小説世界を支配していた西部劇的モチーフが現実のスーザンの世界にも登場するのです。
それが前述のバーボンや「男は黙って女のもとから去る」というプロットなのです。
この西部劇のステレオタイプともいえる要素が、それまで極めて現代アメリカ的だったスーザンの世界に登場するのはトニーの「愛」がスーザンに届いたことの表れだと考えられます。
加えて、先ほどの章で述べたトニーというキャラクターと作品そのものを通して自身の変化と「強さ」の獲得を示すというエドワードの行為は、自身の「弱さ」を理由に離れていったスーザンへのラブコールと推察できます。
だからこそ「男は黙って女のもとから去る」というプロットだけを見ても、スーザンを愛しているからこそエドワードはレストランに現れずに、黙って消えたのだと解釈できるのです。
自分と彼女との「愛」の障害になったものを劇中小説を通して打破し、自身の「愛」を改めて表明しつつも、彼女のもとには現れずに、静かに去っていくエドワードの姿に西部劇の雛型を想起せざるを得ません。
本作について監督のトムフォードが次のように語ったようです。
この物語は僕にとって、人を投げ捨てにしてはいけない、という事を表している。現代、僕らはなんでもかんでも簡単に捨ててしまう文化の世界に住んでいる。すべては消耗品で、人間すらも捨ててしまう。
スーザンは自分が求めていたものすべて、外側から見れば自分の理想の人生を手に入れているが、内側は死んでいるんだ。そしてこの小説がきっかけでそのことにはっきり気が付く。彼女自身もほとんど気づきかけていたことなんだけれどね。
これが中心のテーマなんだ。僕にとってとても重要なね。誰かを大切に思うなら、誰かを愛しているなら、投げ出してはいけない、手放してはいけない。
つまり、本作は「愛」の物語なのであり、どれだけ愛していても、一度失ったものを取り戻すことはできないという「愛」の不可逆性をも含意しているのだと思います。
だからこそ本当に大切な人を手放してはいけないのです。一度手放してしまったらそれまで。
物質で充足したスーザンの生活。資本主義社会は大量生産大量消費社会でもあります。その中で人の関係をも代替可能なものとして捨ててしまうとしたら・・・。
あのラストシーンは、スーザンがエドワードからの「愛」を西部劇的モチーフであるバーボンを介して表現しています。エドワードの「愛」は確かにあれど、もはやそれを手に入れることが叶わなくなったことを端的に示しているのでしょう。バーボンのほろ苦い味わいこそがスーザンの「学び」なのです。
もはやこの物語は信用に足らない?
(C)Universal Pictures 映画「ノクターナルアニマルズ」」予告編より引用
本作は、現在と過去、そしてエドワードの小説世界という3つの世界線が同時進行的に描かれます。
一見すると、エドワードの小説世界という世界線は、完全なるフィクションであり最も現実的でなく、信用に足らないという見方ができます。
しかし、本作の主人公であるスーザンが本作のタイトル「ノクターナルアニマルズ」とも関連するように不眠症であり、それに付随する物忘れを発症しているという点は見逃せません。
現に彼女は、自身が8年前に買い付けた”REVENGE”のアートの存在や同僚への発言、自身の会社の経営方針に関する発言を忘却していました。
つまり、本作において過去という世界線のストーリーテラーであるスーザンは「信頼できない語り手」なんですよね。だからこそ3つの世界線を天秤にかけた時に、最も信用に足らないのはスーザンの過去に関する描写なのです。
彼女はエドワードに関連する重要な記憶を喪失しているかもしれませんし、逆に空白の部分を埋めるために自身の都合で書き換えをしている可能性すらあるのです。
つまり彼女が回想は、現実ではなく小説と同列に扱われるべき「フィクション」なのかもしれませんし、逆にエドワードが小説で語った内容は現実なのかもしれないのです。
小説の内容は現実でエドワードは既に絶命していて、スーザンがエドワードからレストランで待ち合わせのメールをもらったという事象の時系列に齟齬があったとしましょう。するとラストシーンは既に故人となっているエドワードを不眠症のためにその事実を忘却しているスーザンが待っているという光景へと変化します。
このあたりのイマジナリーラインを極限までアンビギャスに描き、観客に無限の可能性を想起させるトムフォードの手腕は、ただただ素晴らしいと称えるのみです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ノクターナルアニマルズ』についてお話してきました。
映画「シングルマン」でもその才能を存分に発揮していたトムフォード監督ですが、本作「ノクターナルアニマルズ」でもって彼は映画監督としての地位を確固たるものにしたように思います。
「シングルマン」は決してまぐれ当たりなどでは無かったということです。彼は、視覚志向でストーリーテリングができる極めてハイレベルな映画監督です。
本作を昨年鑑賞していたならば、間違いなく私の年間ベストランキングTOP10に入れていたことでしょう。それくらいに本作は素晴らしかったです。
作品を鑑賞して、しばらくあまりの余韻に言葉を発することすら躊躇われ、深い思惟の世界へと落ちていきました。
トムフォード監督の次回作が今から待ち遠しいですが、まずは本作を繰り返し鑑賞して、その魅力を味わい尽くしたいところです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。